読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ねざめ堂

アニメ・映画・音楽

アニメは「あらすじ」ではない 〜 『たまこラブストーリー』感想 (ネタバレなし)

 

f:id:tentofour:20140501033607j:plain

  作品の情報量が多すぎて、まだ整理がついていない状態なんですが、もう予想を超えて素晴らしかった。頭クラクラしました。

 観ている最中は、つねにスクリーンから気持ちの良い春の風がフワーっとただよってきて、観終わったあとも、映画に出てきたきれいな色彩がずーっと頭の中に残っている感じ。

 なんだかおっさんにあるまじきポエムな印象を書き連ねましたが、この作品から私が受けた感動が、あらすじ、ストーリーみたいな形で整理できるものではないんですね。

 もっと細かい描写、登場人物たちの会話や表情、しぐさ、小さなエピソードの積み重ね、風景、色の使い方、音楽…そういう細部が有機的に絡みあって、上に書いたようなものすごく気持ちの良い質感に結実している。「情報量」と書いたのは、そういう細部の情報量です。

 

◯あらすじに回収されない「細部」

  作家の保坂和志は、小説についてこんなことを書いています。

 読み終わった後に、「これこれこういう人がいて、こういうことが起きて、最後にこうなった」という風に筋をまとめられることが小説(小説を読むこと)だと思っている人が多いが、それは完全に間違いで、小説というのは読んでいる時間の中にしかない。読みながらいろいろなことを感じたり、思い出したりするものが小説であって、感じたり思い出したりするものは、その作品に書かれていることから離れたものも含む。つまり、読み手の実人生のいろいろなところと響き合うのが小説で、そのために作者は細部に力を注ぐ。

保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』)

 まず前提として、保坂和志は「小説にテーマやプロットなど必要ない。それらはむしろ、小説の自律的な運動を妨げる。構造分析されるような物語はダメだ」という姿勢をもった作家です。エンタメ系の物語作家とは真逆の立場。

 この意見をどう捉えるかは人それぞれですが、とにかくそれを、あくまでエンタメ作品、しかも小説じゃなくてアニメである『たまこラブストーリー』にあてはめるのは、ちょっと無理があるかもしれなない。それは承知しています。

 でも映画を観ているあいだ、私が考え、感じていたのは、だいたい似たようなことでした。「あらすじ」に回収されない、個々の観客の記憶と響き合う細部の豊かさ。

 

◯脚本の構造について

 ところで、映画を観る前に、私はこんな記事( 「まーけっと」から「ストーリー」へ 〜 『たまこラブストーリー』への期待と妄想 )を書きました。*1

 この記事でいっているのは、だいたい次のようなことです。テレビ版の『たまこまーけっと』は、作品の根底に「母が死んだあとの、新しい "日常" を築きあげようとする北白川たまこの物語」という「個人的ストーリー」を隠していた。でも、その「個人的ストーリー」を作品の基盤の部分に埋めてしまい、表面的には「様々なキャラクターたちの交錯する人間模様」を展開した。

 そのことでどんな効果があったかというと、作品が「北白川たまこという健気な一人の少女の物語」という一本の線、ストーリーに収束していくことを回避することができた。様々な人々が暮らす「うさぎ山商店街」という「場所」の魅力を、存分に描くことができたわけです。

 そして、そのような「多様性の共存できる場所」を描くことが、制作者が描きたいテーマの一つだった。

 この「一本の線にストーリーが収束しない」という特徴は、『たまこまーけっと』の豊かさ、魅力だったわけですが、同時にそれは、観る人によっては「なにをやりたいアニメなのかよくわからない」という欠点にもなっていた。

 それに対して『たまこラブストーリー』では、物語のフォーカスを「たまこともち蔵の恋」に絞った、ある意味「わかりやすい」単線的なストーリーが展開されるのではないか?と予想したわけです。

                    ◯ 

 この予想は、半分ぐらいは当たっていました。でも、ぜんぜん甘かった。

 たしかに『たまこラブストーリー』は、一見たまこともち蔵の恋を軸にストーリーがまとまっています。「あらすじ」のレベルでみれば、すごくシンプル。これは予告編で流れている内容なので書いてしまいますが、もち蔵がたまこに告白する → たまこはどうするか?これだけの話です。

 でも、同時に、しっかりと群像劇としての側面も描かれている。たまこに想いをよせるみどりの屈託、卒業までの残り時間に思いを馳せるかんな、進路に悩む史織。たまこやもち蔵の家族、商店街の人たちの「それまで」と「これから」。

 それらの人々の想いが、ちょっとした会話や出来事の形をとって、すごく丁寧に積み重ねられていく。これら「細部」のうちの、どれが心に響くか。それは観る人の立場によって違ってくると思います。

 そして、そのような「細部」がすべて、「たまこの気持ちの変化」に影響をおよぼしてしていく。

 恋、進路、青春の残り時間、家族など、色々な要素がこれでもか、と詰め込まれているのに、それらがたまこという結節点、この映画で彼女が抱える、あるひとつのテーマ*2に向かって収束していくので、ストーリーがゴチャついたり、慌ただしいという印象がぜんぜんない。

 むしろ、すごくゆったりとした作品に感じられます。でも、実際に含まれている要素は膨大。

 これだけの要素をぶちこんでいるのに、慌ただしくない。これは観た人たちの賞賛をあつめているポイントですが、説明的なセリフやモノローグはほとんどないのに、人々の関係性や気持ちの変化がちゃんと描写できている。そしてあれだけいる登場人物を、だれ一人としてないがしろにしていない。

 けっしてプロットが「わかりやすい形で複雑」なわけではないんですが、この脚本、演出はものすごいです。震えました。吉田玲子と山田尚子、おそるべし。

 そして、そういう難易度の高いことをじつにサラっと見せていて、「高度でしょ!」みたいな押し付けがましさは微塵もない。

                    ◯

 たまこの個人的な「ストーリー」を基盤に隠して、その上で様々な人間模様を展開していた『たまこまーけっと』に対して、様々な人間模様からの影響が、たまこというひとりの少女にむかって流れこんでいく『たまこラブストーリー』。

 そしてクライマックスは、「たまこともち蔵」の関係に、それまで積みあげた細かいエピソード、ストーリーの全重量がかけられていく。もう鳥肌ですよ。

 しかも観終わったあとは、作品に出てきたそれぞれのキャラクターたちの抱える「ストーリー」が、ちゃんと余韻として残る。やっぱり「たまこともち蔵」のストーリーだけに収束してはいかないんです。

 『たまこラブストーリー』は、構造として『たまこまーけっと』とは逆をやっているという、その方向性は想像通りでした。でも、達成のレベルが予想を超えていた。ただ単に「たまこともち蔵のストーリー」にフォーカスしてみました、なんて安易な手法じゃなかった。

 そしてこの、様々な人々からの影響が有機的に絡まりあう様は、「あらすじ」には要約できない類のものです。

 友達や商店街の人々との、なにげないやりとりや、細かい出来事が少しずつたまこの中に降り積もっていき、やがて彼女は変わる。「こうなって、こうなって、こうなりました」というあらすじには要約できません。だって重要なのは「細部」だから、「細部」を要約することはできない。

 

◯ストーリーに回収されない「映像」

 ほんとうは映像についてもいろいろ書きたかったのだけれど、長くなってしまったので、駆け足で印象だけ。この映画には、ストーリーの説明ではない、ストーリーに回収されない、それ自体が自律的に素晴らしい映像がたくさん出てきます。

 たとえば小津安二郎の映画の「空ショット」(一見ストーリーと無関係に挿入される、人物の映っていないショット)は、「解釈」や、ストーリー上の「意味」に回収しきれません。無人の廊下のショットを「これは登場人物の孤独感を表している」と解釈すればできないこともないんだけど、そういう「意味づけ」をしなくとも、無人の廊下の映像はそれだけですごく「いい感じ」です。

 そしてこの「空ショット」は、なくともストーリーを追うぶんには差し支えないんだけど、でも絶対に必要。これをカットしてしまったら、映画としての魅力は半減します。

 『たまこラブストーリー』にもそういう「いい感じ」の瞬間がたくさんあって、それらのシーンはストーリーという「意味」に回収しきれないからこそ、いっそう映画全体の豊かさに貢献している。映画が、「ストーリー」にむかって一本の線にまとまってしまうのを、映像レベルで防いでいます。

 

◯「あらすじ」では、わかりません

  だから、あらすじ、ストーリーだけを取り出しても、この映画の魅力にはぜんぜん届かない。

 「映像作品は、それを観ている時間の中にしかない」という極めて当たり前のことなんですけど、それをあらためて突きつけられた作品でした。

 上映館数がそこまで多くないですけど、もし可能であれば、これはぜひ映画館で体験してほしい作品です。映像もちゃんとスクリーン、ないし大画面テレビ向けに設計されています。スマホの画面では「あらすじ」しか伝わってきません。*3スクリーンから伝わってくる空気感、たまらないですよ。

                     ◯

  あと、これは『たまこまーけっと』のときからそうでしたが、記号的な「キャラ萌え」要素はほぼ排除されています。

 出てくる女の子たちはみんなかわいいんですが、類型的な「キャラ」じゃないんですよね。それが、作風がシリアス寄りになったことで、一層際だった感じ。

 そして、豆大がひなこに捧げた『こいのうた』の新バージョン(このアレンジがまた、とんでもなく素晴らしい)や、主題歌『プリンシプル』など、流れる曲がいわゆる「アニソン」的な雰囲気からは外れたものになっています。

 つまり「深夜アニメの劇場版」という雰囲気はかなり薄くなっていて、ふだんあまり深夜アニメに馴染みがない人でも抵抗なく観られるんじゃないかな、と。だからといって、作品として薄味になっているわけではなくて、上にくどくど書いたように、観る側がその気になれば、とんでもなく濃密な時間を提供してくれます。

 とりあえず、みどり派の私はもう1回、みどり視点でがっつり観てこないとな。うん。

 

*1:この記事で、「テレビ版『たまこまーけっと』の構造の逆をいく映画版という構想は、最初からあったんじゃないか」と書いたのですが、山田監督のインタビュー (http://tokyo-anime-news.jp/?p=23365 )を読むと、全然そんなことはなかったみたいです。すみません。むしろテレビ版の延長のような、皆がデラの住む南の島にいって賑やかにドタバタ、という案もあったとか。…それ、モロ失敗しそうなパターンじゃないですか。そうならなくて良かった…。

*2:この映画の大きなテーマが、たまこにとっては恋愛の形でおとずれた、ともいえます。ネタバレにならない程度に書くと、この作品のテーマは、以前このブログでも感想記事 (「好き」を続けていくために 〜 中二病でも恋がしたい!戀 感想 ) を書いた『中二病でも恋がしたい!戀』と共通します。「変わらないために、変わる=連関天測」のたまこバージョン。一見昔から変わらないように見えるうさぎ山商店街は、色々な人が入ってきたり出ていったりする「動的平衡」の上に成り立っているということは『たまこまーけっと』でも描かれていましたが、今回それをたまこが明確に意識します。

*3:もちろん、スマホでアニメを観るのがすべてダメというわけではなくて、たとえば『てさぐれ!部活もの』(大好き)みたいな作品は、スマホやパソコンで気軽にコメントしながら楽しめるように最初から設計されているわけです。以前 『氷菓』で考える、技術と表現の関係  という記事に書いたことがあるのですが、作り手がどんな視聴環境を想定するかによって、作品の内容は変わる。「実況向きのアニメと、そうじゃないアニメがある」みたいな話です。