うさぎ山商店街の 「 if 」としての『甘城ブリリアントパーク』
もう気付いてる人も多いと思うので、ちょっと今更感あるんですけど、『たまこまーけっと』ファンとしてはやはり言っておきたい!とウズウズしてしまったので、第1話の感想もかねておもわず更新。
『甘ブリ』って、『たまこま』を意識させるシーン入れてきてますよね。
まずはOP、主人公の出勤シーンに登場する川沿いの風景と、『たまこま』『たまこラ』で印象的に描かれた川沿いの通学路。
(以下の画像は、左が『甘ブリ』右が『たまこま・たまこラ』)
つづいて、空から風船(orデラ)とともに降りてくるキャラクター。みえ...
そしてこれは「おっ!」と思ったんですが、本編に登場したコロッケ。甘ブリ総支配人・ラティファさんver.と、肉屋ジャストミートのおばちゃんver. どちらも手作り!
もちろん同じスタジオの作品なので、単なる演出遊びの線も考えられます。しかしそこをあれこれ考えてみるのもアニメ鑑賞の楽しみ…ということで、ここで仮説をひとつ。
「甘城ブリリアントパーク」は、「うさぎ山商店街」の「if」である。
『たまこま』放映時にチラホラ言われたネタで、「商店街の近所にイオンができた!っていう展開にすれば盛り上がるのに」というものがありました。
これはもちろんネタなんですけど、でもストーリーを盛り上げるうえで「障害」や「敵」を配置する、というのは、エンタメのストーリー作りにおける基本ではありますよね。その意味では、この発想は正しい。たとえばストーリー開発のマニュアル本を読むと、こんな感じのことが書いてあります。
「ドラマには対立が必要だ。主人公のいる場所と、欲しいものがある場所とのあいだに立ちふさがる何かを置くことで、緊張感やサスペンスが生まれ、観客の関心を惹きつけることができるのだ。」
「キャラクターの心の欲求を効果的に脚色するために、サディスティックに障害を置くことができているだろうか?」
(クリストファー・ボグラー&デイビッド・マッケナ『物語の法則 ~強い物語とキャラを作れるハリウッド式創作術』)
『たまこま』の主人公・たまこが「欲しいもの」は、母を亡くしたあとに築きあげた「日常」を「維持」することでした。だから、それを求めているたまこの「心の欲求」をわかりやすく視聴者に提示して、かつストーリーを盛り上げるには、その「日常」の基盤となる商店街の存続を揺るがす「敵・障害」(この場合はイオン)を配置するのが効果的だ…と、ストーリー作りの基本に素直に従えばこうなります。
明確な「対立の対象」や「障害」は出さずとも、『たまこま』でも「商店街おこし」の様子は何度か描かれていました。それをストーリーの主軸にする、というのは素直に考えれば充分にありえた方向性で、最終回で「お客がきた!」となればカタルシスもある。
でも『たまこま』はそのような、ドラマとして王道の「わかりやすく盛り上がる」方向性を採らなかった。そこが『たまこま』のチャレンジングかつかっこいいところで、そのように「たまこの『心の欲求』をあえて明確に提示しない」という方向性をとってまで表現したかったことが『たまこま』にはあった...というのはこの記事とかこの記事に書いた通りです。
でもいっぽうで、エンタメの王道はそれはそれでやっぱり良いもので。そこで、こんどは思いきり「商店街おこし」ネタをやるよ、というのが『甘ブリ』なのではなかろうかと。
これはもちろん、どちらの方向性がより良いということではなくて、それぞれの「物語の型」でしか描けないテーマがあるよ、ということですね。
(関連記事『ハナヤマタ』と『けいおん!』、演出の視点について )
OPに『たまこま』的映像をまぎれこませていることから示唆されるように、『甘ブリ』は『たまこま』では採用されなかった物語の方向性(王道コース)を採った作品で、「うさぎ山商店街」が不況や大手スーパーの進出におされて寂れてしまったら?という「if」の姿が「甘ブリ」ではないか、というドリーム解釈。
そこで象徴的なのが、冒頭にも触れたコロッケです。まあ、『甘ブリ』は原作のある作品なので、実際のところコロッケがどこまで『たまこま』を意識しているかは不明なんですけど、ここは強引に続けます。ドリーム・オン。
『たまこま』のジャストミートのおばちゃんは、売り物のコロッケをすぐ人に配ってしまうかわいいおばちゃんでしたけど(これが以前知ってたおばちゃんと雰囲気がそっくりで、キャラづくりの上手さに震撼)、このおばちゃんのコロッケは「好意のしるし」としてちゃんと受け手に渡る、幸福なコロッケとして描かれていました。
いっぽう、ラティファの手作りコロッケですが、彼女もまた、おもてなしの心でもって良いものを毎日作ってるんですね。ボロボロな「甘ブリ」最後の良心のカケラ的なコロッケで、食べてみればものすごくおいしい。でも来てくれる人がいなければ、いくらおいしいものを作っても、それは受け手に届かずに冷めていくだけ。
両作品でコロッケはおそらく「善意」とか「おもてなし」とか「関係性」みたいなものの象徴ですが(『甘ブリ』では「コンテンツ」的意味合いも加わるかも)、ラティファのおいしいコロッケは受け取り手がいない。気持ちが行き場をなくして、宙づりになっている。そこを橋渡しするのが、主人公の西也、ということになるんでしょうか。
時代の流れに乗り切れずに、それでも昔ながらの良いものを黙々と作っていた職人さんの商品が、すぐれたブランディングと結びついた結果高級品としてブレイク、みたいなグッドニュースがたまにありますけど、そういう展開は良いですね。まあ「甘ブリ」は現状ボロボロすぎるんですけど、だからホントにラティファのコロッケが最後に残った希望の象徴。
「3ヶ月後のデッドラインまでに25万人のゲストを呼ぶ」という明快すぎるぐらい明快な「目標」が提示された第1話。この目標が達成できるかどうかはさておき、もう徹底的にわかりやすくいくぜ!というこの勢いは楽しいです。
エンタメに対する西也のセリフもグッときたし、いまのところストーリーも王道感溢れてて、これはもうお色気とかも含めてドバーッ!と派手にやってほしい。ドバーッ!と。OPの手拍子をとる手がだんだん増えていく演出とか、ベタといえばベタなんだけど、やっぱりいいですね。あのOPの多幸感、クセになって何度も観てしまいました。
好感触な第1話だったので、これからが楽しみ。今期はこの『甘ブリ』と『サイコパス2』(「跳ねっ返りの新入り」という王道感!)にわさわさしてます。この2本のほかにもすごい映像のアニメがたくさん放映されてて、色々いわれもするけどやっぱりなんというか...すごいです、日本のアニメ事情。