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『たまこまーけっと』を振り返る 第6話

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※『たまこまーけっと』シリーズ通してのネタバレがありますので、ご注意ください。

 

◯第6話『俺の背筋も凍ったぜ』

 脚本:横手美智子
 絵コンテ・演出:河浪栄作
 作画監督:引山佳代


 『たまこまーけっと』というアニメの語り口の特異さについては、これまでの記事でも何度か書いてきました。

 この作品の根底には、5年前に母を亡くして、それまでの「日常」が崩壊した経験をもつ主人公=北白川たまこが、新しく確立された「日常」を必死で維持しようとする物語が流れています。通常の作品であれば、この「がんばる主人公」の姿にストーリーの焦点をあわせるもの。

 でも『たまこまーけっと』は、あくまで表層で展開される、なにげない「日常」のほうにカメラを向けて物語を切り取っている。つまりこの作品の物語は、

・下層=商店街(=日常の基盤)を維持しようと頑張るたまこの物語
・上層=商店街(=日常の基盤)のうえで展開される「日常」の物語

 の二層構造になっている。

 ちょっとメタな表現をすれば、上層の商店街の物語は、通常の「日常系アニメ型物語」で、いっぽう下層で展開されるたまこの物語は「日常系アニメを成立させようとする物語」ということになります*1*2

 それで今回の第6話は、第2話『恋の花咲くバレンタイン』と並んで、この二層構造がくっきりと浮き彫りになっているエピソードです。いつもの図にしてみると、こんな感じ。カメラの位置(=作品世界からストーリーを切り取る視点)が特徴的です。

 

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 ここからは、上層と下層、それぞれの物語についてみていきたいと思います。まずは下層、たまこの物語について。

◯下層:たまこの物語

 第1話の感想で、私は「5年前にたまこの母が亡くなったという ”情報” は第1話Bパートで早々に語られるけれど、そのときたまこがどんな気持ちだったのか?という、感情に色付けされた ”記憶” は最終回まで語られない。」みたいなことを書きました。「情報」の提示と「記憶」の非提示。

 たまこは、母の死と、そのときに出現したシャッター商店街(=「日常」の風景の変容)に強いショックを受けたのですが、そのことが視聴者に明かされるのは最終回。

 それで、第6話のアバンでは、たまこの感情に色付けされた「記憶」が語られないまま、夏枯れの、人気のない商店街の風景におびえるたまこの「外面」だけが映し出されます。

 

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 足元のセミの死骸はもちろん「死」のイメージで、最終回まで観た視点で振りかえれば、このときたまこが、人気のない商店街の風景から母の死と、それにともなう「日常」の変容を連想して、怯えていることがわかります。

 でも、初見の視聴者にとっては、なぜたまこがこんなに怯えているのかよくわからない。このホラーな雰囲気は、その後に続くお化け騒動の前フリだろう、ぐらいに捉えてしまいます。たまこがこのような表情を浮かべるに至った「文脈」が提示されないまま、「外面」だけが画面に映し出されている。

 

「意味のある」断片を組み合わせて、「意味の通る」文脈を作り上げるのではありません。逆です。文脈が決まらない限り、断片は「無意味」なままなのです。まず「物語」の大枠が決まって、その後に現実的細部は意味を帯びるようになるのです。「知る」ということは、それまで意味のわからなかった断片の「意味が分かる」ということです。そして「意味が分かる」ということは要するに「ある物語の文脈の中に収まった」ということです。

内田樹『映画の構造分析』)


 以前の感想にも引用した文章ですが、ここで起きているのはこういうことです。「たまこの物語の “文脈”」を視聴者に「あえて」提示せず、出来事を「断片」として提示している。

 このような「”文脈” の後だし」は『たまこまーけっと』の中で何度か行われていて、たとえば第2話第4話の感想で触れた「あんこ姫」もこの一例です。このアニメは、たまこが背後にもっている文脈、行動の動機を「あえて」視聴者に説明せずに、彼女の「外面」だけを映しだすことで、普通のアニメよりも主人公に感情移入がしにくい作りになっているんですね。

(むしろ、心情が比較的ストレートに描写されるサブキャラクター達、みどりやあんこ、もち蔵のほうが、感情移入が容易です。)

 どうしてそのような操作が行われたのか?についての当ブログなりの解釈は「序論」に書いたので、ここではインタビューでの山田監督のこの発言を再掲。何度も引用しているので「またか」と思われてしまうかもしれませんが、『たまこまーけっと』がどのような姿勢のもとに作られた作品なのかをよく表しています。

 

ーー:監督の作品が描くのはハッピーな世界だけど、この子たちも膝を抱えてないわけじゃないっていう。

山田:ああ、絶対抱えてるんですよ(笑)

ーー:だけど、わざわざそこは書かなくてもいいんじゃないかと。

山田:そうですね、うん。そこを見せないと共感してもらえないような作品にはしたくないんですよね。みんな絶対に孤独な時間があって、孤独な思いをしてて。もうどうしようもできないぐらいの時もあると思うんですけどね。それを見せたがる主人公ではあってほしくなくて。

(『Cut 2013年2月号』)


 第6話では、商店街の客寄せに過剰なまでに必死になるたまこの「動機」(=膝を抱えてる部分)が視聴者に明かされないまま、お化け騒動に右往左往する商店街の人々のドタバタが、コミカルに描かれていきます。

 

◯シリーズ中での第6話の位置づけ

 続いて「表層」で展開される、商店街の「お化け騒動」の話に移るまえに、シリーズのなかでの第6話の位置づけについてちょっと再確認。

 第5話の感想で、『たまこまーけっと』全12話は、商店街に注目すると4つのパートに分けられる、ということを書きました。


・1話~4話   商店街の魅力をその内側から語る「安定期(その①)」
・5話~7話   商店街を外側との対比で検証する「転換期(その①)」
・8話~10話  商店街の魅力をその内側から語る「安定期(その②)」
・11話~12話 商店街を外側との対比で検証する「転換期(その②)」


 第1~4話は、商店街を魅力的なユートピアとして描く「安定期」。第5話からは、商店街という場所に、作品自身が「ツッコミ」を入れて検証する「転換期」です。

 それで、この第6話で商店街にはいる「ツッコミ」は、「どんなに商店街が理想的な共同体だとしても、内輪だけで固まってるのは良くないよね」というものだったのではないかと思います。

 このことを念頭において、第6話の「お化け騒動」を見ていきましょう。

 

◯表層:商店街で展開される「お化け騒動」

 それで「お化け騒動」なんですが、これ、すっごいヘンな話ですよね。

 商店街の人々が、次々と「怪奇現象」に遭遇して「商店街に何かが起こっている!お祓いもせずにお化け屋敷イベントをやろうとしている祟りだ!」となるんですが、その「現象」の中身が「野良猫にうどんを一玉あげたら在庫が減った!」とか「銭湯に濡れた足跡が!」とか「保冷室から花を出したら咲いてしまった!(キャー」とか、一体なにが「怪奇」なのやらわからない、あたり前のことばかり。

 いったいこの話は何をやろうとしているんだ?と思いたくなりますが、さきほどの「ツッコミ」を念頭において「お化け騒動」を振り返ると、ここでの彼らの奇妙な言動は、商店街の「内側独特のモノの見方」に支配された「迷信」を寓話的に表現したものだ、ということがわかります。

 第6話アバンの、デラのナレーションはこんなものでした。


「慣れた覚えたと思っちゃいても、時おり目にする奇妙な振る舞い、業、言葉。知れば知るほど妙ちくりん。解せない、不可解、奇々怪々。」


 その土地独特の「風習」とか「習慣」についての語りで、話がスタートしているんですね。

 もちろん、地域独特の風習には良いものもたくさんありますが、第6話の「内側独特のモノの見方」はあまりポジティヴには描かれていませんよね。なんでもないことが「祟りだ!」という騒ぎになってしまう。これは、一歩間違うと「偏見」につながりかねない危うさを孕んでいます。

 『たまこまーけっと』はあくまで寓話的に、さり気ないクレバーさでこのような問題を描いていますが、閉塞した共同体のガチでイヤ~な感じについては、映画化もされた坂東眞砂子の『狗神』などでイヤ~な感じに描かれています。どんなに理想的な共同体であろうと、外部から孤立して風通しが悪いのは良くない。

 それで、この「内側独特のモノの見方」を突き崩すのが、商店街の「外側」からやってくる史織です。

 史織は第3話から商店街への出入りをはじめた、元々ビジター的な資質をそなえたキャラクター。そして第6話のスタート時点では部活の合宿に行っており、たまこたちのお化け屋敷企画に最初からは参加していないことで、ますますそのビジター的資質(商店街の「外側」の人というイメージ)が補強されます。

 そんな彼女は、商店街で続発する「怪奇現象」について聞かされると、「そ、そんなことが!」と驚くたまこ(商店街の「内側独特のモノの見方」を共有しているキャラクター)を尻目に、平然とこう言ってのけます。

 

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「ていうか、普通のことですよね?お風呂屋さんで足跡が残るとか、野良猫にエサをあげたらひと玉在庫が減るとか、保冷室から出した花が咲いちゃうとか、全部普通のことですよね?」
「そんな格好してるのに何と冷静な子だ!」


 こうして「内側独特のモノの見方」は、「外側」の視点をもつ史織によってあっさりと突き崩される。

 『たまこまーけっと』という作品自身によって、商店街に「ときには外の視点を導入して、自分たちのモノの見方を相対化する必要があるよね、風通しはよくしておかないとね」というツッコミが入れられたエピソードでした。
 
 

◯むすび

 第6話でのツッコミを受けて、次回、第7話では「商店街共同体」のメンバー入れ替えが行われます。内から外に出ていく銭湯の娘・さゆりと、外から内に入ってくる外国人の少女・チョイ。

 「外部との交通が確保された、ゆるやかなつながりの共同体」は『たまこまーけっと』がこだわって描いていたものの一つですが、この第6話~7話の流れは、とくにそのこだわりを強く感じさせます。

                     ◯

 主役の4人組、たまこ・みどり・かんな・史織にしても、もちろんみんな仲は良いんだけど、史織はどこか「たまこの友達」としてグループに参加しているような雰囲気があって、このような距離感は、がっちりと結束の固い共同体だった『けいおん!』のHTTとはやや趣を異にしています*3

 つねにうっすらとビジター的な雰囲気を漂わせていた史織は、『たまこラブストーリー』で海外留学という、登場人物の中で一番思い切って「外」に飛び出していく決断をしましたね。すごく『たまこまーけっと』らしさを背負った、重要なポジションを占めるキャラクターだったと思います。

 

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*1:関連記事→第0話 オ−プニングについて

*2:関連記事→ 第2.5話 ~ 作品の視点の特異さについて 

*3:とはいえ『けいおん!』でもキャラクター間の距離の違いは絶妙に描かれていて、たとえば梓がムギにたいして、憧れと微妙な緊張感を同時に抱いている感じとか、すごーく好きでした。