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ねざめ堂

アニメ・映画・音楽

ダフト・パンク『ランダム・アクセス・メモリーズ』感想

音楽

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  Daft Punk  『Random Access Memories』がリリースされたのは去年の5月で、すごく気に入って夏のあいだよく聴いてました。

 大ヒットした先行シングル『Get Lucky』はえらく景気の良いイメージがあったけど、全体を通して聴くと、ムード的にも表現している内容的にも、夏の黄昏的にけっこうやるせないアルバムだよな〜、と思って書いたのが以下の文章です。

 以前他のサイトに投稿した文章なんですけど、また夏がきたのがきっかけで存在を思い出したので救済。ついでにちょっと書き足ししてみました。

 

◯Even Better Than The Real Thing

 『ランダム・アクセス・メモリーズ』はすごくゴージャスできらびやかなんだけど、同時にどこか哀しい印象をうけるアルバムです。

 まるで、閉鎖が決まった由緒ある高級ホテルで、豪華なゲストを招いた最後のパーティが開かれているような雰囲気があります。かつて栄華を誇ったものが、終わっていくときの哀しさ。イーグルスの『ホテル・カリフォルニア』というか、ルキノ・ヴィスコンティの『山猫』というか。

 その哀しさは、ポップ・ミュージックの歴史の環がすでに閉じてしまっている、という現状への認識からきている感じがします。

 

                    ◯

 

 「インターネット普及後の世界では、これまで蓄積されてきたポップ・ミュージックの歴史は、時間的な重さを喪失したフラットなデータベースになる」

 このような傾向は、YouTube登場後の数年で一気に加速しました。

 その音楽が本来背後にもつ文脈を無視して(知らなくても)、ランダムにアクセスすることが可能なデータベース*1。このアルバムは、いま音楽と向きあうときに直面するその前提を過剰なまでに引き受けようとするかのように、過去の様々な時代のサウンドを巧妙に組み合わせ、それを現代的なセンスでまとめあげて、新しいけれど懐かしい感覚を鳴らすことに成功しています。

 もちろんポップ・ミュージックは、これまでも過去の音楽の参照をくり返してきました。それはあるときは頑固な復古主義という形をとり、またあるときは数種類の音楽のサンプルを掛けあわせて、それまでにない新しい音楽を作りだそうという革新への意思を備えていました。

 でもこのアルバムは、もっと醒めた手つきで音楽を扱っているように聴こえます。

 

                    ◯

 

 私はリアルタイムでは知らないんですが、1980年代にウィントン・マルサリスが登場したときに、「ジャズの歴史の終り」を感じたジャズ・ファンは少なくなかったようです。

 ウィントン・マルサリスは、クラシックのオーケストラと軽々共演できるほどの腕前を持ったジャズ・トランペッター。しかし、新しいジャズのスタイルを創造するのではなく、過去のスタイルを「再現」していく彼のスタンスに対して、年長世代、たとえばキース・ジャレットからは「ジャズに対して、なにも新しいアイデアを付け加えていない」といった批判も受けました。

 筋金入りのジャズ・ファンとしても有名な村上春樹は彼のコンサートを聴いて、その腕前やアレンジのセンスに感嘆しながらも、こう書いています。

 

でもこの演奏を聴いていて思ったのは、「結局のところ、マリサリスたちの世代にとっては、ジャズという音楽は一種の伝統芸能に近いものになっているんだろうな」ということだった。(...)彼の演奏には愛情が、慈しみのようなものが溢れているのである。それはおそらく過ぎ去ってしまったものへの、今消え行こうとしているものへの悲しみである。(...)彼らにとっては、それはある意味では既に一度閉じてしまった環である。

村上春樹『やがて哀しき外国語』)

 

                    ◯

 

 学生時代から、なんとなくロックを中心に音楽を聴いてきた私が、個人的に「ロックの歴史の終り」を感じたのは、2001年にザ・ストロークスが登場してきたときでした。

 ガレージ・ロック・リバイバルともいわれた彼らの音楽は、もろに過去の「再現」という感じで、正直最初は「これを聴くならヴェルヴェッツやテレヴィジョンを聴くよ!」と思ったし、周囲に同じようなことを言っている人も少なくなかった。

 もちろん、それまでにもロックの世界でリバイバルは何度もあったわけですが、それでもその時代ごとの新しい要素を付け加えよう、という意図が多少は感じられたり、あるいは「自分たちが伝統を守るんだ!」という頑固さが垣間見えたりした。それに比べてザ・ストロークスの音は、力んだところが全くなく、もっと言えばどこか醒めて聴こえたわけです。

 でも、おそろしくセンスよくミニマルにまとまった彼らの音楽を聴くうちに、「このバンドは、もうロックに新しいエキサイティングなことが起こるなんて信じていない、リアリストなんじゃないか」という印象が強くなってきました。

 彼らにとって、ロックはもう「一度閉じてしまった環」なんじゃないか。どうせもう新しいことなんて起きないんだから、好きなものを上手に編集して楽しめばいい、というクレバーさ。そしてたしかに、編集とパッケージングにかけて、彼らは抜群のセンスを持っていました。

 結局、私が本格的にザ・ストロークスにのめり込むことはなかったけれど、いまでは、ひとつの時代を築いた優れたバンドだったと思っています。そして彼らの登場と、Napsterで音楽ファイルの(違法な)共有が広まったタイミングはほぼ同時期だったわけですが、それはジャズやロックといった、いち音楽ジャンルの盛衰という枠を超えた、音楽の「文脈」の喪失、総データベース化の本格的な始まりを告げていました。その約4年後には、YouTubeが登場。

 『ランダム・アクセス・メモリーズ』には、そのザ・ストロークスからジュリアン・カサブランカスが参加しています。

 

                    ◯

 

 アルバム発売にともなう本人たちのインタビューでは「音楽性へのこだわり」といったポジティヴな発言が目立っていましたが、個人的には、ここで鳴っている音楽からは、どちらかというと諦観のようなものを感じてしまいます。

 ジョルジオ・モロダーに代表される、ポップ・ミュージックにとっての真にオリジナルでワクワクするような出来事は、もうぜんぶ終わってしまった。いまできるのは、蓄積されたデータベースから任意の情報を抜きだしてシミュラークルを生成し、それと戯れることだけだ、という、一種の開き直り。

(そのような印象は、ジョルジオ・モロダーが自身の人生を振り返る『Giorgio by Moroder』でとくに強く感じます。彼の語りに続いて、モロダー節のシーケンスが鳴りはじめる瞬間。明確に過去の「再現」を意図した演出…)

 そういった目で見てしまうと、ナイル・ロジャース、ポール・ウィリアムスといった大御所たちを招聘した背後にも、どこか「自分たちは本物にはなれないことを承知で、本物と戯れる」という「ねじれ」が感じられる…というのは、あまりに穿った見方でしょうか。

 あるいはこれは、過去の「情報(メモリー)」のつぎはぎの産物であるシミュラークルに、どうにかして本物の「記憶(メモリーズ)」を定着させようとする、必死の試みなのか。ダフト・パンクの片割れ、トーマ・バンガルテルはインタビューで、「メモリー」と「メモリーズ」という言葉の違いについて語っています。

 

(...) ”メモリー” はデータ/情報であり、”メモリーズ” は同じ言葉でも “感情” がこもる。(…) 同じデータと言っても人間の視点・脳には “感情” が入る。この “感情” という本質が、ロボットと人間を分ける違いであるという理解を表現したかったんだ。極限まで設計された人工知能が感情という次元を持てるのか、とかね。

音楽に感情を取り戻すために DAFT PUNKインタビュー - インタビュー : CINRA.NET

 

                    ◯

 

 長谷敏司のSF長編小説『BEATLESS』(感想 )には、人類の知能を凌駕した超高度AIによって設計された、レイシアという少女型ロボットが登場します。

 彼女の見た目やふるまいは人間そのもの、美しい少女のカタチをとっており、高度な知性を備えていますが、感情は持ちません。人間との会話を完璧にこなし、笑ったり泣いたりもしますが、それはその場の状況にもっとも相応しいと思われる反応を、計算によって導きだした結果です。

 このレイシアに感情がないことを知りながらも、どうしようもなく彼女に惹かれていく主人公の少年の葛藤が、小説の核になっています。ここでは、

「”愛” が個人の内部ではなく、人と人との関係性=”あいだ” に発生する仮想であるならば、たとえその相手が感情をもたない “モノ” であっても、手を携えることのできる精巧な “カタチ” を備えていれば成立し得るのではないか?」

 という仮説が提出されています。

 

                    ◯

 

 このアルバムで鳴っている、2体のサイボーグによって造りだされた過去の音楽のシミュラークルは、まるでレイシアのように完璧な「カタチ」を備えています。

 その音に「愛」や「ソウル」を感じるかどうかは聴き手に委ねられていますが、アルバム全体はどちらかというと、やるせないムードに支配されています。

 夕日をバックにメンバーが演奏する『Get Lucky』のビデオで表明されていた、ポップ・ミュージックの黄昏のなかで、レイシアの手をとって踊ることを肯定する祝祭感。でもそのおなじ曲を、失われていく「オリジナル」への憧れのムードが色濃くただようアルバムの流れの中で聴くと、なにやら寂しげな気分が前景化してきます。

 村上春樹ウィントン・マルサリスの演奏に感じたような、「過ぎ去ってしまったものへの、今消え行こうとしているものへの悲しみ」?

 

                     ◯

 

 スティーヴン・スピルバーグ監督『A.I.』のラスト(ネタバレ注意)、主人公のロボット少年は2千年の眠りから覚めたのち、人類滅亡後の世界で自律進化をとげたロボットたちと出会い、ひとつだけ願いを叶えてもらえるチャンスを手にします。

 彼は義母(人間で、すでにこの世にいない)との再会を望み、ただ1日だけ、クローンとして再生された義母と、昔住んでいた家(コンピュータのシミュレーションで再現される)での暖かな時間を過ごすことを選ぶ。そこで少年が抱いた感情は、本物か偽物か?

 『ランダム・アクセス・メモリーズ』は、この1日だけの夢に似た、美しく、哀しい感触をもったアルバムです。ダフト・パンクのスタジオ・アルバムとしては、1st『ホームワーク』に匹敵する名盤だとおもいます。

 


Get Lucky (Official Audio) - YouTube

 

*1:もちろん、いくら音楽がデータベース化したところで、ひとりの人間の聴くことのできる音楽の許容量が変化したわけではないので、状況は昔とさほど変化していない、という捉え方もあります。たとえば、このレビュー(http://www.ele-king.net/review/album/003925/)で指摘されているような、結局は個人の中の履歴、歴史性だ、という捉え方。ニック・ホーンビィの小説『ハイ・フィデリティ』で、音楽オタクの主人公はレコード・コレクションの整理をしながら充足感に浸ります。「結局のところ、これがぼくだ。どうやって、たった二十五枚で、ディープ・パープルからハウリン・ウルフまでたどりついたのか、よくわかる。」ただ、今回の文章で主眼においているのは、音楽のもつ「文脈」の重要性の低下です。YouTubeを漁った結果、ディープ・パープルとハウリン・ウルフの関連に気づかずに、いきなり両者を並列的に聴くという可能性の上昇。それが良いか悪いかの判断は別にして。