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ねざめ堂

アニメ・映画・音楽

美少女キャラの消失 〜『かぐや姫の物語』感想(短縮版)

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 12月3日に、『かぐや姫の物語』BD/DVDがリリース。

       

 今回はこれに便乗して、以前書いた感想記事の短縮バージョンです。

 この作品が、現在の日本アニメがおかれた状況を批評的に描いた寓話だった、という観点からの感想になります。ネタバレ注意です。

 

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 現在のアニメでは、作品の登場人物=「キャラ」は、その作品固有の「物語」を離れて活躍 / あるいは消費されることが当たり前になっています。たとえば、スピンオフ作品や同人誌などを通じて*1

 作品の世界を豊かに掘り下げるようなスピンオフや同人誌もたくさんあるので*2、個人的にはそれが悪いことだとは思っていないんですが、とにかく「物語」を、キャラたちの生きる一度きりの「人生」と考えるなら、現在のキャラたちは人生の「重さ」(ミラン・クンデラ風にいえば「耐えがたい"軽さ"」)から遊離して、「キャラのデータベース」に属する存在です。

 『かぐや姫の物語』の月世界は、喜びも悲しみもない不浄の世界、つまり「物語」のない世界として描かれます。「物語」=「一度きりの人生」から切り離された「キャラのデータベース」としての月世界。そして、そこに住む「美少女キャラ」としてのかぐや姫

 彼女が、「物語 = 一度きりの人生 」に憧れた結果、地上に追放されるところから、作品はスタートします。「物語」のなかに「キャラ」を奪還しようとする試みとしての『かぐや姫の物語』。

 

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 この作品では、かぐや姫を「キャラ」として、イメージ界に留めておこうとする「男」と、生身の「人間」として、一度きりの生を生きさせようとする「女」との綱引きが描かれます。

 翁(=男)がはじめてかぐや姫を手にしたとき、彼女が「理想の女性」をそのまま小型化した美少女フィギュアのような姿をとっており、それが媼(=女)の手に渡ったとたんに「人間の赤ん坊」に変化するシーンは象徴的です。

 「都 / 里」も同じ対立項と思われます。イメージを追い求める都と、地に足のついた生活基盤としての里。翁の主導で都に移り住んだ一家は、やはりかぐや姫を「イメージ」として所有したい男たちの求婚騒動に巻き込まれます。

 ここで、かぐや姫が求婚者たちに一切姿をみせず、自らの「イメージ」の高さを守ろうとしているように見えるのが面白い。「一度きりの人生」を求めていたはずの彼女が、人生の具体性にからめとられることを拒み、「キャラ」としての自らの抽象性の高さを守ろうとするかのような行動に出ています。

 

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 やがて御門に目をつけられ、彼に抱きすくめられてしまった=肉体的接触によって、キャラとしての「抽象性」が危うくなったかぐや姫は、おもわず「ここにいたくない」と願い、月からの迎えを呼び寄せてしまう。

 連れ去られるまえに、せめて一度だけでもと、里の幼馴染みの捨丸に会いに行く彼女。ここですでに妻子もちの捨丸が、あっさり「おまえと逃げたい」と言うのは、このときのかぐや姫が、すでに人生の「重さ」を持たない(持てない)「キャラ」として彼の前にあらわれたからかもしれません。

 ラスト、地上での「物語 / 人生」をリセットされ、かぐや姫は月=データベースの世界に帰っていく。「物語」のなかに「キャラ」を取り戻そうとする試みの失敗です。一度きりの人生に憧れたのに、結局その「生」を存分に生ききれなかったかぐや姫

 高畑監督は、公式サイトに掲載された企画書のなかで、こんなことを書いています。

 

それはとりもなおさず、地球に生を受けたにもかかわらず、その生を輝かすことができないでいる私たち自身の物語でもありうるのではないか。

 

 ヴィム・ヴェンダース監督『ベルリン・天使の詩』に登場する天使たちは、天上界から地上の全てを見渡すことができるけれど、それらの物事と具体的な関わりをもつことはできません。逆に、人間として地上に墜ちたあとは、それまで備えていた超越的な視野を失う。

 「地に足をつけない」ことで得られる抽象性・超越性と、地上の重力に縛られた一度きりの「生」の具体性・有限性の対比。『かぐや姫の物語』も、同様の構造を抱えています。

 そして「人生一度きり」と頭ではわかっていても、その生を生ききることの困難さ。

 現在のアニメ界についての寓話であると同時に、そのような普遍的で切実なテーマを描いた作品としても、胃のあたりにずしりと消化しきれないカタマリが残る感じの余韻です。

 ラストで月に映し出された人間の赤ん坊の姿は、いつかかぐや姫が、ふたたび一回性の「物語=人生」のなかに帰ってくる可能性を示していたのかもしれません。

 

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 ...以上、こういう作品としても楽しめるんじゃないかな?という解釈でした。

 もうひとつだけ付け加えると、この映画のかぐや姫のキャラクターデザインは、場面によってかなり相貌が変わっていく流動的なものですが、これも「物語」と密接に連動し、作品間を容易に「流通しない」ことを目指したキャラクター造形だったのではないかな?と。

 二次元のキャラクターは、ディズニーの初期から手塚治虫を経て、近年のデ・ジ・キャラットに至るまで(ってだいぶ前ですけど笑、わかりやすい例として)データベースにプールされた色々な「要素」の組み合わせによって生成されている、という事は、様々に指摘されています*3

 そのような「要素」に分解されにくい、「キャラのデータベース」に組み込まれることに精一杯抵抗した結果としての、あのキャラクターデザイン、画風だったのではないか。

 でも、そういうこと以上に、有無を言わせぬ映像の力がもの凄い映画でした。予告編を見ただけで、もう鳥肌がたって涙目になってしまったぐらい。

 ソフトの発売で、自宅で何度も観られるのは素直にありがたいけど、この『かぐや姫の物語』と『風立ちぬ』に関しては、できれば2〜3年に一度ぐらいのペースで、映画館でがっつり観たい。定期的にリバイバル上映して欲しいなー。

 定点観測みたいな感じで、こちらの年齢に応じて感じ方がガラリと変わる映画な気がします。

 


 

*1:手塚治虫が自身の漫画に採用した「スターシステム」のような例もありましたが、メディアミックス的な展開を含めて、「物語からのキャラの自律性」がここまで進んだのは、過去20年ほど?のことだと思われます。

*2:もちろん、エロも重要。

*3:大塚英志物語論で読む村上春樹宮崎駿』より→「ディズニーのキャラクターが円や楕円の構成物として作画法が当初からマニュアル化されていたこと、そして、そのようなキャラクターの書式そのものが一九二〇年代のハリウッド産アニメーションにおいて一種の「コモンズ」であったことはディズニー研究家の中では指摘されてきたことだが(つまりディズニー自体が「データベース消費」型の生成物である)...(後略)」 /  東浩紀動物化するポストモダン』より→実際にはでじこ(引用者註:デ・ジ・キャラットの愛称)のデザインは、デザイナーの作家性を排するかのように、近年のオタク系文化で有力な要素をサンプリングし、組み合わせることで作られている。