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ねざめ堂

アニメ・映画・音楽

『たまこまーけっと』を振り返る:序論「結局、デラってなんだったの?」

アニメ たまこまーけっと・たまこラブストーリー 『たまこまーけっと』を振り返る 京都アニメーション

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 ※『たまこまーけっと』全話のネタバレがありますので、ご注意ください。

 『たまこラブストーリー 』円盤発売のときの記事 で、「たまこ関連の記事はこれで最後」みたく書いたのをあっさりと覆して、「『たまこまーけっと』を1話ずつ振り返る企画をやろう!」と思い立ちました。映画の円盤リリースが終わって『たまこ』が一区切りついてしまった感じが寂しくなっちゃったんですね。

 今回はその「前説」として、『たまこま』屈指の不人気重要キャラだったデラが、作中で果たした役割について書いてみたいと思います。

 彼の役割が、作品のテーマとダイレクトに関わっているので、デラについて書くことで『たまこま』を振り返る下拵えができるのでは...という目論み。タイトルには「序論」と銘打ってありますが、作品全体をざっと見渡す「総論」みたいな文章になっているといいな、と思いながら書きました。

 いや、ホントに重要だったんです、デラさんの存在。

 

◯デラの物語上の「役割」

 …とはいえやっぱり、第1話をはじめてみたとき、私はデラの存在に戸惑いました。

 「え、このグーグーガンモなに?(年がバレるリアクション)このキャラって必要あるの?」

 もっといってしまうと、キミちょっとウザいにゃー、という第一印象。話が進むにつれて、繊細な心遣いのできるいいヤツじゃん、と思うようになっていきましたけど。

 最初に、デラが作中で果たした役割を書き出してみると、


①「このアニメはややファンタジックな世界を描いていますよ」という視聴者へのアナウンス
②そんなファンタジックな商店街を、外部の視点から相対化する「重石」
③「つながり」をとりもち、さらに外部の人間を商店街に招き入れる「通信機」
④たまこの「トラウマの告白」を遮る「ストッパー」


 この4点が挙げられます。これからひとつずつ見ていきましょう。


◯まず①〜③について

 最初の3つについては、見たままなんですが。

 まず①。第1話で「喋る鳥」を(多少驚きつつも)わりとあっさり受け入れてしまう商店街の人々の様子が描かれましたが、これは視聴者への「このアニメは、ちょっとだけファンタジックな世界を描いていますよ」というアナウンスでした。フィクションとして、どの程度の「ウソ」をつくかという宣言ですね。

 『人類は衰退しました』で、妖精さんの人口密度によって作中のリアリティが上下するというネタがありましたが、あれです。デラがいて、それをあっさり受け入れる人々が描かれることで、作中の「ファンタジー度」の目盛りがちょっと上がる。

 じっさい『たまこま』では、何回か寓話的な雰囲気の強いエピソードが描かれました。第6話の肝試しとか、最終回近くの妃騒動とか、もち蔵によってデラがたまこの手に「再贈与」されるあたりはとくにそうでしたね。

                    ◯

 ②については、山田尚子監督がインタビューでこんな発言をしています。

やっぱり、この商店街がある意味すごくファンタジーな感じなので、地に足の着いた見方をできる人がいることによって、商店街としての魅力もより上がってくるというか、ちゃんと普通の意見を言える人がいないと、この商店街が嘘になるという感覚もあったので。商店街の人たちがあまりに人間味がありすぎるのもバランスとして嫌だったので。商店街が嘘になるかならないかの瀬戸際の役割だと思います、鳥は(笑)。

 (『CUT』2013年2月号)

 デラは「喋る鳥」というファンタジー的な存在ですが、役割としてはむしろ、ともすれば現実離れして見えるほど(ファンタジックに)いい人ぞろいの商店街を「外部」の目線から相対化する「重石」として投入された、ということのようです。「ツッコミ」、「バランサー」ですね。

                    ◯

 つぎに③。『たまこま』では、「もち」が人と人との「つながり」の象徴として扱われていますが、それを食べ過ぎてデブ化し、自身が「もち」のような外見になったデラは、さまざまな場面で「つながり」の促進に一役買います。

 元々、南の島との「通信機」としての機能を持っていたことに加えて、第3話で、商店街の「外側」の人間だった史織とたまこを引き合わせたのも、第5話で、もち蔵のたまこへの告白を取り持とうとした(そのドタバタの結果、もち蔵とみどりの相互理解がちょっとだけ深まった)のもデラでした。

 さらに、シリーズ後半には「通信機」として機能しなくなることによって、チョイやメチャといった外国人を商店街に招き入れる役割をはたします。これは、「うさ湯」の娘が結婚して商店街を出ていくエピソードと並んで、商店街がクローズドではなく、外部との交通が確保された「開かれた場」であることのあらわれになっています。


◯『たまこま』のふたつのテーマ

 そして④、個人的にはこれがデラの果たした最も重要な役割なんじゃないかと思っているのですが、たまこの「トラウマの告白」を遮る「ストッパー」。この役割は、作品のテーマと密接な関わりを持っています。

 その話に入るまえに、まず前提として『たまこま』で描かれたふたつのテーマを確認しておきましょう。

・表テーマ:多様性の肯定
・裏テーマ:日常の維持

 もちろん観る人によって作品から受けとるテーマは異なってくると思うのですが、私がとくに重要だと思ったのがこの2つです。

 「多様性の肯定」というテーマは、キャラの多彩さからも窺えますよね。子供から大人、老人、トランスジェンダーレズビアン*1、外国人まで。『たまこま』には様々なキャラが登場します。

 現実の世の中では、多様性の排除に向かおうとするベクトルも世界規模で強まっていますが、自然界がそうであるように、人間社会でも多様性の失われた均質化した環境というのは、経済的にも政治的にも文化的にも脆いよ、ヤバいよ、というのは様々に指摘のあるところ。私が好きだった近年のアニメでいえば『サイコパス』(感想)なんかもこのテーマを扱った作品でした。

 いずれ書く予定の第1話の感想でもふれると思いますが、思想的に「保守」の豆大と「革新」の吾平がいつもケンカをしていて、そこにたまこが中立的に割って入るというシーンが、この作品の表テーマの提示になっていました。

 様々な立場間の対立を調整しつつなんとか共存を目指す(現実的には「棲み分け」でもよいのですが、いずれにせよ難題)、右や左といった区分けとは違う、本来的な意味でのリベラル、という感じ。

                    ◯

 もうひとつの裏テーマ…なんていうと「隠されたメッセージ」みたいで大げさですけど、「日常の維持」というテーマも、第9話あたりで表面化してきて、最終回まで観ればちゃんと了解できるようになっていましたよね。

 たまこは作中時間の5年前に母を亡くしています*2。慣れ親しんだ「母のいた ”日常”」が壊れてしまったという経験をもつ彼女が、必死で「新しい ”日常” 」を維持しようとしている。これが『たまこま』のもう一つのテーマで、たまこがずっと集めている商店街のポイントカードや、商店街の客よせ企画に必死で取り組んでいる姿は、その表れでした。

 『けいおん!』で「日常」の輝きを描いたスタッフが、今度は、その「日常」は努力によって維持されているものなんだ、自明のものじゃないんだというところに踏み込んでいて、このあたりは震災以降の作品という感じです。

 最終回で描かれたとおり、たまこの「トラウマ」は、母親のひなこが亡くなったときに目にした「シャッター商店街」(=3.11による「日常」の断絶を連想させるモチーフ)でした*3。「母の死」からの直接的なショックだけに留まらない、もっと広範な、「母の死」がもたらした風景の変容・日常の崩壊がたまこの「傷」として設定されているんですね。

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 これに先駆けて、第6話の冒頭でも、人のいない商店街に不安を感じるたまこの姿が描かれています。

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                    ◯

 このふたつのテーマは相補的な関係で、「日常」という基盤があるから、その上に「多様性」が成り立つ ⇔ 健全な「多様性」が保たれているから、「日常」という基盤が維持される…という循環構造になっています。両者は切り離せない、コインの裏表のような関係になっている。

 いっぽう、作中でそれぞれのテーマを表す「主体」は異なっています。「日常の維持」に関しては、これを体現していたのは、主人公であるたまこですね。

 それで「多様性の肯定」のほうですが、「多様」というだけあって、こちらはひとりのキャラでは表現できません。様々なキャラが暮らす「うさぎ山商店街という “場” 」そのもの、これが『たまこま』のもうひとつの「主人公」です。

 ただ、ここで問題が生じます。「日常の維持」にむかうたまこが、その動機として根っこに持つ「トラウマと、その克服」のドラマって、ストーリーとして非常に「強い」んですよね。

 ストーリーライン、1本の線として、くっきりしている。というか、しすぎている。これが表面に出てきてしまうと、もうひとつの「多様性」という、やや抽象的なテーマが喰われてしまう可能性が高い。作品のトーンが「健気に生きる、たまこという少女の物語」という1本の線に集束していってしまうおそれがある。

 ハリウッド映画などで「シンプルでストロングなストーリー」にこだわる作品も多いように、エンタメ作品であれば、そのような「集束」をむしろ目指すことも多いのですが、でも『たまこま』では、物語を1本の線、ひとりのキャラに「あえて集束させない」ことによって、「多様性の肯定」テーマをあくまでさりげなく描くことが指向されています。

 なのでこの作品では、たまこの持つ「くっきりとしたストーリー」を作品の下層部分に埋めてしまい、表層では多様なキャラたちの織りなす人間模様を描く、という物語構造が採られています。

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 もし以前の『たまこま』関連の記事を読んで下さった方がいたら、「おい、またその話かよ」となってしまいそうで申し訳ないのですが。

 『たまこま』は、さまざまなキャラクターたちのなにげない毎日を描く「日常系アニメ」型の構造をもった物語の背後(もしくは下層)に、その「日常」を維持するという「目標」にむかってたまこが頑張る「ストーリーアニメ」型の物語が見え隠れしているという構造を持っています。

 当ブログ的にいえば、「面的な物語」の下に「線的な物語」が埋まっているという構造。たとえば『たまこま』屈指の名エピソードとして名高い第9話『歌っちゃうんだ、恋の歌』(感想)の構造を図にしてみると、こんな感じ。

 

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 「カメラ」は、作品がストーリーを切り取る「視点」を表しているのですが、これが下層の「たまこの物語」に直接フォーカスしていないのが特徴です。

 ストーリーアニメで、「この人の過去にこんなことがあったらしい」という仄めかしがあることは珍しくないですが(例えば『甘城ブリリアントパーク』主人公の子役時代のトラウマなど)、『たまこま』の場合は、ストーリーアニメの上に日常系アニメが乗っかって、両者が同時進行しているような構造になっているところがちょっとユニークです。

 (それで、作品の切り口はあくまでも「日常系アニメ」、サブキャラたちもその世界を生きているのにたいして、主人公のたまこだけは「ストーリーアニメ」を生きている。だから『たまこま』でのたまこは、「わかりにくい」キャラになっている...ということについては、『北白川たまこの孤独と、その解消 』という記事に書きました。)

 ただ、ここで注意したいのは、「表層」で描かれる楽しげな物語は見せかけで、じつは「下層」にこんな「深い」ドラマが埋まっているんだ、という構造ではない点。

 さきほども書いたように、この「表層」と「下層」で描かれるふたつのテーマは相補的な関係で、どちらも等しく重要です。ただ、たまこの持つドラマ性の訴求力が高すぎるために、それを表層に浮上させない、という戦略が採られているということですね。


◯2度遮られる「トラウマの告白」

 ここで、ようやくデラさんの話に戻れます…。

 「たまこの持つ、くっきりとしたストーリー」を表層に出しすぎないために、デラの果たした大きな役割。それが、たまこの「母に関する “告白” 」を遮るストッパーでした。

 『たまこま』では、第1話と最終回の2度にわたって、母のことを話そうとするたまこの「告白」を、デラが遮る、というシーンが描かれます。 

 まずは第1話、「星とピエロ」でのシーン。母がよくハミングしていた曲を探して、様々なレコードを聴くたまこに、まだ北白川家の事情を知らないデラが「母上に直接訊けば良いではないか」と怪訝な顔をします。

たまこ「だね。そうできればいいんだけど、お母さん、わたしが5年生のときに…」

デラ 「(あわててたまこの顔に飛びつきながら)娘!私の胸で泣け!娘の涙を吸い込むぐらいの羽根は持ちあわせておる!」

たまこ「(笑いながら)大丈夫だよ。それよりね、私、お母さんが大好きだったうちのおもちを、みんなに食べてもらいたいんだ。私はもち屋の娘だからね」

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 そして最終回。「妃騒動」によって一時的に「シャッター通り」と化した商店街をみて動揺したたまこが、デラや友達のまえで、母の亡くなったときの状況をぽつりぽつりと話しだすシーン。

たまこ「あのときも昼間なのに、みんな急にお店閉めちゃって…ごめん、なんか、びっくりしちゃってね。なんか…なんかね。急に…思い出しちゃったんだよね。お母さんが…」

みどり「!(はっとした表情で、たまこに駆け寄ろうとする)」

デラ 「娘よ!私の胸で羽根を休めるがよい!」

たまこ「(笑いながら)よかった、いつものデラちゃんだ。ありがとう」

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 いつものデラちゃんだ」というセリフが印象的です。

 もしここにデラがいなくて、場の雰囲気がコミカルにならなかったら、みどりに向けて「告白」は完遂され、『たまこま』は最終的にたまこの「トラウマの告白 (と、その乗り越え)」の物語になっていたでしょう*4

 そういうドラマを意地でも描かないぞ、という制作者のこだわりはかなりのもので、『たまこま』の中では、たまこと、ひなこのやりとりが一度も描かれないというのも、そのような姿勢の表れと見ることができます。

 他の家族、豆大とあんこに関しては、回想シーンでちゃんとひなことのやりとりが描かれるんですよね。でも、主人公のたまこに限って、不自然なことに一言もひなこと言葉を交わすシーンがない。回想シーンでも、ふたりは目すら合わせない。

 過去の、たまことひなこの交流を描けば、現在のたまこの寂しさが強調されて、ドラマとしては盛り上がります。素直に考えれば、そういうシーンのひとつやふたつは入れたくなるでしょう。でも、意地でも「健気に生きる、たまこの物語」に作品を収束させないぞ、と。ここまで姿勢が徹底していると、異様な執念めいたものすら感じます。

 (たまことひなこの交流シーンは、『たまこま』とは違うテーマを描いた『たまこラブストーリー』でようやく解禁されました。正直、ちょっとホッとしました 笑)

 山田監督は、さきほど引用したインタビューの中で、こんなことも言っています。

ーー:監督の作品が描くのはハッピーな世界だけど、この子たちも膝を抱えてないわけじゃないっていう。

 山田:ああ、絶対抱えてるんですよ(笑)

ーー:だけど、わざわざそこは書かなくてもいいんじゃないかと。 

山田:そうですね、うん。そこを見せないと共感してもらえないような作品にはしたくないんですよね。みんな絶対に孤独な時間があって、孤独な思いをしてて。もうどうしようもできないぐらいの時もあると思うんですけどね。それを見せたがる主人公ではあってほしくなくて。

(『Cut』 2013年2月号)

 (関連記事『たまこまーけっと』と『風立ちぬ』 3.11以降の主人公たち ㊦ 

 

◯むすび

 このように、『たまこま』のふたつのテーマのバランスをとるうえで、すごく重要な役割を果たしていたデラ。

 このデラが『たまこラブストーリー』であっさり居なくなった理由については「物語上、必要なくなったから」…というと酷い言い方ですけど(笑)、作品の方向性が『たまこま』と『たまこラ』では変化していたからだと思います。

 『たまこラ』で描かれたのは、たまこをはじめとするキャラクターたちが「変化」と向き合って、悩み、戸惑う姿。「主人公の内面の葛藤」という、わかりやすいドラマ性を隠そうという力学が働いていた*5『たまこま』に比べて、映画のほうはもっとストレートな方向性になっていたんですね。

 そのようなストレートな作品のなかで、デラさんの物語上の役割はもはや残されていなかったのだ…と私は考えたのですが、山田監督はこんな理由を挙げています。

映画の本編はたまこたちが自分たちの足で一歩を踏み出さなくてはいけないお話でした。デラちゃんがたまこたちの傍にいると、たまこたちが自分の足で立つ前にどうしても頼ってしまいそうで。なんだかんだでデラちゃんは大人なので。

監督インタビュー|『たまこラブストーリー』公式サイト

 各話感想では、そんな大人なデラさんの魅力にも触れられるといいなあ、と思っております。

 

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*1:みどりが同性愛者なのか、それとも相手が「たまこだから好き」なのかはさて置いて、第8話に登場する洋服屋の女店主は、古着屋の女店主を「あっしのツレ」と呼んでいます。

*2:『たまこま』の作中時間が放映と同じ2013年と仮定すると(どうなんだろう?)、ひなこの亡くなった5年前は2008年、山田監督の演出デビュー作『CLANNAD』の放映期間に重なります。両作の「家族」や「喪失」といったモチーフを考え合わせると面白いです。

*3:震災後の、宮崎駿監督のインタビューより。→「その人たち(引用者註:監督の住む地域で、商店を営んでいる人たち)は、震災後も、計画停電の時も、ちゃんと商売やってましたよ。早く起きたりなんかしながら。それで僕はものすごく助かったんです。精神的に助かりました。同じ風景を持続しようとしている人たちがいるってことで」(『Cut』2011年9月号) 同じ風景の持続=日常の維持。最終回でたまこを救うのも、「いつも」通りに店をあけている「たまや」でした。

*4:物語のなかの「トラウマ」の扱いについては、映画『ぼんとリンちゃん』(オフィシャルサイト)の小林啓一監督と、哲学者/心理学者の岸見一郎の対談が面白かったです( 小林啓一✕岸見一郎 対談)。

*5:もちろん、みどりやもち蔵など、サブキャラクターに関しては「葛藤」が描かれている部分も多くて、そのため『たまこま』ではサブキャラのほうが、主人公のたまこよりもキャラ人気は高かったようです。「葛藤」が描かれるので、感情移入がしやすいんですね。作家の高橋源一郎は、そういう「 ”内面の葛藤” を描くことで感情移入を誘うドラマづくり」を批判していて(関連記事『たまこまーけっと』と『風立ちぬ』 ㊤ )、じつはその意見もわかるのですが、でもなんのかんのいって私もみどり派です。幸せになってくれ…。