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友情/独立/分人 ~『ゆゆ式』感想 その①

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 ふと気付けば、アニメ版『ゆゆ式』の放映からはや丸1年…ってウソだろ! と唖然としたのが先月のこと。それから少しずつ見返して、先日最終話まで見終えのですが、いやーやっぱり面白いです。見ればみるほど脚本も演出も緻密。

 原作・アニメともに、この作品の大きなテーマのひとつとして「友情をいかにキープするか?」というのがあって、彼女たち、とくにゆずこにとっては「3人が仲良しでいること」は当たり前じゃない、特別なことです。その特別な状態をキープするために、彼女たちはコミュニケーションをとり、その過程がちょっと異様にも思えるほどの精密さで描かれていく。

 今回は、作中でこの「友情をキープするためのコミュニケーション」がどのように描かれていたのかを、「キャラクターの独立性」と「分人」というふたつの視点から振り返ってみたいと思います。その①はまず「独立性」編です(「キャラがお互いもたれあっていない」という意味での自律性=「独立」)。

 なお、この記事はAniFavに掲載された『ゆゆ式』スタッフインタビューに拠るところの大きい内容になっています。文中の引用は、すべてこちらから。充実のインタビューです。 

(15年2月1日追記:アニメ専門サイト『AniFav』の『ゆゆ式スタッフインタビュー』リンクを載せていたのですが、サイトの閉鎖にともない、記事が読めなくなってしまっていました。良いインタビューだったのですが...。残念。)

 

◯前提:「ギャグアニメ」と「日常系アニメ」

 『ゆゆ式』は、「日常系アニメ」です。

 以前も書いたことがある話題なのでくり返しになってしまいますが(日常系アニメこそ作画が命、という話 )「ギャグアニメ」と「日常系アニメ」の違いを大雑把にいうと

 

・キャラクターが、視聴者にむけて「ネタ」を披露するのが「ギャグアニメ」
・キャラクター同士の関係性を、ややひいた位置から視聴者が楽しむのが「日常系アニメ」

 

 という感じになります。

 キャラクター同士のコミカルなやり取りは「ギャグアニメ」でも「日常系アニメ」でも共通して描かれます。でも「ギャグアニメ」では、そのやりとりは「視聴者を笑わす」ことを目的として行われるのに対して、「日常系アニメ」でのそれはあくまでも「作品内でのキャラクター同士のコミュニケーション」として描かれます*1。視聴者が楽しむのは、ギャグそのものよりも、コミュニケーションの部分がメイン。

 『ゆゆ式』はとくに、その「キャラクター間のコミュニケーションを描く」という点に自覚的な作品です。例えばインタビューでの、小倉プロデューサーの発言。原作者の三上小又に、ギャグの演出についての相談をしたときのこと。 

 

原作のギャグに関して、 "このシーンはもう少しオーバーにした方がギャグが面白くないですか?” と提案したことがあったのですが、それに対して ”この子たちは漫才師じゃないのでそういうボケはしません” というお返事があったんです。

どういうことかというと、ゆずこや唯は基本的に緑に笑ってほしいから色んなネタをしているだけで、3人の外にいる人や、もちろん視聴者的な目線も想定には入っていない。いわゆる一般的なウケは意識していないんです。 

 

◯ロールプレイ

 原作者の発言からも伺えるように、『ゆゆ式』はキャラ間のコミュニケーション、人間関係のバランスゲームをめちゃくちゃ繊細に描いた作品です。

 主役の3人グループ、ゆずこ・唯・縁にしても、べったりと無条件に仲が良いわけではない。いや、仲はすごく良いんだけど、その仲の良さをキープするために、それぞれが自覚的に努力している。先ほどのインタビューの続き。

 

ーー:演者としてのネタではなく、コミュニケーションのためのネタということですね。3人はネタを介して、コミュニケーションを大事に守り育んでいるところがある。

小倉:そうなんですよ。あの3人は単純な仲良しグループじゃなくて、実はお互いすごく気を使いあっているところがあるんですね。仲良しのままでいたいということに一所懸命なんです。

 

 「仲良しのままでいたいということに一生懸命」ということは、逆にいえば、それぞれのキャラクターが、お互いの「あいだ」にある距離をしっかり認識している、ということですね。

 最初にも書きましたが、『ゆゆ式』は、このようにひとりひとり独立したキャラクターが「仲良しのまま」でいるためのコミュニケーションを取る様子を描いた作品です。このインタビューでは、3人それぞれがグループ内での自分の役割を自覚して「コミュニケーションのためのネタ」を回していく様子を「ロールプレイ」と表現していました。

 第1話の冒頭、「このアニメで描くのは、そのようなロールプレイですよ」というのを宣言したシーンがありました。高校生活初日、唯と待ちあわせ中のゆずこの独白。唯の高校の制服姿を見て、どんなリアクションをとってやろうか?とたくらむシーン(原作漫画でも、冒頭近くに配置されているシーンです)。

 

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「唯ちゃん来たらどんな反応してやろうかな?まず大爆笑して、一発どつかれて…」

 

 頭のなかで、ネタの展開のシミュレーションをしているんですね。どつかれるところまで計算に入ってるとか、ゆずこさんマジ芸人。

 「ギャグアニメ」で描かれるのは「爆笑→どつかれる」という「ネタ」の部分までですが、『ゆゆ式』ではこのような「ネタの外側」=「ネタを披露しあっているキャラクターたち」という「メタ」の部分が描かれるので、そこを面白がれるかどうかでこの作品への評価が分かれる...というのはよく指摘のあるところです。

 

◯2:1

 このように「ネタの外側」が描かれる『ゆゆ式』では、「ネタの不発」も描かれます。やはり第1話、学校の廊下でのやりとり。まず、縁がネタのボールを出します。

 

「たとえば目をギューッとつむって、バッとあけたら、目の前に玄関が!みたいな能力ないかな?」

乗っかるゆずこ。

「はい!それ私もほしいです!」

しかし、乗ってこない唯。

「ないな」

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 ギャグアニメでは描かれることのない、ネタの不発。でも、作品が描きたいのはあくまでコミュニケーションなので、ネタは不発でも良いんですね。「ネタが不発だった」というコミュニケーションの部分はちゃんと描かれているので。で、ここで「そんなー」と涙目になるゆずこがいじらしい。

 ゆずこは、3人の中で一番この「仲良しでいるためのロールプレイ」に自覚的/積極的なキャラクターです。幼馴染みコンビである唯・縁に、途中から合流したゆずこは、仲の良いふたりを眺めてニヤニヤする気持ちと、ちょっと寂しい気持ち、両方を持ちあわせているようです。

 そんな潜在的な2:1の関係が明示されたのが、第3話。プールでのあの有名な「水って…なに?」のくだり。

 「水ってそもそも何なの?」という根源的な疑問に行き当たった縁とゆずこは、なんとなくプールに入れなくなってしまう(という遊びを、ゆずこ的にはおそらく「その感じわかる!」と「ネタ」半々ぐらい?の割合でやっている)。と、とつぜん出来心的に、縁をつついてプールに突き落とすゆずこ。呆然とする縁。

 縁にとっての「水ってなに?」は、ゆずこの想定よりも、もう少しだけマジだったのかもしれません(このあたりの、キャラ間の認識のズレ、距離感もいい感じ)。「ひどい奴だなお前は」と縁をかばう唯。顕在化する2:1の構図。焦ったゆずこは、自責の念からいきなり自分の頬を張り飛ばします。そして涙目。

 

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 ここ、最初に見たときはゆずこの突拍子もない行動に笑ったんですけど、3人の関係性がわかったうえであらためて見返すと、けっこう重いというか「ゆずこー!」と叫んでしまいたくなる感じのシーンです。この第3話ではほかにも、いたずらを仕掛けたゆずこと縁にたいして、ゆずこだけが唯に殴られて「私だけかー」とつぶやくシーンがあったりと、2:1の構図が何度か強調されます。 

 (もちろん、唯がゆずこだけを殴るのは、べつに彼女に対する差別的なものではないですよね。ここについては「その② 分人編」で触れます。)

 

◯第3話=テーマの提示回

 唯&縁の幼馴染みコンビに途中から合流したゆずこにとって、「3人が仲良しでいること」は当たり前ではない、特別なことのようです。自分がこのグループの一員として楽しくやれていることに、感謝の念と同時に「自分が入ってて本当にいいのかな」という不安も(オーバーにいえば)感じているかもしれない。

 そしてそのような認識(不安)が、「友情をキープするためのコミュニケーション」への積極性としてあらわれているようなところがあります。

 自分が手にしている環境を自明のものと思わずに、その維持に懸命になるキャラクター…で思い出すのは、このブログでもくどいほど記事を書いている『たまこまーけっと』の北白川たまこですね*2。たまことゆずこ、このふたりの行動原理には、共通する部分があります(現れ方はずいぶん違うけど)。

 シリーズ構成を担当した高橋ナツコのインタビューによれば、2:1の構図はアニメ化にあたって意識的に強調されたもののようですが(とくに第5話)、このおかげで「なぜこの子たちが、ここまでコミュニケーションに一生懸命なのか?」という動機の一端にも触れることができていて、非常に上手い操作だったと思います。

 さて、2:1の構図が強調されはじめるので、ゆずこがちょっと可哀想な感じもする第3話ですが、そのままの雰囲気では終わりません。ゆずこのいないところでの、唯と縁の会話。ゆずこの夢ってなんだろう?といぶかる唯に、縁がサラッと答えます。

 

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 「えっとね、3人がずっと仲いいことだよ」

 ずばり、作品テーマの提示。派手なイベントなんてなくても、3人が仲良しでいる日常がスペシャルなものという「ノーイベント グッドライフ」。12話構成のアニメでは、第3話と第9話でテーマの提示(明示)や大きな転換などのアクセントが置かれることが多いようですが、『ゆゆ式』もその例に漏れません。

 縁の言葉をきいた唯は「なんだそれ、手堅い夢だな」と照れますが、ここで3人のポジションがあらためて明確になります。楽しい「今」をがんばって維持しようとするゆずこ、「3人が仲良し」なのは当然と思っている自然体な(そしてだからこそよりいっそう残りの2人から好かれる)唯、そんな2人をニコニコと見守る理解者としての縁。

 そういう意味で、この会話ってすごく重要なんだけど、そこをほとんど強調しない演出がカッコいいです。ちょっと間をあけてひっかかりを作る程度。こういうシーンで、いい感じのBGMとかが流れてしまったらかなりダサいんだけど、『ゆゆ式』はそんな野暮はやらないのだ!日常系アニメはこういう風に洗練されていてほしい。

 

◯独立性と、コミュニケーションの緊張感

 このように、作中のキャラクターたちが「コミュニケーションをとる意味」に自覚的な『ゆゆ式』ですが、コミュニケーションの前提となるのは、ひとりひとりのキャラクターの独立性、キャラクター同士の「あいだ」にある距離です。距離があるからコミュニケーションが発生する、そしてそこにはすれ違いや緊張感が生じる場合もある。

 さきほどの2:1の話でいえば、第5話(サブタイもズバリ『唯と縁 とゆずこ』…なんて露骨な!)で、もう一度この関係性と、ゆずこの一抹の寂しさ(「ぐねっとくもんだね」)が強調されます。

 そしてシリーズの後半では、岡野とゆずこの間に漂う緊張感も見所。人と人との距離感に鈍感なところのある岡野に対して、ゆずこが(一方的に)ややイラッとしている感じがかなりスリリング。なにしろ、ゆずこはそのあたり超敏感、超繊細です。岡野が唐突に会話にまざってきたときの、ゆずこの表情(無表情)とかもう…。

 そんなゆずこのイライラがピークに達するのが、第9話『まじゃりんこ』。

 唯にたいして馴れ馴れしく(?)ボディタッチする岡野にイラつくゆずこ(ここは疑似同性愛的な嫉妬云々じゃなくて、いきなりの距離の詰め方に反発を覚えている、と解釈したほうが妥当だと思います)*3

 

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 さらに「唯と縁はたしかに幼馴染みって感じするな」という追い打ち(悪気はまったくないまま地雷を踏みぬく)で、ゆずこが奇声をあげながら岡野に襲いかかる事態にまで発展。

 ギャグっぽく処理されてるけど、このあたりはかなりハラハラする展開。おそらくゆずこの気持ちをわかっているであろう縁は、内心ドキドキだったんじゃなかろうか…。いや、岡野は全然悪い子じゃないんですけどね。たぶん相性の問題。

 このあと、あの「パン人間か!」のやりとりをきっかけに両グループは接近していきます。第9話の大きな転換で、岡野とゆずこの間の緊張感(ゆずこが一方的に感じてたんだけど)も一段落。でも、ゆずこが高校を卒業したあと、相川とはもしかしたら連絡をとったりすることがあるかもだけど、岡野とは自然消滅だろうなー、みたいな想像をかき立てる距離感が絶妙。

 

◯カバンとナベ

 「キャラクターの独立性」の表現としては、カバンの描写も印象的でした。部室のカバンの置かれ方でキャラクターの関係性を表現する…といえば『けいおん!』ですが、『ゆゆ式』にも何度かこの描写が出てきます(覚えてる限りでは5回ぐらいだけど、実際にはもっとあったかも知れないです)。

 『けいおん!』では、キャラクターたちの仲の良さをイメージさせるようにカバンが互いにもたれあっていたり、はたまた卒業のときには、卒業組と在校生である梓のカバンが離して置かれたりと、演出にフル活用されていました。

 これが『ゆゆ式』の場合だと、3つのカバンがちょっとずつ「あいだ」をあけて置かれているという描かれ方がされていて、ここは作品のカラーが表れていて面白いです。独立したキャラクターの「あいだ」に発生するコミュニケーション(ただし原作にはちょっと違う描写も登場します→*4)。

 

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 もうひとつ、食事シーンも特徴的でした。皆でおいしそうに食事をするシーンは、キャラクター同士の親密度を表現する手段としてよくアニメにも登場しますが、『ゆゆ式』での食事シーンの扱いはちょっと違います。お弁当を一緒に食べるシーンは多いですが、そこで描かれるのはあくまで「コミュニケーションの過程」。だから、お弁当のシーンの途中で、ゆずこが2:1の寂しさを感じたりすることもある。

 さらに第6話『初雪なべ』では、ものを食べる描写すら省かれています。ナベをみんなでおいしそうにつつくシーンなんて「いい場面感」が出やすいので、作り手としてはやりたくなる場面なのではないかと思うのですが、でもやらない。

 シリーズ構成・高橋ナツコのインタビューから。

 

第6話のお母さん先生の家での鍋パーティも随分悩みましたね。あそこも鍋パーティなのに、原作にはお鍋を食べてるシーンがほぼないんですよ。

だから始めは、お鍋を食べながら4人でネタをやるのが楽しいんじゃないか、って案も出ました。それであの場に上手く合いそうな会話を原作から見つけてきて当てはめてみたりもしてみたんですね。普通のアニメなら絶対に、お鍋を食べてるときの楽しい雰囲気を描くものなので。

でも書いてみたら、やっぱり違ったんですよ。お鍋を食べに行くってイベントはとても重要なんですけど、あの子たちは無駄な時間がほとんどない3人なので、お鍋を食べながらのんびり楽しそうにしてる雰囲気が全然合わなかったんです。

 

 鍋を食べる描写をいれる「無駄な時間がない」のであれば、じゃあ『ゆゆ式』ではいったい何に時間がさかれているのか?といえば、圧倒的にコミュニケーションの「過程」。このエピソードでも、「仲の良さ」の表れとしての食事シーンよりも、「仲の良さ」を維持するコミュニケーションの描写にひたすらエネルギーが注がれています。

 たとえば、ゆずこがお母さん先生に「クローゼットの中みせて」と言い出す場面。みせてくれたら宿題4ページはするよ!がんばるよ!と食い下がるゆずこに、お母さん先生は「じゃあ5ページだしたら?」→あっさり引き下がるゆずこ。

 本当にクローゼットの中が見たかったわけじゃなくて、それにまつわるやりとり=コミュニケーションを楽しんでいたんですね。

 

◯むすび

 このように、コミュニケーションを独自の角度からとんでもなく微視的(もちろん賞賛の意味)に描いていた『ゆゆ式』。そしてコミュニケーションにこだわっているからこそ、キャラクター同士の距離感も(ネガティヴなものではなく、人と人のあいだに当然存在するものとして)きちんと描かれています。

 これは『けいおん!』などにも共通する、優れた日常系アニメの特徴。「日常系アニメ」って、かわいい女の子たちの「群れ」を描いてるようにとられることもありますけど、実際には、それぞれのキャラクターの実在感を真面目に掘り下げている作品であればあるほど、キャラクター間の距離も浮かび上がってくる、という部分があると思います。

 続くその②では、「分人」という言葉を軸にして、『ゆゆ式』で描かれたコミュニケーションについて見ていきたいと思います。

 

※その② → 「分人」の視点からみる『ゆゆ式』 

 

 

*1:ゆゆ式』は、その脱力感から『キルミーベイベー』(大好き)と比較されることもありますが、『キルミー』はあくまでキャラが「ネタ」を披露する「ギャグ」要素の強い作品です。だた、アニメ版最終回の展開(やすながソーニャに絡むのは、殺しの仕事に行ってほしくないから、ということを訴える)で、突然メタ・コミュニケーション=日常系的側面が前面に出てくる、というアクロバティックな転向をみせます。この展開については、ファンの間でも賛否あったようです。

*2:関連記事→『たまこまーけっと』を振り返る 序論「結局、デラってなんだったの?」 北白川たまこの孤独と、その解消 

*3:映画『少年メリケンサック』の撮影中、監督の宮藤官九郎が主演の宮﨑あおいに対して、当初「宮﨑さん」と呼んでいたんだけど、それだとなんだか演技指導がやりづらい。それで「あおいちゃん」に切り替えたかったんだけど、そのタイミングをなかなかつかめずにすごく苦労した。「だから、最初から馴れ馴れしく ”あおいちゃん” とか呼ぶ奴は許せないですよ!」という話をしていたのを見た事がありますが、ゆずこの怒りもこういう類いのものだったんじゃないかと想像します。

*4:原作の最新6巻では、3つのカバンがもたれあって置かれている様子がアップで描かれているコマに、「もう3年生だよね」「今年と来年色んなことしよー?」「やったこと全部憶えてようね」みたいな会話が被さっています。え、なにこの終りが近い感じ...