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ねざめ堂

アニメ・映画・音楽

拡散と凝縮 ~ たまこラブストーリー 感想

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 『たまこラブストーリー』BD/DVDが10月10日(金)に発売(Blu-ray & DVD:PRODUCT | 『たまこラブストーリー』公式サイト)!ということで、記念?更新です。

 『たまこま』と『たまこラ』に関しては、なにしろ好きなのでこれまでにも何度か記事を書いてきたんですが...(『たまこラ』劇場公開時、感動の赴くままに書きなぐったネタバレなし感想はこちら)。

 今回は当ブログの『たまこま・たまこラ』記事のとりあえずのひと区切りというか、今までのまとめ的なものを意識しました。

 「たまこラ感想」というタイトルですが、『たまこま』と『たまこラ』、両作品に関する記述が半々ぐらいになっています。どちらもネタバレが気になる性質の作品では全くないですが、とくに『たまこま』に関しては最終回の話題にも触れていますので、いちおうご注意ください。

 以下、感想です。

 

 

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 映画『たまこラブストーリー』は、テレビシリーズ『たまこまーけっと』の劇場版として制作されたアニメーションだ。しかし両者は、物語として正反対の性質を備えている。

 その違いを一言で表せば、『たまこまーけっと』は「拡散」し、『たまこラブストーリー』は「凝縮」していく物語だった、ということになる。これから、この両者の違いについて詳しくみていくことにしたいと思う。


◯『たまこまーけっと』 ~「拡散」する物語

 『たまこまーけっと』は一見、全体的なストーリーの「目的」や「方向性」が提示されることなく、キャラクターたちの過ごすなにげない「日常」がゆったりと綴られていく、いわゆる「日常系アニメ」の系譜に属する作品に見える*1

 従来の「日常系」よりは、登場する場所やキャラクターのバラエティが拡大された「日常系アニメ」の発展型、あるいは古典的な「ホームドラマ・ご町内ものドラマ」への回帰。

 その見方は間違っていない。しかし、作品が進むにつれて明らかになっていくのは、一見どこにも向かっていないように見える『たまこまーけっと』が、その基盤の部分に主人公の明確な「目的」を抱え込んでいた、ということだ。

                      ◯

 主人公の北白川たまこは、作中の「現在」よりも5年前に、慕っていた母を亡くしている。そのショック、そしてそのときに目にした、喪に服し「シャッター通り」と化した商店街の光景は、小学生だったたまこの心に強い印象を残す。

 人はいつか死ぬこと。「母のいた日常」が、あっけなく壊れてしまったこと。この「シャッター通り」のイメージに象徴される「日常の崩壊」は、3.11のショックを暗示してもいるだろう。

 そのときからたまこは、母のいない新たな「日常」を築くために、商店街での毎日を「かけがえのないもの」という認識をもって積み重ねていく。そのような彼女の姿勢は、たびたび挿入される商店街のスタンプカード集めや、「日常」が営まれていく基盤である「商店街」を維持するための客寄せに必死にのめり込む姿、という形で視聴者に示される。

 ストーリーアニメは、主人公が「目的」に到達するまでの道のりを描く。いっぽう、一見明確な「目的」をもたない「日常系アニメ」の体裁をそなえた『たまこまーけっと』は、じつはすでに到達した「目的」=「あたらしい日常」を、懸命に維持しようとする主人公、という「ストーリー」を抱えこんでいた。

 (これを恋愛もので置き換えれば、「カップルが成立するまでを描いたストーリー」と「成立したカップルが、関係を維持していこうとするストーリー」となる。)

                      ◯

 しかしこの作品は、「 ”日常” を維持しようとするたまこの姿」にことさらフォーカスしようとはしない。作品の表層で描かれるのは、たまこが守ろうとする「日常」の基盤=「商店街」を舞台に描かれる、多彩なキャラクターたちの織りなす人間模様、なにげない「日常」そのものだ。なぜそのような方向性がとられたのか?

 それは、作品が 「健気に頑張るたまこの姿」を前面に出してしまうと、「日常」「日常」たる所以の 「なにげなさ」が後退してしまうから、という理由からではなかっただろうか。

 「日常」はことさらにその存在を強調することなく、なにげなくそこにあるからこそ「日常」たりうる。たとえば茂木健一郎は、夏目漱石の『坊ちゃん』で表現された「日常」の有りようについて、次のように書いている。

 

坊ちゃん自身は無口である。坊ちゃん、そして日常は、戦争や災害のように声高に叫びはしない。人々にある行動を無理矢理取らせたり、特定の世界の見方を強いたりはしない。そのような事情を了解し、珊瑚礁のなかの美しい平穏と、外洋の荒々しい波の両者を見渡せる者だけが、日常を表現し得る。
茂木健一郎『脳のなかの文学』)

 

 たまこはかつて「母のいた日常の崩壊」を通じて「外洋の荒々しい波」を垣間見て、かつ現在ある「珊瑚礁のなかの美しい平穏」を守ろうとする存在だ。しかし彼女は、商店街の人々や、あるいは視聴者にむかって「日常の貴重さ」を声高に訴えはしない。

 たとえばたまこが最終回で、商店街の人々に涙ながらに「いまある日常の貴重さ」を訴えたとしたらどうだっただろうか?わかりやすいカタルシスは生まれたかもしれないが、作品が一貫して大切に描いていた、なにげない、だからこそ貴重な「日常」の気配は破壊されてしまっただろう。ほかならぬたまこ自身が「日常」の撹乱者になってしまうのだ*2

 それを回避するために『たまこまーけっと』は、「日常の維持」というたまこの「目的」を作品の基盤に埋め、その表層では、様々なキャラクターによって展開されるなにげない「日常」の人間模様を魅力的に描いてみせた。「たまこという、ひとりの少女の物語」を根底に持ちながらも、商店街、そして様々なキャラクターにむけて「拡散」していく物語が『たまこまーけっと』だったのだ。


◯『たまこラブストーリー』 ~「凝縮」する物語


 いっぽう『たまこラブストーリー』では、作中に登場するさまざまなキャラクターたちからの影響が、たまこというひとりの少女に「流れこんでいく」さまが描かれる。

 作品のテーマは「変わらないために、変わること」。『たまこまーけっと』で描かれたように、たまこは母を亡くしたあとのあたらしい「日常」を必死になって築き、維持してきた。だから、いまある「日常」が変化することをおそれている。

 そんなたまこが、高校3年生という「進路」(必然的に、現状からの「変化」と結びつく)を意識せざるを得ない時期に、幼馴染みのもち蔵から告白されたことを契機に、「変化」に向きあおうとする姿が描かれる。「恋」という大きな「変化」を、たまこは受けいれることができるのか。

 タイトルに「ラブストーリー」と銘打たれているとおり、この映画では恋のときめきやとまどい、緊張感、ときに滑稽な空回りなどがきわめて瑞々しく描かれる。しかし同時に「恋」は、作中でさまざまに描かれる「変化」のうちのひとつの形態にすぎない、とも言える。

                      ◯

 たまこ同様、彼女の周囲の友人らもそれぞれに「進路」という形の「変化」と直面しており、この作品はそんな彼女/彼らの姿を丁寧に掬いとった群像劇という側面ももっている。

 また、商店街に暮らす人々の姿も、『たまこまーけっと』と同様に、魅力的に描かれる。約80分という上映時間のなかにそれだけの要素を詰め込んだら、すべてが中途半端に、散漫になってしまいそうだが、『たまこラブストーリー』はそうなっていない。

 それは、それらの人々の姿、ちょっとした出来事や会話に至るまでのさまざまなシーンが、彼女  / 彼らの「いままでとこれから」、つまり「変化」というひとつのテーマにもとづいて組み立てられているからだ*3

 そして、それが「変化」を前に立ちすくむ、たまこというひとりの少女のなかに影響として「凝縮」していく。

 この映画では、『たまこまーけっと』で、たまこをベースにして物語が「拡散」していったのとは逆の、物語がたまこに向かって「凝縮」していくという流れがおきているのである。

                      ◯

 たまこの友人たちが「変化」に向きあい、あるいは商店街の人々がさりげなく「変化」と付きあうさまがたまこに影響していく様子は、例えてみれば、たまこというコップ、器にむかって水道の水が一滴ずつ溜まっていくようなイメージだ。

 起伏の大きなストーリーをもつ作品では、「ある出来事があって→その結果こうなって」という因果関係の連鎖で物事が前に進んでいく。

 しかし「もち蔵に告白されたたまこがどうするか」、あらすじにしてしまえばこれだけの出来事しか起こらない『たまこラブストーリー』は、そのような因果の連鎖でストーリーが進行するのではなく、もっと細かいエピソード、あるいはエピソード未満の、ちょっとした会話の断片などの集積で作品が構成されている。

 もちろん分析的にストーリーをみれば、この作品にも大まかな骨格、構造があるし、それを見いだすのも作品鑑賞の楽しみのひとつだ。しかしこの作品に関して私が強く感じたのは、そのような構造には回収できない、もっときめの細かい肌理、細部の魅力だ。

 そしてそのような細部、さきほどのイメージに則していえば、ゆっくりと一滴ずつたまこという器に溜まっていった水が、ついにいっぱいになり縁から溢れだしたとき、物語はクライマックスにむけて走りだす。それまでたまこに向けて凝縮していった、様々な人々からの様々な影響、その全重量がラストシーンにかかっていく。

                      ◯

 たまこが必死に維持しようとしていた「日常」の基盤=商店街は、金属のような固い基盤ではない。それはまるで、生き物の細胞がつねに入れ替わりながらも全体として身体の形をキープしているように、様々な人々が入ってきたり出て行ったりといった「流れ」のなかで維持されてきたものだ。

 「変化」を拒んでも、周囲の状況は時間とともに否応なく変わっていく。たとえば劇中、祖父が入院するエピソードがあるが、この出来事も近い将来訪れる「祖父の死」を暗示しており、ここでたまこがあらためて母の死を思い起こしたであろうことは想像に難くない。

 その「流れ」の中で本質的に大切なものを維持するためには、「変化」を受け入れるべき部分もある。「変わらないために、変わること」という普遍的なテーマ。たまこがそのような認識にいたる過程を、「周囲の人々からの影響の凝縮」という作用を通して描いたのが『たまこラブストーリー』だった。

 なにげない「日常」の魅力を描いた『たまこまーけっと』と、その「日常」を維持するとはどういうことなのか、を描いた『たまこラブストーリー』。

 ストーリー的には正反対のベクトルをもったこのふたつの作品は、それぞれ独立して楽しめるものであると同時に、ふたつでひとつの全体を形成する「対」になる作品でもあったのだ。

 

*1:関連記事 線的な物語/面的な物語

*2:もちろんこれは「フィクションのなかでの ”日常” の描き方」という意味で、実際に過酷な経験をした人がその体験談を語ることで「日常」の貴重さを訴えることとは、全く別問題です。言い方をかえれば、直接的な言葉で「日常」の貴重さを訴えることにかけては、フィクションは実際の「体験」に絶対にかなわない。フィクションにはフィクションなりの「日常の貴重さ」の表現の仕方があるはずです。

*3:もち蔵の告白を受けとめかねて、悄然と商店街を歩いていたたまこが、結婚して商店街を出ていった銭湯の娘と再会して元気を取り戻す描写が印象的です。いったんは商店街を出ても、頻繁に帰ってきて変わらずに過ごすその姿。変わることと、変わらないこと。同じテーマでは、肉屋の熟年夫婦のちょっとしたやりとりもじんわりと良かったですね。