年が明けての1回目は、放送2周年の『たまこまーけっと』記事。月1~2回のペースで、全12話分。年内には予定通り終わっているといいな、ぐらいのゆる~い企画です。
(このシリーズの前振り記事はこちら→序論「結局、デラってなんだったの?」 )
今回はオープニングについての簡単な記事ではあるんですけど、『たまこまーけっと』のシリーズ全話に関するネタバレを含みます。ご了承ください。
◯たまこは、なぜ空から降りて来るのか?
OP / ED映像の技術的な側面とか、表象表現の分析などに関しては、「す、すげー!」という考察がいろいろ出ているので、この記事では話題を1点に絞りたいと思います。
OPが始まってすぐの、ココです↓
ここからたまこが商店街に降り立って、タイトルが出るまでのカット割りのカッコ良さ!音を消して観てみると、さらにしびれます。躍動感があってとても楽しいOPなんですけど…。
でも「外部」から商店街にやってきたのはデラであって、たまこはもともと商店街に住んでいるキャラクターです。
なのに、たまこは上空からデラとともに商店街に「降りてくる」。なんで?
◯
自分なりの結論を先に書いてしまうと、このシーンは『たまこまーけっと』での、たまこの「天使」的なポジションを表現しているのだと思います。商店街を見守る「天使」としての、北白川たまこ。
「天使」なんていうと、たまこをものすごく美化した感じにとられてしまうかもしれないけど、この場合の「天使」という言葉、ポジティヴなニュアンスばかりではなかったりします。
たまこの「天使」性については、以前『北白川たまこの孤独と、その解消 』という記事のなかで、ヴィム・ヴェンダース監督の『ベルリン・天使の詩』(1987年)を引き合いにだして書いたことがあるんですけど、さらに長い射程をそなえた記事がこちら。猛烈にうなずきまくりつつ読んだ記事です。
(15年2月1日追記:アニメ専門サイト『AniFav』の『たまこラブストーリー』考察記事リンクを載せていたのですが、サイトの閉鎖にともない、読めなくなってしまっていました。すごく良い記事だったので残念!)
『ベルリン・天使の詩』に登場する天使は、地上の全てを見渡すことのできる超越的な視野を持っていますが、それらの出来事に干渉することはできません。彼らは、ただ「観察者」としてのみ存在します。
あるとき、天使のうちの一人が人間の女性に恋をしてしまい、地上に墜ちる決意をする。人間として地上に降り立った彼は、永遠の命や超越的な視野を失うかわりに、地上のものに直接「触れ」、冬の寒さや怪我の痛みを「感じる」ことができるようになります。「抽象性に担保された超越性」とひきかえに、「”生”の有限性に裏打ちされた具体性」=固有の「物語」を手に入れるんですね。
政治的な含みもある、多様な解釈ができる作品なのであまり単純化するのもアレですが、「抽象性・超越性よりも、一度きりの "生” の具体性を選択する話」という意味では、アニメファン的には、高畑勲監督『かぐや姫の物語』(2013年)(感想)などを連想したりもする作品です。
◯
たまこの話に戻ると、『序論』にも書いたとおり、彼女は母を亡くして以来「日常」が展開される基盤としての商店街を必死に守ろうとし続けている。「日常の基盤」を守る存在としての、わりとストレートな意味でのたまこの「天使」性がまずひとつあります。
そしてもうひとつ。『たまこまーけっと』でのたまこの意識・目線はつねに「日常の基盤」=「商店街」のほうを向いています。いっぽう、たまこ以外のキャラクターたちは「商店街」という基盤の上で展開される、なにげない「日常」を生きている。
たまこと、それ以外のキャラクターたちの目線には「ズレ」があるんですね。
※図では「目線」が「視線」になってしまってますが、ご容赦ください。
このような目線の「ズレ」は、作中でなんどか示唆されます。具体的な指摘は各話の感想に譲りますが、たまこって、周囲のこと(たとえば妹のあんこや、史織、みどりの悩み)に関しては敏感なのに、それが自分自身に関係することになると、とたんに鈍感になりますよね。もち蔵やみどりの、自分に向けられた好意にたいしては圧倒的にニブい。
たまこは、お母さんが早くにいなくなってしまったので、お母さんの代わりになろうと一足早く大人になってしまった部分が強いんです。成長して大人になったというより、その過程を飛ばしてしまったというか。だから、みどりたちと同じ場所にいても、同じ目線で立たせるということが、とても難しくて。
「天使」とかはさすがに言ってないですけど(笑)、たまこと他のキャラクターのあいだには「目線」のズレがある、と。
たまこにはちょっと倒錯があって、「日常の基盤」を維持しようと必死になるあまり、自分自身の「今」、等身大の高校生として興味津々なはずの「恋愛」みたいなトピックへの関心が、ちょっとお留守なところがある。
これを作品の外側からメタに言い換えると、『たまこまーけっと』という「日常系アニメ」が成立するための「基盤の維持」に意識がいってしまっていて、基盤の上で展開されている「物語」からキャラとして半分はみ出しているような状態です。
固有の「物語」への没入が充分にできていないという意味で、『ベルリン・天使の詩』の、堕天する前の天使みたいなところがあるんですね。これがたまこの、もうひとつの「天使」性。
そんな彼女が、もち蔵の告白によって地上に引きずり下ろされる=『ベルリン・天使の詩』的に「物語に参加していく物語」が『たまこラブストーリー』だった…というのが、さきほどリンクした記事のなかで長々と書いたことでした。
◯
じつは、OPでたまこが空から降りてくるのが、制作者の意図として本当に「たまこの天使性」を表現していたのかどうか、というのはわりと二の次で。それに関しては「ファンの深読み」と言われてしまうかも知れないですけど(笑)、『たまこまーけっと』という作品のなかでは「たまこと、他のキャラのあいだに目線のズレがある」という前提に触れておきたくて、こんな記事を書いてみました。
ところで、さきほどの『北白川たまこの孤独と、その解消』という記事の反省点としては、たまこの「孤独」をちょっと強調しすぎたかな?というのがあって。
たまこを、豆大がしっかりキャッチしてあげるこのカット。
商店街を守ろうとするたまこの懸命な努力を豆大が受け止めてあげる姿は、本編でも何度か描かれていましたよね。
記事では「それでも」的にたまこの孤独を強調していて、たしかに『たまこまーけっと』という作品の行間からは、キャラクターたちの孤独感も読み取れるんですが。
でも、もうちょっと素直にこの描写を受けとめても良かったかもしれません。「ひとりの少女が、世界を維持するためのコストを一身に背負う」型物語の「次」としての、「共同体の成員間での、コストの分散」という文脈。*1
いやあ、このカット泣けるなあ…。