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『劇場版 PSYCO-PASS サイコパス』感想

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 すごーく手堅く、かつサービス満点な「番外編」を見せてもらった感じでした。『サイコパス』シリーズに加えて、チラっと『魔法少女まどか☆マギカ』のネタバレがありますので、ご注意ください。

 

◯「大長編サイコパス」としての、正当派劇場版

 今回の『劇場版』には、いろんな側面からの期待がありましたよね。狡噛や朱、宜野座といったキャラたちの活躍とか、塩谷監督+Production I.G. のカッコいいアクション描写への期待、という点からみれば、バッチリの内容だったんじゃないでしょうか。いやー、市街戦凄かったですね。ド迫力な音響まで含めて堪能しました。

 いっぽう、個人的にいちばん注目していた「シビュラシステムと人間の関係」については、テレビ版1期からの進展はほとんど見られませんでした。どうやら劇場版は、最初から「大長編ドラえもん」的な「番外編」という方向性の企画だった模様。

(そのぶん「システムと人間の関係」については、2期(感想)でがっつり取り組んでくれていましたよね。なので、2期すごく好きでした。)

 そんな訳で、映画が始まってしばらくして「あ、今回はそのあたりの話は進まないのね…」とわかったときはちょっとガッカリしかけたんですけど、あくまでスペシャル企画、と気持ちを切り替えれば、サービス満点の劇場版だったと思います。


◯シビュラシステムの有用性

 システムと人間の関係、という点について見れば、今回は荒廃しきった海外の様子が描かれることで、日本の治安を維持しているシビュラの有用性があらためて実証された形になりました。

 作品世界の設定としては、どうやら世界中がああいうカオス状態ということらしくて、一体なんであんな『日本以外全部沈没』みたいな事態になったんだ?と思うんだけど、とにかくあの明日の命も危ういような状況下でシビュラの導入を望む選択をした民衆の判断は、カンタンには批判できないよね、というあたりをきちんと描いていたのが良かったです。

 虚淵玄は、共同脚本の深見真との対談で、こんな発言をしていました。

 

世界規模で見たときに、シビュラは最後の希望に感じられるような、そういう視点は意識していましたね。

「劇場版 サイコパス」特集、虚淵玄×深見真の脚本家対談 -コミックナタリー 

 
 映画の最初のほうで、朱の友達がシビュラの紹介で結婚が決まってもう幸せ!という描写があるのも、『サイコパス』は「シビュラ=絶対悪」vs.「正義」の単純な二項対立の話じゃないよ、というテレビシリーズの内容の再確認になっていました。

 シビュラの恩恵を受けている人たちは確実にいて、それが愚鈍な「檻の中の家畜」として描かれるんじゃなくて、主人公である朱の友達として登場して、朱も彼女の幸せについては心から祝福する。

 いっぽうで、もちろんこれまでのシリーズで描かれてきたように、その幸せの影で理不尽に犠牲になっている人々もいて、いまはシビュラの恩恵を甘受している朱の友達だって、いつか突然犠牲者の側に回る日がくるかもしれない(たとえば、生まれた子供の犯罪係数が高い、とか)。

 完璧なシステムは存在しない以上、すべてのシステムには正と負、両方の側面があって、それがシビュラという形で誇張して表現される、という『サイコパス』の基本設計の再確認的なシーン。映画の冒頭にこういうシーンを入れてくるのも、「ああ、このシリーズってこういう話だったよね」と思い出させてくれる効果があって、すごく親切に「行き届いた」感じの脚本でした。

 

◯ゲリラ

 原案・脚本を手掛けた虚淵玄は、インタビューで「自分の中に "表現したいこと" はべつに無い」と、自らの作家性を否定する発言を繰り返している人だし、たぶんそれは正直なところだろうと思うので、「虚淵作品」みたいなくくりで何かを書くのはちょっと気が引けるんですけど。

 といいつつ書いてしまうと、この人の作るストーリーには「システムにたいして、個が対抗しても敵わない」という認識が表れている感じがします。システムには、システムで対抗する必要がある。

 科学哲学者のピエール・デュエムは「データが仮説をくつがえすわけではない。仮説を倒すことができるのは仮説だけである」と言ったそうです。

 科学において現在主流の「仮説」を否定する「データ」を断片のまま提出しても、それは無視されてしまう。「仮説」を否定するためには、べつな「仮説」を編み上げて、それをぶつける必要がある、という意味ですが、この「断片としてのデータ」を「個」、「体系づけられた仮説」を「システム」と読み替えると、『まどマギ』はまさにそういう話でした。

 QBの作った「魔法少女システム」に、さやかやほむらはバラバラな「個」としてゲリラ的に抵抗するんだけど、それだと勝ち目がない。それに対して、まどかは「新・魔法少女システム」を編み上げて、旧システムを上書きしてしまうんですよね。

 魔法のある世界観だった『まどマギ』では、そのような大胆なシステム改変が一挙に可能になりましたが、もう少しリアル寄りの世界観の『サイコパス(1期)』では、現在稼働しているシステムを、涙をのんで「とりあえず」認めるという朱の苦い決断が描かれることになりました。*1

 そして「個」としてゲリラ的に、後先考えずにシステムの転覆「だけ」を狙った槙島の行動は否定される(関連記事『サイコパス』(1期)を振り返る )。明確な方向づけのない「個」の集まりでもシステムを破壊するところまではできるかもしれないんだけど、その次のシステムへの移行が上手くいかないとかなり悲惨なことになるよ、というのは、世界でリアルに起きてしまっている事態です。「弱い者たちが、仲間で力を合わせて巨悪を倒す」だけでは足りない。

 もういちど、さきほどの対談での虚淵玄の発言。

 

ーー:虚淵作品では反体制の人は社会の強者であることが多いような。朱もエリートですし。その理由は何か思いつかれますか?

 

虚淵:たしかに自分の作品だと、抵抗する人は、権力者に抵抗するだけの力を持っている者が多いです。それは「権力そのものが不当だ」という発想が別にないからですかね。権力がなくなったら、焼け野原になって終わり、ということになってしまいますし。

  

 それで、今回の劇場版で狡噛が行動をともにしていた反政府ゲリラについては、「気持ちはわかるけど、その路線じゃダメだよ」という感じを受けました。朱が「シビュラに対抗する槙島の気持ちは少しわかる」みたいなセリフを言っていましたが、それに近い感覚。

 映画では、最終的に「こういう社会を実現する」というビジョンを提示したシビュラが民衆の支持を得て、権力を倒した「後」の体系化したビジョンを持っていたわけではなさそうなゲリラは、散り散りになる。ほんと今回は「シビュラつえー…」という話になってましたね。朱もずっとシビュラの掌の上だったし。

 そんな中で、最後の最後に朱がシビュラを論理的に説得して選挙をやらせたのは、負けに終わったとはいえ一矢報いた感じで良かったです。

 今回の朱は、格闘技とか身につけてすっかり逞しくなってるんですけど、最後に彼女の武器になるのは暴力じゃなくて「思考」や「言葉」なんですね(この「説得」を暴力的にやったのが、2期の鹿矛囲でした)。


◯カリスマの危うさ

 いっぽう狡噛はゲリラでカリスマ視*2されかけていて、これ本人は嫌がってましたけど、カリスマに盲目的に従うことと、シビュラに疑問をもたずに従うことは「思考停止」という意味で同じですよね。そういう「思考停止の危うさ」は、1期、2期同様に今回も描かれていました。

 虚淵玄はインタビュー*3で「劇場版は『地獄の黙示録』」みたいなことを言っていましたが、1期で狡噛がコンラッドの『闇の奥』(『地獄の黙示録』のベースになった小説)を読んでいる描写があったので、それを受けてのことでしょうか。『地獄の黙示録』は、元軍人がジャングルの奥地で「カリスマ」として王国を築いているという話で、狡噛はヘタをするとそれと同じ状態に担ぎあげられる可能性がある、ということが仄めかされます。

 思考停止にもいろんな形があって、システムの中での「受動的」な、わかりやすい思考停止もあれば、一見自発的にも見えるような「能動的」な思考停止もある。

 『ファイト・クラブ』で、カリスマであるタイラー・ダーデンの元に集まってくるテロリスト志願者たちは「能動的な思考停止」の好例ですが(ここ数年、あの原作小説・映画の偉大さをあらためて感じます)、狡噛がゲリラたちの尊敬のなかに感じとったのも、そのような危うさの萌芽かもしれません。シビュラの両面性の描写にも通じる、物事のさまざまな側面をきっちりと描いていく姿勢。


◯むすび

 こんな感じで誠実に多面的な視点をキープしながら、派手なアクションやバイオレンス、人気キャラの見せ場も盛り込んでいて(死んだ槙島もゲスト出演)、最初にも書きましたけど、すっごい手堅く出来てるな!という感じだった劇場版。

 朱ちゃんのシャワーシーン(イエス!)とか、ランボーばりに半裸で拷問される狡噛とか、そういうサービスシーンもきっちり押さえていて、これは皮肉じゃなくて「カネ払ってもらった分の元はとらせます」という、エンタメとして正しい姿勢を感じました。

 ただ、狡噛はゲイだとばかり思ってたんですけど「そうでもないかも?」というセリフがあって、これはちょっと気になるところ。「朱がどんなに狡噛を想っても、狡噛はそれに応えられない」っていう一方通行が萌えるのに!いや、そもそも信念レベルで二人の道は分かれてるんだけど、もうちょい下世話な話しで。

 サービスといえば、映像的なパロディもチラホラみられて、自分の注意力だと『地獄の黙示録』『ブレードランナー』『ジュラシック・パーク』ぐらいしかわからなかったんだけど、もっと色々と仕込まれていそう。ソフトがでたら、そのあたりをじっくり探す楽しみもありますね。

 

※シリーズの感想

『PSYCO-PASS サイコパス』(1期)を振り返る 

『PSYCO-PASS サイコパス2』を振り返る

 

*1:冲方丁がシリーズ構成を担当した『サイコパス2』は、シビュラシステムに別のシステムをぶつけるという話でしたね。その行為を通して、シビュラを全面否定するのではなく、すこしずつ、辛抱強く調整していくしかないんだ、という、誠実だけどかなり地味な結論で、これをちゃんとエンタメのクライムストーリーとして展開していたのは「すごいなあ…」と思いました。

*2:「カリスマ」がらみの余談。1期の感想で「狡噛と槙島サイドの ”男達の物語 ”は、虚淵玄がファンであることを公認する黒沢清監督の『CURE』がベースになっている」と書いたんですけど、今回の劇場版は、同じく黒沢清監督の『カリスマ』が意識されている感じがしました。この時期の黒沢監督は、社会の「枠」から逸脱していく男の物語をずっと描いていて、その主人公を演じていたのが役所広司虚淵玄は「狡噛は、自分のなかではくたびれた中年男を想定していた」とたびたび話していますが、ひょっとすると役所広司のイメージがあったのかもしれません。『サイコパス』実写化の暁には、ぜひ監督=黒沢清、狡噛=役所広司で!CGとかセットを使わない、ゴダールの『アルファヴィル』みたいな近未来もの、やってほしいなあ…(妄想)。

*3:やり残したことを拾ったら『地獄の黙示録』になった|ー虚淵玄インタビュー|cakes(ケイクス)