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ねざめ堂

アニメ・映画・音楽

日常系アニメこそ作画が命、という話

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 ちょっと前にニコニコ生放送で、ある「日常系アニメ」を観ていたときのこと。

 私は基本的にはコメントを表示しない派なのですが、その回はテレビ放映分をすでに観ていたこともあり「たまには」と、めずらしくコメント表示をONにして楽しんでいました。

 そのアニメはキャラクターの動きの描写がきめ細かくて、ニコ生の粗い画質ごしにも丁寧に作られていることが伝わってくる作品で、あらためて感心して観ていたらこんなコメントが。

「日常系アニメにこんな作画必要あるの?」

 ・・・なるほど、そういう風な考えの人もいるんだなぁ、と素直にびっくりしたのですが、このコメントはアニメの作画と内容との関係についてあらためて考える面白いきっかけになりました。

 そんなわけで、今回は「日常系アニメ」の作画について考えたことを書いてみたいと思います。

 

◯「ギャグアニメ」と「日常系アニメ」の違い

 ここは「日常系アニメ」の作画について考えるうえで前提になる部分なので、確認の意味でぜひおさらいを。

 「ギャグアニメ」と「日常系アニメ」のちがいを私なりに「超」おおざっぱに定義*1してしまうと、

・キャラクターが、視聴者にむけてネタを披露するのが「ギャグアニメ」

・キャラクター同士の関係性を、ちょっとひいた位置から視聴者が楽しむのが「日常系アニメ」

 という感じになります。

 キャラクター同士のコミカルなやり取りは「ギャグアニメ」でも「日常系アニメ」でも共通して描かれます。しかし「ギャグアニメ」では、そのやりとりは「視聴者を笑わす」ことを目的として行われるのに対して、「日常系アニメ」でのそれはあくまでも「作品内でのキャラクター同士のコミュニケーション」として描かれます。*2

 『ゆゆ式』のスタッフインタビューでこの点について印象的なことが語られていたので、ちょっと引用してみます。プロデューサーが原作者に、ギャグの演出について相談したときのこと。

 

原作のギャグに関して、 "このシーンはもう少しオーバーにした方がギャグが面白くないですか?” と提案したことがあったのですが、それに対して ”この子たちは漫才師じゃないのでそういうボケはしません” というお返事があったんです。

どういうことかというと、ゆずこや唯は基本的に緑に笑ってほしいから色んなネタをしているだけで、3人の外にいる人や、もちろん視聴者的な目線も想定には入っていない。いわゆる一般的なウケは意識していないんです。

(AniFav『ゆゆ式』スタッフインタビュー)

(追記:AniFavのサイト閉鎖にともない、この記事は読めなくなってしまいました。残念!)

 

 『ゆゆ式』はギャグアニメとして見てもすごく面白い作品だったと思うんですが、ゆずこや唯の繰り出すギャグは視聴者にむけてではなくて、あくまでも縁に向けて披露されている。視聴者は、そのギャグで笑う縁の姿や「ウケた!」とか「あれ、すべった?」というゆずこ達の一喜一憂(=コミュミケーションの過程)も含めて作品を楽しむわけです。

 

◯「映画けいおん!」の「日常系」的演出

 このような姿勢は、脚本だけでなく、映像面の演出にも影響を及ぼします。たとえば『映画けいおん!』の予告編。


【Movie】K-ON! MOVIE (Trailer)【English subtitles】

 

 冒頭、空港の動く歩道で、キャラクターたちが芸能人インタビューごっこをして遊んでいます。「ギャグアニメ」であれば、この「ネタ」が終わったら、テンポよくつぎの「ネタ」に場面が移りますね。

 ところがこの作品では、「芸能人ごっこ」が終わったあとでキャラクターがくすくすと笑っている姿が、かなり引いた位置のカメラから映し出されます。この「引いた位置」が、視聴者の立ち位置です。

 視聴者は「ネタ」そのものよりも、「ネタ」をコミュニケーションの手段にしている彼女たちの姿、関係性を楽しんでおり、作品もそのように演出されている。それを明示しているのがこのシーンです。

(余談ですが、こういう「 "女の子たちが楽しんでいる姿" を楽しむ」という快楽は、谷崎潤一郎の『細雪』とか、小津安二郎の『晩春』での姉妹たちの賑やかなやりとりなどにもみられるように、昔からあったんじゃないかなと思います。)

 もうひとつ、予告編の45秒目あたり、主人公の唯が壁にずるずるともたれかかるシーン。

 画質が悪いので分かり辛いかもしれませんが、ここでカメラのピントは唯の目のあたりに合わせられており、身体の他の部分や背景はボケています(極端に被写界深度が浅い)。絵に描かれたアニメのキャラクターを、まるで実在する人物をカメラで撮影したかのように見せている。

 『けいおん!』ではこの他にも、まるで手持ちカメラで、実際に街を歩くキャラクターを撮影したかのような「手ブレ」を画面に取り入れたりといった演出がしばしばみられます。これらは単なるオサレ演出ではなく、キャラクターを「実際にそこに存在するもの」として扱おうという明確な意図を持っています。

 山田尚子監督は『けいおん!』の演出方針について、インタビューでこんな発言をしていました。

 

けいおん!』は演出するにあたって、あの子たちのドキュメンタリーを撮るような気分で臨んでいるんです。

(『映画けいおん!』パンフレット 山田尚子監督インタビュー)

 

◯もう一度、「ギャグアニメ」と「日常系アニメ」の違い

 こういう演出は、作画が崩れていると全く様になりません。ヘロヘロな画のピントをいじったところで、違和感ばかりが目についてしまいますし、手ブレ風の処理は作画的に高カロリーで、おいそれとは手が出せない。

 画が安定して「キャラクターがそこにいる」という錯覚を起こさせるだけの質を保っているからこそ、こういう演出が活きてきます。「日常系アニメ」はキャラクター同士の関係性を楽しませるものなので、キャラクターの実在感を出せるかどうかに作品の成否がかかってきます*3

 『けいおん!』や『ゆゆ式』といった優れた「日常系アニメ」に共通していることですが、キャラクターの動きも非常にきめ細かいです。

 キャラクターが喋るとき、ただ口がパクパク動いているだけではなく、連動してちゃんと身体が動いているシーンも多いですし、話を聞いている方のキャラクターも、手を組んだりといったちょっとした仕草をみせたりする。

 就寝シーンで、ちゃんと髪の毛をほどいているか?あるいは「寝る用」にまとめているか?などのディティールも、キャラクターの「実在感」に関わってきます(髪に飾りピンをつけたまま寝たりしているアニメ、めったに見かけないですけどね)。

 当然作画や設定の手間が増えますが、こういう細かい積み重ねでキャラクターの実在感が出てきます。それは必要な手間なんです。

 逆に「ギャグアニメ」では、いま見たような理由で作画にこだわる必要はありません。*4たとえば『秘密結社鷹の爪』なんて、フラッシュアニメなのに(だからこそ)めちゃめちゃ面白い。キャラクターはあくまで「視聴者にむかって "ネタ” を披露する」存在なので、実在感はさしあたって重要ではないわけです。

 3Dを活用した「ギャグアニメ」も同様です。とくに『てさぐれ!部活もの』は「日常系アニメ」のクリシェを「ギャグアニメ」の目線で解体するという手法で笑いを生みだしているので、その作品が3Dで作られているというのは非常に正しい感じがします。

 

◯むすび

 以上、「日常系アニメ」こそ作画が重要なんだ!ということを力説してみました。

 なんだかすごく「日常系アニメ」に肩入れしているような文章になっていて、実際好きな作品は多いんですが、でも「日常系」ならなんでもOKという訳ではありません。上に書いたような、ディティールへのこだわりが感じられる「日常系アニメ」が好きなんです。

 もちろん好みの作風というのはありますが、でも「ジャンルのファンがいるわけではなくて、個々の作品のファンがいるだけ」というのはアニメでも音楽でも何でも一緒ですよね。レディオヘッドというバンドが好きなだけで、UKロックという括りが好きなワケじゃないよ、という感じです。

 やっぱり技術と作品の内容というのは密接につながっていて、「日常系」に限らず、「今の、この技術だから表現できること」に自覚的な作品が好きだなー、とあらためて思ったことでした。

 

 

*1:当然ですが、明確に「これはギャグアニメ」「これは日常系」と線引きができるわけではなくて、両極のあいだには、様々なグラデーションがあります。たとえば「日常系アニメ」として語られることの多い『ゆるゆり』では、キャラクターが視聴者に話しかけたり、爆発オチがあったりといった、作品世界が二次元であることをキャラクター自身が了解しているメタ演出があり、ここにこだわれば『ゆるゆり』は「ギャグアニメよりの日常系アニメ」といえます。

*2:「日常系」の定義は考えはじめるとすごくややこしくてドツボにはまってしまうので、ここでは極めてフワッとしたイメージで話を進めています。定義によっては『けいおん!』は「日常系」じゃないんじゃないか?なんて思ったりもするので(作品として素晴らしいので、べつに「日常系」じゃなくても全然かまわないわけですが)

*3:この「実在感」は、伊藤剛のいうところの「"キャラ" と"キャラクター"の違い」とはまた違ったニュアンスです。『けいおん!』や『ゆゆ式』の登場人物は充分に「キャラ」的ですが、「キャラ」的なままで画面の向こうに存在する、という「実在感」(質量?)を獲得している。その「実在感」は作画などの技術に裏打ちされている、ということです。

*4:もちろんこれにも例外はあって、たとえば『生徒会役員共*』は、それこそ「このアニメにこんな作画必要あるの?」という、内容のしょうもなさと映像の豪華さのギャップも、面白さにつながっています。このギャップは「モンティ・パイソン」なんかの、無意味に金をかけた豪華なセットで下らないことをやる笑いに通じるものを感じます。また『日常』のように、動きで笑わせる場面の多いギャグアニメでも、作画は重要になってきます(『日常』は、原作漫画もすごく動きにこだわっています)。