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ねざめ堂

アニメ・映画・音楽

『たまこまーけっと』と『風立ちぬ』 3.11以降の主人公たち ㊤

アニメ 京都アニメーション スタジオジブリ 風立ちぬ たまこまーけっと・たまこラブストーリー

 風立ちぬ』編

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◯はじめに 「感情の読めない声」を与えられた主人公たち

 

 『たまこまーけっと』と『風立ちぬ』。

 2013年に制作された、という以外には共通点のなさそうな、ぜんぜん作風のちがうアニメです。でも私はこのふたつの作品に、似通った感触を感じます。

 具体的には、主人公たちの「声」です。両作品の主人公は、どちらも「感情の読めない(読み取りにくい)声」を与えられていました。

 『風立ちぬ』(風立ちぬ 公式サイト)の主人公、堀越二郎の声を担当したのは、庵野秀明氏でした。名実ともに日本のトップアニメーション監督ですが、声優としては完全な素人です。

 映画の公開当時、このキャスティングに賛否両論が巻き起こったことはご記憶の方も多いでしょう。抑揚が少なくてちょっと金属質な高さを持った、けっこう癖のある声でした。

 いっぽう『たまこまーけっと』(TVアニメ『たまこまーけっと』公式サイト)の主人公、北白川たまこは、プロの声優(洲崎綾さん)が声をあてています。彼女は主演は初めてですが数年間の下積みを経ているらしく、いわゆる「声優らしい」きちんとした演技を披露しています。

 このたまこの声が、朗らかでヒロインらしいんだけれど、でもつるっとしていてどこか掴みどころがないんですね。元々の声質にくわえて、意図的にそのような演技をした部分もあるんじゃないかと思うんですが、二郎同様何を考えているのか読みきれないところがある。

 感情が読めないということは、観客が主人公に感情移入しにくいということで、これが「あえて」だったとすればちょっと奇妙な采配です。

 すくなくともエンターテインメント系の作品であれば、観客を主人公への感情移入に誘おうとするものだし、それに成功すれば観客の作品への没入感は高まる。作品の人気にもつながることが多いからです。

 でも両作品をよく見ていくと、いろいろなところで「あえて」主人公の感情が読みとりにくいような演出がされていることに気づきます。声のキャスティングも、その演出の一環に思えてくる。なぜそんなことをしたのでしょうか?そこにはどんな意図があったのか?

 実際『風立ちぬ』は話題性の高さも手伝って大ヒットこそしましたが、賞賛の声があがる一方「いつものジブリみたいにはのめり込めなかった」という評判もききます。

 『たまこまーけっと』も、深夜アニメの大ヒット作『けいおん!』を手掛けたスタッフの新作ということで注目を集めましたが、放映中は「たまこが何考えてるのかわからん!」という声もきかれ、一部の熱心なファンからの支持をのぞけば、一般的な評判はいまひとつでした。

 ここであらかじめ私の立場を明らかにしておくと、どちらの作品も大好きです。両作品ともアニメのオールタイムベストに入る傑作だと思っていますし、主人公たちの声も素晴らしく作品にはまっていたと思います。

 この文章の目的は、そのような好意的な立場から「両作品は、感情移入のしにくい主人公の造形を通じてなにをやろうとしていたのか?」を、作品の内側や外側から、またときには作り手の視点に寄り添った「つもり」になって、誤読をおそれずに考えてみよう、というものです。

 (どちらかといえば、『風立ちぬ』の解釈をぶつけることで『たまこまーけっと』について考えてみよう、という内容になっています。)

 

                    ◯

 

 ところで、ブログの記事というのは「長くても」3,000文字ぐらいが適当といわれているみたいです。そうですよね。無名ブロガーのだらだらした長文はツラい、というか、誰にも読んでもらえません。

 それでこの記事なんですが、ぜんぶで3万文字ぐらいあります(小声)。でも要約をしてしまうと、いろいろと取りこぼしてしまうものが多くて悔しい。ので、このままあげてしまおうと思います。

 (がんばって、長いなりに読みやすさを意識しつつ書いたつもりです...)

 せめて少しでもスッキリ見えるように、全体を3つのパートに区切ってあります。㊤『風立ちぬ』編、㊥『たまこまーけっと』編、㊦『両作品について』編です。

 文章の性質上『たまこまーけっと』と『風立ちぬ』両作のネタバレを含みますので、ご了承ください。

 では最初に『風立ちぬ』のあらすじをごく簡単に押さえておきたいと思います。

 

 

◯『風立ちぬ』あらすじ

 

 映画は大正末期から昭和初期にかけて、関東大震災第二次世界大戦といった近代史上の重大事を背景に、「美しい飛行機を作りたい」という夢に突き動かされて生きた主人公、堀越二郎の半生を追っていく。

 日本が戦争へと突入していく時代、軍に設計者としての才能を見込まれた二郎は零戦の設計に着手する。同時に物語の横糸として、二郎と、不治の病を患ったヒロイン・奈穂子との悲恋が描かれる。

 二郎は奈穂子と結ばれるが、やがて彼女は結核で命を落とす。この悲恋エピソードは堀辰雄の小説からの流用であり、堀越二郎は実在の人物をモデルにはしているが、映画は事実に基づいた「伝記映画」ではなく「フィクション」である、という形をとっている。

 

 

◯人間の脳味噌のなかなんか、覗けない

 

 二郎役に庵野氏を起用した意図については、宮崎監督自身が何度か言明しています。

 たとえば、NHKで放映されたドキュメンタリー(『プロフェッショナル 仕事の流儀』)。

 なかなか二郎にぴったりの声が見つからず苛立つ監督は、それまでオーディションした声優や俳優たちの、あまりにも感情のこもった演技に愚痴をこぼしていました。そして最終的に庵野氏が二郎役に決定したとき、上機嫌でもらした言葉。

 

「なにを考えているのかよくわからないところが良い」

堀越二郎はね、あんまり周囲から理解されない存在だったとおもうんですよ」

 

 

 なにを考えているのかよくわからない、周囲から理解されない存在。インタビューではもうちょっと立ち入った説明をしています。

 

「アニメーションだと、主人公にすぐカメラを据える。そいつが何をいうか、どういう感情を持っているか、どういう表現をしようとしているのかをすぐ説明しようとする。そういうことで説明できない男なんだっていう。だから、ほっといたら斜め前からバストショットで本人をつまかえるなんて画面をいっぱい作っちゃうんだけど、途中からそれを減らそうと。こっちを向いてしゃべらない男になってます。横顔とか、後ろ向きとかね。そういう存在なんだっていう」

「たとえば主人公を能動的にしてね、『よし、僕はやるぞ!』とか言って設計事務所に入ってくる人間にしたら、そんなのちゃんちゃらおかしくてね、堀越二郎の ”ほ” の字にも辿り着かない。違うんです。(中略)本当になんかやろうとする人間はね、でかい声で叫ばないですよ。そう思いませんか?人間の脳味噌のなかなんか、覗けないんですよ。そんなの顔見たってわかりゃしないんです」

(『Cut』 2013年9月号)*1

 

 宮崎監督が強調しているのは、ひとつには堀越二郎というパーソナリティを扱う上での敬意です。

 二郎はたぶん、物語を積極的にぐいぐいとひっぱったり、すぐに感情を露わにするようなわかりやすい性格ではなかった。強い意志は持っていたに違いないけれど、外面的には淡々と物事を進めただろう。あんまりアニメの主人公には向かないタイプです。

 それでも彼の映画を作ろうときめたからには、それを尊重しようと。

 そしてもうひとつ、堀越二郎がわかりにくい男だ、という解釈は、発言の途中で二郎という個人から人間全体の話へと拡大していきます。

 人間というものは、よくわからないものだ。どうせ「顔見たってわかりゃしない」。これは一般論として納得できますね。

 この考えを進めていくと、人間はわからないものなんだから、観客が主人公に感情移入できるようにして、そのことで物語をひっぱろう、という一般的な物語づくりのセオリーがそもそも不自然なんだ、となるわけです。だから「こっちを向いてしゃべらない」。説明しない。

 

 

◯文章にできて、映像にできないこと

 

 このような考え方は、とくに新奇なものではありません。このインタビューが掲載された雑誌には、作家の高橋源一郎氏による『「風立ちぬ」を読み解く。』という記事も掲載されていて、そこで高橋氏は、近代文学の抱える問題と関連させてこんな発言をしています。

 

近代文学のいけないところは、人間には苦しみがあってそれはわかるはずだ、としてしまったことです。内面を開けてみせるのが近代文学だから。それを近代文学はやってきたんだけど、外側を見せるアニメが同じことをやったら変だよね。映画で、悩んでるときは悩んでる顔をするとか、”悩んでるんだ” って声に出して言うとか、そんなのはインチキだってゴダールは言ってる。*2その通りだと思う」

 

 

 文学は、良い悪いは別にして、登場人物の内側から物語を記述することのできるジャンルです。その人物が何を考え、感じているのかを(書こうと思えば)書くことができる。

 つまり主人公の感情を記述して、そのことで読者の感情移入を誘い、物語をひっぱっていく、というテクニックが使えるわけです。

 でも、人間の内側のほんとうのところは外側からは「わかりゃしない」のだし、だから外側を映すことしかできない映像作品がそのテクニックを使ったらおかしいだろう。高橋氏の指摘はこういうことです。*3

 人物のモノローグ(独白)があるじゃないか、という反論も考えられますが、モノローグというのはもう文学の領域ですよね。

 映像を使って物語を語るメディアである映画やアニメが、言葉に頼って「内面」を説明するのは敗北じゃないか、ともいえるわけです。だったら小説やドラマCDで事足りるわけですしね。

 また単純な感想として、登場人物の気持ちをセリフやモノローグで逐一説明しすぎる作品は、あんまりかっこいいものではないな、という感じはします(程度の問題ですが)。

 たとえば、高橋氏が例としてあげたジャン=リュック・ゴダールの作品中もっとも有名(かつもっともわかりやすい)長編デビュー作『勝手にしやがれ』には、モノローグや、観客にむかって俳優がメタ的に話しかけるシーンなどが頻繁に登場しますが、それらは人物の本当の気持ちを説明するという機能は担っていませんでした。

 

 

◯物語の「法則」

 

 エンタメ以外の世界に目をむければ、登場人物の内面を説明しなかったり、そもそも「ストーリー」なぞいらんのだ、という作品はたくさんあります。

 でもそういう作風のものは別として、エンターテインメントとしてメジャーに流通しているほとんどの「物語」は主人公の「内面」を説明し、彼/彼女への共感(もしくは反発)といった感情移入を通じて、観客の物語への没入をさそいます。

 感情移入を促す装置として一番わかりやすいのは、異なる価値観同士の「対立」や、主人公の進もうとする道にたちふさがる「障害」です。これは物語づくりのマニュアル本みたいなものにはかならず載っている基本のようで、たとえば私が最近読んだ本にはこんな一節がありました。

 

「物語の最も基本的なレベルに二つの対立した勢力を置き、身体的、感情的、哲学的な闘いに向かわせ、対立が解消するまでそれを続ける」

(クリストファー・ボグラー&デイビッド・マッケナ『物語の法則~強い物語とキャラを作れるハリウッド式創作術』)

 

 

 『ロミオとジュリエット』ではふたつの名家のあいだに「対立」があり、主人公カップルの恋路は「障害」に阻まれます。主人公カップルはこの困難に立ち向かい、克服しようとする過程で苦しむ。

 そしてそれを、表情やセリフで観客にむかって説明します。私はいま、こんなふうに苦しんでいるんだ!と。

 観客はそれをみて「負けるな、がんばれ!」と感情移入して、物語に引き込まれていくわけです。ご存知のとおり、この物語は主人公カップルの死によって両家の対立が「解消」されて終わります。

 また、この本にはこんなことも書かれています。

 

「ドラマには対立が必要だ。主人公のいる場所と、欲しいものがある場所とのあいだに立ちふさがる何かを置くことで、緊張感やサスペンスが生まれ、観客の関心を惹きつけることができるのだ」

「キャラクターの心の欲求を効果的に脚色するために、サディスティックに障害を置くことができているだろうか?」

 

 

 主人公には意識している・していないにかかわらず「求めるもの」があり、その獲得にむかって動きだすことで、物語がスタートします。

 たとえば『僕は友達が少ない』では、友達の欲しい主人公が、ヒロインに巻き込まれる形で友達づくりの "予行演習" の場「隣人部」を設立するところから物語がはじまります。

 物語の進行過程を、単純化して表すとこんな感じです。

 

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  主人公は、スタート地点Aから「求めるもの」のある場所=Xに向かって歩きだします。

 「求めるもの」は、海賊の財宝や聖杯といった「モノ」でも、「権力」や「自由」「自己承認」といった抽象的な事柄でもかまいません。ロミオにとっては、愛するジュリエットと結ばれる結末が「求めるもの」です。

 主人公は最終的に「求めるもの」のある場所=Xに辿りつけたり、つけなかったり、あるいは旅路の途中で最初求めていたものとはちがう「大事なもの」に気づいたりします(ひたすらカネを求めていたスクルージ老人が、3人の精霊の訪問によって「思いやりの心」に目覚めたように)。

 いずれにせよ、目的地Xにむかう主人公の姿を追うかたちで、物語は前に進みます。

 この主人公の行く手に、さまざまな「障害」が立ちはだかります。ロミオの行く手を阻むのは、キャピュレット家とモンタギュー家の「対立」です。

 「物語の最も基本的なレベル」に置かれたこの「対立」が、さまざまな「障害」の形をとって二人の恋路を邪魔します。これがB → C → D … と続きます。

 これらの「障害」に主人公がどう反応するかを描くことで「心の欲求を効果的に脚色」できる、つまり彼/彼女の「内面」を観客にたいして説明できる、というわけです。

 障害は「サディスティック」なまでに多ければ多いほど、主人公のリアクションもよりはっきりとしたものになり、観客がますます物語に感情移入していくきっかけになっていく。

 

 

◯マイナスの感情移入

 

 観客の主人公にたいする感情は、必ずしもポジティヴなものでなくとも構いません。

 たとえば、『魔法少女まどか☆マギカ』の主人公は「人助けをしたい」という自分の「求めるもの」に確信がもてず、なかなか前に足を進めるができませんでした。

 そんな彼女を挑発するように、さまざまな「障害」(=つぎつぎと酷い目にあっていく周囲のキャラクターたち)がまさに「サディスティック」に配置されていきます。

 この「障害」が、足を前に踏みだせない彼女の「内面」の葛藤を描きだしていきます。彼女の態度にたいする観客の反応は「人間らしくて共感できる」と「イライラする」に分かれたようです。

 私は共感できた派ですが、どちらにせよ主人公の葛藤が、観客が物語にのめり込んでいくきっかけになれば成功です。

 物語の流れのなかで(「物語」というものがもつ性質として、なかば必然的に)葛藤する主人公よりも、「ブレない」サブキャラクターに観客の人気が集中し、作品全体の人気を牽引することもあります。

 

 

◯「法則」からの逸脱

 

 では『風立ちぬ』はどうでしょう。主人公は「美しい飛行機を作りたい」という願望、「求めるもの」を持っています。

 そして、その理想の実現との間に「戦争に突入していく社会」や「無茶な要求を突きつけてくる軍部」といった「対立」や「障害」がたしかに配置されているのですが、でもそれらはひどくぞんざいに扱われているように見えます。

 たとえば、戦闘機の設計にかり出された二郎が、軍の会議から会議へと引きずり回されるシーン。設計への注文を熱弁する軍人たちの話を聞き、「善処します」みたいなセリフを連発する二郎ですが、そのあいまに上司とのこんな会話が挿入されます。

 

上司:「おまえ、(軍人たちの話を)きいとらんだろ」

二郎:(淡々と)「はい」

 

 さっきの本のセオリーだと、ここで二郎の葛藤を強調しなきゃいけないですよね。美しい飛行機を作りたいのに、戦争の道具の設計にかり出された二郎の苦悩、みたいな感じで。それを描くことで二郎の「内面」の説明にもなるんですが、でもそれをやらない。

 これでは、二郎が何を思いながら戦闘機の設計をしているのかがよくわかりません。二郎は兵器の設計に携わることを嫌がっていたのか、それとも光栄に思っていたのか?

 先のインタビューで宮崎監督は「いわゆる戦後的なアプローチで、主人公対軍とか、対戦争っていう対立の構造をつくれば、ある意味高揚感は生まれるんですけど」という質問を受けて、こんな風に答えています。

 

「いや、最低の映画になりますよ。大っ嫌いです!会議ばっかりやってる映画」

 

 

 このあと発言は「会議なんてくだらない」という方向にいってしまうのですが*4、ここで注目したいのは、監督が「対立」でドラマを盛りあげ、かつ主人公の「内面」を説明するというテクニックを否定していることです。

 これまではそれをやっている作品も多かったわけですね。『ナウシカ』や『もののけ姫』での、文明と自然の対立、そのあいだで揺れる主人公だとか。でも今回はそれをやらないぞ、と。

 

 

◯主人公よりも感情が説明されるサブキャラクター

 

 

 そんな『風立ちぬ』のなかで、いちばんの盛りあがりを期待できる「障害」にみえたのが、ヒロイン・奈穂子を襲った不治の病という悲劇です。でも、ここでも描写は非常に淡々としている。

 現実の堀越二郎の人生にはなかった悲恋エピソードを、わざわざ堀辰雄の小説からひっぱってきたにもかかわらず、盛りあげないんです。

 奈穂子の病状を知って二郎が泣くシーンなんかはあるんですが、それはあくまで「人物が泣いている」という「外面」の状態をカメラが淡々と捉えている感じで、観客を泣かせてやろうという演出じゃない。オーバーなBGMがかかったりもしません。

 こういう姿勢が一番徹底しているのが、奈穂子が二郎のもとを離れて山奥の病院に帰る(彼女はもう治る見込みがないので、いわば死ににいく)シーンです。

 奈穂子は二郎に自分の美しい部分だけを覚えていて欲しいという想いから、二郎が出張に出かけたあと、黙って家をでる。

 彼女の静かな決意を最初に知るのは二郎の妹です。この妹の悲しみは比較的きちんと描写されてるんですね。でも二郎が奈穂子の決意を知って悲しむ場面は、映画では描かれない。

 ちょっとベタな作品なら、ヒロインの決意を知った主人公が天をあおいで慟哭したりしそうな「おいしい」場面なんですが、そういう感情が爆発する描写は一切なく、そのまま映画はエンディングを迎えてしまいます。

 宮崎監督がこの作品の試写会で「自分の映画ではじめて泣いた」というのが話題になりましたが、実際に監督が泣いたのはこういったメロドラマ的シーンのためではない、ということも、前述のインタビューで触れられていました。

 ではヒロインの死がわざわざ作品に導入された理由ですが、この映画のなかで、奈穂子は戦争や災害などの巨大な暴力によって理不尽に奪われる命を象徴する存在でした。

 同時に彼女は、ともすれば周囲から理解されにくかった二郎を、絶対的に肯定してくれる存在でもあった。それが失われてしまった状態に二郎が最終的に追い込まれて、それでもなお生き続けることが重要で、メロドラマ的な要素はそこまで重視されていなかったんじゃないかな、と思います。

 

                    ◯

 

 このように『風立ちぬ』は、物語づくりの「法則」から逸脱した作品でした。ドラマを盛りあげ、主人公の内面を説明できる「障害」はいちおう存在しているんですが、せっかくのその「おいしい」要素をスルーしてしまっている。

 しかも主人公は「何を考えているのかよくわからない」声をあてられているという、主人公の「内面」の説明を避けた映画。*5

 では、このあたりで『たまこまーけっと』に話を移したいと思います。『たまこまーけっと』がどのようなかたちで、主人公の「内面」の描写を回避しているのか。そして最後に、そのような演出を通じて両作品が目指していたものは何だったのか、について考えてみたいと思います。

 

(㊥編→ はてなブログ に続く)

 

 

 

 

 

*1:『Cut』に掲載された、渋谷陽一氏による宮崎監督への近年のインタビューは、単行本『続・風の帰る場所 ー 映画監督・宮崎駿はいかに始まり、いかに幕を引いたのか』にまとまっています。ただし、この本には後述する高橋源一郎氏の考察は収録されていません。これはすごく面白いので、図書館などで雑誌のほうを探してみることをおススメします。

*2:ジャン=リュック・ゴダールゴダール 映画史Ⅰ』には、こんな記述があります。「たとえばスチーヴ・マックィーンですが、彼がなにかを考えているかのようなカットをよく見かけます。でも彼を考えさせているのは、じつは観客なのです。彼自身は、そのときも、あるいは週末にも、なにも考えていません。<君はぼくになにを考えてほしい?>と言っているだけなのです。そしてカットとカットを頭のなかでつないで、<彼はこれこれのことを考えている>と考えるのは観客なのです。たとえば、彼が裸の娘を見てなにかを考えついたようなふりをすれば、観客は<ああ、彼はあの裸の娘のことを考えてるんだ。彼は彼女とやりたがってるんだ>と考えるわけです。仕事をするのは観客の方なのです。観客は金を払って、しかも仕事をしているのです」

*3:高橋氏の指摘はこのあと「だいたい”内面”なんてものがあるのかどうかわからない」というポストモダンな領域までいくのですが、そこまで追求するとこの文章の主旨から外れていってしまうので、ここではスルーしています。

*4:会議=集団の決定に個人の運命が左右されることに対する抵抗感、というのもこの映画のテーマのひとつで、公式サイトに掲載されている監督自身による企画書(風立ちぬ メッセージ)でそのあたりが触れられています。背筋のぴんと伸びた、素晴らしい文章です。

*5:ハリウッド映画で主人公を「よくわからない人物」として描いた作品に、ゴダールがたびたび悪口を言いながら超意識しているように見える、スティーブン・スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』があります。この映画の主人公は、ヒューマニストなのか、商売人なのかよくわからない。良い映画だと思うんですが(収容所シーンのやせ細ったエキストラ群など圧巻です)、ラストのシンドラーが泣き崩れるシーンで、それまでの抑制のきいた描写の積み重ねがすべて崩壊してしまいます。もちろんそれはカタルシスとして「あえて」仕掛けられた崩壊なのですが、個人的には「あれがなければ」という気がしなくもない惜しい映画でした。