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『たまこまーけっと』を振り返る 第1話

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 2回にわたる前振り(「序論」「第0話 オ−プニングについて」 )を経て、やっとこさ第1話の振り返りです。『たまこまーけっと』シリーズ全話+『たまこラブストーリー』のネタバレがありますのでご注意ください。

◯第1話『あの子はかわいいもち屋の娘』 

 脚本:吉田玲子
 絵コンテ・演出:山田尚子
 作画監督堀口悠紀子


 記事を書くにあたってあらためて第1話を観返したんですけど、すごい情報量なんですよね、この話。テーマとかキャラや場所の紹介とか、作品のエッセンスが詰め込まれている。アニメの第1話ってそういうものだけど、それにしてもよく説明臭さを感じさせずに、これだけの情報を盛り込めたものだなー、と。

 とても全部は網羅しきれない&作画などの技術面については、残念ながら詳しく語るほどの知識がないので(アバンで描かれた、下校する3人娘の動きがすごい!とか)、作品テーマと関連する項目に絞って、第1話を振り返ってみたいと思います。


◯サブタイトルについて

 「私は」じゃなくて「あの子」は、なんですよね。

 山田監督の前作『けいおん!』は、キャラクターの「内面」に踏み込んで、彼女たちのドラマを一人称的に描き出すというよりも、キャラクターを「実在する人たち」のように扱って、実際に空間のなかで動きまわる彼女たちにカメラを向けて撮影しているかのような、三人称的な演出方針がとられていました。

 それぞれのキャラクターについて、「いま、この子はこんなふうに感じている」という心情部分はスタッフ側できちんと詰められているんだけど(それは、絵コンテなどに表れています)、そういった「内面」をセリフやモノローグなどで受け手に説明するということは(あまり)やらない*1。表現されるのは、あくまで彼女たちの「外面」。外面描写にこだわって、心情を伝えていく。

 山田監督は『けいおん!』の演出方針について、こんな風に説明しています。

けいおん!』は演出するにあたって、あの子たちのドキュメンタリーを撮るような気分で臨んでいるんです。
(『映画けいおん!』劇場用パンフレット)

 実際『けいおん!』では、通学途中のキャラクターたちをまるで手持ちカメラで撮影したかのような「手ブレ」が演出として取り入れられていたりします。あるいはシリーズ最大の「見せ場」である学園祭ライブでも、早いカット割りや派手なカメラアングルで彼女たちをロックスターのように華やかに見せるのではなく、固定アングルや長回しを使った、まるで保護者がホームビデオを撮影しているかのような雰囲気の、地味な演出方針が貫かれていました。

 (関連記事『ハナヤマタ』と『けいおん!』、演出の視点について 

 つまり、キャラクターとカメラ(あるいは演出家)とのあいだには一定の「距離」がキープされている。演出方針として、彼女たちの「内面」には(あまり)踏み込まない。

 ちょっと純文学っぽいともいえるような、こうしたある種ストイックな「対象との距離感」は『たまこまーけっと』でも健在で、というかさらに際だっていて、この作品ではたまこの直接的な心情説明はかなり抑えられています。『けいおん!』ではときおり採用されていたモノローグもほとんど登場しないし、感情表現も抑制的です。

 キャラクターデザインを担当した、堀口悠紀子のインタビューでの発言。

「山田さんのコンテって見ているとわかるのですが、押しつけがましく “わたし、今悲しいです!” って顔をあまりさせないんですよ。でも、全体を見終わった時にそういう積み重ねがバーンと効いてくる。”なんだろう、このじーんとする感じ?” みたいな。」

「たとえばわたしたちが悲しいときに、そんなに眉を寄せて歯を食いしばるか?っていう。もちろんそういう表現も好きなんですが、そういうマイナスの感情みたいなものをオブラートに包みながら、作品全体を通して伝えるっていうのが彼女の作風ですよね。」

(『Cut』2013年2月号)

 ダイレクトな感情表現の抑制*2*3。これを読んでいて思い出したのが、小津安二郎が自作について語ったインタビューでの、こんな発言です。 

つまり写真(引用者註:「活動写真」=映画のこと)に充分芝居を盛りあげてゆくのではなくて、七分目か八分目をみせておいて、そのみえない所が物のあわれにならないだろうか、というのが狙いで(...)

つまり、小説なんかでいえば行と行の間のニュアンスというか、日本画でいえば余白のよさというか、とにかく感情をむき出しにして噛み合ってゆくというのではなしに、どこかで、何となく、そういうものを味わえるものーーということなのです。

小津安二郎『僕はトウフ屋だからトウフしか作らない』)

 感情をむき出しの状態で表現せずに、それでもなお伝わっていくニュアンスを大切にする。『たまこまーけっと』では、山田監督以外の担当回でもこのような抑制の効いた演出トーンが貫かれています。

 とくに第10話、みどりが泣くシーンでジャンプカットを入れてくる(視聴者の感情移入を誘える「おいしい」シーンで、あえてそれを逸らす演出を持ってくる)とか、もう最高にかっこ良かったんですけど、そういう表現にこだわったこのアニメの特色が表れていたのが、サブタイトルの「あの子は」だったと思います。「私は」じゃなくて、「あの子は」という表現。

 一連のサブタイトルは、基本的には商店街の「外」からやってきた=視聴者に近い立ち位置のデラ視点でつけられているみたいで、主人公・たまことの適度な「距離」を感じさせるものが多くなっていました。


◯表テーマ:多様性の肯定

 「序論」でも触れた『たまこまーけっと』のふたつのテーマ、「多様性の肯定」と「日常の維持」。

 第1話から、このふたつのテーマは提示されています。まずははっきりと提示される表(?)テーマ「多様性の肯定」。

 Aパートの開始早々に描かれる、北白川家が営む「たまや」と向かいの「RICECAKE Oh!ZEE」(あらためて書くと凄いセンス)、対照的な店構えの二軒のもち屋が向かい合わせで営業している、という設定。

 明らかに不自然な店の配置は、もちろんこの作品の寓意性の高さの表れ、「ここ、ポイントですよ~」という制作者からのサインです。「保守」の豆大と、「革新」の吾平の対立。

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 二人はこの後もことあるごとに衝突するんですけど、でもお互いの存在を根底から否定することは絶対にしないんですね。あくまで正面から議論を戦わせている。子供のケンカっぽくも見えますけど、ある意味、成熟した政治的態度?

 そして、そこに割ってはいるたまこ。この姿は、オープニングアニメでも描かれています。

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(左:OP 右:第1話)

 政治的複数性、多様な価値観の共存を肯定するたまこのポジションを表したシーンですね。この意味において「北白川たまこ」という「キャラクター」と、「うさぎ山商店街」という「場」はほぼイコールの関係、『たまこまーけっと』のダブル主人公です。

 そして、子供から老人まで、さまざまなキャラとたまこの交流シーンや、キャラたちの多彩さをそのまま反映したような、商店街のカラフルな色彩。うさぎ山商店街は、さまざまな「色=個性」が共存することのできる「場」として描かれます。

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 たまこの家も、カラフルで賑やかですね。とくにたまこの部屋が可愛い!アニメに登場する「部屋」にここまでキュンとさせられたのは『耳をすませば』の団地以来かも。

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◯裏テーマ:日常の維持

 いっぽう、もう一つの「日常の維持」というテーマも、この第1話で提示されているんですけど、こちらは提示の仕方に一癖あります。

 これまで何度も触れてきたように、たまこは「日常」を維持しようという強い動機をもったヒロインですが、なぜ彼女がそこまで必死に「日常」の維持にこだわるのか?という理由は、最終回まで明かされないんですね。

 より正確にいえば、たまこが「日常」の維持に向かうきっかけになった出来事、「5年前の母の死」があったという事実=「情報」は第1話Bパートの「星とピエロ」のシーンで語られます。

 でもその出来事にさいして、たまこがどんな気持ちだったのかという、感情に色付けされた「記憶」は語られない。「情報」の提示と「記憶」の非提示。

 ちょっと唐突ですが、フランスのエレクトロ・デュオ、ダフト・パンクの片割れであるトーマ・バンガルテルは、インタビュー( DAFT PUNKインタビュー : CINRA.NET)で「情報(memory)」と「記憶、思い出(memories)」の違いについてこんな風に説明しています。

「メモリー」はデータ/ 情報であり、「メモリーズ」は同じ言葉でも「感情」がこもる。(...)同じデータと言っても人間の視点・脳には「感情」が入る。

(関連記事 ダフト・パンク『ランダム・アクセス・メモリーズ』感想 

 さきほどの「サブタイトルについて」で触れたように、『たまこまーけっと』では、主人公・たまこのダイレクトな「感情」表現はかなり抑制されています。

 どうして、たまこの母の死にまつわる「感情」が第1話時点で描かれないのか?については「序論」に書いたのでそれを参照してもらいたいのですが、この作品には、最終話まで観て、たまこの「日常」の維持にかける想いを知った上であらためて振り返ると、「ああ、この場面のたまこはこんな気持ちだったのか」と腑に落ちるような描写がいくつか登場します。 

「意味のある」断片を組み合わせて、「意味の通る」文脈を作り上げるのではありません。逆です。文脈が決まらない限り、断片は「無意味」なままなのです。まず「物語」の大枠が決まって、その後に現実的細部は意味を帯びるようになるのです。「知る」ということは、それまで意味のわからなかった断片の「意味が分かる」ということです。そして「意味が分かる」ということは要するに「ある物語の文脈の中に収まった」ということです。

内田樹『映画の構造分析』)

 「日常の維持」にかけるたまこの想い=たまこの「物語・文脈」は、あえて最終回まで視聴者には提示されません。細かな出来事の断片は、意味を帯びない「断片」として、そのまま提示されます。

 しかし、いったん物語の大枠、「文脈」があきらかになると、その「断片」が意味を帯びてくる。いわば「文脈の後だし」。

 あまり先回りするのもなんですが、たとえば第6話の冒頭で描かれた、人気のない商店街で立ちすくむたまこの姿などは「文脈」があきらかになる前と後では、ガラリと印象の変わるシーンです。一見のほほんとした印象の『たまこまーけっと』ですが、じつのところ、語り口はけっこうトリッキーなんですね。

 これも、最初に触れたような感情表現の抑制としてかっこいい手法なんですけど、「伝わりにくかった」という反省があったのか、山田監督は映画『たまこラブストーリー』のインタビューではこんなことを言っています。

あとは、感情を表現することをちゃんとしよう、観てもらう人に「?」がないようにしようと考えていました。小さな積み重ねをしつつ、一個一個のシークエンスでなるべく謎を残さないように描いています。

監督インタビュー|『たまこラブストーリー』公式サイト

 このように、やや屈折した形で提示された「日常の維持」というテーマですが、これを表すアイテムとして「商店街のスタンプカード」がありました。商店街での、何気ない毎日の積み重ねの象徴。

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 「日常の積み重ね」の象徴であるスタンプカードを嬉しそうに抱きしめるたまこ。もう片手には「お餅」と並んで、作中で「他者とのつながり、きもち」を象徴するコロッケ(関連記事 うさぎ山商店街の 「 if 」としての『甘城ブリリアントパーク』)。

 たまこの「文脈」が明かされていない初見の段階だと、なんてことないシーンなんですけど、最終話まで観た視点から「両手に花」状態で至福の表情を浮かべるたまこをみると、これはもう圧倒的に愛おしい。ええ娘や…。


◯おもちはきもち

 「お餅」の話しが出たので、ちょっとだけ。

 この作品での「お餅」は、どストレートに「気持ち」のメタファーでしたよね。ここは作品のポイントなので、制作者も「誤解させてはいけない!」と思ったのか『たまこまーけっと』としては珍しく、かなりストレートな説明を入れてきています。

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 左の額の文句は見辛いですけど「餅にくるむは私の真心」。右は「感謝の気もちはおもちで返す」。

 さらにエンディング、たまこの「おもちノート」にも「おもちのきもち」という書き込みが。

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 そして、この「おもち」を食べ過ぎたデラのグーグーガンモ、もといデブ化=「お餅化」。

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 before → after

 こうして「お餅」のような外見になったデラは、これ以降、様々な場面で人と人とのあいだを「取り持つ」役割を果たすようになります。「鳥」+「餅」=「とりもち」という言葉遊びですね。


◯死の影

 これは映画『たまこラブストーリー』があっての後付け的解釈なんですが。

 映画のなかで、たまこのお爺さんが餅を喉につまらせて病院に搬送されるというエピソードがありました。

 それまで作中で「善きもの」を象徴していた「お餅」の意味の突然の反転に、最初観たときけっこうギョッとした覚えがあるんですが(物事の両面性の表現)、あそこでたまこの頭に「いつかは必ず訪れる祖父の死」がよぎったことは間違いなくて。

 祖父の入院は『たまこラブストーリー』のテーマである「変化」に、たまこが向き合う大きな契機となるエピソードで、じっさいこれがきっかけで、母のお葬式のときのこと、そのときにもち蔵が与えてくれたものを思い出すことができたたまこでした。

 この「お餅を喉につまらせる」アクシデント、第1話でも描かれていましたよね。つきたてのお餅を喉につまらせたデラ、そして、そのときのたまこのリアクション。

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 「慌てふためく」という表現がピッタリの、たまこの動揺っぷり、そして助かったデラを抱きしめる安堵の表情。

 まあ、誰かが目の前でお餅を喉につまらせたら誰だって焦るし心配するので、たまこのリアクションは別に不自然ではないんですけど、最終回や『たまこラブストーリー』を通過した視点で振り返ると「このとき、たまこの頭には母の死がよぎっていたのかもしれない」と勘ぐってしまうシーンです。


◯星とピエロ

 以上のように、作品の核となるテーマがきっちり提示される第1話ですが、大勢登場するキャラクターや、数々の「場」のあくまでさりげない紹介テクニックも本当に凄い。脚本・吉田玲子の匠の技が炸裂しています。

 それらにひとつひとつふれていくとキリがないので、今回はとくに大切な「場」のひとつであるレコード店・兼・喫茶店「星とピエロ」について。

(商店街の店の配置に関しては、公式サイト内の商店街マップを参照)

 母・ひなこが生前にいつもハミングしていた歌の続きが聴きたくて、レコードを聴かせてもらうたまこ。「レコード=記録」ということで、「星とピエロ」は商店街のさまざまな「記録」の管理を司る「場」として設定されています。

 第9話でこの歌がみつかるのもやはり「星とピエロ」ということで、データとしての「記録」にとどまらず、感情の宿った「記憶」の保管所である感じのこのお店。村上春樹作品の「図書館」をちょっと連想させる部分もあります。

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 1Fのレコード店舗部分は最後まで登場しませんでしたが、どんな品揃えなのか気になりますね。部活の帰りにこんな店に立ち寄ってコーヒーを飲むとか、ほんと豊かな日常。こんなレコード屋あったら通うよなあ…。


◯チューベローズ

 デラが畑に紛れ込んで、そのまま一緒に出荷されてしまった花は「チューベローズ」、別名「月下香」だそうです。

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 花言葉は「危険な楽しみ 危険な戯れ 危険な快楽 危険な関係 冒険」…おお、意外とアダルトな感じ。

 とはいえ「危険な快楽」とかが当てはまるタイプの作品でもないので、注目すべきは「冒険」でしょうか。デラにとっての「異国への冒険」、たまこにとっての「デラがいる新しい日常」への「冒険」。

 ただ、最終回でもち蔵はデラとともに、このチューベローズをたまこに贈るんですよね。「おもち=きもち」な、人と人のあいだを「とりもつ」デラと、さきほど挙げたようなアダルティな花言葉をもつチューベローズのセット。

 そして『たまこラブストーリー』の冒頭、もち蔵がもてあそんでいるのは、禁断の果実=「リンゴの実」。イメージ的には、『オープニングについて』の記事中で触れた、天使としてのたまこの「堕天」にもつながるアイテムです。リンゴの花言葉は「選択、選ばれた恋」で、その後実際に、もち蔵はたまこに告白します。

 チューベローズの花言葉からイメージされる、恋への誘い。第5話で「当面、たまこに告白する気はない」みたいなことを言っていたもち蔵ですが、最終話のプレゼントのチョイスは『たまこラブストーリー』での告白を予告していた、といえるかも知れません(これも後付け的解釈ですが)。


◯紳士なデラさん

 第1話を観た時点では、個人的に「図々しくて苦手…」と思っていたデラですが、ちゃんと人の気持ちを思いやることのできる繊細なトリだということは表現されていたんですね。

 「私のことは ”アン” と呼んで!」と主張するも、家族からはまったく相手にされないあんこの気持ちを汲んで「アン」と呼んであげるデラさん。紳士です。「へんなトリに呼ばれた…」って泣かれてたけど。 

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◯むすび

 こんなに長く書くつもりじゃなかったんですが、怒濤の情報量の第1話ということで、ついこの分量になってしまいました。第2話からは、もうちょっとスリムな記事になっていく(はず)。

 最後に、第1話でグッと来たカット。

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 カーテンの隙間から漏れてくる、街灯の明かり。

 これ、子供のころ、すごく重要じゃなかったですか?夜寝るとき、天井にどのくらい明かりが反射しているのがベストなのか、カーテンの隙間を調節してみたり。友達の家に泊まりにいったときは、その部屋で明かりがどんな感じに漏れてくるのか確認したり。

 『けいおん!』で窓が「学校の外の世界と内の世界の境界」の象徴として扱われていたことを考えると、これも「 "外" の世界からの映像を"中” に投射するデラの通信機能」を先取りして表現している、とか考えられなくもないんですが。

 それよりなにより、このアニメは、子供のころの感覚を大事に覚えている人たちが作ってるんだなあ、と嬉しくなったカットでした。

 

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*1:ときには、1期第12話の唯の(感動的な)モノローグのような例外もあります。

*2:感情表現の抑制については、最近では『バンクーバーの朝日』(公式サイト)の石井裕也監督もインタビュー(cakes)で話していました。 → 「たとえば感動的なシーンになったら音楽でやたら盛り上げてみたりとか、感情をそのまま登場人物に言わせてみるとか、ベタベタにわかりやすい映画を作ろうと思えば作れます。でも、それだけでは物足りない。観客がいろいろなことを想像できたり、感じたりできるからこそ楽しい、という作品こそエンターテインメントなんじゃないかと思っていて。」

*3:もちろん、以前『『氷菓』で考える、技術と表現の関係 』という記事にも書いたように、思い切りストレートな感情表現が可能なのも、絵(記号)を使った表現である漫画・アニメが本来的に持つ強みです(実写だと、また話が違うんですけど)。堀口悠紀子さんも言っているように、そういうダイレクトな表現と、技術の進歩にともなって可能になった微妙なニュアンスの表現が、併存している状態が作品の受け手としては楽しいな、と思います。穏当に。