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美少女キャラの消失 〜『かぐや姫の物語』感想

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 幾原邦彦監督の、この映画への反応。2013年12月1日のツイート。

 

そんなに解釈を考えることなく、頭の中、真っ白で観ても十分に面白いと思う。

それでも考えるなら「私たちを食べさせてくれたナウ×カとか美少女は月に帰ってしまいました。それでもここに残された私たちは『生きねば』ではないかなー。高畑さんスゴイです、デスラー勲章です。

 

 じつは私は鑑賞前にうっかりこのツイートを目にしてしまい、『かぐや姫の物語』はもう、そういう映画に見えてしまって仕方ありませんでした。むー。いや、それだけこの解釈に納得感があったんですが。イクニーさすがです。

 今回は、この映画のかぐや姫=「アニメの美少女キャラ」という観点から、感想を書いてみたいと思います。ここからは、幾原監督の見解とは無関係な、私の勝手な解釈になります。ネタバレがありますので、ご注意ください。

 

◯前提:月世界=「キャラ」のデータベース

 

 現代のアニメ(まんが、ゲームetc.)では、作品の登場人物=「キャラ」は、その作品が本来持つ「物語」を離れて活躍する/消費されることも多いですよね。

 たとえば本家『涼宮ハルヒ』シリーズに登場する朝倉は凶悪だけど、『ハルヒ』のスピンオフ作品である『長門有希ちゃんの消失』に登場する朝倉はコミカル、というような。これは公式が同人的な二次創作の手法を取り入れている例で、今やこういうメディアミックス的な展開は当たり前になっています*1

 ひとつの「物語」に縛られない、いくつもの「物語」のあいだを自由に行き来できる自律的な存在としての「キャラ」。この意味においては、現代のアニメで「物語」と「キャラ」は切り離されつつあります。「物語」をキャラたちの生きる「一度きりの人生」と考えるなら、現代のキャラたちは「一度きりの人生」の重さ(ミラン・クンデラ風にいえば「耐えがたい"軽さ"」)から遊離した存在です*2

 そしてこの『かぐや姫の物語』で「キャラ」たちの暮らす月世界は、喜びも悲しみもない不浄の世界。喜怒哀楽、つまり「物語」のない、「物語」以前の世界です。

 「物語」そのものよりも、その構成要素(たとえば「キャラ」)が消費の対象になっているような状況を「データベース消費」と呼んだりしますが(冷や汗が出るぐらい雑な説明 笑)、これに則して考えれば、この作品の月世界は「物語」から切り離された、まんが・アニメの「キャラ」たちの「データベース」と捉えることもできるのではないか。

 そしてかぐや姫は、その世界に住む「美少女キャラ」。彼女が、人間界=「一度きりの物語/人生」に憧れ、地上にやってきます。

 この映画はそのような、現代のアニメにおける「物語」と「キャラ」との関係を描いた寓話だった、という仮説にそって、話を進めていきたいと思います。「物語」のなかに「キャラ」を取り戻そうとする試みとしての『かぐや姫の物語』。

 

 

罪と罰

 

 この映画のキャッチコピーのひとつに「姫の犯した罪と罰。」というのがありました。

 上記の観点からみれば、彼女の「罪」は、データベース界に住む抽象的存在=「キャラ」の身でありながら、地上で生きること、つまり「取り替えのきかない、一度限りの "物語" 」を望んだこと。

 それは、現代の「キャラ」がもつ、複数の物語のあいだを行き来できる流通性、抽象度の高さを危険にさらす望みです。

 そして「罰」は、一度限りの「物語/生」に放り込まれることで、「キャラ」であるがゆえにキープできる、特定の「物語」にとらわれない「超越性」を剥奪されることだったのかな?と思いました。*3

 複数の「物語」を渡り歩くことのできる「キャラ」から、ひとつだけの固有の「物語」を生きる「キャラクター/人物」へ。地上での、彼女の一度限りの「物語/生」がスタートします。

 

◯男/女

 

 竹林で最初にかぐや姫を発見するのは、翁(=男)です。この映画での男は、イメージ、抽象をどこまでも追い求める存在として描かれます。

 翁の手のなかにあるときのかぐや姫は、男がイメージする理想の女性をそのまま小型化した姿、美少女フィギュアのような姿をとっています。男が所有することのできる「キャラ」のイメージ。

 いっぽう、女は地に足のついた生活を志向する、具象界に属する存在として扱われます。媼(=女)がフィギュアのようなかぐや姫を手にしたとたん、かぐやは生の世界に引き降ろされ、生身の人間の赤ん坊の姿に変化する。

 映画ではかぐや姫をめぐって、終始このような、イメージと現実の綱引きが繰りひろげられます。

 

◯都/里

 

 「都/里」も、「男/女」と同じ対立項です。イメージを追い求める都と、地に足のついた生活基盤としての里。翁は、かぐやを「かぐや姫」という「キャラ」として完成、固定化したいという欲望に突き動かされ、都への移住を決意します。

 かぐやに教育を施し、身分の高い男と結婚させたときに、かぐや姫という「キャラ」が、翁の中で揺るぎないものになる。男にとっての理想的なイメージを、イメージのままに固定化したいという欲望。なので、翁は終始、異様に結婚を焦っています。

 いっぽう媼はかぐや姫に普通の生活を送らせたいと願い、姫自身もそれを望んでいますが(生身の人間として一回性の「物語」を生きたい、というのが、月世界にいたときの彼女の望みです)、結局は折れる形で翁にしたがう。里で共に育った幼馴染み、捨丸との別れと、都の豪邸での花嫁修業の日々。

 やがてもちあがる求婚騒動が、作品のひとつの山場です。

 

◯求婚騒動

 

 都でかぐや姫の評判が高まり、彼女のもとには求婚者たちが押し寄せます。

 姫は求婚者たちの前に姿を表さず、そのことがますます男たちのイメージをかき立て、夢中にさせます。彼女は自分自身を「マクガフィン」的なポジションに置いているわけです。

 この映画のキャッチコピーに「ジブリヒロイン史上、最高の ”絶世の美女” が誕生」とか、「物語史上、もっとも美しいヒロイン」(だったかな?)みたいなのがありました。

 これはかぐや姫が「イメージ」としての存在であること、すなわち男たちが、それぞれ自分の理想を好きなように投影できる「キャラ」であることを表したものだったんじゃないかと思います。

 ここで、かぐや姫は無理難題をふっかけて、求婚をことごとく断ります。もちろん求婚者たちにロクな男がいなかったことは大きな原因です。*4

 でももうひとつの原因として、かぐや姫は求婚を断り、自身に手を触れさせないようにすることで、無意識に自らの抽象度の高さ、「キャラ」としての価値を守ろうとしたのではないか。

 たしかこの時点で、かぐや姫はまだ自分の正体を思い出していなかったと思うのですが、それでも無意識に自分の「キャラ」性を守った。彼女はもともと、一度きりの固有の「物語/生」に憧れていたはずなのに、いざとなると、その「物語/生」の具体性にからめとられることを拒んでしまうんですね。

 そして、このかぐや姫=「キャラ」に過剰に入れこんだ男達は、みな悲惨な末路を迎えます(オタクの末路?)。それを聞いたかぐや姫は、「みんな不幸になった。ニセモノの私のせいだ」と嘆く。*5

 このときの彼女は「ニセモノの姫」というニュアンスでこの言葉を発したのかも知れませんが、作品のテーマに則していえば、人間ではなく抽象的な「キャラ」としての自分を自覚しつつあるかぐや姫、みたいなシーンでしょうか。この映画、主演は初音ミクでも面白かったかもしれない...なんて妄想がふくらみます。

 

◯「生ききれない」問題

 

 求婚者をことごとく袖にしたことで、御門に目をつけられたかぐや姫は、隙をつかれて彼に抱きすくめられてしまいます。望まない肉体的接触によって「キャラ」としての抽象性が危うくなった姫は、おもわず「ここにいたくない」と願ってしまう。

 元々は「ここ」=地上の「物語/生」の世界に憧れて、翁が願う幸せ(「美少女キャラ」としての完成)を拒んでいたはずなのに、結局は自分も、自らの「キャラ」性を守り、人間としての「物語」を充分に生ききれなかった。

 「わたしは "生きる" ために地上にきたのに、けっきょく無為に過ごしてしまった」みたいなセリフがあって、これはけっこう身につまされました。映画公式サイトには、高畑勲監督の企画書からの抜粋が掲載 (かぐや姫の物語 解説)されていて、その中で監督はこんなことを書いています。

 

「それはとりもなおさず、地球に生を受けたにもかかわらず、その生を輝かすことができないでいる私たち自身の物語でもありうるのではないか。」

 

 ヴィム・ヴェンダース監督『ベルリン・天使の詩』に登場する天使たちは、天上界から地上の全てを見渡すことができるけれど、それらの物事と具体的な関わりをもつことはできません。逆に、人間として地上に墜ちたあとは、それまで備えていた超越的な視野を失ってしまいます。

 「地に足をつけない」ことで得られる抽象性・超越性と、地上の重力に縛られた一度きりの「生」の具体性・有限性の対比。『かぐや姫の物語』も、同様の構造を抱えています。

 そして「人生一度きり」と頭ではわかっていても、その生を生ききることの困難さ。「キャラ」としての自分を捨てきれず、中途半端にしか地上の「物語/生」を生きられなかったかぐや姫と、毎日が完全燃焼!あした死んでも悔いはありません!とはなかなかいかない私たち自身の姿は、重なっています。

 せめて月に帰るまえにと、かぐや姫は捨丸に会いにいきます。捨丸は、すでに妻子がある身にも関わらず、あっさり「おまえと逃げたい」という。それはこのときの姫がもう「キャラ」、人生の重みを持たない「イメージ」として捨丸の前に表れていたからかもしれません。

 ふたりは一緒に空を飛ぶ(=セックスする。高畑・宮崎両監督作のヒロイン...「美少女キャラ」が揃って非処女として描かれた2013年)けれど、それは捨丸にとってはエロアニメをみるぐらいの感覚だったのかもしれないです。

 そしてこのシーンのあとの、かぐや姫の表情が描かれない。彼女の乗った駕篭が都に帰っていく様子だけが淡々と映されていて、ここの絶望感はかなりのものでした。

 

◯むすび

 

 やがて、地上での「物語/生」をリセットされて、かぐや姫は「非物語」の世界に連れ戻されていきます。「物語」のなかに「キャラ」を取り戻そうとする試みは頓挫し、「美少女キャラ」はデータベースの世界に帰ってしまった。

 そして、地上に残された人々は、これから「美少女キャラ」に依存しない「物語」を作っていかなければならない。

 映画のラストで、人間の赤ん坊が月に映し出されます。これは、地上で経験した「物語」の記憶を失ってもなお、涙を流したかぐや姫が、いつか「キャラクター/人物」として、アニメの「物語」に帰って来る可能性を示していたのかもしれません。

 

                     ◯

 

 ...以上、こういう映画としても見られるんじゃないかな?という解釈でした。

 もうひとつだけ付け加えると、この映画のかぐや姫のキャラクターデザインは、場面によってかなり相貌が変わっていく流動的なものですが、これも「物語」と密接に連動し、作品間を容易に「流通しない」ことを目指したキャラクター造形だったのではないかな?と思います。

 二次元のキャラクターは、ディズニーの初期から手塚治虫を経て、近年のデ・ジ・キャラットに至るまで(ってだいぶ前ですけど笑、わかりやすい例として)データベースにプールされた色々な「要素」の組み合わせによって生成されている、という事は、様々に指摘されています*6

 そのような「要素」に分解されにくい、「キャラのデータベース」に組み込まれることに精一杯抵抗した結果としての、あのキャラクターデザイン、画風だったのではないか。

 こういう感じで作中の物事を「◯◯は、現実でいえば△△を意味していて…」と一対一の具体的な対応関係に固定していく見方は、作品から受け取るイメージを狭めてしまう部分もあって、だから幾原監督もちゃんと「頭の中真っ白で」と断っている。

 あくまでそれを踏まえたうえで、ひとつの解釈をしてみました...という記事として受け取っていただければと思います。とはいえ、そういう解釈をブッ飛ばすぐらい映像がもの凄い映画でしたけど。何年かに一度、映画館でリバイバル上映してもらいたい映画です。

 

 

*1:手塚治虫が自身の漫画に採用した「スターシステム」みたいな流れは昔からありましたが、メディアミックス的な展開を含めて、「物語からのキャラの自律性」がここまで進んだのは、ここ20年ほど?のことだと思われます。

*2:本編で悲惨な最後を遂げたキャラが、スピンオフのギャグ4コマでは平穏な日常を満喫したりしているケースを思い出してください。個人的にはそういうのもたまには楽しくて良いんじゃないかとも思うけど。

*3:これを人間にひきつけていえば「なにも選択しないことで、全ての可能性の扉を開けておこうとする」ような態度でしょうか。そのことでキープできる「オレはまだ本気出してないだけ」的全能感の剥奪。

*4:唯一、姫が心を動かす求婚者がいて、彼は「堅苦しい都を抜け出して、"ここではないどこかへ" (モナ・シンプソン?)私といこう!」という "イメージ" を姫に提示します。イメージ的存在であるかぐや姫は、イメージを使った誘惑に弱い。

*5:姫が無意識に自らの「キャラ」性で男達をかどわかしたことが「罪」で、その結果地上にいられなくなるのが「罰」とも思えるんですよね。二重の「罪と罰」。

*6:大塚英志物語論で読む村上春樹宮崎駿』より→「ディズニーのキャラクターが円や楕円の構成物として作画法が当初からマニュアル化されていたこと、そして、そのようなキャラクターの書式そのものが一九二〇年代のハリウッド産アニメーションにおいて一種の「コモンズ」であったことはディズニー研究家の中では指摘されてきたことだが(つまりディズニー自体が「データベース消費」型の生成物である)...(後略)」 / 東浩紀動物化するポストモダン』より→「実際にはでじこ(引用者註:デ・ジ・キャラットの愛称)のデザインは、デザイナーの作家性を排するかのように、近年のオタク系文化で有力な要素をサンプリングし、組み合わせることで作られている。