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『PSYCO-PASS サイコパス』(1期)を振り返る

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 現在放映中の『PSYCO-PASS サイコパス2』がすごーく面白くて、この2期をより楽しむために、自分なりに1期を振り返ってみたくなりました。ということで、『PSYCO-PASS サイコパス』感想です。

 こういう企画は2期放映前にやればいいものを、おもいきりタイミングを逸してる感があるんですけど、気の利かなさはこのブログの基本仕様なのですみません…。夏に放映されていた『PSYCO-PASS サイコパス 新編集版』(全11話への再編集・新規カット追加版)準拠の内容になっています。

 記事の流れとしては、まず作品全体で描いていたテーマと、それから虚淵玄のシナリオによく登場する、システム維持のコストの問題にふれます。そして、もうちょっと細かくストーリーを見ていくと、『サイコパス』には男キャラと女キャラでそれぞれストーリー上の「役割分担」があったよ、という話に入っていく感じになります。

 そのような分担を割り振ることで、『サイコパス』はどのように「フィクション的な責任」と「エンタメとしてのカタルシス」を両立させていたのか。

 感想を書くにあたっては、『サイコパス』(1期)全編にくわえて、ストーリーをつくるうえで参照したと思われる映画『CURE』(黒沢清監督 1997年)のネタバレをしています。ご了承ください。

 

◯反=モノカルチャー

 まず、作品全体のテーマとしてはっきりと描かれるのは「反=モノカルチャー」の姿勢です。

 「モノカルチャー」は、本来は単一の作物に特化した農業形態を指しますが、多様性を欠いた文化や経済をあらわす言葉としても使われますね。それで、そういう多様性を排除するような社会はヤバいよ、脆いよ、というテーマ。

 このアニメは今から100年後が舞台で、世界はなんらかの事情で混乱状態に陥っていて、その対策として日本は鎖国状態にある。そして国内を平和に収めるために「シビュラシステム」が導入されている、という設定でした。

 「シビュラ」はたしかに社会の維持に役立っているのですが、問題は、システムにうまく適応できない人間をあまりにも強引に排除してしまう点で、つまりシビュラという単一のモノサシに適合しない人間はすべてNG、というモノカルチャーな社会になっている。

 

                    ◯

 

 作中には「ハイパーオーツ」というのが出てきて、これはずばり本来的な「モノカルチャー」、作物の話です。鎖国状態にある日本の食料事情を、「究極の収穫効率」を追求した単一の作物が支えている。

 でも、単一の作物に頼っているということは、それがダメになったら食料の供給は壊滅するということでもあって、そこの脆さをテロリストである槙島に狙われるわけです。

 

「多様性を失った大量の「単一種」か。なるほど、致命的な欠陥がみつかれば全滅する可能性もある。」(第10話 ネット掲示板の書き込み)

 

 「ハイパーオーツ」に象徴されるような「多様性の排除」が、この作品では様々な形で描かれます。惨殺事件の舞台となる女子校(ステレオタイプな「お嬢様」を量産する飼育場のような施設として描かれる)や、シビュラ「公認」の画家やミュージシャンといった芸術家たち。

 「潜在犯」認定をうけた執行官たちの同性愛者率の高さも、多様性を排除していく「シビュラ」の傾向を表しているようです。元ミュージシャンの六合塚はレズビアン、彼女と肉体関係にある唐之杜はバイセクシャル。第9話で交わされる会話の内容*1からは、狡噛もゲイである可能性?が匂わされます(監視官時代の部下、殺害された佐々山との関係がどういうものだったかは、本編からは窺い知れませんが)。

 LGBTの権利を象徴するのはレインボーフラッグ(虹色=多様な色の共存)ですが、そのような多様性を抑圧するモノトーンな社会をつくり出しているのが「シビュラ」という設定。

 

                    ◯

 

 こういった抑圧への反抗や、「多様性の肯定」は他のアニメでもよく取り上げられるテーマですよね。

 私が好きな近年のアニメでいえば、『たまこまーけっと』(保守と革新の思想対立や、トランスジェンダーレズビアンといった性的マイノリティの人々を包摂する商店街共同体)や、『Wake Up,Girls!』(多様性を肯定する雑多なアイドルグループ「WUG」と、パフォーマンスのために多様性を排除していくプロ集団「I-1club」の対比)、『境界の彼方』(人と妖夢、そのハーフなど、多様な存在の共存)、『ハナヤマタ』(個人がそれぞれの花=個性をキープしたまま、グループとしてよさこいを踊る)なども、同様のテーマを扱っていました。

 アニメは登場人物それぞれの「キャラ」を立てる重要性がとくに高いジャンルなので、こういったテーマを扱うのに向いているのかもしれません。

 

◯朱の物語 システムの維持

 「シビュラ」のいちばんの問題点は、極端な多様性の抑圧、システムに適合できない人間にたいする排除がキツすぎることでした。そして、そのような「不適合者」をシステム維持のために利用している。

 

「この社会に適応できない人間が発生することも、システムはシステムに組み込んでいる。重要なのは最大多数の幸福であり、全人口の幸福ではない。治安が悪い地区をある程度放置するのは重要だ。不可能を実現しようとすれば、かならず破綻する。完全な社会は、完全な社会を諦めることによって成立する。シビュラシステムとは、そういう物なんだろう。」

(第1話 槙島)

 

                    ◯

 

 システム維持のためのコスト、というのは虚淵玄の作品によく登場するテーマで、たとえば『魔法少女まどか☆マギカ』では(以下反転)宇宙を維持するために魔女化のエネルギーが必要だったり、また、新しい魔法少女システム構築のためには、まどかが「人間の少女」としての平凡な生活をあきらめなければならなかった。
 『まどマギ』は「非人間的なシステムを、より人間的なものとして再定義する」という意味で、ピクサーの『モンスターズ・インク』(2001年)と同様の発想にたった作品です(関連記事『モンスターズ・インク』感想 )。

 ただ、「再定義後のシステム維持にもコストはかかるよね」というところに敏感なのが虚淵玄の脚本で、「ピクサーでは『トイ・ストーリー3』は大好きだけど、『モンスターズ・インク』は最後がズルい」みたいな発言をしていたのも、そのあたりと関係あるのかな、と思います。「必ずどこかに負担がかかっている」という問題意識。

 この『サイコパス』でも、閉鎖環境にある工場での人間関係を維持するための「コスト」としてイジメが容認されていたり、あるいは第5話で、犯罪捜査に関して宜野座が朱にいった、こんなセリフもありました。

 

「なんのために監視官と執行官の区分けがあると思う?健常な人間が犯罪捜査でサイコパスを曇らせるリスクを回避するためだ。二度と社会に復帰できない潜在犯を身代わりにたてるからこそ、君は自分の心を守りながら職務を遂行できる。」

 

 「潜在犯」の存在が、犯罪捜査に必要不可欠な「コスト」になっているんですね。システム維持のために、システムから脱落する人間が出ることが必要とされているという『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』的、『まどマギ』の魔法少女システム的な搾取構造。

 作品の後半で明かされるように、この循環的な図式は、システム運用のためにシステムから逸脱した「免罪体質者」を必要とする「シビュラシステム」そのものにも適用されます。

 冷徹ではあるものの、そのぶん客観性・中立性を備えているように見えた「シビュラ」の中枢が、じつは殺人犯を含む「脳」の寄せ集めというワケのわからないもので、恣意的な判断を下すものだった…という「社会の底が抜けているのを知ってしまう」感は良かった。

 

                    ◯

 

 最終的に朱は、このような「シビュラ」の正体を知り、それを憎みつつも「いま現在は代替案がない」ことを認めて、システムの存続を許します。

 どんなに「シビュラ」がワケのわからないものであろうと、世界中の国々が大混乱に陥っているらしい状況下で、一定の治安を確保して、多くの人々の生活を保証している功績は認めざるを得ない。「正当性よりも必要性に重きを置く」判断。

 世界の秘密を1人で(ほかにもシビュラの秘密を知る者はいるのかもしれませんが、作中のドラマ的には1人で)抱えこんで葛藤するさまをシビュラに「観察」される。鹿目まどかや漫画版のナウシカのような、ある意味世界の最終責任者的ポジションにつく*2。しんどい立場です。

 2期の話になってしまいますが、朱が「潜在犯」をあそこまで必死に救おうとするのも、システムの内幕をしりつつ、それを必要悪として容認しているという葛藤から来る部分も大きそうです。

 

「正義の執行も、秩序の維持も、私はどっちも大切だと思います。」

(第9話)

 

 朱はこの信念を貫き続けているんですね。カッコいいです。


◯槙島の物語 システムの破壊

 そんな朱とは対照的に、システムの破壊に邁進する槙島。彼は、いまのシステムが崩壊したあとの代替案なんて知ったこっちゃない、という態度です。たとえば第8話の、犯罪の相棒、チェ・グソンとのこんな会話。

 

チェ「こいつらは、あなたが行っている破壊の先を見たがっている連中です。」

槙島「破壊の先か…。先があれば良し、なければそれはそれで受け入れる。」


 いやいや、なんかカッコいい風に語ってるけど、なんのビジョンもないってことですよね?これ。
 第10話、雑賀と狡噛のあいだで「槙島はアナーキストなのか?」という会話が交わされます。狡噛に「アナーキズムの定義は?」とたずねる雑賀。

 

狡噛「支配と権力の否定です。ただ、混乱と無秩序という意味ではない。」

雑賀「そうだ。非人間的な支配システムの否定、より人間的なシステムの構築。槙島はアナーキストに近いが、彼ほど破壊を好むとなると本来の定義からだいぶ離れる。」


 「非人間的な支配システムの否定、より人間的なシステムの構築」。これはまさに『まどマギ』で鹿目まどかがやったことですね。そうか、まどかはアナーキストだったのか…。

 

                    ◯

 

 いっぽう槙島を見ていて思い出すのは、『ファイト・クラブ』でブラッド・ピットが演じたカリスマ的な魅力をもつダークヒーロー、タイラー・ダーデンです。彼は消費社会に捕われいる主人公(エドワード・ノートン)にむけて消費社会批判を説き、テロリスト集団を組織してその破壊を実践していきます。しかし、彼には「破壊後」のビジョンがありません。

 

 タイラーのような人物は目新しく思われてしまう。ノートン演じるブランド男も、最初タイラーの自由奔放さに憧れている。消費社会の特殊な抑圧のなかでは彼のような人物はカッコよく見えてしまう(ブラッド・ピットが演じているからカッコイイのではない!)。

 しかし実はタイラーは自由でも何でもない。もし彼が本当に自由であれば、彼は彼なりの新しい型の解放を積極的に考えたはずだ。だが、彼は消費社会をただ拒み、そして破壊するだけである。当然ながら、破壊の後に何が来るのか、そのときに何をなすべきなのかは、まったく考えていない。

 ではなぜタイラーは破壊にしか向かえないのか?

 彼は何か「本来的」な生があるかのように語るけれども、それが何なのかはすこしも明らかではないからである。これは消費によってもたらされる「個性」が何なのかを不問のまま「個性化」を煽る消費社会の論理とまったく同じである。彼は消費社会に促されて、しかも消費社会の論理にしたがったまま消費社会を拒否しているのだ。彼は消費社会あるいは消費人間が作り出したミラーイメージにすぎない。タイラーは消費社会の落とし子なのである。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』)


 「消費社会」を「シビュラシステム」と読み替えると、これはかなりの部分槙島にも当てはまる指摘ではないでしょうか。

 

                    ◯

 

 『サイコパス』は「ソフトな管理社会」を描いているという点で、アンドリュー・ニコル監督の『ガタカ』や『TIME/タイム』、『トゥルーマン・ショー』(脚本のみ)を連想させるところがあります*3*4

 アンドリュー・ニコルの映画では、システムにある程度適応できている人々は、自分が「支配されている」ことを自覚していません。でも、システム維持のために、じつは裏で膨大なコストが支払われている。やがて、そのシステムからの「脱出」や、システムの「破壊」が主人公によって敢行されていく、という流れになります。

 これらの映画はすごく面白いし、DVDを持っているぐらい好きなんですけど、でも「脱出・破壊したあとにどうするか?」というところが描かれないんですね(もちろん映画の尺ではそこまで描けない、という事情も大きいでしょう。『マトリックス』も同様でしたね)。

 破壊の成功はたしかに物語としてのカタルシスはあるんだけど、「その後どういうシステムを構築するか?」というビジョンや合意形成がないと悲劇的な混乱状態が訪れる、というのはリアルに世界で起こってしまっている事態です。「破壊せよ、とタイラー/槙島は言った」というのはカッコいいんだけど、本当にそれをやってしまうと「カッコいい」では済まないよ、という。

 『まどマギ』やこの『サイコパス』はそういう点で、フィクションとして非常に生真面目な作品だなあ、という感じがします。

 

◯物語上の役割分担

 ここまでシステムに対する「朱」と「槙島」の態度の違いについて書いてきましたが、ストーリーが佳境にはいると、この作品における「女」と「男」の役割分担がよりはっきりしてきます。すなわち、

 

・「女=朱」が担当する、「社会システムの運用」にまつわるマクロ視点の物語
・「男=槙島・狡噛」が担当する、システムの中で邂逅する個人対個人のミクロな物語

 

 中景と近景、みたいなことですね。

 もちろんこの作品で描かれる個人対個人の「ミクロ」な物語、ドラマは、直接的に「マクロ」な社会システムの構造が原因で発生しているわけなので、両者は絡みあっているんですけど、朱と狡噛の別れが描かれるあたりから、この2つの物語がしだいに分岐していく。男女の物語上の「役割分担」が明確になってきます。
 

                   ◯

 

 まずは「女=朱」の担当する、システムに関する視野の広い、マクロな物語。

 さきほど触れたように、「シビュラ」の中枢に招かれ、その巨大な秘密を抱えこむという責任を負い、苦悩するのはヒーローである狡噛ではなく、ヒロインの朱でした。「シビュラ」が使っていた義体が女性の外見を持っていたことも、なにやら示唆的です(もちろん「中身」の脳は男のものも入っているわけですが)。

 『サイコパス』の物語世界では、どちらかといえば、女性が世界の維持に責任をもつ立場に置かれているようです。ここで描かれたのは「システムの不公正さを知りつつ、涙をのんでそれを容認する」という、カタルシスのない決断でした。

 その割り切れなさを引き受けることが生きていくことだ、というような苦々しさ。

 

                   ◯

 

 いっぽう「男=槙島・狡噛」の描きだす「オレとオマエ」のミクロな物語は、良くいえばカタルシスに満ちており、あえて悪くいってみれば身勝手です。

 狡噛は「シビュラ」の秘密を(すくなくともアニメ1期の時点では)知ることなく、槙島との個人的な決着をつけるべく、朱に「システムの内側はお前に任せた(大意)」という手紙を残して、システムの外に出ていきます。

 (なんか悪くいってますけど、狡噛は好きなキャラクターです。社会を脅かす槙島をしとめるための、あの行動でもあったわけですし。逃走した狡噛がサイマティックスキャン妨害ヘルメットを装着しているのは、実用的な意味のほかに、彼がシステムの「外」に出て槙島と同じ立場に立ったことを表す演出として印象的でした。)

 いっぽう槙島のほうは、世界なんかどうなろうとハナから知ったことじゃなくて、彼らはひたすらお互いの関係にのみ執着しています。

 さきほど槙島をタイラー・ダーデンと比較しましたが、彼はその自己破壊的なカッコ良さもふくめて『ダークナイト』のジョーカー(ヒース・レジャー版、ニコルソン版ではない)的、ともいえます。

 征服願望は、いまあるシステムに替わって自分なりの新たなシステムを構築する労をいとわないという意味で「ご苦労様」な面もあるのですが、ヒース・レジャージョーカーはそのような願望とは無縁で、ひたすら破壊とカオスを指向します。

 第9話、「シビュラ」(このときの「中の人」は、かつての共犯者である藤間幸三郎)から「仲間になって、全能の存在としてともに世界を統べよう」みたく誘われたときに、槙島はこう答えていました。

 

「あいにく審判やレフリーは趣味じゃないんだ。そんな立場では試合を純粋に楽しめないからね。」

「僕はね、この人生というゲームを心底愛してるんだよ。だからどこまでもプレイヤーとして参加しつづけたい。」


 全能の「アルティメッドまどか」的メタ・プレイヤーポジションを拒絶して、いちプレイヤーたる魔法少女としてバトり続けていたいという願望。

 さきほど例に出したアンドリュー・ニコルの映画って、すごく「 “男の子” の映画だなあ」という印象があるのですが、この『サイコパス』では「壊す男の子」と「守る女の子」という対比、役割分担が成立しています。

 

◯『CURE』:継承の物語

 槙島と狡噛のミクロな物語は、「対決」や「執着」の物語であると同時に、「継承」の物語、という側面も持っていました。具体的には、槙島から狡噛へと引き継がれる「システム破壊への意思」の物語。そのあたりは、この考察記事に詳しいです。*5

 

(15年2月1日追記:アニメ専門サイト『AniFav』の『サイコパス』考察記事のリンクを載せていたのですが、サイトの閉鎖にともない、記事が読めなくなってしまっていました。残念。)

 

 私は気付かなかったんですが、この考察によると、槙島が読んでいたプルーストの『失われた時を求めて』を、ラストで狡噛が読んでいる描写があったんですね(プルーストは学生時代に読みかけて挫折しました 笑)。

 ここから、狡噛が槙島の意思を引き継いだのではないか?という推察が成り立つ。槙島をおいかけてシステムの外に出た(=槙島とおなじ立場に立った)狡噛による、槙島の意思の継承。

 

                    ◯

 

 それで私が思い出したのが、黒沢清監督の『CURE』(1997年)という傑作映画で、「ああ、『サイコパス』は『CURE』をやっている部分があったのか」ということに思い至りました。

 以下は、『CURE』のあらすじです(超ネタバレ注意)。

 

 主人公の刑事は、精神病を患った妻の看病と仕事との両立に疲弊しながら、奇怪な連続殺人事件を追っていた。「連続」といっても複数の事件の犯人は異なり、それぞれあっさりと逮捕されていくのだが、被害者の首もとに「X」型の傷跡がある、という共通点があったのだ。

 じつは一連の事件には「間宮」という黒幕がおり、彼が暗示をかけることで、人々は心の奥底に眠っていた殺意を呼び覚まされ、殺人に駆り立てられていた。天才的な催眠術師である間宮は、人々の深層心理に隠された欲求を解放していたのだ。

 刑事は間宮を追いつめ射殺するが、その間際に間宮は刑事に暗示をかける。間宮の能力は引き継がれ、刑事は間宮以上の怪物的な存在になったことがラストで示唆される。

 刑事は生活の重荷になっていた妻を殺し、同時に非常に快活な人物に変貌する。心の奥底にある、自分でも気付かない欲求を解放することで「癒される=CURE」、というのがこの映画のタイトルの由来である。


 …というなんともスゴい映画なんですが、この映画で「殺人犯」となった人々にたいして間宮がやったことと、槙島が一連の犯罪で手引きをしていた動機は共通しています。心の奥底の欲求を解き放つこと。第6話の槙島のセリフ。

 

「僕はね、人は自らの意思に基づいて行動したときのみ、価値を持つとおもっている。だから、様々な人間に、秘めたる意思を問いただし、その行いを観察してきた。」

 

 人間の存在意義を外から規定してくる「シビュラ」にたいする、人間的な反抗。そして、その意思は狡噛に引き継がれていったかもしれない、ということが示唆される。

 「継承」は「槙島→狡噛」間だけではなくて、「狡噛→朱」のあいだでも行われていました。これはすでに2期をみているから言えることですけど、朱は狡噛同様にタバコを吸い始めてましたよね。

 『サイコパス』の世界では、中毒性のないメディカルトリップやバーチャルドラッグが主流になっていて、身体に直接作用するニコチンやアルコール、カフェインなどはかなりマイナーなものでした。それらの常用者は潜在犯ばかりです(2期では「本物の」コーヒーを愛飲していた雑賀も、潜在犯として隔離施設に入っています)。

 監視官の身分でタバコを吸うというのは、かなり非推奨な行為のはず。2期の朱が「秩序を守る側」と「秩序から排除される側」、2つの世界にまたがった存在になっていることを表しています(『もののけ姫』のアシタカみたいな感じですね)。

 そして「宜野座父→息子」パートは、オーソドックスで熱い親子の継承物語でした。メガネを外すことで、父と似ている目元を受け入れ、父同様に片腕を失い、執行官の立場を引き継ぐ。

 

(11月9日追記:よく見たら、2期の朱はタバコを吸っているのではなくて、お香のように立てて匂いだけを嗅いでいるんですね。作中の意味合い的にはあまり変わらないとは思いますが、事実誤認、失礼しました。)

 

                    ◯

 

 最終回である第11話、槙島事件の全てが終わったあとの、唐之杜と六合塚のベッドでの会話(事後)。みんないなくなっちゃった(一係の男メンバーは2人死亡、1人失踪)、と嘆く唐之杜に、六合塚は突き放すように答えます。

 

六合塚「時代遅れの男達には、この仕事は向いてないってこと。」

唐之杜「時代遅れはひどいんじゃない?ロマンチスト、っていってあげなよ」

六合塚「それで慰めになるのかしらね、あいつら」

 

 ここで「ミクロな男と、マクロな女」が再確認されます。「プレイヤー」として「オレとオマエの物語」を熱くやりあっている男達と、それをちょっとひいた地点から見ている女達、という構図ですね。

 北野武監督のデビュー作『その男、凶暴につき』(1989年)のラストカットは、物語とまったく関係ない女性の顔のアップです。刑事やヤクザといった「男達」が、血で血を洗う抗争を繰り広げたあとの、「あいつら、なにバカなことやってんだか」という冷静な表情。

 もちろん六合塚は冷たいわけではなくて、むしろ彼らを悼み、大きすぎた犠牲に腹をたてているようですが、こんな感じで、マクロなシステムの物語と、ミクロな個人対個人のドラマのバランスが上手いなあ、と感じた作品でした。

 システム部分に関しては安易な希望は描かず、それ故にどうしてもカタルシスに欠ける展開になるんだけれど、そのフラストレーションを個人のドラマパートで解消する。フィクションとしての責任感とエンタメをきっちり両立させる、という見事な職人技を見せてもらった感じです。

 いっぽう、現在放映中の2期では、女性陣が1期よりも前線に出てきているキャラ配置なので、この構図は崩れるかもしれませんね。シリーズ構成(冲方丁!)や制作会社が交代しましたが、やっぱり毎週面白くて、すっかりやられております。

 物語の「構造」の起伏でグイグイ引っぱっていくという、優れた海外ドラマのようなドライブ感をもっていた1期と、細かい描写を様々な方向にむかって張り巡らせていく緻密な語り口の2期。作品の基本的な雰囲気はそのままに、でもちょっと方向性の違いが出ていて良い感じ。

 来年には劇場版も控えているとのことですが、「シビュラ」の電源が落とされる日は来るのか、それとも全く違う結末になっていくのか。こちらにも期待です。

 

※シリーズの感想

『PSYCO-PASS サイコパス2』を振り返る

『劇場版 PSYCO-PASS サイコパス』感想 

 

*1:唐之杜「ねえ慎也くん、私さ、せめて一度ぐらいはあなたと寝てみるべきだったのかな?」狡噛「どうだかな。お互い趣味じゃなかったとおもうぜ」

*2:物語世界を維持するための負担を一身にひきうける「最終責任者」。虚淵玄つながりでは、『サイコパス』の次に手掛けた『彗星のガルガンティア』では(以下反転)主人公が世界の命運を左右しうる力をもつロボットから降りて「共同体のひとり」に迎え入れられることで、「最終責任者」ポジションを回避します。共同体の皆で社会を維持するコストを分散しよう、という『たまこまーけっと』同様の路線。

*3:リアルでの「ソフトな管理社会」については、大塚英志ドワンゴKADOKAWAの合併にさいして書いたこの記事が面白いです→大塚英志緊急寄稿「企業に管理される快適なポストモダンのためのエッセイ

*4:直接これらの映画の影響を受けている、という話ではなくて、そのような「ソフトな管理社会」を描いた一連の作品の流れをくんでいる、という意味です。「破壊の先を描くかどうか」という点で比較しやすいので、ここではアンドリュー・ニコルの作品を持ち出してみました。

*5:この記事が載っているサイト(AniFav)が、10月いっぱいで閉鎖とのことなので、それ以降は読めなくなってしまう可能性があります。力の入った考察や、充実したインタビューが掲載されていたサイトで、このブログの記事(これとか→『ゆゆ式』感想 )を書くにあたっても、資料としてお世話になったりしていたので残念。→15年2月1日追記 読めなくなりました。