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『たまこまーけっと』を振り返る 第5話

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 『たまこまーけっと』シリーズ通してのネタバレがありますので、ご注意ください。

 

◯第5話『一夜を共に過ごしたぜ』

 脚本:花田十輝
 絵コンテ・演出:太田里香
 作画監督:秋竹斉一

 

 『たまこまーけっと』では、北白川たまこと共に「うさぎ山商店街」という場所も「もうひとつの主役」だった、ということを「序論」に書きました。

 この作品の大きなテーマとして「日常の維持」と「多様性の肯定」のふたつがあって、前者を表現するのがたまこ、後者を表現するのが商店街、というあたりの話ですね。

 それで、商店街に焦点をあてて考えると、『たまこまーけっと』全12話は4つのパートに分けることができます。


・1話~4話   商店街の魅力をその内側から語る「安定期(その①)」
・5話~7話   商店街を外側との対比で検証する「転換期(その①)」
・8話~10話  商店街の魅力をその内側から語る「安定期(その②)」
・11話~12話 商店街を外側との対比で検証する「転換期(その②)」


 前回とりあげた第4話、お祭りのエピソードで「安定期(その①)」すなわち「第1部」は終了、第5話から作品は「第2部=転換期(その①)」に入っていくことになります。

 今回は、このようなシリーズ全体の流れの中での「第2部」、そして第5話の位置づけについてをメインに見ていきたいと思います。

 

◯シリーズ中の「第2部」の位置づけ

 第1話から第4話までのシリーズ「第1部」では、子供から大人、老人、性的少数者などさまざまな人々がともに暮らす、多様性を許容する商店街の魅力が「商店街の内側」から描かれました。

 うさぎ山商店街がある種のユートピアとして描かれていたわけですが、これは作中の世界観的にもちょっと異質な、特別な場所なんですよ、ということが提示されるのが、「第2部」に入ってからの第5話『一夜を共に過ごしたぜ』と、つづく第6話『俺の背筋も凍ったぜ』です。

                    ◯ 

 まず第5話では、臨海学校という名目で商店街の「外側」に物語の舞台をうつすことで(商店街の「不在」によって)逆説的に「商店街がどのような場所であるのか?」があぶりだされます。端的にいえば「みどりともち蔵の対立」の表面化です。

 第1話の冒頭から描かれる豆大と吾平の「 ”保守”と”革新”の思想対立」に代表されるように、うさぎ山商店街にも揉め事はあるのですが、商店街の「内側」に留まっているうちは、それは大事に至らずになんとか均衡が保たれている。でも一歩「外側」に出ると、その対立が問題になってくるよ、ということが描かれたのが第5話でした(この点に関しては、後ほどもうすこし詳しく触れます)。

 作中の「うさぎ山商店街」は平和な場所として描かれていて、そのような理想を描くことは大事だけど、でもその語り口から取りこぼされるものも確かにあるよね、という、ちょっとメタな制作者の意識を感じさせる話になっているんですね(もちろん、どんな語り口の物語にも必ず何かしら取りこぼす要素はあるわけですが)。

 そして、表面化した対立から、お互いの意見をぶつけあうプロセスを経て(とりあえずの)和解に至るみどりともち蔵の姿が描かれます。このようなくっきりとしたドラマは、うさぎ山商店街のなかでは描かれなかった類いのものです。

 つづく第6話のお化け屋敷エピソードでは、商店街の面々が「内側」にいるがゆえに持ってしまう固定観念を、商店街の「外側」の視点を持った史織が突き崩す(これについては、次回の感想でもうちょっと詳しく書きます)。ときには「外側」の視点を導入することも大事だよね、というアングルが提示されます。

 つまり第5話と第6話は(強い表現を使えば)『たまこまーけっと』自身による「うさぎ山商店街」批判、みたいな位置づけの話になっている。「第1部」で描かれたように、商店街はたしかにユートピア的共同体かもしれないけど、その内側だけで固まってしまっていてはダメだよ、という、作品による作品の自己批評的エピソード。

                    ◯

 このふたつの話で「商店街の内側だけで固まってちゃダメだよ」という視点を準備してからの、次の第7話『あの子がお嫁に行っちゃった』では、商店街の「外側」に嫁いでいくさゆりと、「内側」に入ってくる外国人=チョイという「人の入れ替わり」が描かれます。

 ずっと変わらずに続いていくようにみえる「商店街の日常」も、じつは生き物の細胞が日々入れ替わるように、少しずつ変化しながらそのカタチを保っている。「サザエさん時空」ではない『たまこまーけっと』の世界で、もし変化がまったくなければ(人の入れ替わりなどがなければ)、「商店街の日常」にはいつか終わりがきてしまいます。

 「大切なことを変わらずに続けていくためには、変わらなければならない」というこのテーマは『たまこラブストーリー』で全面展開されていました*1

 そして、この「第2部=転換期」でのメンバー入れ替えを経た「第3部」では、「第1部」とはややカタチの変化した商店街での日常がふたたび魅力的に描かれていき、つづく第4部では「たまこにとっての商店街とはどのような存在なのか?」という形で、ふたたび商店街が検証されていきます。すっごいよく練られた構成です。


◯対立の表面化

 以上が、シリーズの転換点としての「第2部」、および第5話の位置づけでした。ここからは、第5話の内容について。

                    ◯

 たまこに想いを寄せるみどりとしては、もち蔵の存在は当然気に入らないものです。
 生まれた時からの隣どうしで、しかも異性。同性ゆえにたまこに気持ちを伝えられない、という葛藤もありそうなみどりは面白くない。ので、アバンでもち蔵にむける視線はこんな感じ。

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 このあと、臨海学校(=商店街の「外側」)で、もち蔵がたまこへ告白を試みることで、みどりvs.もち蔵の対立構図が一気に表面化します。とはいえ、基本みどりがもち蔵に一方的に食ってかかっているわけで、この回の彼女の言動はかなり自分勝手でえぐい。

 でもキャラとしては、こういうことをしてしまう子って好きです。自分の言動の理不尽さを自覚しながら、それでももち蔵に突っかかっていき、自己嫌悪…というパターンは『たまこラブストーリー』でも繰りかえされていました。

 そして、商店街を出たとたんに表面化する「みどりvs.もち蔵」の対立のほかにも、外の世界にはいろんな問題や危険があるよ、ということを表現していたのが、動物に襲われるデラの姿。デラさん、3回も襲われてます。

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 この土地の動物凶暴すぎだろ、というのもありつつ、これはあくまで「商店街の外の現実的な諸問題」の存在を寓意的に表現したもので、デラがこんなふうに動物に襲われるのは、平和なうさぎ山商店街の中では起こらなかった事態です。

 作中の世界観的にも、うさぎ山商店街はちょっと特殊な場所なんだよ、ということですね。


◯とりもてない

 これまでの感想にも書いてきた、人と人とのあいだをとりもつ存在としての「鳥+餅=とりもち」なデラ。第3話では(無意識的に)たまこと史織のあいだをとりもちましたが、今回はもち蔵とたまこの仲をとりもとうとします。

 でも、これは失敗しましたよね。みどりvs.もち蔵の対立の表面化にともなうゴタゴタで、デラはたまこに手紙を届けることを見送り、もち蔵はたまこに告白できなかった。

 つまり、うさぎ山商店街を出たことによって表面化したトラブルのせいで、デラはいつも物語で担っている役割を果たせなかったことになります*2。これもまた「いつもとは勝手が違うぞ」という、商店街の「内側」と「外側」の違いの表現ともとれますね。


◯史織とおもち

 いっぽう、第3話でデラがとりもった史織とたまこの仲は順調で、今回、史織がおもちを「おいしそう」と言い続けているのが微笑ましいです。

 臨海学校にまでおもち持参という、手のつけられないおもちジャンキーなたまこですが、なにしろ季節は真夏。「夏におもちは重たいけどねー」と常識的なリアクションをするみどりですが、史織は「おいしそう…」。

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 「夏でも、おもちを宇治金時にのせたり…あたためて…」と狂ったことを言いだすたまこ。「氷とけちゃうよ」という当然のツッコミが入るも、史織だけは「でも、それはそれでおいしそう♡」と全のっかりです。

 史織はおそらく、第3話でたまこにふるまわれたことがきっかけで、おもちが大好きになったんですね。引っ込み思案な彼女はたまこと仲良くなるのにけっこう苦労しましたが、その過程のあれこれとか、たまこ達と友達になれた嬉しさとか、そういった思い入れがおもちと結びついている。

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「おいしい…」(第3話)

 たまこと同様に、史織にとってもおもちは特別な食べ物になっているようです。そして、そのような経験を共有しないかんなと史織の温度差も良いですね。

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かんな「なんか溶接できそうな感じ」
史織 「(うっとりと)おいしそう…」
かんな「そう?」

 このギャップも、第3話の感想でふれた、山田監督のいう「キャラクター間の隙間」の表現になっています。

 かんなの「溶接できそう」は、作中におけるおもちが「きもち」の象徴になっていることの再確認的なセリフですね(関連記事『たまこまーけっと』を振り返る 第1話)。人と人とのあいだに当然のものとしてある「隙間」をつなぐ「おもち/きもち」。


◯むすび

 対立が表面化して、お互い思いのたけを吐き出したことによって、みどりともち蔵は一時休戦状態に落ち着きます。

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 もちろんこの問題は『たまこラブストーリー』で再燃するので、たまこをめぐる三角関係の明示というシンプルな意味で、この第5話は『プレ・たまこラ』といえるんですが。

 テーマ的な部分でも『たまこラブストーリー』は、この第5話をふくむ「第2部」の要素を発展させたものだったと思います。

 冒頭にも書いたように『たまこまーけっと』では、商店街の日常と、その変化の兆しが「第1部」→「第2部」…とサンドイッチ状に重ねられているんですが、たまこはどちらかというと「いまある日常」を変わらずに守ろうとするほうにベクトルが向いているキャラクターでしたよね。それだけ彼女も必死だったということだと思います。

 いっぽう「変わらないためには、変わることも必要なんだよ」というアングルを提供するのは、特定のキャラクターではなく、作品の「語り口」そのものでした(今回のように、舞台を商店街の外に移すことで商店街を検証したり、第7話で人の入れ替わりがあったり、みたいなこと)。

 この「第2部」で作品の「語り口」を通して提示された「変化の必要性」が、たまこという「キャラクター」を通してさらに明確に表現されたのが『たまこラブストーリー』だったのかなー、と。

                    ◯

 『たまこまーけっと』が「”日常” の基盤を維持しようとがんばるたまこの物語」と、「その ”日常” の上で展開されるさまざまなキャラクターたちの物語」という二層構造をもっている…という話はさんざん書いてきましたが、後者の「日常のなかで展開される物語」のなかでも、みどりのたまこへの想いはとても大きなパートを占めていましたよね。

 ほとんどみどりが『たまこまーけっと』の裏主人公というか、この作品が、主人公であるたまこの物語を「あからさまには語らない」という特殊な構造をそなえているために、むしろたまこが裏主人公で、みどりの方が「表」主人公っぽく見える瞬間も多々ありました。

 たまこの、亡き母にたいする想いや、日常を維持していこうとするうえでの葛藤の描写が徹底的に抑制されているのにくらべて、みどりのたまこへの想いはわりと正面から描かれるんですよね。だからみどりは、作中でも感情移入のしやすいキャラクターだったと思います。

 

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*1:中二病でも恋がしたい!戀』のキーワード「連関天測」もこういうことでしたよね。京アニは、作品をまたいでテーマ性を継続・更新していく作家性を備えたスタジオですが、これもその一例です→「連関天則」の意味するもの 〜中二病でも恋がしたい!戀 感想② 

*2:デラが作中で果たした役割については「序論」を参照。