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ねざめ堂

アニメ・映画・音楽

北白川たまこの孤独と、その解消

アニメ たまこまーけっと・たまこラブストーリー 京都アニメーション 魔法少女まどか☆マギカ 「日常系」について シャフト

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 わりとよくいわれることですが、『たまこまーけっと』の北白川たまこは、感情移入のし辛い主人公でした。ファンのあいだでも「サブキャラは応援したくなるけど、たまこは何考えてるのかわかんなくてちょっと不気味」なんて意見がチラホラきかれたぐらい(あ、私はたまこ大好きですよ!みどりはもっと好きだけど)。

 それはどうしてか?というのを、宮崎駿監督『風立ちぬ』との比較を通して考えてみたのが、この長~い記事(『たまこまーけっと』と『風立ちぬ』 3.11以降の主人公たち ㊤ )なんですが、それが『たまこラブストーリー』でどう変わったのか?をもういちど、物語構造の検証を通して再確認してみたい、というのが今回の記事の主旨です。

 『たまこま』の構造を確認するうえで、今回は『魔法少女まどか☆マギカ』と比較しています。『まどマギ』『たまこま』『たまこラ』のネタバレを含みますのでご注意ください。あと、以前に書いた記事と内容的に重複する部分もけっこうありますが、整理/再確認的な文章ということでご容赦ください。

 それと今回、9千字超えてしまってます...。

 

◯物語とキャラクターの「ズレ」

 『たまこま』でのたまこが、「よくわからない」キャラクターだった理由を最初にざっくり書いてしまうと、

 「 ”日常系アニメ” 的な構造の『たまこま』のなかで、たまこだけは ”ストーリーアニメ” を生きていたから」

  ということになります。

 「ストーリーアニメ」と「日常系アニメ」の物語構造の違いについては、「線的な物語/面的な物語」という言葉をつかってこれまでにも何度か書いたことがありました(関連記事 線的な物語/面的な物語 )。

 両者の違いをまたもやざっくり書いてしまうと、

・ストーリーアニメ(≒線的な物語)は、「求めるもの」に向かっていく主人公の姿を追って物語が展開する

・日常系アニメ(≒面的な物語)は、さまざまな要素・設定(キャラ、舞台、季節、イベントetc.)の組み合わせで物語が展開する

 という感じです*1。(うわ、ほんとざっくり。後ほどもうすこし細かく触れますので…)

 両者の大きな違いは主人公がストーリーに占めるウエイトの大きさで、「線的な物語」は主人公の姿を追って展開するので、当然主人公中心。でも「面的な物語」は、各要素の組み合わせによってストーリーが作られるので、必ずしも主人公がいなくてもエピソードが成立するんですね(\アッカリ~ン/ )。

 それで、キャラクターとしてのたまこは「求めるもの」を追いかけるという「線的な物語 ≒ ストーリーアニメ」を生きる存在なんですが、『たまこま』という作品は「面的な物語 ≒ 日常系アニメ」として展開されている。この「面的な物語」の視点からみると、たまこの在り方は「見えにくい」、というズレが生じます。だから『たまこま』でのたまこは「わかりにくい」。

 と、まずは一気に骨子だけ書いてしまったんですが、ここからもう少し丁寧に上記の内容をみていきたいと思います。まずは、「線的な物語」を生きているたまこの「求めるもの」は何だったのか?の再確認から。

 

 ◯3.11以降の「メタ日常系アニメ」

 『たまこま』は、「日常系アニメ」の大ヒット作『けいおん!』スタッフたちの、「震災を通過したあとに、どのような日常を描くべきなのか?」という自問が作品の構造に反映された、「”日常系アニメ” を作ることについての、メタ日常系アニメ」という側面をもった作品でした(関連記事→ 「メタ日常系アニメ」あるいは「共同体アニメ」としての『たまこまーけっと』)。

 たまこには、小学5年生のときに母・ひなこを亡くし、そのときにうさぎ山商店街が「シャッター商店街」になってしまったことに強い怖れを抱いた、という過去があります。

 近しい人が亡くなり、それまで当たり前だと思っていた平穏な商店街での「日常」が、「シャッター商店街」にガラリと変容してしまう。これが3.11のショックを暗示している...というのは、それほど無理のある解釈ではないと思います。

 最終回で、再び出現したシャッター商店街にたまこは怯えますが、そんな中で平常通り営業する「たまや」に救われる。実際、震災のときにも、営業が困難な中で店をあけている(=日常を継続しようとしている)人々がいて、ニュースでも取り上げられたりしましたが、この場面の「たまや」はそういったエピソードを想起させます。

 宮崎駿監督のインタビューでの発言。

「その人たち(引用者註:宮崎監督の住む地域で、商店を営んでいる人たち)は、震災後も、計画停電の時も、ちゃんと商売やってましたよ。早く起きたりなんかしながら。それで僕はものすごく助かったんです。精神的に助かりました。同じ風景を持続しようとしている人たちがいるってことで」

(『Cut』2011年9月号)                      

                   ◯

 たまこは、失われてしまった「ひなこのいたうさぎ山商店街」(≒3.11以前の「日常」)をひきつぐ、あたらしい「ひなこのいないうさぎ山商店街」(≒3.11以降の「日常」)を、必死に維持しようとする。この「日常の安定」が、『たまこま』でたまこが「求めるもの」でした。

 たまこが物語のなかで、異様な執着心で商店街を盛り上げる企画にこだわったり、夏枯れで人気のなくなった商店街を見て怯えた表情を見せたりする(第6話冒頭 )のは、その必死さの表れでした。「日常」が営まれていくためには、「日常」の「基盤」である商店街が存続しなければならない。

 たまこの意識は、常に「基盤」の維持にむいています。それに対して、たまこ以外のキャラクターたちは、自分たちの拠って立つ「基盤」を疑わずに、その上でそれぞれの生活=「日常」を営んでいる。

 第2話の終盤、たまこに熱い視線をおくるみどりの気持ちを察したように、かんながこんなセリフを言っていました。

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「たまちゃんは、商店街に夢中だね」

 かんなちゃん、よく見てます。上の画像に顕著なように、視線のむいている方向が、たまことそれ以外のキャラクターでは違うわけです。これを図に表すと、こんな感じです。

 

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 この視線のズレを作品の「外側」、制作者の立場からみると、たまこは「3.11のあとに、どのような日常を描くべきなのか?」と自問しながら、アニメで「日常」を描こうとする制作者と、半ば視線を共有する「半メタ・キャラクター」のような立ち位置を与えられている、という見方が可能です。

 そして、それ以外の人物は『たまこま』という作品の内側にすっぽりと含まれた、通常の「キャラクター」。

 ここにひとつ、たまこの孤独があります。『たまこま』は、アニメの制作者と視線を半ば共有するたまこが、「日常系アニメ」が成立する「基盤」をなんとか維持しようとする「”日常系アニメ” を作ることについてのアニメ」というメタな側面があるんだけれど、作品内でその「基盤」への視線を共有するキャラクターはいない、という孤独。

 

魔法少女まどか☆マギカ

 このような「物語を成立させることについてのメタ物語」という観点からも見ることができる作品はいろいろありますが(エンデの『はてしない物語』とか)、ここで比較例として登場させたいのは『魔法少女まどか☆マギカ』です。

 なんだかこのブログでは、ことあるごとに『まどマギ』が出てくるんですが、それだけ大好きな作品であるというのと、かつ「ゼロ年代の総決算」と言われたりもするように、物語の構造が非常に整理されているので、例えとしてわかりやすい。ので、つい頼ってしまいます。

 さて、『まどマギ』はストーリーアニメ≒「線的な物語」でした。

 「線的な物語」がどのようなものかをさっきよりは丁寧に見てみると、スタート地点(A)から、主人公が「求めるもの」のある地点(X)に向かっていく過程を描く物語。その過程で、B,C,D…といった様々な試練が主人公を襲う。いわゆる一般的な「物語」の形式です。

 

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 『まどマギ』の主人公、鹿目まどかの「求めるもの」は、「人の役にたつこと」で、彼女は最終的にその目的にたどり着く。その過程が『まどマギ』で描かれた「物語」である。と、作品の「内側」=キャラクターに寄り添った視点からは言えます*2

 

◯ 「魔法少女アニメを成立させること」についての魔法少女アニメ

 ここでちょっと作品の「外側」に目を転じてみましょう。脚本の虚淵玄は、田中ロミオとの対談のなかで、『まどマギ』は「魔法少女アニメ」が成立するようになるまでの過程を描いたアニメだ、と話しています。

魔法少女ものという世界を成り立たせるためには、まずその世界にご都合主義がなければ成立しないと思うんですよ。いくらお化けが暴れたって人死にも出ないし希望も徹底して確保されている世界。それを、そもそもご都合主義が書けない自分が書くにはどうすればいいんだろうと考えた結果として、じゃあご都合主義が誕生する話にしようって思ったんです。だから、主人公自らがご都合主義という概念に成り果てることによって、この世界は魔法少女の世界になったのだ、という話にしたと。」

ユリイカ 2011年11月号増刊 『総特集 魔法少女まどか☆マギカ』)

 『まどマギ』は、終盤近くまでは、容赦なく魔法少女が死んだり、魔女になっていったりする過酷な世界を描きます。最終的に魔法少女たちが不幸になるしかない、ウロブッチャーが快調に仕事しているこのような世界の成り立ちを、仮に「旧・魔法少女システム」とします。

 魔法少女たちは、システムの内側からプレイヤーとして反抗を試みますが、相手のルールに乗っ取っている以上どうあがいても勝てない。

 そして最終話、まどかは自分自身が「アルティメッドまどか」→「円環の理」という「システムそのもの」になることによって、魔法少女たちを不幸にする現行のシステムを上書きしてしまう。まどかは常にシステムの「外側」にいるんですね*3。 システムのメタポジションに立った奴が勝つ、というのが『まどマギ』のルールで、かくして「旧・魔法少女システム」→「新・魔法少女システム」への移行がおこなわれます。

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 「システムの改変/再定義」という観点から『まどマギ』の物語を図にすると、こんな感じです。A地点の「旧・魔法少女システム」から、X地点の「新・魔法少女システム」への移行を描いた物語(関連記事 サリーと鹿目まどか , トム・ヨークと堀越二郎 〜『モンスターズ・インク』感想 )。

 さきほどの虚淵玄の発言に沿った見方をすれば、まどかが虚淵玄と視線/意図を共有するメタ・プレイヤーになって、「魔法少女もの」が成立するための「ご都合主義」=「新・魔法少女システム」を構築する、という「 ”魔法少女アニメを成立させること”  についてのメタ魔法少女アニメ」だった、ということになります*4

 

◯たまこというキャラクターの「わかりにくさ」 

 「 ”日常系アニメ” を作ることについてのメタ日常系アニメ」だった『たまこま』に話を戻すと、この作品も、「ひなこのいたうさぎ山商店街」≒「3.11以前の旧・日常系アニメ」から、「ひなこのいないうさぎ山商店街」≒「3.11以降の新・日常系アニメ」への移行、という構造を含んでいました。

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 ただし『たまこま』の場合は、第1話の時点ですでに出発点A=「旧・うさぎ山商店街」から、到達点X=「新・うさぎ山商店街」への移行がすでに完了しており、たまこはそれをなんとか守ろうとしている状態です。

 ラブストーリーで例えると、『まどマギ』は「カップルが付き合いはじめるまでの紆余曲折」を描いた作品。いっぽう『たまこま』は「カップルが付き合い始めてから、いかに愛情をキープするか」を描いた作品です。到達点と書きましたが、別の見方をすれば、たまこは「商店街を守る」という目標(X地点)に向かって歩き続けている、ともいえる*5。「線的な物語」を生き続けているわけです。

 でも『たまこま』で表面的に展開されるのは、「求めるもの」に向かう主人公の姿を追う「線的な物語 ≒ ストーリーアニメ」ではなく、さまざまなキャラ、要素などの「設定」の組み合わせによってエピソードが構成される「面的な物語 ≒ 日常系アニメ」です*6

 

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 ...なんか今回、図が多すぎて逆にわかりにくくなっているんじゃないか?という感じもしてきましたが、気を取り直して。

 このような「面的な物語」として展開されるエピソードからは、「求めるもの」に向かっているたまこの姿=「線的な物語」性は認識しにくい。つまり、たまこというキャラクターは「わかりにくい」。

 ここにも、たまこの孤独があります。たまこは「求めるもの」に向かう「線的な物語」の主人公なのに、『たまこま』という作品はそのような彼女の姿にも、彼女の「求めるもの」にも「あえて」フォーカスせず、あくまで「面的な物語」のフォーマットでストーリーを展開している(言い方を変えれば、「面的な物語」の見方で世界を切り取っている)。「面的な物語」の中で、ひとり「線的な物語」のキャラクターである、という孤独。

 

◯うさぎ山商店街の魅力と、たまこの孤独

 なぜ「あえて」そのような操作がされたのかについては、冒頭にリンクをあげた『風立ちぬ』絡みの長~い記事に書たんですが、ここではひとつだけ。うさぎ山商店街は、多様な価値観を持った人々がときに衝突したりしながらも(保守の豆大と革新の吾平が代表)、根本からお互いの存在を否定することはせずに、協力して暮らしている場所です。

 「震災を経験して、共同体は壊れていって、タコツボ化した価値観同士の泥沼的なバトルが繰り広げられるいまの日本で、どのような日常の形を描くべきか?」という問いを突き詰めた結果、このような「開かれた、多様性の共存できる地域共同体」の像が浮かんできたのではないか。

 そして『たまこま』という作品が、共同体が形成されるまでの「過程」を描いたり、それを守ろうとしているたまこの姿にフォーカスした「線的な物語」ではなく、「面的な物語」として展開されたからこそ、そのような共同体の魅力的な姿を存分に描くことができた、ということは言えると思います。

 ロックの名曲的にいえば、理想に到達する「方法」の提案ではなくて、理想の「ビジョン」を提示することで、まずは理想に近づくための「基盤」を作ろうとする『イマジン』的手法?

 ただし、ジョン・レノンがその内に闇を抱え込んでいたように、『たまこま』という作品も、ただ明るい理想を描いているわけではなくて、「傷」や「孤独」を内包しているという点は見逃せません。

 たとえば第1回で、母の死についてたまこは「もう大丈夫だから」と明るく笑っていますが、最終回でシャッター商店街を見て、やはり動揺してしまう。彼女はまだ母の死から完全には立ち直っておらず、その傷は作品の中では癒されず、その苦痛が他のキャラクター(や視聴者)にむけて、あからさまに告白されることもない。たまこはこれからも孤独にその苦痛に耐えていくのでしょう。

「みんな絶対に孤独な時間があって、孤独な思いをしてて。もうどうしようもないぐらいの時もあると思うんですけどね、それを見せたがる主人公ではあってほしくなくて」

山田尚子監督インタビュー 『Cut』2013年2月号 )

 

◯視線の「ズレ」

 さて、必死に「新・うさぎ山商店街」という「基盤」を守ろうとするたまこ。

 でも彼女は、「基盤」への視線は持っていますが、同時に立場としては、他のキャラクター同様、「基盤」の上にしか存在できません。視線はメタ・キャラクター的なのに、立場は「基盤」から離れられないいちキャラクター。最初に「半メタ・キャラクター」と書いたのは、そういう意味もあります。

 つまり、「基盤」をキープするために、鹿目まどかのような特別な力を行使することができない。そこで彼女は、商店街を盛り上げるための企画に人々を巻き込んでいく。周囲に協力を仰ぐわけです。

 『まどマギ』は、強大な力を持った個人が「最終責任者」になって、大きな負担を抱えることで世界を支える「基盤」を維持する、というゼロ年代的な物語でした。完璧なシステムというものはないので、世界が維持されていくうえでは、必ずどこかに無理がかかるよね、というシビアな認識が強調されていて、この構造は、同じ虚淵玄がシリーズ構成を担当した『サイコパス』にも共通します。

 いっぽう『たまこま』は、「基盤」を維持するコストを一人でかかえこまずに、共同体の皆で分散しよう、という方向性。余談になりますが、虚淵玄が関わった作品でいうと、『彗星のガルガンティア』はそちらの方向に舵をきった作品でした。ロボットを操縦することで強大な力をもち、世界の命運を左右する特権的なポジションにいた主人公が、いち個人として共同体に迎え入れられる物語。

                    ◯

 日常の「基盤」を維持しようとするたまこに、うさぎ山商店街の人々は協力してくれます。それは何よりも、たまこが率先して、必死で商店街を盛り上げようと頑張る姿を示しているから。

 たとえば、第2話『恋の花咲くバレンタイン』(感想)で、商店街でのバレンタイン企画を盛り上げようとするたまこに、保守的な父・豆大は最初は反対します。でも、たまこが必死で、着ぐるみまで着て緊張でガチガチになりながらも商店街のPRビデオを撮影する姿を見て、豆大はたまこに協力しはじめる。いわば、たまこの人徳です。

 ただ、ここに、先ほども指摘した視線のズレがあります。たまこの視線は「日常の基盤の維持」に向かっているのに、商店街の人々の視線は「頑張っているたまこ」に向いている。

 進んでいる方角は一緒なんだけど、目的が違うんですね。『侵略!?イカ娘』のOP曲(『HIGH POWERD』)の歌詞に、「君と(わたし)ともに進め 目的が違うって内緒」っていう部分があって、こういう曲にさらっと人と人のあいだの距離を入れてくる畑亜貴さんさすがだなー、と感動したんですけど、まさにそういう状態です。

 それはぜんぜん悪いことではないんだけど、『たまこま』という作品のなかで、たまこというキャラクターにどこかしら孤絶感がつきまとっていたのは事実でした。同時に、そこが『たまこま』に奥行きのある魅力を与えていたというのもまた、本当なんですが。

 

◯視線の「一致」

 ここでようやく話題は『たまこラブストーリー』に移ります。(ふう…)

 『たまこラ』は「ラブストーリー」のタイトルが示す通り、ストーリーアニメ≒「線的な物語」です。つまり作品の「外側」から構造的にみれば、『たまこま』ではひとり「線的な物語」を生きていたたまこに、他のキャラクターたちが合流した形。

 いっぽう、作品の「内側」、キャラクターたちに寄り添った視点でみてみると、「基盤」の維持という大きな目標に気をとられがちで、等身大の高校生としての感覚がお留守だったたまこ(これは恋愛面での圧倒的な鈍さ、という形で表れていた)の視線が、もち蔵の告白によって、力技で目の前の恋愛に向けさせられるという物語。

 『たまこま』でのたまこにはちょっと倒錯があって、「日常」を大切に思うあまり、その「日常」の「基盤」を守ることに意識が行き過ぎて、結果目の前の「日常」から意識が逸れていたような部分がありました。「半メタ・キャラクター」的な視線を持つが故に、「日常の物語」に没入しきれていない状態。

 そんなたまこが、もち蔵の告白によって、作品内の「いちキャラクター」のポジションに引きずり下ろされた形です。ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』でいえば、それまで天上界でメタ視点をキープしていた天使が、恋によって地上(=一回性をおびた「物語」)に叩き付けられた...という状況。

 このときに戸惑って焦りまくるたまこがめちゃくちゃかわいいんですが、ここでたまこはついに完全に「物語」の中に入っていって、他キャラクターとの視線のズレが解消される。『たまこラ』で、たまこはもう孤独ではない。

 (もちろん、物語の構造として孤独でなくなったということで、さきほど書いたような生きていく上での孤独感はずっとついて回るでしょう。それは他のキャラクターたちも同様です。)

 

◯連関天則的気づき

 たまこは、やっとのことで確立した「ひなこのいないうさぎ山商店街」での「日常」を、そのままの形で保とうとするあまり、極端に変化を恐れていました。でも、視線をあらためて周囲に向けたたまこが気づいたのは、「うさぎ山商店街」が固定的な「基盤」ではない、という事実です。

 人間の細胞は毎日大量に入れ替わり続けていますが、それでも身体は同じ形をキープしている。身体は静的な存在ではなくて、つねに動的な流れの中にあるというイメージを「動的平衡」と呼ぶそうですが、「うさぎ山商店街」もそのような「動的平衡」にある。

 そして、その流れというのは、具体的には人と人との「あいだ」のやりとりとか、商店街の内と外での、人の入れ替わり。

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 この「流れ」、とくに商店街の人の入れ替わりは『たまこま』でも強調して描かれていました(例...第7話感想)。『たまこラ』で変化を前に戸惑うたまこが、元気を取り戻すきっかけのひとつも、『たまこま』で結婚して町内を出て行った銭湯の娘(里帰り中)に再会したこと。いったん町内から出ていっても、商店街を好きな気持ちは変わらず、リンクはむしろ外に向かって広がっている。

 全ては流れの中にあって、流れの中でこそ物事の本質をキープすることができる、という「連関天則」的な気づき(関連記事 「連関天則」の意味するもの 〜中二病でも恋がしたい!戀 感想② )。

 この流れの中にたまこも入っていくことができた、という物語が『たまこラ』だった。という言い方もできると思います。

 

◯むすび

 というわけで、たまこ的には本当に『たまこラ』があって良かったというか、『たまこま』と『たまこラ』はお互いに補いあって、それぞれの物語の「型」でしか描けないことを描いていたんだなー、という思いをあらたにした次第です。

 「毎年、その季節ごとに観たくなる映画」の個人的なリストを持っている人は多いと思うんですけど、『たまこラ』は、小津安二郎の『晩春』や、岩井俊二の『四月物語』(←うるさ型のシネフィルがなんといおうと好きだ!)と一緒に「春の名作映画リスト」にばっちり入りました。

 まだ円盤も出ていないのに気が早すぎるけど、来年の春に観るのが楽しみ。

 

 

*1:いつも同じことを書いてしまうのですが、「日常系アニメ」のなかにも「線的な物語」=「ストーリーアニメ」寄りの展開のものはあります。あくまで全体的な「傾向」の話として受け取っていただければと思います。

*2:いっぽう、ほむらを主人公として見ると、彼女は「まどかを守る」という目的地=X地点に辿り着けずに、逆にまどかの犠牲のもとに守られる側になるという、思がけないY地点にたどり着いた。まどかは納得したうえでその立場にいるんですが(まどかがその立場につくことを納得するまでのプロセスが『まどマギ』の物語)、まどか愛をこじらせてヤンデレ化したほむらが「こっちは納得いかねぇよ!」というのが『叛逆の物語』でした。

*3:まどかが早い段階で契約して魔法少女になってしまったときは、いつもバッドエンドに行き着いてしまいます。

*4:ただ、数々の『まどマギ』スピンオフ作品のベースとして採用されているのは、むしろ「ご都合主義」が成立する前の過酷な「旧・魔法少女システム」というねじれが面白いです。

*5:「たまこまは、商店街の近くにイオンが来た!っていう話にすれば盛り上がるのに」というネタがありましたが、目標に向かって歩き続けるたまこの姿=「線的な物語」を強調しようとする場合なら、そういうストーリーもありだったかもしれません。ちょっとイージーすぎて恥ずかしいけど。

*6:「近しい人を亡くしたあとの日常を築いていく主人公の物語」をストレートに出した近年のアニメとして、『たまこま』でシリーズ構成を担当した吉田玲子も脚本家のひとりとして参加した『たまゆら』があります。とくに1期では、明確に「父の死を受け入れていく主人公の姿」を中心にした「線的な」ドラマづくりがされており、登場人物の感情も心情セリフなどで明快に表現されていました。『たまゆら』を(かなり)屈折させたような作品が『たまこま』と言えるかもしれません。