『リコリス・リコイル』感想 ①正しさを志向しない不埒な魅力
『リコリス・リコイル』の感想記事2本です。
感想①と②では、それぞれ
- リコリコには「正しさ」を志向しないからこその不埒な魅力がある
- リコリコは「正しさ」を志向していないように見えるが、しかし……
という話をしています。
①と②で互いに補完しあう(バディ的?)構成になっているので、あわせて読んでいただけると嬉しいです。
〇千束の無茶苦茶さについて
『リコリス・リコイル』が最終回をむかえてから結構時間がたったけれど、いまでもことあるごとに「リコリコ良かったよなあ……」と余韻を噛みしめている。
自分でも、この作品のどこにそこまで魅かれているのか、いまいち掴みきれなくて不思議な感じだ。
キャラクターは、もちろん強力(ヒロインから敵役にいたるまで)。終盤のストーリーの盛りあがりも見事。ガンアクションもかっこいい。ちさたき尊い。
でも、まだなんかあるんだよなあ。
最終回鑑賞直後のド深夜、良い年をしたおっさんがキモさも憚らずに「最高!最高!!」とPCの画面にむかってつぶやいてしまうような魅力が。
……などと思いながら、リコリコロスを紛らわせるために番宣ラジオをきいていたら、そのなかで監督の足立慎吾が面白い発言をしていた。
(最終回の千束は)言ってることは滅茶苦茶ですけどね(笑)。いや、ほんとこの作品はみんな、わりとエゴイストが多いんで。
(中略)
したい、とか、欲望みたいなものに忠実であるほうが、人間らしさが出るかなっていう気もするんで。
「リコリコラジオ」第14回【ゲスト:足立慎吾(監督)】| YouTube
(発言は1時間34分目あたりから)
監督*1がいう「無茶苦茶」とは、最終回のクライマックス、真島との決闘シーンでの千束の一連の発言を指しているのだろう。
「世界の自然なバランスをとらなければ」という真島にたいして、「いまのままの世界にも好きなものは沢山ある。自分にとって大切なのは、周りにいる人たち」と応じる千束。
そして、こんな言葉で真島をからかってみせる。
千束のこれらの発言を肯定するのも、否定するのも、どちらも簡単だろう。
肯定意見:複数の価値観が対立し、なにが正義か見極めるのが不可能に近い世界(まさに『リコリス・リコイル』が描いた世界)において、千束のアティテュードは、有限な人生を「個」として十全に生きるための指針となりうる。
否定意見:千束の視野からは、世界と個との繋がりが抜け落ちている。世界のあり方は個人に影響する。いまの世界のあり方のもとで抑圧を受ける人々(たとえば消耗品として扱われるリコリスの少女たち)が千束には見えていないのか。
……等々。
〇エゴイストたちが衝突するドラマ
しかし、私はここで、千束の発言の正否を吟味したいわけではない。
それよりも興味深いのは、監督が、作品のメインヒロインの考え方を「無茶苦茶」と形容している……つまり「正しい」とは思っていない、という点だ。
そして、「正しい」とは言えないという意味では、本作に登場する他のキャラクターたちも同様だろう。
真島も、楠木(≒DA)も、吉松(≒アラン機関)も、それぞれ思想・発言には頷ける部分もある。だが同時に、殺人を含む許容しがたい行動をとる。
いっぽうで、たきなは極度に視野が狭く、千束を救う以外のことはいっさい眼中にない(彼女の置かれた状況では無理もないけれど)。
そんな考え方の異なる人々が衝突する本作のドラマを、監督は「利己的な正義のぶつかり合い」と表現していた。
足立 人間は自分が悪であるという認識には耐えられないと思うんですよね。誰しも自分こそが正義の側だと思っていますよ。そんなもんでしょ?
DAは日本の平和を守る機関ではありますが、国民には認可されていませんからね。真島としてはそれが気に入らないわけだし。
利己的な正義のぶつかり合いですよね。
「利己的な正義のぶつかり合い」という表現は、ラジオでの監督の発言……「この作品はエゴイストが多い」とも呼応する。
誰もが自分の信じる精一杯の行動をとり、それが見方によって正義としても悪としてもあらわれ得る。
そんなエゴイストたちの衝突を描いた本作は、明確な勝者が決しないまま、あるいは対立の調停や社会構造の変革を描くこともなく幕切れをむかえる。
つまり「世界がこういう方向にむかっていくと良いよね」という作品なりの正解……作中解を出さずに終わってしまうわけだ。
(かわりに用意されるのは「ちさたきの勝利」という個的なドラマのカタルシスである。)
この終わり方を「投げっぱなし」と不満に感じる人もいるだろう。しかし私は、『リコリス・リコイル』の、まさにこの点を非常に気に入っている。
作品という限定された枠組みの中での、狭義の「正解」を導きだそうとしない。ゆえに世界は(現実の世界がそうであるのと同様に)どこまでも対立や矛盾を孕んだ場所でありつづける。
そんな世界のなかで、千束とたきなが己のエゴを貫き通して終わる、不穏で不敵な物語。
そう、『リコリス・リコイル』は、一般的な意味での「正しさ」を、そもそも志向していないのだ。
〇モラルを置き去りにした初期ボツ案
『リコリス・リコイル』は「正しさ」を志向していない、と、こんな具合に言いきると「それはお前の感想だろう」というツッコミが入りそうな気もする。
(もちろんこれは個人の感想文なのだが。)
しかし、すくなくとも企画の最初期段階においては、本作が世間一般のモラルに背を向けた作品……かなり不穏な作品だったことは間違いない。
そのあたりの事情を窺い知ることができるのが、ストーリー原案を担当したライトノベル作家・アサウラへのインタビュー記事だ。
アサウラは、以前執筆したライトノベル『デスニードラウンド』の尖り具合が評価されて、プロデューサーから「自由に企画案を書いてほしい」という依頼を受けたそうだ。
でも本当に自由に書いたプロットを提出したら「こんなのテレビで流せるわけないだろ!」とボツになった……みたいな経緯があったのだそう。
アサウラ (…)とくに致命的だったのはクライマックスで、主人公たちが六本木のど真ん中で逃げ惑う一般人もろとも敵を血の池地獄に沈めるというオチでした(笑)
ーー……え? それはどういう言葉のアヤですか?
アサウラ いや、そのまま文字通りです(笑)。すべてを犠牲にしてもいちばん守りたいものだけは絶対に……という感じでした。
なんだか無名時代のタランティーノが書きそうなプロットで、そりゃテレビでは無理だろうよと思う。
しかし、この初期案を読んで、私はドン引く気持ちがあるいっぽうで、どこか清冽な印象も受けてしまった。
それは、私のなかに「アニメやマンガには "正しさ"が期待されすぎなのではないか?」という、かねてからの疑問があるからなのだが*2、話が長くなるのでここでは深追いしないでおく。
〇エゴとしての「不殺」と「人助け」
ともかく、尖った初期ボツ案にみられる、一般的な「正しさ」を置き去りにしてでも、自分にとって大切なものを守るというエゴイスティックなコアの部分。
これは、完成形となった『リコリス・リコイル』にも持ちこまれているのではないだろうか?
それはたとえば、「不殺」と「人助け」を信条とする千束のエゴイスティックな態度という形で。
「不殺」や「人助け」をエゴイスティックと呼ぶと違和感があるが、これらの千束の信条には、根幹のところに千束の身勝手なエゴがある。そして千束自身、そのエゴを自覚している。
まず「不殺」については、千束からたきなに、このような説明がなされる。
「気分が良くない。誰かの時間を奪うのは気分が良くない。そんだけだよ。(…)悪人にそんな気持ちにさせられるのはもっとムカつく。だから死なない程度にぶっとばす。」(第4話)
この発言はもちろん、千束の限られた寿命を前提としている。
千束にとっては、他人の時間を奪うことは、自身の残り時間の少なさ、遠からず自分にもおとずれる最期の瞬間を嫌でも意識させられる行為だ。気分が良くない。だから殺さない、そんだけ。
なので千束は、自身の「不殺」の信条を他人に強要しない。
たきなやフキにたいして、自分の目の前での殺人は禁止する。しかし、殺人を組織的におこなうDAに反旗をひるがえして、解体のために動いたりはしない。
フキはおそらく、これからもDAで仕事としての殺人を繰りかえすだろう。しかし千束は、フキにDAから足を洗うように説得したりもしない。
そして大量殺人犯である真島の逮捕にも、千束はやはり興味をしめさない。
(千束は楠木にむかって「それ(真島の逮捕・処分)は私の仕事じゃないんで」と言い放っている。)
自分の「不殺」の信条が、正義ではなくエゴにすぎないことをわかっているのだ。
つぎに「人助け」だが、これについては真島にこんな説明をしている。
「私を必要としてくれる人にできることをしてあげたい。そしたらその人の記憶のなかに私が残るかもしれないでしょ? いなくなった後も。」(第13話)
つまりこちらも、限られた寿命という千束の事情に端を発するエゴだ。
エゴだ、というと嫌な感じだが、千束を非難しているわけではない。人助けの理由なんて不純でもなんでもよいと思う。
肝心なのは、「不殺」「人助け」という、いっけん「正義の味方」っぽい信条の根幹には千束のエゴがあり、彼女自身、それを自覚していることだ。
「君は正義のヒーローだ!」と称賛したら、千束は強く否定するのではないだろうか。
〇むすび:「正しさ」を志向しない不埒な魅力
自分の信条は、自分にだけ通用する「正しさ」、つまりエゴでしかない。
そう考える千束は、世界のあり方(DAによる情報隠蔽や、その他大勢のリコリスたちが使い捨てられる社会システムの構造といったマクロな視点)には、さほど関心を示さずに、こう言って捨てる。
「みんな、自分が信じた良いことをしてる。それでいいじゃん」
「世界がどうとか知らんわ」
(第13話)
つまり『リコリス・リコイル』は、初期ボツ案をふくめたそもそもの始めから
「主人公たちが理不尽な社会を正しい方向に変革する物語」
ではなく、
「理不尽な社会のなかで、主人公たちが正しさを置き去りにしてでも己のエゴを貫く物語」
として構想されたのではないか、というのが私の見方だ。
『魔法少女まどか☆マギカ』よりは『テルマ&ルイーズ』に近い、と言ってみたりして。
(感想②では『魔法少女まどか☆マギカ』と『リコリス・リコイル』の比較をおこなっている。)
足立 (…)理不尽な世界の中で、千束とたきなのふたりがどう動くのかを見てもらいたいというのが願いではあるんですけど。
ーー展開がどれだけシリアスになっても、根幹にはふたりのかわいさを感じてもらいたいというのは、見ていてよく伝わってきます。
足立 かわいさもだけど、儚さ? 千束やたきなの主観で考えれば、大人たちがやっていることはメインの問題じゃないと思う。
彼女たちを包む社会の問題や事件はいろいろ提示してはいるけど、今回はあくまでふたりの少女の視点であることは忘れたくない。*3
監督は「儚さ」という言葉を使っているが、千束やたきなのエゴイスティックな態度は、十代の少女ならではの年齢相応のものだ……という見方は可能かもしれない。
逆にいえば『リコリス・リコイル』は、数多の戦闘美少女アニメのようには、十代の子供に世界の救済 ~本作でいえば、問題のある社会システムの改変~ をゆだねたりはしないのだ。
(やはり十代の子供に世界を委ねることを拒絶し、「正しさ」に背をむけてでも個に寄り添ってみせた『天気の子』を連想せずにはいられない。)
物語のラスト、DAや真島といった大人たちは相変わらず「世界のあるべき形」をめぐって緊張関係にある。
作品は全体として、それらのどの立場を肯定も否定もしない。世界とはどこまでも、相反する価値観どうしの緊張関係が支配する場でしかないことを示すのみだ。*4
そしてそんな大人たちを尻目に、千束とたきなは手に手をとって、大切な人たちと共にハワイへとトンズラしてしまう。
彼女たちは世界の犠牲になどならず、どこまでも個として軽やかに「やりたいこと最優先」で行動する。
たしかにそれは、千束たちが能力の高い強者だからこそ可能になる、特権的な生き方ではあるかもしれない。しかし本作はそもそも「正しさ」を志向していない。
そして、そんなエゴイスティックで強かな彼女たちの姿には、まばゆい生の輝きがある。*5
お久しぶりです~!千束です✌️
— 喫茶リコリコ (@LYCO_RECO) 2022年9月29日
こないだは閉店のお知らせでびっくりさせちゃってごめんなさい😖
ちょーっとバカンス✨で南の島に行ってました🏝️
またTwitterもちょくちょく更新するのでよろしくお願いしマス✌️✌️ pic.twitter.com/lJxPic5jYz
したい、とか、欲望みたいなものに忠実であるほうが、人間らしさが出るかなっていう気もするんで。
その輝きを目にして問答無用で嬉しくなったから、最終回を見届けたド深夜の私は「最高!最高!!」と呟いてしまったのかもしれない。
(感想 ②正しさを志向しない千束の「マクシム」に続きます)
*1:「『監督』とも『ビックボス』とも呼ばれたくないので、今まで通り『足立さん』でよろしくお願いします。」公式サイト
*2:これは「ポリコレのせいで作品がつまらなくなった」みたいな話ではなくて、「私は『風立ちぬ』(感想) のように、善悪の判断を離れた立ち位置から命の輝きを描く作品に感動する」という話なのだが伝わるでしょうか?
*3:監督の発言は、このあと「仮に本作で次の機会があるのだとしたら、また別の観点での物語を作ってもいいかもですけどねぇ……」と続く。続編があったら、そのときは社会システムへの言及を含む物語が展開される可能性もあるのかもしれない。個人的には、そのあたりを涼しい顔でブッチしたところも『リコリス・リコイル』の魅力なんだけど。
*4:当然のことだが、DAやアラン機関が解体されたり、あるいは真島が死ねば何かが根本的な解決をみるわけではない。それはストーリー的なひとつの区切りにはなるかもしれないが、「真島ーDAーアラン機関」間の緊張関係が、別の緊張関係にとって換わられるだけの話だ。
*5:物語終盤では千束の輝きに触発されたかのように、大人たちも大義を捨ててそれぞれのエゴをむき出しにする。吉松とミカは「何を犠牲にしてでも娘=千束を救いたい」、真島は「なんとしても千束と命がけの勝負をしたい」という形で。錦木千束、マジで周囲を狂わせる魔性の女である。