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ねざめ堂

アニメ・映画・音楽

『たまこまーけっと』と『風立ちぬ』 3.11以降の主人公たち ㊦

 「たまこと二郎」編 ㊤編はこちら → はてなブログ 

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◯赦されない主人公、二郎

 『風立ちぬ』で、二郎の葛藤がほとんど描かれなかった理由について、高橋源一郎はこのように分析していました。

この人(二郎)が戦争の責任や苦しみを感じて、葛藤を持つと、普通のドラマになるでしょ?葛藤があるっていうのは、近代のドラマの典型だよね、『ハムレット』以来の。それ、葛藤があると赦されちゃうんだよ。技術者としてのモラルと人間としてのモラルの間で苦しんだ、と言えば、みんな納得してしまう。でも、それっておかしくないのかな。いくら悩んでも、やっちゃったことはやっちゃったことだろう、と。

(『Cut』 2013年9月号)

 いったい誰に赦されるのか?といえば、観客にです。「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」。このセリフの訳には諸説ありますが、それはともかく、劇中のハムレットが独りでこのように葛藤していても、その葛藤は観客の視線を前提に描かれています。

 物語のなかでの葛藤や苦しみ・悲しみの「告白」は、観客の「同情」や「赦し」を誘うものとして、自動的に機能する(してしまう)側面をもっている。さらに突き詰めれば、我々が実生活の中で孤独に葛藤し、涙を流しているときも、どこかで仮想の「他者の視線」を想定している部分があるのではないでしょうか。

読まれることを前提に成立する文学が魂の孤独を描く時、それは必ず何らかの社会的文脈に搦め取られている。” 咳をしても一人 " という尾崎放哉の境地は、自分を見つめる仮想の他者から自由であるわけではない。

茂木健一郎 『脳のなかの文学』)

  映画のラスト、二郎は奈穂子を喪い、設計者としてもボロボロになり、それでもそのような状態にじっと耐えて、これからも生きていくであろうことが示唆されます。

 兵器の設計者としての罪を、二郎(実在の堀越二郎ではなく、作中の二郎)は感じていたのか?は、作品からは読み取ることがでません。もし感じていたとしても、その葛藤が描かれず、苦しみを「告白」することもないこの映画の二郎は、作中の周囲の人々からも、また観客からも赦されない。

 『風立ちぬ』は二郎の「内面」を描かないことによって、観客が二郎を赦すことを拒絶しています。彼は赦されることなく、奈穂子を喪った喪失感を抱えたまま、この先も生きていく。作品のキャッチコピーだった「生きねば」には、前向きなだけではない不穏なニュアンスが含まれています。

 モダニズムの中で生きる

 宮崎監督は二郎の罪について、このように発言していました。

(二郎の戦争責任を)断罪する人は断罪すればよろしい。そうやって生きなさい。でも全員が反戦活動をしたり、社会主義者になって牢屋に入るわけにいかないから。職業をもつということは、どうしても加担するという側面を持っている。それはもうモダニズムの中に入ってるんだと思ってるんです。

(『Cut』 2013年9月号)

 この発言からは、現代に、先進国での生活を享受しながら生きること自体に対する原罪意識のようなものがうかがえます。

 社会のなかで職業をもち、消費を通じて経済活動の一部に組み込まれている以上、その罪から逃れることはできない。正義の側に立ったつもりで二郎の罪を断罪すれば、その言葉はブーメランになって自分に帰ってきます。

 イギリスのロックバンド、レディオヘッドは2001年リリースのアルバム『アムニージアック』のジャケットに、泣いているミノタウロスのイラストを採用しました。

 ミノタウロスギリシャ神話に登場するモンスターで、クレタ島の迷宮に閉じこめられ、生け贄としてささげられた人間を食べて生きています。迷宮からはどうしても出られず、生け贄を食べないと自分が死んでしまう。

 泣きながら人間を食べて生き続けるミノタウロスのイメージは、現代のシステムのなかで否応無く罪を背負ったまま、赦されることなく生き続ける二郎や、我々自身の姿と重なります*1

 『風立ちぬ』は迷宮からの出口も、迷宮の構造を変える方法も示唆しません。そのような状況のなかで自らの罪を自覚しながら、それでも生きていくしかない、と観客を突き放します。

 これを誠実な覚悟ととるか、無責任ととるか。ここでも作品の評価はわかれるとおもいますし、けっこう危ういバランスの上に作られた映画だと思います(私は支持します)。

 

◯二度遮られる、たまこの「告白」

 いっぽう、たまこの母に関する「告白」も、デラによって遮られます。それもシリーズのスタートである第一話と、最終回である第十二話の二度にわたって。ちょっとその場面を振り返ってみましょう。

 まずは第一話。たまこが、母がいつもハミングしていた曲を探すために、商店街のレコード店に立ち寄る場面(㊥編でもふれた、あの曲です)。

 「曲の続きが知りたくて、このレコード屋さんでずっと探しているんだけど」というたまこに対して、北白川家の事情をまだ知らないデラは「母上に訊けばよいではないか」と怪訝な顔をします。

たまこ「だね。そうできればいいんだけど、お母さん、わたしが五年生のときに...」

デラ 「(慌ててたまこの顔に飛びつきながら)娘!私の胸で泣け!娘の涙を吸いこむぐらいの羽根は持ちあわせておる!」

たまこ「(笑いながら)大丈夫だよ。それよりね、私、お母さんが大好きだったうちのおもちを、みんなに食べてもらいたいんだ。私はもち屋の娘だからね」

 そして最終回。「シャッター通り」と化した商店街を見て、たまこは激しく動揺します(ここでたまこを救うのは、唯一普段通りに店を開けている「たまや」と、「おかえり」という家族のなんでもない挨拶です)。一体どうしたのかと訊く友人たちに、たまこはぽつりぽつりと語りはじめます。

たまこ「あのときも昼間なのに、みんな急にお店閉めちゃって...ごめん、なんか、びっくりしちゃってね。なんか...なんかね。急に...思い出しちゃったんだよね。お母さんが...」

みどり「あ、(はっとした表情で、たまこに駆け寄ろうとする)」

デラ 「(みどりより早くたまこの顔に飛びつきながら)娘よ!私の胸で羽根を休めるがよい!」

たまこ「(笑いながら)よかった、いつものデラちゃんだ。ありがとう」

 この場面にいたのがたまことみどりの二人だけだったとしたら「告白」は完遂され、『たまこまーけっと』はたまこのトラウマ克服の物語になっていたでしょう。

 でもデラの行動によって、シリアスな雰囲気が漂いはじめていた場面はコミカルなトーンに塗り替えられ、たまこは「いつものデラちゃんだ」とそれを喜びます。

 結局、たまこは最初から最後まで、周囲の人物(そして観客)にたいして、自らの心の内をきちんと「告白」することはありませんでした。

 第六話で閑散期の商店街を、最終話でシャッター通りとなった商店街をみて動揺したことに表れているように、彼女はまだ母の死から完全に立ち直ってはいません。でも、その苦しみは「告白」されない。

  

◯癒されない主人公、たまこ

 山田監督はインタビューで、自身をネガティヴ志向のつよい人間であると分析しています。

 芸大に通っていたころは、真っ赤な画や、膝を抱えた女の子のような暗い画ばかり描いていたし、「人生こんなに甘いわけない」といった方向にすぐ思考が傾く。でも自分の手を通して出す作品は、世界を肯定するようなものにしたい、と。

ーー「監督の作品が描くのはハッピーな世界だけど、この子たちも膝を抱えてないわけじゃないっていう」     

山田「ああ、絶対抱えてるんですよ(笑)」

ーー「だけど、わざわざそこは書かなくてもいいんじゃないかと」

山田「そうですね、うん。そこを見せないと共感してもらえないような作品にはしたくないんですよね。みんな絶対に孤独な時間があって、孤独な思いをしてて。もうどうしようもないぐらいの時もあると思うんですけどね、それを見せたがる主人公ではあってほしくなくて」

(『Cut』2013年2月号)

 『風立ちぬ』が「告白」による二郎への「赦し」を拒絶しているように見えたのと同じく、『たまこまーけっと』は「告白」でたまこが「癒される」ことを拒んでいるように、私の目には映ります。

 たまこが苦しみを「告白」すれば、それはたとえ独白という形であっても、作品を見ている観客の「同情」を自動的に誘ってしまう。観客は、たまこの苦しみが癒されれば良いと願う。

 「読まれることを前提に成立する文学が魂の孤独を描く時、それは必ず何らかの社会的文脈に搦め取られている」。映像作品でも同じことです。『たまこまーけっと』は、物語のもつそのような作用に自覚的だったのではないか。

 いまだに孤独に苦しみを抱えているはずのたまこは、しかし「告白」はおろか、苦悩の表情すらほとんど観客に見せません。『たまこまーけっと』でキャラクターデザインを担当した堀口悠紀子さんは、山田監督の作風についてこう話しています。

「山田さんのコンテって見ているとわかるのですが、押しつけがましく"わたし、今悲しいです!” って顔をあまりさせないんですよ。でも、全体を見終わった時にそういう積み重ねがバーンと効いてくる。”なんだろう、このじーんとする感じ?" みたいな」

「たとえばわたしたちが悲しいときに、そんなに眉を寄せて歯を食いしばるか?っていう。もちろんそういう表現も好きなんですが、そういうマイナスの感情みたいなものをオブラートに包みながら、作品全体を通して伝えるっていうのが彼女の作風ですよね」

(『Cut』2013年2月号)

 ㊤編でみた通り、登場人物の気持ちと表情の関係について、宮崎監督は「人間の脳味噌のなかなんか、覗けないんですよ。そんなの顔見たってわかりゃしないんです」と断じました。

 高橋源一郎「映画で、悩んでるときは悩んでる顔をするとか、”悩んでるんだ”って声に出して言うとか、そんなのはインチキだってゴダールは言ってる。その通りだと思う」

 そして山田監督は、上記のインタビューのなかで、シンプルにこう言っています。

「笑ってるからって、その子はただ笑ってるだけってわけじゃないですからね」 

◯ひなこと奈穂子、二人の死者

 『風立ちぬ』が、関東大震災や戦争に向かっていく世の中の描写を通して現代の日本と接続したように、『たまこまーけっと』に登場するシャッター商店街のイメージは、先の震災後に出現した「日常」の「断絶」した光景を思い出させます。

  そんな中、普段通りに淡々と営業する「たまや」に救われるたまこ。「よかった、いつものデラちゃんだ。ありがとう」というセリフ。

 この場面で、私は先の震災後に行われた宮崎監督のインタビューでの発言を思い出しました。

「その人たち(宮崎監督の住む地域で、商店を営んでいる人たち)は、震災後も、計画停電の時も、ちゃんと商売やってましたよ。早く起きたりなんかしながら。それで僕はものすごく助かったんです。精神的に助かりました。同じ風景を持続しようとしている人たちがいるってことで」

(『Cut』2011年9月号)

 そして奈穂子が「喪われる命」の象徴だったように、ひなこもまた「喪われる命」、人間にはどうにもできない理由でいつ崩れてしまうかわからない「日常の儚さ」の象徴でした。

 奈穂子が大きな日傘の下で画を描いているとき、強い風が彼女の身体に吹きつけます。彼女はひざまずいて吐血する。『風立ちぬ』の「風」は、病気を患った奈穂子=「弱い者」の身体を守るシェルターを無効化する、暴力的で不吉なイメージを内包しています。

 いっぽう㊥編でも言及した『たまこまーけっと』第九話での、学生時代のひなこの登場シーン。

 季節はおそらく夏の盛り。ひなこは、商店街のアーケードが作る日陰から日なたに出るときに、手にしていた日傘を開きます。そこから目指す「たまや」まではほんのわずかな距離なのですが、彼女は手間を厭わず、日光から身体を守ろうとします。

 この描写で、ひなこは身体が弱いのではないか?という可能性が示唆されます(日傘は、弱い身体を守ろうとしている儚いキャラクターにとっての定番アイテムです。『リトルバスターズ!』の美魚も日傘を持っていましたね)。

 そして、外界の暴力から身を守ろうとするひなこの努力も空しく、彼女は家族を残して死んでしまう。

 言葉を喋る鳥=デラの存在や、そんなデラを簡単に受け入れる商店街の人々の度を超した人の良さに表れているように、『たまこまーけっと』はややファンタジックな、現実から(30センチぐらい?)浮遊した世界を描いています。

 しかしその世界は100%幸せに満たされているわけではなく、ときには人が死に、残されて傷つく人々のいる世界です。

 家族を喪うという悲劇、それまで当たり前だとおもっていた「日常」の崩壊に見舞われた主人公が、その後のあたらしい「日常」を積みあげていく物語。震災後、日本中の物語作者が「震災とどう向き合うか?」を問われましたが、『たまこまーけっと』もまたそのような「3.11以降の物語」としての側面をもっていました。

 『けいおん!』で、なにげない「日常」をとびきり魅力的に描いてみせた制作者たちが、「自分たちはなぜ日常を描くのか?」を真剣に自らに問いかけつつ作られた物語だったと思います。

 そして、そのような物語の中で安易に「癒し」を描くことにたいする抵抗感があったのかもしれません。わかりやすい「癒しの物語」の拒絶。

 現実の生活の中で、自分の苦しみや悩みを相談できる相手がいるのは素晴らしいことです。しかし、物語のなかでの「告白」は自動的に「癒し」として機能してしまう。たまこの傷はそう簡単には癒されずに、それでも彼女の人生は続いていきます。

 

◯おわりに 「まーけっと」から「ストーリー」へ

 ㊥編でみた通り、『たまこまーけっと』は、基盤にたまこの「線的な物語」を隠しつつ、その表層では様々なキャラクターたちの織りなす「面的な物語」が展開された作品でした。

 そして、4月に公開予定の映画『たまこラブストーリー』(『たまこラブストーリー』公式サイト)では、その後のたまこの「線的な物語」が描かれるようです。すでに公開されている予告編では「変わっていくこと」がキーワードになっています。

 「変わっていくこと」=主人公が前に進んでいく姿を追う「線的な物語」。おそらく、この企画は最初からテレビシリーズとセットで存在していたのではないでしょうか。

 たまこが守ろうとする「日常」の場=「まーけっと」の「動的平衡」を描いた「面的な物語」から、それでも時間の経過とともに変わってくたまこ個人の「ストーリー」=「線的な物語」へ。

 でも、先にも書きましたが、二つの形式の物語のあいだに優劣はありません。さまざまに解釈の可能な(そして、我々が解釈を通して限定的に把握することしかできない)「世界」を、どのような角度から切り取るか?という態度の差があるだけです。

                    ◯ 

 主人公の「内面」の「告白」によるドラマの盛り上げに依存しなかった『風立ちぬ』と『たまこまーけっと』。作風というよりは「物語への態度」が共通する二つの作品が、震災後に揃って登場してきたことには、時代的な必然性があったのかもしれません。

 そして、エンタメ作品としては「わかりにくい」ともいえるそのような演出を、あえて貫いた制作者の姿勢には頭が下がります。

                     ◯

 ヴィム・ヴェンダース監督『ベルリン・天使の詩』のなかで、戦争で犠牲になった子供たちの遺体の映像とともに、ペーター・ハントケによるテキストが朗読される場面があります。こんな文句でした。

幾世紀をも往来するかつての大いなる物語はもう終わった。今は一日一日を思うのみ。

勇壮な戦士や王が主人公の物語ではなく、平和なもののみが主人公の物語。乾燥たまねぎでもいいし、沼地の渡り木でもいい。

だれひとり平和の叙事詩をまだ、うまく物語れないでいる。なぜ平和だと、だれも高揚することがなく、物語が生まれにくいというのか。

 

 

㊤『風立ちぬ』編 → はてなブログ

㊥『たまこまーけっと』編 → はてなブログ