線的な物語/面的な物語
このブログを書くにあたって、これまで何度か「線的な物語/面的な物語」という言葉を使ってきました。例えば、このあたりの記事 ↓
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この「線的な物語/面的な物語」ですが、これは、ストーリーアニメと日常系アニメの物語の構造というか、ストーリーの組み立てられ方の違いを強調して表すために、私が個人的に勝手に行っている区分です。
話が前へ前へと進んでいくようなストーリー重視の作品を「リニア(線的)な物語」と呼んだりする事がありますが、それにたいして、キャラ重視の作品を「線に対して面と呼んでみよう」という(わりと安易な)発想。
今回は、この区分について、自分のなかの整理も兼ねて今一度まとめておこう、というメモ的な記事です。今後この話題が出たときに、参照リンクを貼ることのできる記事を独立して作っておきたい、というつもりもあります。上の記事を読んで下さった方にとっては「またその話かよ」という内容になってしまっていますが、ご容赦ください。
◯線的な物語
プロット重視の物語。ストーリーアニメをはじめ、神話、童話なども含む「こういう人がいて→こういうことが起こって→次にこうなって…」という具合に「線的に」話が進んでいくタイプの物語は、こちらに分類されます。
物語のスタート時、主人公には何らかの「求めるもの」があり、それに向かって歩き出す彼/彼女の姿を追いながらストーリーが展開されることが多いです。「求めるもの」は、財宝や聖杯などの「モノ」である場合もあれば、何かの大会での優勝とか、権力や自己承認、自由、友情、愛情、復讐、平和といった抽象的な事柄である場合もあります。「求めるもの」が「人を殺す快感」というようなネガティブなケースもあるでしょう。
また、童話などでは「求めるもの」が両親の不在、死といった「欠落」として表れるパターンも多いようです。この場合、「求めるもの」はその事態の乗り越え、新たな日常生活の確立です。
A地点から出発した主人公は、さまざまな障害(B,C,D…)をのりこえて、「求めるもの」のあるX地点にたどり着きます。障害を乗り越える過程で、主人公の苦しむ様を描写することが、彼/彼女の人間性を説明し、受け手の主人公への感情移入を誘います。
たとえば『魔法少女まどか☆マギカ』の主人公・鹿目まどかは「人の役にたちたい」という願い=「求めるもの」を持っていますし、裏主人公のほむらにも「求めるもの」がありました。『僕は友達が少ない』の主人公・小鷹は「友達」を求めていて、同様の願いをもつヒロインに巻き込まれる形で「隣人部」を設立するところから物語がスタートします。
このタイプのストーリーのバリエーションとして、最終的に主人公がX地点にたどり着けずに挫折したり、あるいは思いもよらないY地点に行き着く場合もあります。
プロップやキャンベル、バルトらのやったような「物語の構造分析」は、(大雑把にいえば)この「線的な物語」についてのものです。
◯面的な物語
一方、こちらは作品世界に設定された様々な要素(キャラ、季節、イベント…)を組み合わせてエピソードが作られていくようなタイプの物語。「脱物語的」と呼ばれることもある、日常系アニメは(基本的には)こちらに入ります。
『サザエさん』『ピーナッツ』(スヌーピーのマンガ)などの新聞の連載マンガのアニメ化作品、また、『フルハウス』『ファミリー・タイズ』などのシチュエーション・コメディ(シチュエーション=状況から、ストーリーが "読み出される” ような作品)もこのタイプの物語です。
大きな特徴としては、「線的な物語」のように「求めるもの」に向かう主人公の姿を中心にストーリーが進行するわけではないので、主人公がいなくてもエピソードが成立してしまう、という点があげられます。「面的な物語」においては、主人公は「線的な物語」ほどには特権的な地位をしめておらず、「登場する頻度のもっとも高いキャラクター」ぐらいのニュアンスの強い存在です。
『ゆるゆり』や『みなみけ』などの作品で、主人公不在、サブキャラ中心のエピソードが多いことを思い出してみてください。
◯注意
「ようはプロット型の作品と、キャラ重視の作品のことだろ」といわれれば…その通りです。
ただ、「プロット/キャラ」という区分よりも、もうちょっとストーリーの「型」にフォーカスした表現です。それぞれのタイプの作品で、どういう発想でストーリーが作られていくのか?を単純化して表してみたかったんですね。
最初にも書きましたが、これは、ストーリーアニメと日常系アニメの構造の違いをわかりやすく強調して示すために考えられた、あくまでも便宜的な区分です。
実際には、「線的な物語」の途中に「面的な」エピソードがはさまれることもありますし(例:ストーリーアニメ中盤での、物語の大筋には影響しない「日常回」)、逆に日常系アニメでも、「求めるもの」に向かう主人公の姿を中心に構成された「線的な物語」寄りの作品もあります(例:『けいおん!』)。
また、日常系アニメのなかの1エピソードが、あるキャラが「求めるもの」に向かう姿を追った「線的な物語」として構成されることも珍しくありませんし、シリアスなストーリーアニメの「設定だけ」を使って展開されるスピンオフのギャグ4コマ漫画のように、「線的な物語」から「面的な物語」が抽出されることもあります。
両者のあいだには実際には厳密な境界線はなく、「線的な物語」と「面的な物語」を両極にもつ一本の軸のあいだには、きめ細かいグラデーションが存在する、という風に捉えていただければと思います。
◯メモ
●「線的な物語」は、音楽で例えればホモフォニー的、ベートーヴェン的。あるいは主旋律/歌メロを引き立てるように伴奏がつけられたポップス。
「面的な物語」は音楽でいえば、明確な主旋律をもたず、一定のムード/場をつくり出すようなダンス・ミュージックやアンビエント・ミュージック、メロディではなく音のテクスチャに注力したエレクトロニカ。あるいはドビュッシーなどの印象派(ドビュッシー本人はこの分類を嫌ったみたいだけど)。これらの音楽では、「主旋律=主/伴奏=従」の関係がそこまで明白ではない。
(関連記事 洋楽好きに「日常系アニメ」の魅力を布教してみた。 )
たとえば録音メディアがない環境で、メロディのきれいな曲の魅力は、歌い継がれたり、採譜されたりして離れた土地にも伝播する可能性があるが、いっぽうThe JB’sが腰が抜けるほどファンキーな曲を披露しても、伝わるのは「アイツらの演奏は凄いらしい」というウワサのみ。ファンク・ミュージックの曲の良さは演奏の質と切り離せないために、伝播し辛い。プロットも歌メロも「リニアな構造」。
ベックは、重層的な楽器/音の重なりから構成される自分の曲が、ピアノソロ用に編曲(=リニア構造化、抽象化、単純化)された楽譜を見てショックを受けた。しかし、「じゃあ逆に、楽譜だけをリリースして、好きに演奏してもらおう」という逆転の発想へ。「構造」だけを提供する試み。
●文学でいえば「線的な物語」は小説、「面的な物語」は詩や俳句。明確な「構造」=プロットを持つタイプの小説は翻訳しても面白さが伝わりやすいが、詩や俳句は翻訳の過程で別のものに変質してしまいがち。「伝わりやすい」というプロット型の物語の強み。
翻訳すると大切な部分が失われてしまう詩と違って、プロットの方は、ある言語、媒体から別の言語、媒体に翻訳されても失われないですむ。
(ジョナサン・カラー 『1冊でわかる 文学理論』)
逆に「日本のサブカルが海外に伝わっているのは “構造しかない” からだ 」という柄谷行人や大塚英志の批判。
「構造」以外のものが伝わらないわけではないが、それはとてつもなく厄介なディスコミュニケーションを乗りこえていく必要がある。簡単に届いてしまうのは「構造」だけだ。だから世界に届く表現など、たいてい構造に特化した表現だ。
●芥川龍之介と谷崎潤一郎の論争(小説は「筋」=リニア構造の面白さなのか?)。
●トラン・アン・ユンと、京都アニメーション。『青いパパイヤの香り』と『けいおん!』は「線的な物語」寄り、『夏至』と『たまこまーけっと』は「面的な物語」寄り。後者は前者よりも「非線形」で「重層的」な構造をもつ(ただし『たまこま』は「面的な物語」の下に「線的な物語」が隠れているという二層構造)。