ねざめ堂

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『リコリス・リコイル』感想 ②正しさを志向しない千束の「マクシム」

 

リコリス・リコイル』の感想②です。

感想 ①と②では、それぞれ

  1. リコリコには「正しさ」を志向しないからこその不埒な魅力がある
  2. リコリコは「正しさ」を志向していないように見えるが、しかし……

という話をしています。

①と②で互いに補完しあう(バディ的?)構成になっているので、あわせて読んでいただけると嬉しいです。

※感想②では『リコリス・リコイル』にくわえて『魔法少女まどか☆マギカ』『PSYCHO-PASS サイコパス』のネタバレをしています。

 

〇前置き

私は感想①のなかで、『リコリス・リコイル』は、

主人公たちが理不尽な社会を「正しい」方向に変革する物語

ではなく、

理不尽な社会のなかで、主人公たちが「正しさ」を置き去りにしてでも己のエゴを貫く物語

である、ということを書いた。

つまり『リコリス・リコイル』は、もとから「正しさ」を指向した作品では「ない」ということだ。

そして、前者と後者の物語の違いを明確にする方便として「『魔法少女まどか☆マギカ』よりは『テルマ&ルイーズ』に近い」という例えを使用した。

しかし、実際のところ『リコリス・リコイル』がそこまで『テルマ&ルイーズ』に近いか? というと、正直そんなにはピンときていない。

「女性主人公たちが社会に追いこまれる過程で、己のエゴをむき出しにする」という作品で、他に適当なタイトルが思いつかなかったから……という間にあわせ的なノリが大きい。

(大好きな映画なので、ついタイトルを出してしまったわけだ。)

 


www.youtube.com

 

いっぽう、主人公が最終的に「正しさ」を執行する『魔法少女まどか☆マギカ*1と『リコリス・リコイル』を比較することは、それぞれの作品が制作された2011年と2022年の違いをあぶりだす、という意味で、なかなか面白いのではないかと思う。

というわけで、本記事では、まず『魔法少女まどか☆マギカ』と『リコリス・リコイル』が作中で扱う問題(テーマ)の比較を通じて、2011年と2022年の違いを確認する。

そのうえで、2022年の『リコリス・リコイル』において、なぜ「正しさ」を志向せずに己のエゴを貫く錦木千束のようなヒロインが登場したのか? について考えてみたい。

 

 

〇『魔法少女まどか☆マギカ』の2011年

最初に書いた内容と被るが、『魔法少女まどか☆マギカ』は「主人公が、理不尽な社会システムを正しい方向に調整する物語」だ。

以下、『魔法少女まどか☆マギカ』(TV版)の大筋を簡単におさらいしておく。

 

  • まず最初に、地球外生命体が構築した強固な「魔法少女システム」がある。
  • 魔法少女システム」は宇宙を破滅から救うために必要なものだが、魔法少女たちを犠牲にして成立している。宇宙を維持するために、魔法少女たちが人柱になっているわけだ。
  • 物語のラスト、主人公・鹿目まどかは、身を挺して「魔法少女システム」のあり方の書き換えを図る。
  • その結果「魔法少女システム」は、魔法少女たちを犠牲にすることなく、宇宙を維持することが可能になる。
  • ただしその代償として、鹿目まどかは、すべての時間・空間にわたって存在し続ける「システムそのもの」になることを要求される。古今東西の無数の魔法少女たちを救うために、まどかはひとりの人間としての生活を諦めなけらばならなかった。

 

以上が『魔法少女まどか☆マギカ』のあらましだ。

このストーリーが「理不尽な社会システムを、より人道的な方向に再定義するという結論をオファーしている点で、ピクサーの『モンスターズ・インク』とほぼ同型であることは、以前の記事に書いた通りだ。

 

『モンスターズ・インク』/『まどマギ』感想 - ねざめ堂

 

魔法少女まどか☆マギカ』の脚本を担当した虚淵玄は、直後に『PSYCHO-PASS サイコパス』(2012年)のシリーズ構成を手掛けているが、「既存のシステムの改変・再定義」というテーマ面では、両作のやっていることはほぼ同じだ。

(私は2作品とも大好きで、当ブログでも力をいれた感想記事を書いているぐらいなので悪口じゃないです!)

 

『PSYCO-PASS サイコパス』(1期)感想 - ねざめ堂

 

魔法少女まどか☆マギカ』と『サイコパス』の共通点を挙げると、

 

  1. 単一の強固なシステムが作中世界を支配している
  2. そのシステムは、一定数の犠牲を前提に世界を維持している
  3. システムを破壊してしまうと世界が成り立たなくなるので、破壊ではなく人道的な方向への改変・再定義がオファーされる

 

という感じになる。

つまり、『魔法少女まどか☆マギカ』と『サイコパス』(くわえて、2001年制作の『モンスターズ・インク』)が扱っているのは「単一」の強固なシステムに内在する歪みだ。

これらはやはり、グローバル資本主義という「単一」のシステムが世界を飲みこむ、とストレートに考えられていた時代に対応した物語だといえる。*2

 

 

〇『リコリス・リコイル』の2022年

「単一」の強固なシステムの問題を扱っていた『魔法少女まどか☆マギカ』や『サイコパス』にたいして、『リコリス・リコイル』の中心にあるのは「複数」の価値観の対立だ。

DA、アラン機関、真島がそれぞれの価値観……「世界のあるべき姿」をかかげて衝突する物語。

足立監督が「利己的な正義のぶつかり合い」と形容する通り、これらの正義、価値観は、どこまでいっても相対的な正当性しか獲得しえない。誰もが、見方によっては正しく、見方によっては間違っている。

もちろん、こうした「複数の正義・価値観の対立」というテーマ自体は、古くからエンタメに取りこまれてきたものだ。

東西冷戦が終結し、地域紛争が頻発しはじめた1990年代などは、そのようなテーマが脚光をあびた時代だったろう。

しかし、現代ほど、正義や価値観……つまり「世界の見え方」は一致しないものだ、ということを、われわれ一般大衆が肌で感じている時代は、歴史上はじめてではないだろうか。

たとえば差別や気候変動といった問題について論じようと思っても、我々はもはや「世界は現状このようなものである」という前提すら共有できない。

「我々は共通の世界を認識することができない」という認識が大衆レベルで共有された(あるいは、されつつある)のが現代だといえる。*3

(こうした世界像の不一致・ゆらぎの感覚は、昨今のさまざまなエンタメ作品にも取り入れられている。例えば『見える子ちゃん』や『チェンソーマン』。)

そして『リコリス・リコイル』もやはり、この感覚が基底にある作品だ。

 

千束 あんたですら自分を正しいと思ってるのね。本当のワルはやっぱ映画の中だけ、か。

真島 だから映画は面白いんだろ? 現実は正義の味方だらけだ。良い人どうしが殴りあう。それがこのクソッタレな世界の真実だ。

(第13話)

「同じジュース」を分けあっても味の捉え方は違う。千束と真島の世界の見え方は一致しない。

 

つまり、『リコリス・リコイル』が作品の中心に据えているのは「複数」の価値観の乱立と衝突による世界像のゆらぎだ。

ここが、「単一」の強固なシステムの問題を扱っていた『魔法少女まどか☆マギカ』や『サイコパス』との大きな違いとなる*4

たとえば、DAという「単一」の組織による情報隠蔽リコリス少女の使い捨て「だけ」を問題にするのであれば、『魔法少女まどか☆マギカ』のように、DAの改変なり解体の物語を描けばよい。

しかし、事態ははるかに不安定化・液状化している。『魔法少女まどか☆マギカ』では、問題があるなりに明確に見えていた世界像が、『リコリス・リコイル』ではもはや不明瞭になっている。

だから『リコリス・リコイル』では、世界像……「世界のあるべき形」をめぐって争う大人たちを尻目に「世界がどうとか知らんわ」と言いきり、自分のエゴを貫く千束のようなヒロイン像が導きだされてきたのではあるまいか。

(いわゆるゼロ年代の「決断主義」~なにが正しいかわからないからといって引きこもってると死ぬぞ! と、自分が間違う可能性を引き受けてでも決断・行動する態度~ が、2022年版にアップデートされた姿……という表現も可能かもしれない。)

もちろん、千束がこうした考えに至った背景には、「つねに自分の寿命を意識しながら生きてきた」という切実なバックボーンが設定されている。

しかし、エンタメ作品において「特殊な事情を抱えた特殊な考えをもつヒロイン」が広い支持を集めることは難しいだろう。

千束というキャラクターがこれだけの支持を集めたのは、世界像の不明瞭さ(善悪の不確かさ)を前に戸惑う多くの視聴者たちを、エゴイスティックで生命力にあふれた彼女の姿が鼓舞したからではないだろうか。

 

 

千束はほんとうに、2022年を生きているヒロインだとおもう。

 

 

村上春樹の主人公にとっての「マクシム」

ところで、さきほど千束についてのべるさい、「決断主義」という古のサブカル批評用語をもちだしてみた。

しかし、この特異なヒロインについて考えるとき、じっさいに私の頭に頻繁にのぼるのは、村上春樹の初期作品に登場する主人公像だ。

初期村上作品の主人公像とは、具体的には次のような人物を指す。

 

  • 自分なりのルールを作り、それを厳密に守る
  • しかし、そのルールを他者に強要しない

 

たとえば『ねじまき鳥クロニクル』の主人公は、アイロンがけの順番を、それが人生における重要事項であるかのように遵守する。

ファミリー・アフェア』の主人公はシニカルにちゃらんぽらんに生きているが、だからといって、真面目に生きている人をはすに見てバカにしたりはしない。

文芸評論家の加藤典洋は、このような主人公たちが遵守するマイルールを(カントの用語を借用して)「マクシム(格率)」と名付けた。

 

いわば、自分にだけ通用するルールあるいは個食用のモラルが、マクシムだと言ってよい。

『村上春樹の短編を英語で読む1979~2011』(加藤 典洋)|講談社BOOK倶楽部

 

そして、初期村上主人公たちがマクシムを遵守する背景には、小説が執筆された1980年代初頭の時代状況がおおきく影響している、とみる。

当時は、60~70年代の革命の時代が幻滅とともに終わり、「世界はこうあるべき」「そのために、私/あなたはこのように行動すべき」という大文字のモラルが失墜した時代だった。

そんな、誰もが「大文字のモラルなんて嘘だ、なんの価値もない」という「モラルなし」へとシフトしていった時代にあって、村上春樹の主人公たちは「個食用のモラル=マクシム」を遵守することで、ギリギリ最低限のモラルをキープした、というのが加藤の見立てだ。

 

つまり、モラルという「1」の単位が誰からも信用されない時代が来て、皆が「0」のモラルなし、へとシフトを変えていったとき、村上は、マクシム、つまり個人用の、個人にだけ通じるモラル、ともいうべき「0.5」を発明することで、最小のモラルにとどまる主人公像の設定に成功しているのです。

『村上春樹の短編を英語で読む1979~2011』(加藤 典洋)|講談社BOOK倶楽部

 

もちろん時代が違うので、この主人公像をそのまま千束にあてはめることはできない。

でも、

 

  • 自分なりのルールを作り、それを厳密に守る
  • しかし、そのルールを他者に強要しない

 

という千束のパーソナリティーは、かなり村上春樹の主人公像とダブる部分があるのではないか。

感想①にも書いたとおり、千束は、自分の「不殺」や「人助け」という信条を「正義」、言い方をかえれば「普遍的なモラルに裏打ちされた行為」だとは考えていない。

あくまでもそれは、エゴに裏打ちされたマイルール、個食用のモラル、つまりは「マクシム」にすぎない。

(だから、身近なたきなやフキには「不殺」を要求するが、殺人をおこなうDAの解体や真島の逮捕には興味を示さない、というのも感想①に書いたとおりだ。)

そんなマクシムをかかげて、なにが正義なのか判然としない『リコリス・リコイル』の世界を駆けぬけるヒロイン・千束。

この記事のなかで、私はたびたび『リコリス・リコイル』は「正しさ」を志向していない、と書いてきた。

しかし、明確な世界像が消失した現代において、正義を標榜するのではなく、マクシムを遵守するという形で「不殺」「人助け」をおこなう千束の姿は、逆説的に「すべては相対的だ、だから正義なんて無意味だ」というニヒリズムをギリギリのところで回避しているようにみえる。

村上春樹の主人公たちが、モラルの消失した時代に最小限のモラルに踏みとどまったように、正義が不可能性に直面した時代の物語において、「ギリギリの善玉(≠正義の味方)」のポジションに踏みとどまっているのが千束なのかもしれない。

 

 

〇千束のマクシムの崩壊

加藤典洋は、さきほど述べた村上春樹の初期主人公像が、やがて時間の経過とともに自壊していく過程を、次のような言葉で表現している。

 

マクシムは、マクシムのままでいると、腐る。

『村上春樹の短編を英語で読む1979~2011』(加藤 典洋)|講談社BOOK倶楽部

 

なぜ村上春樹の主人公の「マクシムを拠りどころにして最小のモラルにとどまる態度」に限界が来るのか。

ほんとうは、これが加藤典洋の「村上マクシム論」のいちばん肝心なところなのだが、これについて説明すると長くなるし、話が本筋から外れすぎてしまうので割愛する。

(ぜひ本を読んでみてください。めちゃくちゃ面白いので。)

リコリス・リコイル』に話を戻すと、本作にも、主人公=千束のマクシムの崩壊が描かれている。

一体どのようにか。順を追って見てみよう。

(念のために断っておくと、私は『リコリス・リコイル』の制作者たちが、加藤典洋のいう「マクシム」を念頭に本作を作った、と言いたいわけではない。加藤の用語を借用して、千束の信条や行動原理を説明しようとしているだけだ。)

 

 

千束にとってのマクシムが「不殺」と「人助け」であることは先にのべた。

このうち、「不殺」をマクシムとする理由については、感想①に書いたとおり、第4話で千束からたきなへと説明がある。

他人の時間を奪う殺人という行為が、自分自身の時間の有限性を強く意識させる。ムカつく。だから殺さない。そういう理由だ。

そしてこのとき、千束とたきなの前には水族館の「水槽」がある。

 

 

この水槽が、千束の「限定された世界」を表している、というのは、そんなに無理のある解釈ではないだろう。

千束の持ち時間は、わずかしか残されていない。

そのような状況下で、千束は「いま自分の手元にあるもの」を愛し、慈しむことで、限りある生の時間を生き切ろうとしている(その決意が、千束のマクシムを下支えしている)。

 

「いまのままでも好きなものはたくさん。大きな街が動きだす前の静けさが好き。先生と作ったお店。コーヒーのにおい。お客さん。街の人。美味しいものとか、きれいな場所。仲間。一生懸命な友達。それが私のぜんぶ。世界がどうとか知らんわ。」

(第13話)

 

だから彼女は、水槽という「限定された世界」を愛でることを好む。水族館の年間パスポートを買うほどに。

いっぽう、もうひとつのマクシム「人助け」。

これについては、第13話、千束から真島へと説明がなされる。

誰かに自分のできる限りのことをしてあげれば、その人は自分のことを死後も記憶にとどめてくれるかもしれない、という理由。「人助け」というマクシムもやはり、千束の残り少ない寿命と強く結びついている。

そしてこのとき、千束と真島の前には、展望台の「ガラス窓」がある。

 

 

このガラス窓も、さきほどの水槽とおなじく、千束の「限定された世界」を表しているのだろう。

(千束は窓の外の街に目をやり「私のぜんぶ」と愛おしそうに言う。)

このように、千束が自身のマクシムについて語るとき、いつも彼女の前には、小さく囲われ、切り取られた「限定された世界」がある。

「限定された時間」を生き切るために「限定された世界」を慈しむ、という態度が、千束のマクシムの根幹にあることを表しているわけだ。

しかし、このシーンで、ガラス窓にはヒビが入っている。

第13話のこの段階では、千束のマクシム、小さく区切られた「限定された世界」だけを慈しむという態度には、すでに限界が迫っているのだ。

直後、真島との戦闘が再開される。「真島を殺さずに時限爆弾を止める」という縛りを自らに課して戦う千束が追い詰められた瞬間、たきなが乱入してくる。

おそらく「自分が死んだら、その後でたきなも真島に殺される」と判断した千束は、この瞬間から本気で真島を殺しにかかる。

たきなを守るために、ついに「不殺」というマクシムを破ってしまうのだ。*5

そして、ガラスが粉々に砕け散る。千束のマクシムの崩壊だ。*6*7

 

 

それまでの千束を支えていたマクシム、「限定された世界」を慈しむ態度は、このようにして終わりをとげる。

明確に限定された寿命、という枠が千束から取り払われたとき、限定された世界を慈しんで生きる、という千束なりの「生の時間を生き切るための戦略」もまた無効化するのだ。

だから、突然生きるうえでの指針を失った千束は、広大な海(小さく区切られた水槽ではない、本物の海)を前に呆然とする。

 

「何しようか、これから」

 

このときの千束は、物語論的にはいったん死を迎え、新たに生まれなおしたに等しい状態だろう。

だが、千束の隣には、以前のマクシムに支えられた生のなかで獲得した相棒・たきながいる。

そしてたきなの言葉が呆然とする千束に生きるためのヒントを与えちさたき!!ちさたき!!!

 

 

〇むすび

以上のように『リコリス・リコイル』は、すべてが捉えがたくなるいっぽうの世界を舞台に、自身のマクシム ≒ エゴだけを頼りに突っ走るヒロイン・千束の姿を描きだした。

そんな千束の姿は生命力に溢れており、多くの視聴者(もちろん私も)を強く惹きつけた。

だが同時に本作は、そうした生き方の限界と終焉をも、周到に作中にプログラムしているのだ。ものすごくクレバーな作品だとおもう。

このあと、不明瞭な世界のなかで、「生まれなおした」千束がどんな生き方をしていくのかはわからない。

もしも続編があったとして、そのときの千束が「不殺」や「人助け」を完全に捨て去っているとも思えない。最終回のCパートでは、ハワイで相変わらず人助け稼業をつづけていたし。

だとしたら、そのときの「不殺」や「人助け」は、第1期で描かれた「マクシム ≒ エゴ」とはことなる、ほんの少しだけでも「モラル」に接近したものになっているのだろうか?

ともあれ今は、本作の余韻を噛みしめながら『劇場版リコリコ ちさたきドキドキハネムーンinハワイ』の公開を待ちのぞみたいとおもう。

(マジでOVAとかでもよいのでハワイ日常編みせてほしい。)

いやほんと、2022年にリアルタイムで『リコリス・リコイル』にどハマりできたのは大収穫でした。考えも感情もあれこれ刺激されて、めっちゃ楽しかったです。

 

 

*1:しかし、暁美ほむらはTV版の結末を「不当だ」と考えており、それが劇場版『叛逆の物語』へとつながっていく。誰かにとっての正しさは別の誰かにとっての悪として現れる。このあたり虚淵玄は抜かりない。

*2:ここ数年のコロナ禍や戦争といったグローバリズムへの反動によって、グローバル資本主義の拡大が止まる、とはまったく思わない。しかし以前ほど無謬に、国境を超えるグローバル資本主義が国家を解体する、と考えることができなくなったのも事実だろう。たとえば現在は資本主義ひとつとっても「リベラル能力資本主義」と「政治的資本主義」とのあいだで対立が起きている。多様性があっていいじゃんといっても、問題はそれらが必ず衝突し、結局は国家間の政治的対立……つまり「複数」の価値観の対立に発展することだ。

*3:もちろん大昔から、たとえば信仰のある人間と無信仰の人間では、見えている世界はまったく異なっていた。しかし、情報技術の発達によって、その断絶が決定的に顕在化し衝突が起きているのが現代である、という話だ。

*4:魔法少女まどか☆マギカ』も『サイコパス』も、テーマ面では時代と合わなくなったところもあるとはいえ、作中で描かれるキャラクターたちのドラマはまったく魅力を失ってはいない……と、ファンとして一言つけ加えておきます。

*5:本作では、千束がたきなの世界を広げるシーンが印象深く描かれる。だが、たきなもまた、千束の小さな世界の「ブレイカー」だ。第1話では千束の眼前で窓ガラスを、第11話ではシャッターをぶち破る。これらの「予告」を経て、最終回ではついに千束に「マクシム」を破らせてしまうわけだ。たきなは第2話の段階で千束の「不殺」について「無理がありませんか?」と疑念を呈していたが、その「無理」がじっさいにやって来るのが第13話だ。

*6:真島は実際には生きているがそれは無関係で、肝心なのは千束が、彼女の意識のうえで「不殺」というマクシムを破ったことだ。

*7:展望台のガラスが徐々に割れていくサスペンスフルなシーンは『カフカ 迷宮の悪夢』(1991年)のオマージュ。『カフカ』では、ガラスが割れても主人公は閉塞した世界に捕らわれたまま。しかし『リコリス・リコイル』では、主人公が囲われた世界から外の世界に放りだされる、という対比が効いている。