『PSYCO-PASS サイコパス2』を振り返る:前編
2期の前半(第1~5話)については以前に感想を書いたんですけど、今回はシリーズ通しての振り返り記事です。以前の記事と内容がかぶっている部分もありますが、ご了承ください。
当記事は、こんな感じで話を進めていきます。
・前置き(1期と2期で描かれる「正義」の違い)
・2期で描かれる、社会システムに関するふたつのテーマ
・「集合的サイコパス」の誕生
今回ちょっと長くなってしまったので、前・後編にわけてみました(約5,500字ずつ)。以下の本文では『サイコパス』1期・2期のネタバレをしています。
◯前置き:ふたつの正義
以前の感想にも書いたことですが、 『サイコパス』1期ではストーリー終盤において、男女キャラのあいだで物語上の「役割分担」がおこなわれています。すなわち、
・朱が担当する「社会秩序の維持」にまつわるマクロな物語
・槙島・狡噛が担当する、個人対個人のミクロな物語
ですね。これを「正義」の観点から言い直すと、
・朱=視野を社会全体にむけたマクロな正義を担当
・狡噛=いま、目の前の悪を叩くミクロな正義を担当
ということになります。
「いま、目の前の悪」=槙島を追ってシビュラシステムの外に出ていった狡噛は、劇場版(感想 )でも、傭兵団のリーダーを「こいつを叩いても、同じようなヤツはいくらでも出て来る」と知りながら追っていきます。
多くの「悪」が社会の構造から発生する...つまり、構造自体を何とかしないことにはキリがないことは理解しつつ、それでも「目の前の悪」を見逃せないという彼のキャラクターがよく出ていました(もちろん「目の前の悪」に対処することも重要なのは言うまでもありません)。
それで、ちょっとメタな視点でエンタメ作品としての『サイコパス』ということを考えてみると、狡噛サイドの「いま、目の前の悪を叩く正義」は、最終的に「その相手を倒せばとりあえずはゴール」なので、そのゴールに到達することで物語的なカタルシスを作品にもたらすことができます。
いっぽう、システムの内側で「マクロな正義」を担当する朱サイドの物語では、明快なカタルシスは描きにくい。マクロな正義=社会秩序の維持のためには権力(システム)が必要で、だからいくらシビュラシステムに虐げられている人々がいるからといって、じゃあ問答無用でシビュラをブッ壊せばOKかというとそうではない。
ーー:虚淵作品では反体制の人は社会の強者であることが多いような。朱もエリートですし。その理由は何か思いつかれますか?
虚淵:たしかに自分の作品だと、抵抗する人は、権力者に抵抗するだけの力を持っている者が多いです。それは「権力そのものが不当だ」という発想が別にないからですかね。権力がなくなったら、焼け野原になって終わり、ということになってしまいますし。
権力の空白が発生するのがどれだけやばいかというのは、現実のニュースでも嫌というほど報道されています。
1期はこの2つの「正義」を別々のキャラクターに担当させて、容易には解決が描けない「マクロな正義」の難しさ、ジレンマを提示したあとに、カタルシスのある「ミクロな正義」の執行でもってシリーズを締めていたわけですね。うまい構成です。
そしてシリーズ構成に冲方丁、脚本に熊谷純をむかえて、朱を主人公*1に据えた2期では、1期で問題の端緒が提示された「マクロな正義」、システムに関するテーマががっつり引き受けられていきます。
◯システムに関する2つのテーマ
2期では「人は社会システムとどう向きあうべきか?」というテーマが扱われていますが、この大テーマは2つのサブテーマに分岐して描かれます。
① 公正ではないシステムの中で、個人はどう振るまうべきか(ミクロな視点)
②公正ではないシステムにどう対抗するか(マクロな視点)
第1~6話ぐらいまでは、おもにテーマ①が描かれます(なので、私が以前書いた2期前半の感想もこの話題で占められています)。
いっぽうテーマ②は、第7話あたりから本格的に浮上してきます(もちろん水面下ではずっと①と同時進行していたわけですが)。けっして公正とはいえない、でも一定の必要性を備えた強力なシステムとどう向き合えばいいのか。
この①→②へのテーマ的な変遷を経て、最後に「集合的サイコパス」というあらたな概念が登場する...というのが2期の大まかな流れでした。
それでは、まずはシリーズ前半で描かれた①についてみていきます。
◯公正ではないシステムの中で、個人はどう振るまうべきか
・1期と2期で描かれた「悪」の違い
ここは、以前の記事と内容がかぶる部分なんですが。
第1~5話の感想でも「アドルフ・アイヒマン的な悪」という言葉を使ってみたりしましたけど、このテーマ①の下敷きになっているのは、政治哲学者のハンナ・アーレントが提唱した「悪の凡庸さ(陳腐さ)」という問題意識でした。
(2期は全体的に、かなりアーレントを意識した作りになっていたと思います。)
アドルフ・アイヒマンはナチス政権下で進められたホロコーストにおいて中心的な役割を占めた人物ですが、戦後に彼の裁判を傍聴したアーレントは、数百万のユダヤ人の殺戮に関与したアイヒマンが、怪物的な「極悪人」ではなく、与えられた仕事をこなすだけの平凡な役人だったことに衝撃を受けました。
そういう普通の人間が、盲目的にナチス政権という「システム」の歯車のひとつとして機能することで、数百万のユダヤ人を死に追いやる。誰の目にもあきらかな「能動的な悪」ではなく、システムに盲従する凡庸さが巨大な「悪」としてあらわれるこのような事態を、アーレントは「悪の凡庸さ」と表現しました。
自らの意思によってなされる「能動的な悪」と、システムに盲従する「受動的な悪」。これはそのまま、『サイコパス』1期と2期で描かれた「悪」の性質の違いを表しています。「正義」にふたつの種類があることに対応するように、「悪」にもふたつの種類があるんですね。
・1期「いま、目の前の悪を叩く正義」⇔「個人的・能動的な悪」
・2期「社会システムにまつわる正義」⇔「システムに盲従する受動的な悪」
1期で描かれる「悪」は、シビュラシステムに反発を感じる犯罪者たちによる、一般人にたいする積極的な攻撃でした。彼らの犯罪は、彼ら自身の意思によってなされる能動的な「悪」なので、殺人の手口も残虐だったり、凝っていたりした。
それにたいして2期で描かれる「悪」は、システムの「歯車」として機能する人間たちによる「お仕事」としてなされます。なので、彼らによる殺人の描写は非常に淡々と描かれます。システマチックな大量殺戮のイメージ。
それがもっとも大規模に展開されたのが、第5話で描かれた、公安メンバーによる一般市民の殺戮シーン。このシーンの演出に注目してみると、しらっとした白昼のビル街で、あっけなく次々と人体が破裂していく様子を、引きの画を多用してクールに描いていることがわかります。感情を排した非ドラマチックな演出が選択されている。
シビュラの判定を疑うことなく、助けを求める一般市民の殺害を躊躇なく命じる監視官。個別性を認識されることなく、サイコパスの数値だけを基準にシャッター越しに射殺される青柳監視官。
ここでの公安メンバーたちは、彼らが含まれるシステムの法律にしたがって、職務をまっとうに遂行しているという意識をもっているようです。システム自体が正しいかどうかというところには意識が及んでいない。アイヒマンが、あくまでナチスドイツの法律にしたがって職務を遂行したみたいに。
自分の昇進にはおそろしく熱心だったということのほかに彼には何らの動機もなかったのだ。そうしてこの熱心さはそれ自体としては決して犯罪的なものではなかった。(...)俗な表現をするなら、彼は自分のしていることがどういうことか全然わかっていなかった。(...)完全な無思想性ーーこれは愚かさとは決して同じではないーー、それがあの時代の最大の犯罪者の一人になる要因だったのだ。
この記述は、決して「愚か」ではないはずの、むしろエリート層の公安メンバーたちの「無思想性」、思考停止的な態度とかなり一致します。
・悪としての思考停止
このように2期で描かれるのは、システムへの盲従、思考停止が「悪」を呼び込むという認識で、これは第1話ラストの朱のセリフでも表現されています。「俺たち潜在犯は、社会に必要ないのかよ!」という犯人にたいして、朱はこう答えていました。
「必要よ。あなたも、あなたの作った爆弾も。社会がかならず正しいわけじゃない。だからこそ私たちは、正しく生きなければならない。間違いを正したい、というあなたの心も、あなたの能力も、この社会には必要なものよ。社会は一人一人が集まって作られるもの。あなたが正しくあることが、社会を正しくすることでもある。」
「あなたの作った爆弾も」必要というのは挑発的ですが、これはいまの社会システムのあり方を疑う懐疑的知性もまた、社会には必要なんだ、ということなんじゃないかと思います。裏をかえせば、既存の社会システムのあり方を疑わずに、盲目的にのっかっていくような態度が2期の「作中悪」。
そして、それに続く東金執行官のセリフ。
「お前は部品なんかじゃない。社会が強制しても抗う心があるかぎり、一人の人間だ。」
東金さん、めっちゃ良い事いうとるやん…。このあとの彼の豹変っぷりを思うと色々と感慨深いですけど、これ朱が喜びそうなセリフを意識して喋ってたんだろうな(笑)。
この東金のセリフもまたアーレントっぽくて、アイヒマンらが法廷で展開した「自分はシステムのなかで(歯車として)職務を全うしただけだ。自分がやらなくても、他の誰かが同じ行為をしただろう。罪は個人ではなくシステムにある」みたいな主張にたいして、彼女はこう書いています。
(...)というのは、「わたしではなく、わたしがそのたんなる歯車にすぎなかったシステムが実行したのです」という被告の答えにたいしては、法廷はただちに次の問いを提起するからです。「それではあなたは、そのような状況において、なぜ歯車になったのですか。なぜ歯車でありつづけたのですか」
(ハンナ・アーレント『独裁体制のもとでの個人の責任』)
「歯車」、東金執行官の言葉でいえば「部品」ですね。自分で判断することを放棄して、システムの「部品」でありつづけた「個人」の罪を問うている。この発想のベースになっているのは、「法廷は、システムや主義、立場や地位といった事柄ではなく、あくまで "ひとりの人間" の具体的な “行為” を裁く場である」という認識です。
こんな感じで、シリーズの第1~6話あたりまでは、思考停止の結果として表出する「凡庸な悪」と、思考を止めない朱の姿を対比させて描くことで、「公正ではないシステムの中で、個人はどう振るまうべきか」というテーマが描かれていきました。
システムに盲従するのではなく、かといってその真逆にシステムの破壊に走るのでもなく、つねに懐疑心をもってシステムを監視する、というのが朱のとっている態度です。
システムが存在することで社会の安定が保たれているメリットは評価しながら「でも、これでいいんだろうか?」と疑い続けること。わかりやすい「答え」に飛びつかずに考え続ける、というアーレント的な態度。
・霜月に集約されていく「悪の凡庸さ」
思考を止めない朱と、他の監視官たちの態度の違いは、ちょっとしたシーンにも表れています。第5話、パトカーで現場に向かうときの車中の描写。朱は自分でハンドルを握っているのにたいして、他の課の監視官は運転をオートモードにしてリラックスしています。
朱は不測の事態に対応できるように常にハンドルを握っているのにたいして、他の監視官は、シビュラの監視下で想定外など起こりえない、と高をくくっているような雰囲気*2。
そして、シリーズ前半でかなりの大人数を巻き込んで描かれた「悪の凡庸さ」というモチーフは、後半になると霜月監視官ひとりに整理・集約されていきます。第11話、シビュラに全てを委ねた霜月の「思考放棄宣言」。
「秘密を守ります。いえ、全部忘れます!なにも知りません!わたし、シビュラを信じます。わたし、この社会が大好きですから!」
強い...。ここまで行くとすごいというか、もはやこの「凡庸さ」はイレギュラーなんじゃないかという気がするぐらいです。
そして劇場版でのこの表情である。
うぜえ。美佳ちゃん、あっぱれのしぶとさ。
こんな感じで、シリーズ前半で描かれた「悪の凡庸さ」というミクロなテーマと入れ替わりに、シリーズ後半でクローズアップされてくるのが、鹿矛囲が担当するマクロなテーマ=「公正ではないシステムにどう対抗するか」。
公正ではない、でも強力なシステムと渡りあうにはどうすればいいのか。