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ねざめ堂

アニメ・映画・音楽

『氷菓』で考える、技術と表現の関係

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 きのう、4月28日は、大好きなアニメ『氷菓』の主人公、折木奉太郎君の誕生日だったそうです(どうせなら間に合わせてアップしたかった)。小説『ふたりの距離の概算』では、けっこうハラハラな誕生日を過ごしていましたが、今年はどんな感じだったんでしょうか?

 ところでこの『氷菓』、地味な佇まいではあるけれど、画期的な作品だったと思います。「アニメ表現の領域を拡大した」といってもいいくらい。

 どういうことかというと、『氷菓』の原作小説は登場人物の曖昧で割り切れない感情を扱っていて、その曖昧さが魅力なんですが、昔の技術ではあの雰囲気のアニメ化は無理だったと思うんです。

 もっと謎解きやラブコメのエンタメ感を強調した、アクションが派手で、キャラクターたちの感情がくっきりとわかりやすい、ぜんぜん雰囲気の違う作風にアレンジされていた可能性が高い(そっちの方が観たかった、という意見もあるかもしれませんが、そういう作風ならわざわざ『氷菓』じゃなくても…)。

 「青春は、やさしいだけじゃない。痛い、だけでもない。ほろ苦い青春群像劇。」というのが『氷菓』のキャッチコピーでしたが、あの作品のキャラクター達が見せてくれた曖昧で多様な感情のグラデーション(=ほろ苦さ)は、いまの技術だからこそ描けたものだと思います。

 というわけで、今回は『氷菓』を題材にして、技術と表現との関係について考えてみたいと思います。アニメの話に入るまえに、下準備として、まずは音楽の話題から。

  

◯楽器の進化と、音楽の変化

 3月まで、E テレで『スコラ 坂本龍一 音楽の学校  (シーズン4)』という番組をやっていたんですが、その中で面白い話題が出ていました。

 

                    ◯

 

 琵琶法師が物語に節(ふし)をつけて、琵琶の伴奏とともに歌うように語る、という、日本に古くからあった「語り」の文化。そこに、琉球からあたらしい楽器、三線(さんしん=のちに三味線に進化)が入ってきた。

 この三線のネックには、琵琶のようなフレット(指板の区切りみたいなやつ)がありませんでした。そのため、それまで出せなかった半音なども出すことができ、この音の多様化に呼応して「語り」の節もしだいに複雑になっていった、とのこと。

 

                      ◯

 

 よく「必要は発明の母」なんていいますよね。「ああ、火をたかなくても暗闇を照らすことができたらどんなにか便利なのに!」という必要性、欲求から電球が生まれた、みたいなイメージ。私は、芸術分野に関しても「まず先に表現したいことがあって、その表現欲求に応える形で新しい技術が生まれてきた」みたいなイメージを素朴に抱いていました。

 もちろんそういった場合もあります。でもどうやら、逆のパターンのほうがずっと多いらしい。まず新しい技術(=容れ物)ができて、それに合わせた表現(=中身)が形づくられていく。三線の導入にともなう、「語り」の複雑化のエピソードはその一例です。考えてみれば、技術を発明する人と表現をする人は別である場合も多いので、これは自然なことですよね。*1

 こう考えると、表現にとっての「技術」の進歩とは、人間や動植物が生きるうえでの「環境」の変化みたいなものなんですね。環境の変化に適応して、表現のほうが変化していく。*2

 このような技術と表現との関係について、具体例をあげながら見事に説明しているのが、この動画です。(YouTubeに字幕つきがなかったので、こちらのリンクで)

 

      

 

 元トーキング・ヘッズデヴィッド・バーン(もうソロのキャリアの方が長いので、こう呼ぶのも失礼?)が、TEDに出演したときのスピーチ。演奏会場(環境)と、そこで演奏される音楽(表現)との関係について話していて、ものすごく面白くて引き込まれます。

(観なくてもこの記事を読み進めるにあたって差し障りはありませんが、音楽好きな方にはとてもお薦めな動画です。) 

 

◯デフォルメされた「絵」だからこそ語れる「物語」

 いま挙げたのは音楽の例でしたが、「技術と表現の関係」という意味ではアニメも変わりありません。

 アニメ(や、漫画)は、あたり前ですが「絵」によって表現されます。「絵」でキャラクターや風景を描く場合、現実をそのまま実写のように紙の上に引き写すのは不可能なので、さまざまな要素の取捨選択がおこなわれます。どの線を捨て、どの線を残して強調するか?という単純・極端化=「デフォルメ」です。

 デフォルメされて描かれたキャラクターや風景は、現実のそれよりも単純ですが、その分明快な表現がしやすくなります。たとえばキャラクターの怒った顔を表現するとき、人間の役者よりも絵のほうがわかり易く「怒っている」表現ができる。顔を真っ赤に塗りつぶしてもいいですし、もっとまんがチックに、怒りの記号(漫符を頭に描きいれてもいい。

 このような、デフォルメされた絵によって物語を描くアニメは、くっきりとした感情表現や、現実を飛躍した設定の描写を得意とします。ロボットや魔法少女が縦横無尽に活躍する架空の世界。そのなかで、キャラクターたちは現実の人間以上に思いきり怒ったり、笑ったり、悲しんだりする。

 あるいは『アルプスの少女ハイジ』のように日常を扱った作品でも、キャラクターの感情の動きは非常にくっきりと描かれます。これはアニメだからこそ説得力をもつ表現であり、強みです。

 アニメや漫画を原作にして、人間の役者をくっきりとした「キャラ」のように扱って撮影された実写映画やドラマは…残念な出来のものも多い気がします。人間が「キャラ」を演じるのは、やはりけっこう難しい。

 一概に実写化が悪いとはまったく思いませんが、実写にするならそれ相応の、作品を「写実」寄りにひきよせる操作が必要になるのかもしれません(それをきっちりやっている石井克人監督の『鮫肌男と桃尻女』とか、三池崇史監督の『殺し屋1』などは、作品として成功していたと思います)。

 

◯いまの技術だから可能になった『氷菓』のアニメ化

 やがてアニメの技術が発達してくると、より精密な描写が可能になってきます。人物の細かい表情や仕草、リアルな背景。撮影や視覚効果などの技術も発達して、湿度が高かったりカラっと晴れていたりといった、画面の中の空気感まで細かく表現できるようになる。

 絵の具に例えてみると、昔は「赤」なら「赤」一色しかなかった状態です。だから、リンゴを描きたいと思ったら、輪郭とか、せいぜい表面の光沢を白抜きで表現することぐらいしかできなかった。もちろんそれはそれで、写実とは違う面白さがあります。

 でも、技術の進歩でパレットに「赤」のバリエーションが増えました。緋色、桜色、煉瓦色…。そのおかげで、リンゴがどのぐらいの熟れ具合なのか、もしかしてまだちょっと酸っぱそうなのか、という微妙な表現ができるようになった。

 そうした環境が整って、やっとアニメ化が可能になったのが『氷菓』の原作小説、米澤穂信の「古典部シリーズ」でした。

 読むとわかるのですが、「古典部シリーズ」は「小説」と「ライトノベル」の中間を行くような作風です。登場人物たちの非常に曖昧で、それ故にリアルな感情を扱っている点では小説的。しかし同時に、彼らは適度に「まんが・アニメ的」な、デフォルメのきいたキャラづけをされた存在でもあります。

 たとえばヒロイン、千反田えるの口癖「わたし、気になります!」。これを人間の役者が言うところを想像してみてください(画面にむかって身を乗り出すアクションつきで)。 わざとらしくて、これはけっこう恥ずかしい。

 つまり「古典部シリーズ」は、「アニメ化するには感情描写がリアルに複雑・曖昧すぎるし、実写化するにはキャラづけが濃すぎる」という、映像化には向かない題材だったわけです。

 最初にこの作品のアニメ化を持ちかけたのは角川だったのかもしれませんが、京アニ側にも「今の技術ならできる!」という勝算があったのではないでしょうか。*3

 

◯むすび

 以前ネットで、ベテランの漫画家と若手漫画家による論争が行われているのを見かけた事があります。

 若手漫画家のほうは、背景に写真をフォトショップで加工したものを活用していて、ベテランの漫画家はそれを「まんが的想像力を殺す行為」として批判していました。

 これもまた「技術と表現の関係」の問題で、どちらの意見もわかる。私はたまたまその若手漫画家の作品を読んだことがあり、精密な描写でなければ描けない微妙な感情の領域を描いていることを知っていたので、このときは彼のほうに軍配をあげました(心の中でひっそり「がんばれ〜!」と思っていただけなんですけど)。

  音楽でも同じようなことが起こっていて、最近のポップ・ミュージックの世界では、プロ・ツールスやオートチューンなどのソフトを使って、演奏やボーカルの不安定なところを修正するのが普通になっているそうです。それに対して「アンチ・オートチューン」の姿勢を打ち出してるミュージシャンもいる。

 これも使い方で、たとえばコーネリアス(『攻殻機動隊ARISE』のサントラ、かっこ良かったです)のように、生楽器の演奏をソフトで徹底的に編集して、デジタルなジャスト感を出す、というような「その技術があって、はじめて可能になった表現」に自覚的な使い方は素晴らしいと思います。

 以前の記事( 日常系アニメこそ作画が命、という話 )にも書いたことがあるのですが、手書きにせよ、3Dにせよ、フラッシュにせよ、技術と表現との関係に自覚的な作品がやはり好きです。

 

◯おまけ 

 コーネリアス『Sensuous』(2006年)から『Fit Song』。

 楽器の残響音をばっさりと切り落として、音の鳴った次の瞬間には完全無音になったりするのもデジタルならでは(アナログ録音では「完全無音」はありえないので)。アート・リンゼイは、小山田圭吾の「無音」と「有音」の使い分けを、「彫刻家がなにもない空間に作品を配置していく様を思わせる」と評していました。

 


CORNELIUS - Fit Song - YouTube

 

*1:逆に、表現欲求から技術が生まれる場合。ウォルト・ディズニーは『ピノキオ』(1940年)のオープニング数秒間の映像に美しさと奥行きを求めた結果、莫大な費用(当時の金額で4万5千ドル。物価が違うため単純な換算はできませんが、今の感覚でいえば4.5億円ぐらい?)をかけて新しい撮影システムを開発させてしまったそうです。

*2:宇川直宏は、技術の進歩と表現の関係を、季節の移り変わりに例えていました。きれいな例えですね。気候が変われば、自然に服装も変化していく。

*3:同様に「今の技術だからこそアニメ化が成功した作品」として思いつくのは、志村貴子の漫画を原作にした『青い花』と『放浪息子』です。どちらも繊細な作品世界を反映した、水彩画のような淡い色彩が素晴らしく、もしこれが従来の「アニメ塗り」だったら、雰囲気を壊して失敗していたのではないかと思います。