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『PSYCO-PASS サイコパス2』を振り返る:後編

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※前編はこちら

◯公正ではないシステムにどう対抗するか

・システムvs.システム

 『劇場版サイコパス』の感想のなかで、私は「”個” はシステムに敵わない。システムには、システムで対抗する必要がある」みたいなことを書いていました。

 (以下、虚淵玄が脚本を担当した『魔法少女まどか☆マギカ』のネタバレがあるのでいちおう注意です)。

 

科学哲学者のピエール・デュエムは「データが仮説をくつがえすわけではない。仮説を倒すことができるのは仮説だけである」と言ったそうで、これは、科学において現在主流の「仮説」を否定する「データ」を断片のまま提出しても、それは無視されてしまう。「仮説」を否定するためには、べつな「仮説」を編み上げて、それをぶつける必要がある、という意味だそうですが、この「断片としてのデータ」を「個」、「体系づけられた仮説」を「システム」と読み替えると、『まどマギ』はまさにそういう話でした。

QBの作った「魔法少女システム」に、さやかやほむらはバラバラな「個」としてゲリラ的に抵抗するんだけど、それだと負けてしまう。それに対して、まどかは「新・魔法少女システム」を編み上げて、旧システムを上書きしてしまうんですよね。 

魔法のある世界観だった『まどマギ』では、そのような大胆なシステム改変が一挙に可能になりましたが、もっとリアル寄りの『サイコパス』では、現在稼働しているシステムを、涙をのんで「とりあえず」認めるという朱の苦い決断が描かれることになります。

『劇場版 PSYCO-PASS サイコパス』感想 

 

 『まどマギ』の主人公である鹿目まどかは、QBとなかなか契約しないことによって、ずっと「魔法少女システム」の外側=メタポジションに身を置いている(そのことで「魔法少女システム」の弊害から免れている)。そして最後には、自分が「システムそのもの」になることで、魔法少女たちを苦しめる不公正なシステムを上書きしてしまう。

 つまり彼女は鹿目まどかという「個人としての生」を放棄し、自らを「システム」に変化させることによって、QBの構築した「魔法少女システム」に対抗したのですね。システムにはシステムを。

 それで、『サイコパス2』でシビュラシステムに対抗する「システム」として登場したのが、鹿矛囲桐斗です。

 1期でも描かれたとおり、シビュラはシステムに適合しないイレギュラー(=免罪体質者)を自らの内に取り込むことで、その完全性を保っています。どんなものにも「例外」はつきものだけど、その「例外」をも取り込んでしまう。

 免罪体質者といえども「サイコパスを計測できる」という点において完全なイレギュラーではないわけです。言い方をかえると、免罪体質者という「個人」は、シビュラという「システム」に取り込むことができる。

 いっぽう「新たな例外」である鹿矛囲は「個人」ではなく、複数の人格がひとりの人間の形をとった、つまりは集合的・システム的な存在です。

 鹿矛囲が誕生した背景には、かつての経済省と厚生省の権力争いがありました。経済省推しのシステム「パノプティコン」と、厚生省推しの「シビュラ」の主導権争い。その争いの結果として「地獄の季節」と呼ばれる、航空・交通事故が多発する期間が発生し、その犠牲から生まれたのが、複数の人格が結合した鹿矛囲桐斗。

 シビュラがいったんは葬ったはずの「シビュラに対抗するシステム=パノプティコン」が、形をかえて亡霊のように蘇ってきたわけです。そして「個人」を徹底的に管理するシステムであるシビュラ*1は、集合的・システム的な存在(いわば「非・個人的存在」)である鹿矛囲を「見る」ことも「取り込む」こともできない。

 


・「裁きのモノサシ」の相対化

 鹿矛囲の目的は、鹿矛囲と同じく集合的な存在である...つまり現在は裁きの対象外であるシビュラを、裁きの対象に含めることです。

 「自分自身は裁かれない」という、裁きの枠の「外側」で絶対的なモノサシとして機能していたシビュラを、枠の「内側」に引き入れること、裁きのモノサシを相対化すること。これが鹿矛囲の目的でした。

 このあたりは、第10話の朱とシビュラのやりとりで説明されていましたね。

 

「鹿矛囲の目的はシビュラシステムを裁くこと。あなたはそれを受け入れるべきよ。それが鹿矛囲を裁くことにもつながる。あなたたちは、免罪体質という裁くことができない例外を取り込むことで、完全な裁きを実現させてきた。しかし、新たな例外が生まれた。個人でなく集合体として形をなす鹿矛囲。彼を裁くには、彼を成り立たせている概念をシビュラが認める他ない。」

「君はなにを口にしているのかわかっていない。あれを裁くには集合体としてのサイコパスを計測する必要がある。だがそうなれば…」

「集合体であるシビュラも裁きの対象になる。それが彼の狙いだった。自ら社会の脅威となることで、集合的サイコパスを認めざるを得ない状況をつくり、あなたたちをパラドクスに追いこんだうえで、裁く。」

 

 そして「集合的サイコパス」という概念をシビュラに認めさせることで、シビュラ自身が裁かれる可能性が開かれました。裁きのモノサシが相対化された以上、サイコパスがクリアな朱のような存在がシビュラにドミネーターを向ければ、シビュラは「執行対象としてシビュラ自身に認識される」かもしれない。

 鹿矛囲から朱へのセリフ。

 

「君こそ、なぜシビュラにドミネーターを向けない?集合的であるならば、ドミネーターを向ける者もまたその一部になる。別の誰かが向ければ、あれは違う色になるかもしれない。」

 

 シビュラをこのようなパラドクスに追い込むことができたのは、鹿矛囲が「個人」ではなく「集合的・システム的な存在」だったから。鹿矛囲は「システムにはシステムで対抗する」という、鹿目まどかと同様の方法でシビュラを公正な方向に調整したんですね。

 いまあるシステムを全否定するのではなく、より公正な方向に調整していこう...という基本的な志自体は、朱と鹿矛囲は一致していました。ただ、鹿矛囲はそこで血を流す手段(テロリズム)を選択した。ここが両者の道の分かれ目でした。

 

 

 

◯「集合的サイコパス」の登場

・「罪」と「責任」

 「集合的サイコパス」というあらたな概念をシビュラが認めたことで、それまで透明だった鹿矛囲には「色」がつき、ドミネーターで処分されますが、ここであらたな可能性が浮上します。第11話、シビュラのセリフ。

 

「集合的サイコパス。遠くない未来、集団が基準となる社会がおとずれる。個人としてクリアでも、集団としてクリアでない可能性。」

 

 この問題設定もアーレントっぽいというか、アーレントの主張のひっくり返しみたいな感じになっています。

 さきほどの引用でも、アーレントは「個人」を強調していましたが、これは第二次大戦後のドイツで、「ナチスの台頭を許したわれわれドイツ人全員に “罪” がある」という声が高まったことへの反発がベースになっているようです。

 アーレントは、一見倫理的に思えるこのような発想は、実際に手を下した犯罪者の罪を裁けなくしてしまうことにつながるものだとして、「罪」と「責任」を分けて考えるべきだと主張しました。「罪」は個人にたいして適用されるべきもので、法廷で裁かれるのは「個人の罪」である。「集団の罪」というものはない(法廷では扱えない)。

 

「 ”わたしたちの誰にも罪がある” という叫びは、初めはとても高貴な姿勢にみえて、誘惑的なものでした。しかしこの叫びは実際に罪を負っていた人々の罪を軽くする役割をはたしただけだったのです。わたしたちのすべてに罪があるのだとしたら、誰にも罪はないということになってしまうからです。」

「罪は責任とは違って、つねに単独の個人を対象とします。どこまでも個人の問題なのです。罪とは意図や潜在的な可能性ではなく、行為にかかわるものです。わたしたちが、父親や、国民や、人類の罪にたいして、まとめて言えば自分で実行していない行為について、罪を感じると言うことができるのは、比喩的な意味においてだけです。」

ハンナ・アーレント『集団責任』)

 

 いっぽうで、集団(たとえば国家)は「責任」は負わなければならない、とも書いているので、そこは注意が必要です*2

 

すべての政府は、それ以前の政権の行為と過失の責任をひきうけるのであり、すべての国は過去の行為と過失をひきうけるのです。(...)わたしたちはつねに、父親たちの善き行いの成果を享受すると同時に、父親たちの罪の責任を負うのです。しかしもちろんわたしたちは父親たちの過誤の罪を問われることはありませんし、その善行をみずからの善き行いに含めることもありません。

ハンナ・アーレント『集団責任』)

 


・「集団責任」→「集団の罪」

 アーレントは「悪の凡庸さ」、我々のようなごく平凡な人間がシステムに思考を明け渡すことで、巨大な悪を遂行してしまうことの危険性、システムが持つ暴力性を指摘したうえで、それでも(だからこそ)裁きの場面での「個人」という単位、個人の罪を強調したのですが、「集合的サイコパス」はこれをひっくり返してしまう概念です。

 なにしろ集合的サイコパスという概念の下では、個人は何もしていなくても、「自分で実行していない行為について」集団の成員のひとりとして有罪判定を喰らってしまう可能性がある。「集団責任」が「集団の罪」になってしまうわけです。「個人としてクリアでも、集団としてクリアでない可能性。」

 シビュラから朱へのセリフは、こんなふうに続きます。

 

「その疑心暗鬼が混乱をまねき、かつてない魔女狩り社会がおとずれ、その結果、裁きは大量殺戮へと変貌を遂げるかもしれない。その扉を開いたのは、君だ。」

 

 「魔女狩り」は、すでにシビュラ自身が実行していましたよね。集合的サイコパスを認めた直後、鹿矛囲にドミネーターを向けられたシビュラの犯罪係数は、最初307を記録していました。執行対象です。

 すると、シビュラを構成する脳のうちのいくつかがデリートされていく。犯罪係数を上げる要因になっていた脳が切り捨てられたんですね。結果、シビュラの犯罪係数は下降。執行対象外になります。

 

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 これと同じことが、人間社会で起こるぞ、と。これにたいする朱の答えはこうです。

 

「私はそこまで悲観してない。おとずれるのは、正しい法と秩序、平和と自由かもしれない。」

「君らしい楽観だ。」

「楽観だろうと、選ばなければ実現しない。社会が人の未来を選ぶんじゃない。人が社会の未来を選ぶの。私は、そう信じてる。」

 

 朱ちゃんすごく真っすぐなんだけど、これに関しては個人的にはうーん、シビュラの言う通りになる方に100サイコパス、という感じをもってしまいます。

 ただ、最後の「社会が人の未来を選ぶんじゃない。人が社会の未来を選ぶの。」というセリフは良かった。ここだけ抜きだして書くとちょっと照れるんだけど、第1話の

 

「社会は一人一人が集まって作られるもの。あなたが正しくあることが、社会を正しくすることでもある。」

 

 というセリフで始まった全11話のストーリーの帰結として、こういったセリフが出てくると感慨もひとしおです。「システム>人」じゃない。「人>システム」なんだ、と。

 現実の社会では、システムの暴走=「システム>人」な場面が至る所でみられるわけで、たしかに個人はシステムに敵わないかもしれないけど、でも、そもそもシステムは人のために人が作りだしたもの。

 その根本を忘れてシステムに踊らされちゃいけないよね、という、これが「人は社会システムとどう関わるべきか?」というテーマを描いてきた2期の中核にある認識だったのかな、と思います。

 


◯むすび

 最後にちょっと余談ですが、集合的サイコパスって、いつか成立した暁には「日本人すべて」、ひいては「人類すべて」を裁くことになるわけで、これはもう役割的に「神(一神教の神)」のイメージですよね。大洪水とかバベルの塔とかで、人類がひとまとめに裁かれるイメージ。

 第11話、鹿矛囲から朱へのセリフ。

 

「君が願う法の精神、もしそれが社会という存在に等しく正義の天秤となるなら、いつかその精神こそが、あそこにいる怪物を、本当の神様に変えるかもしれない。」

 

 鹿矛囲が正確にどういうつもりでこのセリフを言ったのかまでは把握しきれないですけど、この「神様」ってちょっと不穏なニュアンスも感じるんですよね。「システムと人」との関わりをがっつり描いて、最後にはテクノロジーの果ての宗教的なイメージまでチラみせしてくれた『サイコパス2』。すごく見応えのある作品でした。

 

 

※シリーズの感想

『PSYCO-PASS サイコパス』(1期)を振り返る 

『劇場版 PSYCO-PASS サイコパス』感想 

 

*1:第7話、朱のなかの狡噛のセリフ。「しかし、そこには必ず仕掛けがあるはずだ。”個人”を徹底的に管理するこの社会の隙間をついた重大な仕掛けが。」個人を管理するシビュラにとっては、集合的存在である鹿矛囲は「透明人間」でした。

*2:システムの責任について、アーレントはこうも書いています。→ 「このように、法廷の手続きや独裁体制のもとでの個人の責任という問題は、人間からシステムに責任を転嫁することを許さないものなのですが、システムの責任そのものはまったく問われないということも許されないことです。法的な観点からも道徳的な観点からも、情状という形でこのシステムの責任が問われるのです。恵まれない立場にある人々には、情状酌量するという意味で、たとえば貧困のさなかで犯罪をおかした場合などでは、口実としてではなく、こうした情状を考慮にいれることがあります。同じように戦争犯罪人の場合にも、こうしたシステムの存在を酌量するのです。」ハンナ・アーレント『独裁体制のもとでの個人の責任』)