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アニメ・映画・音楽

『たまこまーけっと』と『風立ちぬ』 3.11以降の主人公たち ㊥

 たまこまーけっと』編

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◯「内面」のわかりにくい主人公

 

 TVシリーズ『たまこまーけっと』を受けて、四月に公開予定の映画『たまこラブストーリー』の公式サイトに、山田尚子監督へのインタビュー(SPECIAL | 『たまこラブストーリー』公式サイト)が掲載されています。

 そのなかで監督は、映画版で描きたかった内容として、こんなことをあげていました。

 

「たまこというキャラクターをひとりの女の子として描きたいという思いがありました。たまこの内面を、映画で掘り下げられればと思ったんです」

「感情を表現することをちゃんとしよう、観てもらう人に "?" がないようにしようと考えていました」

 

 考えてみると、「主人公」に関する発言としては、これはちょっと奇妙ですよね。

 映画版で主人公の内面を掘り下げたい。感情を表現することをちゃんとしよう。ということは、全十二話あったテレビシリーズでは、主人公の内面描写があまりされていなかった、ということなのでしょうか。

 実際テレビシリーズでのたまこは、『風立ちぬ』の堀越二郎と同様、かなり「内面」のわかりにくい主人公でした。『ワンピース』のルフィが「内面のない主人公」といわれたりすることがありますが、そういう文脈ではなくて「内面の "わかりにくい" 主人公」。

 上記の山田監督の発言も「テレビ版ではたまこの内面の描写をやらなかった」という意味にもとることができます。そしてそのような演出は(やはり『風立ちぬ』と同様に)「あえて」だったことが、声のキャスティングをはじめとして、作品のいろいろなところに表れています。

 では、『たまこまーけっと』について見ていくことにしましょう。

 

 ◯『たまこまーけっと』あらすじ

 

 うさぎ山商店街で代々もち屋「たまや」を営む北白川家は、祖父、父(豆大)、長女(主人公・たまこ)、次女(あんこ)の四人暮らし。母親のひなこは5年前、たまこが小学五年生のときに亡くなっている。

 たまこは「おかあさんの大好きだったおもちを、皆に食べてもらいたいんだよね」と、新作もちのアイデア出しに勤しみ、また、周囲を巻き込みつつ商店街の客寄せ企画をつぎつぎと実行に移しながら、楽しそうに毎日をおくっている。

 この「たまや」の向かいには、新しいもの好きの吾平が営むもち屋「RICECAKE Oh!ZEE」が店を構える。和風の「たまや」にたいして、こちらはモダンな洋風の店構え。そして豆大と吾平は、伝統を重んじるか、新しい挑戦をするかをめぐって、いつもケンカ(小競りあい)を繰りひろげている。その吾平の息子、もち蔵は幼馴染みのたまこに恋をしているが、奥手な性格が災いしてなかなか告白できない。

 いっぽう、たまこの高校の部活仲間、みどりも同性ながらたまこに対して、密かに恋心に近い気持ちを抱いていた。同じ部活のかんなはみどりの気持ちに気づいているが、余計な口出しはせずにそっと二人を見守っている。

 うさぎ山商店街では、ほかにも色々な人たちが暮らしを営んでいる。初対面の人に挨拶代わりに売り物のコロッケをあげてしまう肉屋のおばちゃん、みどりの祖父の、おもちゃ屋のハイカラなおじいさん。

 花屋の美しい店主は、どうやらトランスジェンダーであるらしい。豆腐屋のお兄さんは銭湯の看板娘のことが好きだが、純情すぎてやはり告白できずに、悶々とした毎日を送っている。

 そんな人たちが仲良く暮らす商店街に、ある年の暮れ、遠い南の島国から喋ることのできるおかしな鳥「デラ」がやってきて、北白川家に居候することになる。このデラの視点をとおして、たまことその友達や商店街の人々の交流が、一年の季節の移ろいとともに描かれていく。

 

◯「状態」を描く物語

 

 「これ、あらすじなの?」という感じの文章ですね。実際に番組を観ていた方は、もっと違和感を感じたかもしれません。

 アニメは実際にはデラが商店街にやってきたところからスタートするわけで、これはあらすじというよりは、これから物語が展開されていく作品世界がどんな設定をもち、どんな状態にあるかを説明したものです。『たまこまーけっと』というアニメの紹介としてはこういう形もありなんじゃないかな、と思って、こんな風にまとめてみました。

 『たまこまーけっと』は、「主人公が "求めるもの" にむかってA地点からX地点へと移動していく」という、線的に(リニアに)前に進んでいく物語を持ちません。『ロミオとジュリエット』の主人公カップルが「結ばれる」結末を、『風立ちぬ』の二郎が「美しい飛行機をつくりたいという夢」を求めて物語のスタートを切ったようには、たまこは動かない。

 『たまこまーけっと』は、作品の舞台である商店街にあらかじめ設定されたさまざまな人間模様を、外の世界からやってきたデラの視点で掘りおこしていくような物語です。観客の立場は、商店街の事情を知らないデラと重なります。

 もち蔵やみどりがたまこのことを好き、という「状態」は、作品がスタートする前にすでに始まっていて、各エピソードを通じて「彼らはいま、こんな状態ですよ」ということが観客に示されていく。そして、最後まで彼らの恋愛に決着はつきません。

 描かれるのは「恋がこういうふうにはじまって、こういうゴールにたどり着きました」という「線的な物語」ではなくて、「彼らの恋する気持ちが、こんなふうに作品の世界を漂っていますよ」という「状態」です。

 

◯線的な物語と、面的な物語

 

 『たまこまーけっと』の各エピソードは、物語を前に進めるためではなく、土台になっている作品世界の様相を反映するものとして機能します。

 まず「うさぎ山商店街」という作品世界、さまざまなキャラクターの性格や家業、人間関係などの「設定の集積」があり、それらの設定の「組み合わせ」によって、個々のエピソードが「読み出されていく」ようなイメージです。

 ㊤『風立ちぬ』編でみたような、「対立」や 「障害」といったポイントを通過しながら 、主人公がA →B→ C… と前に進んでいく「線的な物語」にたいして、個々のエピソードが作品世界の反映として顕われてくるこのようなタイプの物語を、ここではとりあえず「面的な物語」と呼んでみたいとおもいます。

 音楽でたとえてみると、前者が「苦悩から勝利へ」という明確なストーリーをもつベートーヴェン交響曲だとしたら、後者は情景描写を主眼においたドビュッシー交響詩、という感じでしょうか。

 あるいは、Aメロ→Bメロと徐々に高まっていった感情がサビで爆発する、という構成をもつロックやポップスに対しての、同一フレーズを反復して心地よい「磁場」をつくりだすことを目的としたファンク・ミュージックとか。

 (「ゲロッパ!」で有名な、ジェームス・ブラウン『Get Up (I Feel Like Being A) Sex Machine』なんかを思いうかべてください)。

 図にすると、こんな感じです。

 

     

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 東浩紀動物化するポストモダン』に登場した「データベースモデル」の図を思いだした方もいるかもしれないですね。あの形を参考にさせてもらいました。

 あちらはポストモダン以降の物語消費のありかたを図示したものですが、こちらの図は素朴に、「線的な物語」と「面的な物語」の違いをわかりやすく示すことに重点を置いています。

 ところで「たまこの内面のわかりにくさ」の話だったはずなのに、なんで「ストーリーの型」の話になってるの?という感じですね。

 でも、作品がどういう語り口を採用しているかと、その作品が描こうとしていることの間には、すごく密な関係があります。『たまこまーけっと』の場合はとくに。なのでもうすこしの間、この話を続けさせてください。あとでちゃんと話がつながってくるはずですので...!

 

◯線的な物語と、面的な物語(具体例編)

 

 「求めるもの」のある主人公が前に進んでいく物語、たとえば『魔法少女まどか☆マギカ』は「線的な物語」といえます。

 この作品の時間は直線的には進まず、ある仕掛けが組み込まれており、また主人公はなかなか前に足を踏み出すことができませんが(むしろ彼女が怖れを乗りこえて「主人公になる」までを描いた作品ともいえます)それでも全体的な物語としては、線的な志向をもっています。

 群像劇も、それぞれの登場人物が「求めるもの」をもっていて、全体の物語が前に進んでいくようなものであれば「線的な物語」に分類できるでしょう。ポール・トーマス・アンダーソン監督の『マグノリア』や、最近のアニメでいえば『凪のあすから』などがこれにあたります。

 いっぽう「面的な物語」の例としては『サザエさん』や、スヌーピーで有名な『ピーナッツ』等の新聞の連載マンガのアニメ化作品が真っ先にあげられます。

 また、『奥様は魔女』や『ファミリー・タイズ』、『フルハウス』のようなアメリカで制作が盛んなシチュエーション・コメディは、まさに作品に設定されたシチュエーション=「状態、状況」から各エピソードが「読み出されていく」ようなタイプの物語です(例えの古さは、筆者の年齢的な限界によるものです)。

 作家の保坂和志氏は『書きあぐねている人のための小説入門』で、自身の小説の書き方について、まず登場人物の設定(性格や趣味、職業、人間関係など)を決め、舞台となる「空間」を決め、最後に季節を決める、と説明しています。

 そこまで決まったら、あとはテーマや結末を考えずに書きだしてしまう。むしろ「テーマ」の設定や「ストーリー」を、小説の自律的な「運動」をさまたげるものとして斥けています。

 保坂氏は、自身の小説の書き方を、モード・ジャズの演奏に例えていました。コード進行(物語の枠組み)に沿ったアドリブを展開するビバップやハード・バップと、最初に音階を「設定」したあとは、そのなかの音の組み合わで比較的自由にフレーズを紡いでいくモード・ジャズ。

 この対比も「線的な物語」と「面的な物語」の関係に似ているかもしれません。

 

◯「日常系」=「面的な物語」?

 

 さて、『たまこまーけっと』が属するいわゆる「深夜アニメ」の世界で、「日常系」と呼ばれるような作品はすべて「面的な物語」のほうに分類してしまいそうになります。

 大雑把にはそう考えて良いのかもしれませんが、実際は「日常系」の中にも、「線的」な傾向をもつ作品と、より「面的」な傾向の強い作品があります。

 作中の時間が(非常にゆっくりとではありますが)流れ、登場人物の成長や関係性の微妙な変化が描かれる『けいおん!』や『たまゆら』はどちらかといえば「線的」な作品。

 いっぽう、作中で時間がループし(いわゆる「サザエさん時空」)、登場人物の成長よりは、不変の関係性やギャグの描写に力が入れられる『みなみけ』や『ゆるゆり』は「面的」寄りの作品といえます。*1

 この分け方でいくと、『たまこまーけっと』は一見「面的な物語」という側面の強い作品にみえます。作中の時間はループせずに前に進んでいきますし、そのなかで、銭湯の娘が結婚して商店街の外に出ていったり(そう、純情な豆腐屋のお兄さんは失恋してしまいます)、たまこに史織という新しい友達ができたりといった小さな変化はあるものの、全体的な物語は大きな動きをみせません。

 主人公のたまこが「求めるもの」にむかって動いていかない。これが、この作品がどこにも向かっていない=「面的な物語」である、という印象を与える最大の原因です。

 

◯主人公 < サブキャラクター?

 

 ところで「面的な物語」の図をみていると、このカタチだったら、物語は必ずしも主人公を中心に語られなくても良いんじゃないか?ということに気づきます。

 「線的な物語」のように「求めるもの」のある主人公の行動を追っていくのではなくて、設定の集積から任意の要素を抜きだして、いろいろ組みあわせたりしながら物語を「読み出していく」わけですから。

 「面的な物語」では、「線的な物語」のなかでそうであるようには「主人公」は特権的な立場を占めてはいません。

 事実『みなみけ』や『ゆるゆり』といった作品では、サブキャラクターの存在が作中に占める割合が非常に大きい。

 『みなみけ』は主人公の三姉妹抜きでエピソードが進行することも多いですし、『ゆるゆり』にいたっては、主人公の存在感のなさを、彼女を本当に透明化するというギャグにしてしまっています(そのことで逆に存在感が強調されもするので、あくまでネタの一環という部分もありますが)。

 『たまこまーけっと』も例外ではなく、この作品では、主人公よりもむしろサブキャラクターをメインに据えたエピソードが目立ちます。そして、そのなかでサブキャラクターの「求めるもの」や、それをめぐる葛藤などが描写されていく。

 たまこよりも、サブキャラクターの感情のほうがよほどきちんと描かれているような印象をうける。これは『風立ちぬ』のクライマックスで、二郎よりもむしろ妹の感情がはっきりと描かれたことを思い出させます(ふぅ、ようやくたまこの「内面」の話題にもどってきました...)。

 

  • 「求めるもの」への気持ちを通じて、主人公のたまこよりも、むしろサブキャラクターの感情がきちんと描かれる
  • しかし、そのサブキャラクターが最終的に「求めるもの」を手に入れた/入れられなかったという「線的」な物語性よりも、彼/彼女のそういう「求める気持ち」が作品世界を漂っていますよ、という「面的」な語り口が重視されている

 

 これが『たまこまーけっと』という作品の語り口です。第九話『歌っちゃうんだ、恋の歌』に、これらの特色がわかりやすく表れていますので、このエピソードを具体的にみていくことにしましょう。

 

◯『たまこまーけっと』の特色が集約された第九話

 

 第九話ではたまこの両親、豆大とひなこの高校時代が描かれます。ひなこに片想いをした豆大は奮闘、ついには彼女に捧げる曲まで作って自身のバンドで演奏します。でも、この話は過去の彼らの恋の進展をリニアに描いていくわけではありません。

 視点は現在に戻ってきて、店の仕事の合間に、しょっちゅうその曲のメロディをハミングするたまこの姿が描かれます。たまこは曲の作者が自分の父だとは知らずに、母がよく歌っていたメロディをなぞってその曲をハミングしている。

 豆大のほうも、そのメロディがあまりに原曲とかけ離れているために(ひなこはひどいオンチでした)、それがかつて自分が作った曲だとは気づきません。

 そんなたまこに寄せるもち蔵の気持ちと、たまこの妹、あんこが小学校の同級生に抱いた淡い恋心。親子二代にわたる三つの恋。いっぽう、曲の作者は誰なのか?というたまこの疑問。これら複数のエピソードが、並列に語られていきます。

 三つの恋はどれも片想いで、その結末は描かれない。豆大に関しては、後にひなことめでたくゴールインしたことは観客にもわかっているのですが、恋が成就したシーンは回想には登場しません。

 単純に考えると、豆大の告白が成功した幸せなシーン(なんならプロポーズでも)を入れれば観客をドキドキ、感動させられるし、そんなひなこを失った現在の豆大の寂しさも(多少あざとく)強調できそうなんですが、そういった場面は描かれない。

 かわりに挿入されるのは、豆大の告白に驚いたひなこが思わず逃げ帰ってしまうという、告白のコミカルな失敗シーンです。

 つまり「この恋はこんなふうに始まって、こういう結末になりました」という線的な物語性よりも、うさぎ山商店街という「場」で、そんなふうに様々な人たちの、色々な気持ちが交錯しているよ、という面的な語り口が強調されているわけです。

 サブキャラクターの過去のエピソードが登場するアニメは少なくないですが*2、それがこのような形で扱われるのはちょっと珍しいのではないでしょうか。

 この回の脚本は、シリーズ全体の構成を担当した吉田玲子さん自身が執筆していますが、さすがの筆の冴えで重層的な内容を無理なく自然にまとめています。

 

 

◯感情を説明されない主人公、たまこ

 

 さて、第九話で描かれる三つの片想いのうち、たまこだけは「求められる側」だったのがポイントです。

 豆大とあんこは「求める側」の立場で、「求めるもの」をもったキャラクターがどのように振るまうかを描写することは、そのキャラクターの気持ちの説明になります。㊤編で登場した『物語の法則』の表現をかりれば「キャラクターの心の欲求を効果的に脚色する」ことができる。

 このエピソードでも、ひなこに捧げる曲を練習する若かりし頃の豆大の一途な姿や、同級生に気持ちを伝えたいけれど、なかなか勇気が出せないあんこのいじらしさ、そんなあんこを「片想いするもの同士」としてサポートしてやるもち蔵の優しさが描かれ、観客の感情移入を誘います。

 でも、たまこは自分がもち蔵から求められていることに、気づいてすらいない。

 主人公の感情を観客に説明したければ、彼/彼女に恋をさせればよい。主人公の恋を描いた作品の例は、枚挙にいとまがありません。でも『たまこまーけっと』はそれを回避している。

 第九話でのたまこの「求めるもの」は「お母さんが好きだった曲の作者は?」という疑問への答えです。『歌っちゃうんだ、恋の歌』というサブタイトルがつけられたこのエピソードで、皆が「恋」を見ている中、ひとりだけ「歌」に執着している。見ているところが違う。

 そして歌の作者が豆大だった、ということが判明する結末で、「歌」にまつわる物語の感情的なポイントもまた、豆大とひなこの「恋」物語へと回収されていきます。

 このように、第九話には『たまこまーけっと』という作品の特異さが集約されていました。面的な語り口と、主人公よりも感情の説明されるサブキャラクター、そして対照的に、感情の説明されない主人公。

 たまこのこのような点に関しては、演じた洲崎綾さんも不安を感じていたのか(?)インタビューでこんな発言をしていました。

 

「言葉のイントネーションの高低をすごく気にしていて、とにかくたまこがヤな子に映らないように、たまこが嫌われないようにっていうことはずっと思っていて。」

(『Cut』2013年2月号)

 

 

 主人公の感情をあまり説明しない、という演出は、エンタメ系の作品としてはけっこうリスキーです。シリーズを通じてたまこはいったい何を考え、感じていたのでしょうか。

 その疑問をとく鍵は、「皆が ”恋” をみているときに、たまこだけは ”歌” に執着していた」=たまこだけ、他の登場人物と見ているところが違う、という部分に隠されていました。

 そして放映を観ていた方ならご存知だと思いますが、鍵は最終回の第十二話で、やっと観客の前に提示されます。

 

 

◯最終回でようやく提示された「たまこの物語」の「文脈」

 

 最終回、ある事情から商店街の人々は、昼間から店のシャッターを閉めてしまいます。この「シャッター通り」と化した商店街の光景を見て、たまこは激しく動揺し、彼女の口から、ひなこが亡くなったときの状況が断片的に語られます。

 ひなこの死の理由などのくわしい事情は説明されませんが、どうやら商店街の人々は、彼女の死を悼んでこのときも昼間から店を閉めたようです。その行為自体は、人々の人柄の良さ、商店街の結びつきの強さを表しているといえます。

 しかし当時まだ小学五年生だったたまこの中で、受け入れ難い母の死と、シャッター通りと化した普段と違う商店街の光景は、不吉なイメージとして一体化して定着してしまったようです。それまで過ごしてきた、母のいる「日常」の崩壊と、人気のない「非日常」的な商店街。

 第六話『俺の背筋も凍ったぜ』の冒頭に、夏の閑散期の商店街をみて、たまこが怯えた表情をうかべるシーンがありました。

 この時点では母の死にまつわる状況は説明されていないので、観客はこの表情を、その後に続く、客寄せのために催されるお化け屋敷がらみのエピソードの前振りぐらいに考えてしまいます。

 しかしこのとき、たまこはおそらく本気で死の影に怯えていたのであり、彼女の足元にはセミの死骸=死のイメージが映し込まれていました。

 シャッター通りと化した商店街の光景にまつわる、たまこの怖れにも似た感情。五年前にたまこの経験した「日常」の崩壊が、いまだにたまこに影響をおよぼしていること。

 これが『たまこまーけっと』の主人公である、たまこの感情を読み解く鍵でした。この鍵が手にはいることで、一見大した意味のないように見えた第六話のたまこの表情が、じつは非常に重い感情を表していたことがわかります。

 

「意味のある」断片を組み合わせて、「意味の通る」文脈を作り上げるのではありません。逆です。文脈が決まらない限り、断片は「無意味」なままなのです。まず「物語」の大枠が決まって、その後に現実的細部は意味を帯びるようになるのです。「知る」ということは、それまで意味のわからなかった断片の「意味が分かる」ということです。そして「意味が分かる」ということは要するに「ある物語の文脈の中に収まった」ということです。

内田樹『映画の構造分析』)

 

 

 この指摘にしたがって、「鍵」を「文脈」といいかえてもよいでしょう。これまでのエピソードでも、たまこの感情を表した行動は「外面的には」ずっと描かれてきました。しかし、観客にはその行動の意味をきちんと解釈するための「文脈」が与えられていなかった。

 「シャッター商店街」にまつわるたまこの記憶を知る前の観客にとっては、たまこの行動の「断片」は「無意味」とまではいわずとも、感情移入のし辛いものでした。どうしてたまこが、あそこまで商店街の集客に必死(ほんとうに「必死」という形容がふさわしい態度でした)になるのか、いまいち理解できない。

 いや、もち屋の娘が集客に精を出すのは不自然なことではないんですが、必死さの理由が実感として伝わってきませんでした。五年前に母を亡くした、という「情報」は第一話から提示されていたけれど、その母の死にさいして、たまこがどれほどのショックを受けたのか、という感情に色づけされた「記憶」が描かれていなかったのだから当然です。

 だから、たとえば第九話で母の好きだった「歌」にやたらと執着するたまこよりも、「恋」に悩むサブキャラクターたちのほうが、感情移入がしやすかった。

 

◯たまことひなこのコミュミケーションが描かれない不自然さ

 

 この「文脈」の不提示が意図的なものだったであろうことは、たまこと、ひなこの交流シーンが一度も描かれなかったことに逆説的にあらわれています。父・豆大と妹・あんこに関しては、生前のひなことの会話、コミュニケーションが描かれていました。

 でも主人公であるたまこだけは、全十二話のなかで会話はおろか、ひなこと目を合わせるシーンすら一度も描かれない。これはどう考えても不自然で、ほとんど異様ですらあります。

 たまこが亡くなった母を今でも強く慕っていることは、毎日お供えの花を飾ったり、「あんこ姫」という、ひなこがつけたあだ名で眠っているあんこに呼びかけたり、といった細かい描写の積み重ねできちんと示されていました。

 そしてなによりも、第一話早々にたまこ自身の口から告げられた「おかあさんの大好きだったおもちを、皆に食べてもらいたいんだよね」というセリフがある。

 にもかかわらず、当然描かれるべき「生前のひなことたまこの交流シーン」が描かれない。これを描いておけば、視聴者が現在のたまこの寂しさに想いを馳せるきっかけができます。そしてあんこと豆大に関しては(感傷的にならないように抑制されてはいますが)その描写がある。たまこに関してだけ、周到に描写が避けられています。*3

 どうして最終回まで、文脈の提示は引き延ばされたのか?それはまた後ほど考えてみることにして、ここでいったん、せっかく手に入った「文脈」を使って、たまこの行動の「断片」を「物語の文脈のなかに収める」作業をしてみましょう。

 

◯「たまこの物語」としての『たまこまーけっと

 

 北白川たまこは小学五年生のとき、慕っていた母を亡くした。

 突然訪れた、母のいる平穏な「日常」の崩壊。そしてその裂け目から顔を覗かせた「シャッター商店街の光景」という「非日常」。たまこは、それまで享受していた平穏な毎日が、じつは極めて危ういバランスの上に成りたっており、世界の底は抜けているのだ、という事実を思い知る。

 たまこは、慕っていた母がいつもハミングしていた歌のタイトルすら、自分が知らなかったことに気づく。普通に過ごしていたら、なんとなく過ぎていってしまう「日常」。そのときからたまこは、母のいなくなった「その後」の、新しい「日常」を懸命に積みあげていく。

 「たまや」や「商店街」は、その「日常」が展開していくための大切な基盤。それが時代の流れから取り残されてなくなってしまうことを、たまこは何よりも恐れている。それを防ごうと、たまこは新作もちのアイデアや商店街の客寄せ企画をつぎつぎとひねり出す。

 商店街の人々は、商店街のために力を尽くすたまこに協力してくれる。保守的な考えの父・豆大は、たまこの新しいアイデアにいつも難色を示すが、頑張っているたまこの姿をみて、結局最後には協力する。

 買い物をすると捺印してもらえる商店街のスタンプカードは、たまこにとって新しい「日常」の積みあげの象徴にまでなっている。そのカードが100枚たまるともらえるというメダルを目指して、今日もたまこは商店街での毎日を積み重ねていく。

 

◯『たまこまーけっと』の二層構造

 

 これが、最終回で提示された「文脈」をつかって、私なりに再構成してみた「たまこにとっての『たまこまーけっと』」です。最終回まで観た観客には、このような「たまこの物語」が見えてくる。

 ひなこが亡くなったのは突然の出来事だったのか、という点にはじつは「?」マークが入ります。*4第九話の学生時代のひなこ初登場シーンで、彼女は身体が弱いのではないか?と思わせる描写があるからです(この点については、㊦編でもうすこし詳しく触れます)。

 さて、たまこの抱えていたこの「文脈」は「線的な物語」として語りうるものですね。母を亡くしたことをきっかけに「日常」の大切さを意識し、それを守ろうとする少女。「日常」という「求めるもの」をもつ主人公が、「母のいなくなった世界でのあらたな日常の確立」というX地点にむけて歩いていく、リニアな物語。*5

 作品の放映中、「商店街の近くにジャスコができた!っていう設定にしたら、もっと盛り上がるのに」という声がネットできかれたそうです。この設定は「線的な物語」を前提にしたものですね。ジャスコは、あたらしい日常の確立を目指して商店街を守ろうとするたまこの前に立ちふさがる、わかりやすい「障害」です(あ、ジャスコにたいして悪意はないです、もちろん)。

 でも『たまこまーけっと』は、このような「線的な物語」となりうる「文脈」を、作品の深層に埋めてしまいまいました。そしてその上で展開されるのは、商店街の人々の交錯する人間模様という「面的な物語」です。

 作品の表層で展開される「日常」=「面的な物語」。その下に、「日常」が展開されていく基盤としての商店街を守ろうとするたまこ、という「線的な物語」が埋まっている。『たまこまーけっと』は、そのような二層構造を持っていました。

  それがはっきりと表れていたのが、第九話のサブキャラクターたちと、主人公・たまことの視線の違いでした。

 皆が表層の「日常」で展開される「恋」をみているときに、たまこだけは基盤の部分、つまり「日常」の貴重さを意識するきっかけとなった母の記憶=「歌」にこだわっている。そして、その曲の作者が父だとわかったとき、たまこは豆大にむかって「お父さんのこと、もっと好きになった」と伝えます。

 たまこの抱えていた「文脈」を第九話にあてはめてみると、「ひなこの存命中は、なにげなくやり過ごしてしまった " 母の好きな歌 " にまつわる過去の記憶を掘っていった結果、父のことをより深く理解でき、まだ生きている父にその気持ちを伝えることができた」という「たまこの物語」が浮かびあがってきます。

 

◯「面的な物語」と「線的な物語」は等価

 

 ここで注意したいのは、表層の「面的な物語」と深層の「線的な物語」のあいだに、優劣はないという点です。

 「線的な物語」のほうが、深いところに埋まっているぶん「深い」「エラい」、ということではない。作品はたまこが「日常を守ろうとする姿」ではなく、たまこが守ろうとするなにげない「日常そのもの」を描いていきます。

 なにげない「日常」の輝きを描こうとしたときに、「ジャスコとの闘い」という形で「日常を守ろうとする主人公の姿」を前面に押し出して描いたとしたらどうなるでしょうか?あるいは、最終回のたまこが皆の前で「母の死で気づいた、なにげない日常の大切さ」を声高に訴えていたら?

 そこにはエモーショナルでわかりやすい「物語」が立ち上がり、「日常」「日常」である所以の「なにげなさ」の気配はたちまちかき消されてしまいます。ほかならぬたまこ自身が「日常」の攪乱者になってしまう。

 「線的な物語」のもつ吸引力は、そのわかりやすさゆえに強力なものがあります。たまこの抱える「文脈」を最初に観客に提示してしまうと、すべてが「日常を守ろうとする、健気なたまこの物語」という一本の線に回収されてしまう。

 それを避けるために「文脈」の提示は最終回まで保留されたのではないでしょうか。

 

◯たまこと「赤シャツ」

 

 茂木健一郎は、夏目漱石の『坊ちゃん』を題材にとり、物語のなかの「日常」について考察しています。

 主人公の「坊ちゃん」を「日常の貴重さを意識しないからこそ、健やかな日常を体現できる主人公」、敵役の赤シャツを「自分は健やかな日常を体現できない、という ”痛み” をもつからこそ、日常の貴重さを意識し、坊ちゃんにある種の共感を寄せる人物」と位置づけ、作者の漱石は「赤シャツ」の立ち位置から『坊ちゃん』を執筆している、と。

 

「一見、日常に没入し、日常を空気のように呼吸しているかのように見える表現者も、その穏やかな日常がいつか終わるかもしれないことを当然のことながら知っている。日常にただ埋没しているだけの者に、日常が書けるはずがない。日常を表現する者が、日常の由来するところに対して、ナイーヴであり得るはずがない」

「坊ちゃん自身は無口である。坊ちゃん、そして日常は、戦争や災害のように声高に叫びはしない。人々にある行動を無理矢理取らせたり、特定の世界の見方を強いたりはしない。そのような事情を了解し、珊瑚礁のなかの美しい平穏と、外洋の荒々しい波の両者を見渡せる者だけが、日常を表現し得る」

茂木健一郎『脳のなかの文学』)

 

 

 たまこは、半分「赤シャツ」、半分「坊ちゃん」であるような主人公といえます。

 かつて「日常」の崩壊を経験し「外洋の荒々しい波」を見渡したがゆえに「珊瑚礁のなかの美しい平穏」としての「日常」を意識化している、という点では「赤シャツ」的。これは作品世界を俯瞰する作者の立ち位置とも重なります。

 でも、その「日常」の貴重さを「声高に叫びはしない」という点では、作品世界にどっぷりと入りこんだ「坊ちゃん」=主人公的。その折衷性は、さきに見たような作品の「二層構造」によって可能になったものです。

 

◯「うさぎ山商店街」の多様性

 

 作品はこのような構造を基盤として、さまざまな人たちの日常を描いていきます。最初の「あらすじ」にも書いたように、登場人物は非常に多彩です。

 たまこたち学生や、商店街の普通のおじさん・おばさんにくわえて、トランスジェンダーの花屋も出てきますし、第八話『ニワトリだとは言わせねぇ』に登場する婦人服店と古着屋の店主は、レズビアンのカップルである可能性を匂わせたりもします(婦人服店の店主は、古着屋の店主を「あっしのツレ」と表現します)。

 うさぎ山商店街は「外部」との交通が確保された、風通しのよい空間として描かれます。外からやってきたデラは「喋る鳥」という奇妙さにも関わらずあっという間に受け入れられてしまいますし、作品の後半では彼は外界との通信機として、さらなる訪問者を呼びこみます。

 また、銭湯の看板娘のように、シリーズの途中で結婚し、商店街から出て行く人物もいます。商店街の人々は彼女を笑顔で送り出します(作品をご覧になった方はおわかりのように、このエピソードが、のちのたまこの妃騒動の伏線となります)。

 「保守」の豆大と「革新」の吾平が、いつもトムとジェリーよろしく小競り合いを繰りひろげているのも、この商店街が多様な価値観を受け入れ、共存させることのできる場所であることを表しています。価値観の違いからときに衝突しながらも、互いの存在は否定せずに尊重しあうような間柄。

 まるで子供のケンカに見える豆大と吾平の衝突ですが、じつはこの二人は以外と成熟した関係性を築いているのかもしれません。

 そして第一話で、たまこはつかみ合いになりそうになる豆大と吾平のあいだに「ちょいとごめんなさいよ」と割って入ります。それを見て「そこ(通るのが)好きだなー」と笑うもち蔵。

 これはもちろん、多様性の基盤としての商店街を守るたまこのポジションを表していました(さらに、もち蔵とみどりの両性から好かれるという設定にも、たまこの中立性が垣間見えます)。

 商店街を守るという責務を、たまこはヒロイックに単身抱えこんでいるわけではなくて、周囲の協力をあおいでいきます。そしてそれに多様な人々が団結して取り組むことで、「日常」の基盤としての商店街が強固なものになっていく。基盤が強固になれば、さらに多様性の共存が保証される。この作品は、そのような幸福なサイクルを描いてもいました。*6

 単一の価値観で固まった基盤は一見硬そうにみえますが、ちょっとの衝撃でヒビが入ります。異なる価値観や多様な人々の共存、閉鎖的でない風通しの良さ。そのような、いわば「動的平衡」にある基盤のうえでこそ、たまこの望む「日常」は存続していくことができる。

 その多様性を描くためにも、この作品は「たまこの物語」という一本の線に回収されない「面的な物語」として語られる必要があった、といえます。

 

                    ◯

 

 ここまで『たまこまーけっと』について見てきましたが、ここからは(やっと!)『風立ちぬ』との共通点を考えてみたいと思います。

 たまこの「文脈」が、最終回まで伏せられていた理由はとりあえずわかった。でも、そういう演出はテレビで放映されるエンタメ作品としてはかなり分かりにくいものです。そこまでして視聴者のたまこへの感情移入を阻んだ理由は、他にもなにかあったのか?

 私は、そこに『風立ちぬ』で感情の読めない主人公として描かれた、二郎との共通点がある、と考えています。

(㊦編→ はてなブログ に続く)

(㊤編→ はてなブログ はこちら)

 

 

*1:強調しておきたいのは、ふたつのタイプを明確に分けることはできないということです。「線的/面的な物語」という分類は、あくまで便宜的な、物語のさまざまな分類法のなかのひとつです。より正確なイメージとしては、一本の軸の片方に「完全に線的な物語」という極、反対側に「完全に面的な物語」という極があって、その両極のあいだに様々な作品がグラデーションを形成している。そんなふうに捉えてもらえれば、と思います。

*2:たとえば、『風立ちぬ』で堀越二郎を演じた庵野秀明監督の『彼氏彼女の事情』(1998年)では、主人公の両親のなれ初めが一話を使ってリニアに描かれました。

*3:『映画の構造分析』のなかで、内田樹はこのような「物語のなかに、当然あるべきものの不自然な欠落」に接したときに観客が感じる違和感を「欠性的な抵抗感」と呼び、物語解釈の手掛かりのひとつに数えています。

*4:それでも「突然」という表現を使ったのは、たまこがひなこの歌っていた曲のタイトルを知らなかった、という事実があるからです。たまこは、ひなこの存命中はなにげない「日常」を特別なものとは考えていなかった。だから、母がいつも口ずさんでいる歌にも、とくに注意をはらっていなかった(ごく普通のことですが)。もし、ひなこの余命が残り少ないことを知っていたら、たまこは母のことをもっと知ろうとしたのではないだろうか?こう考えると、少なくともたまこにとっては、ひなこの死は「突然」の出来事だった、という推論が成り立ちます。

*5:たまこまーけっと』に先駆けて2010年にOVAが、2011年からテレビアニメが放映された『たまゆら』はそのような、「父のいなくなった後の日常を確立しようとする少女の成長物語」という、リニアな構成をもった作品でした。

*6:ゼロ年代サブカルチャーに多く見られた「ひとりの少女の犠牲や献身とひきかえに、いったん失われた世界の均衡が回復される」という物語の「次」を描いた作品、ともいえるかも知れません。