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『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』感想④:他者の流入

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※感想③はこちら


 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』最終話までに加えて、話の都合で『CLANNAD ~AFTER STORY~』のネタバレもしています。ご了承ください。

 

◯横軸


 感想③の最後で触れた、ヴァイオレットの涙をスローモーションで捉えた映像。

 このシーンのもうひとつの見方として、これは、自分とギルベルトしか存在しない「セカイ」にいたヴァイオレットが、様々な他人(他者)で溢れる「世界」へと入っていったことを表している…という解釈も可能だと思います。記事の最初に書いた「横軸」の部分ですね。

 小さな涙の雫(ヴァイオレットという「個」)が、大きな涙の雫(「他者のいる世界」)へと合流する。

 

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 菫の花々に埋め尽くされた背景も、ヴァイオレットの名付けのシーン(第4話)で、2輪(ギルベルトとヴァイオレット)だけでひっそりと咲いていた菫との対比をみせています。

 

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(左:第4話 右:第13話)

  

 アニメ版『3月のライオン』では、たびたび「川=共同体」と「ペットボトル=個」の対比が描かれていましたが、それと近い映像です。

 

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 関連記事:『3月のライオン』感想①:「競争」と「共同体」のバランスゲーム

 

 くわえて、この作品が、主人公が他者で溢れる世界に入っていくプロセスを描く物語だということは、第1話のアバンでも予告されていましたよね(感想②を参照)。

 

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(左:第1話 右:第13話)

 
 それで、ギルベルトしか見えていなかったヴァイオレットの視界に、それ以外の他人が入ってくるというドラマにおいては、必ずしも「視野が広がったよ、やったね!」というポジティヴな側面だけが描かれているわけではありません。むしろ最初のうち、他人の存在は、ヴァイオレットに痛みをもたらすものとして知覚されます。

 感想③で触れたように、彼女が自動手記人形の仕事を通じて様々な人々の想いに触れていくうちに、過去の自分の行為が他人の「未来」を奪ったことに思い至り、苦しみを感じはじめる…というのが、第7話以降の展開ですよね。「きみとぼく」しかいないセカイにいたときには意識せずに済んでいた、加害者としての自覚が芽生えてくる。

 ギルベルトの兄、ディートフリート大佐との対立も、ヴァイオレットが他人を意識するようになって、はじめて顕在化します。

 彼女が「ギルベルトの犬」だったころは、ディートフリートとの対立は発生していなかったんですよね。彼女にとってギルベルト以外の人間は存在しないも同然だったから。

 でも、ヴァイオレットが自らの意志をもって「世界」に向きあいはじめたことによって、ディートフリートが「他者」として立ち現れ、意見の相違を元にした対立が発生する。

  


◯たまこも小林さんもいない世界

 ヴァイオレットとディートフリートの対立…「もう誰も殺したくない」vs.「自分の身も守れずに不殺とはおこがましい」には、どうしても政治的な議論を連想させるところがあります。

 でも、あたりまえだけど『ヴァイオレット』は、なにか特定の政治的な主張を訴えることを目的として作られた作品ではありません。それはプロパガンダというやつで、物語が絶対にやっちゃいけないやつですね。

 大事なのは、思想的には対立しているヴァイオレットとディートフリートが、それでも、とっさの場合にお互いの身を庇っている描写です(ぜんぜん見えないけど↓)。

 

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 ここでは「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」みたいな境地が描かれているんだけど、こうした「さまざまな意見がときに対立しながらも、なんとか一緒にやっていくことのできる ”場” 」は、近年の京都アニメーション作品でたびたび描かれてきたものです。

 たとえば、「保守」と「革新」の思想対立はあっても、両者が共存することのできる商店街を描いた『たまこまーけっと』。

 あるいは、お互いの利害が対立する場面があっても、同じマンションに住んでいるんだから調整してなんとかやっていこうよ、という『小林さんちのメイドラゴン』。

 

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北白川たまこの孤独と、その解消

『小林さんちのメイドラゴン』感想:イシュカン・ディスコミュニケーション

 

 ただし、『ヴァイオレット』には、北白川たまことか、小林さんみたいなリベラルな調停者が登場しません(左翼ではなく「本来的な」リベラルの話)。

 そして、いざとなったら歩いて出ていける商店街やマンションと違い、降りる=デス・オア・ダイの「疾走中の列車」に対立の舞台が設定されているあたりも、切迫感が増している感じがします。

 走る列車を、さまざまな対立をはらむ社会として描いた『甲鉄城のカバネリ』(公式サイト)を連想した方もいるんじゃないでしょうか。

 

 
◯3つのぬいぐるみ

 そのように、対立や痛みをもたらす存在としての他人がヴァイオレットの視界に入ってくるいっぽうで、でも同時に他人の存在は希望的にも描かれていて、それを表す小道具として使われていたのが、3つのぬいぐるみでした。

 第1話、ホッジンズがヴァイオレットにぬいぐるみをプレゼントするシーン。ホッジンズは、ヴァイオレットの好みがわからないので、犬・猫・兎の3種類のぬいぐるみを買って、その中からひとつを選ばせようとします。でも、ギルベルトのことしか頭にないヴァイオレットは「不要です」とそっけない態度。

 そんな彼女に、ホッジンズはなおも迫ります。

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「どれか選ばないと、世界が終わると仮定して」

 

 これはやっぱり、第6話のセリフ...「私にとってあの方の存在はまるで世界そのもので、それが無くなるぐらいなら、私が死んだ方が良いのです」と対応しているっぽいですね。「私」や「あの方」の存在、あるいは選択と、世界の行く末が直結している…みたいなセカイ系的ニュアンス。

 けっきょくホッジンズの圧に負けて(?)3つのぬいぐるみの中から犬を「選択」するヴァイオレット。この犬のぬいぐるみはその後もたびたび画面に登場するのですが、でも、ヴァイオレットが「選択しなかった」残りの2つのぬいぐるみもまた、ホッジンズが大事に持っている…という描写が幾度か登場します。

 印象的だったのは、最終回のこのカット。

 

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 航空祭で空から撒くための、ギルベルトに宛てた手紙をなかなか書くことができないヴァイオレット。締め切りはもう迫っている。そんな彼女にホッジンズが「締め切りについては自分がなんとかするから、書くべきだ」みたいな助け舟をだしてくれるんですが、そのシーンで、ヴァイオレットが「選択しなかった」猫と兎のぬいぐるみの映像が挿入されるんですね。

 これは「世界は ”自分ひとりの選択” だけで終わったりどうこうなったりするものではなくて、自分が選択しなかった可能性(猫・兎)を、他人が持ってくれていることもあるよ」みたいに捉えられると思います。

 まあ平たくいえば「他人が手を差し伸べてくれる」とか「自分ひとりで抱え込まずに他人に助けを求める」ということではあります。

 でも、さきほどから「選択」という言葉を妙に強調してみているのは、このアニメって、ゼロ年代京アニが制作した『CLANNAD』みたいな「ルート分岐もの」の「次」を志向しているところがあるんじゃないかな?という仮説を私が持っているからです。

 ということで、つぎの章では、ちょっとだけその仮説…『ヴァイオレット』はポスト「ルート分岐もの」なのではあるまいか?という話題に触れてみたいと思います。

 

 

◯ポスト「ルート分岐もの」?

 ここでもう一度第7話を思い返してみると、あのエピソードの作家が置かれていた境遇…妻と娘を立て続けに病気で亡くしてしまうというのは、『CLANNAD』の主人公・朋也と同じものなんですよね(『ヴァイオレット』の原作者は、京アニでは『CLANNAD』が好きなんだそうです)。

 そして、ヴァイオレットの跳躍の瞬間に、作家は「あり得たかもしれない、娘が生きている未来」を垣間みる。これは『CLANNAD』でいえば「娘が生きているルート」の存在を垣間みる、ということです。

 でもアニメ版『CLANNAD』の最終回とは違って『ヴァイオレット』では、作家のそのルートへの「乗り換え」は描かれない。

 

                   ◯

 

 よく言われることですが、「ルート分岐もの」の物語の優れた点は、人生における様々な「こうだったかもしれない」という可能性の数々をひとまとめに提示できる、というところにあります。

 ミラン・クンデラは『存在の耐えられない軽さ』(1984年)のなかで「人生にはいろんな可能性があるけれど、我々にはそのうちのひとつしか選ぶことが出来ず、その選択が正しかったのかどうかを確かめる術はない。ゆえにその選択=人生は ”重い” のではなく、耐え難いほどに ”軽い” のだ」(大意)みたいなことを書いてるんだけど*1、ルート分岐・マルチエンディングを取り入れた物語だと、そうした数々の選択を、ひとつの物語として表現できる、ということですね。

 マルチエンディング式のゲームにおいて、全ルートをクリアしたプレーヤーは、それらすべてを、さまざまな可能性が縒りあわせられた一本の「可能性の束」として感じることができます。

 そこでは、「GOODルート」も「BADルート」も、すべてが「あり得たかもしれない可能性」として等価で、どれか特定のルートがただひとつの真実...「トゥルールート」ということは本当はない。

 すべてのルートの価値は等価で、プレーヤーは最終的にハッピーエンドや「トゥルールート」に到達しても、ヒロインの笑顔のなかに、別のルートでは(たとえば)死んでしまった彼女の面影を重ねてしまう。プレーヤーが最後に到達するルートには、そこに至るまでの他のルートをプレイしている時間がすべて畳み込まれているわけです。

 そういう経験を、ルート分岐・マルチエンディングはプレーヤー(視聴者)に提供することができる。*2

 

                   ◯

 

 ただ、人はそのように「こういう人生もあり得たかも」という想像をやめることはないんだけど、でも実際に「あるルート(人生)」で辛い出来事に襲われたからといって、ルートが分岐するポイント(セーブポイント)まで戻ってやり直す、ということはあり得ません。あり得たかもしれない可能性は、どこまでも「可能性」でしかない。

 アニメ版『STEINS;GATE 』(2011年)は「ルート分岐もの」のフォーマットを用いながら、ルート分岐的な発想に徹底的な批評を加えた作品でしたが、その続編である劇場版(2013年)には、こんなセリフが登場します (やはりここには震災の影響を見てしまうのだけど)。

 

「たとえ方法があったとしても、過去を改変してはならない。”あったかもしれない可能性” を現実にしてはならない。未来は誰にもわからないものだ。やり直しがきかないからこそ、あらゆる不幸や苦しみも、理不尽な事故も人は受け入れ、前進できるんだ」

(『劇場版 STEINS;GATE 負荷領域のデジャヴ』)

  
 そして『ヴァイオレット』も同様に、「あり得たかもしれない可能性(別ルートの存在)」は描きながらも、過去の出来事それ自体は「変えようのないもの」であるということをたびたび強調します。

 

「境遇がどうであれ、経緯や理由がなんであれ、してきたことは消せない」(第9話)

「誰にも、どうにもならないことなのです。私の腕が、あなたの腕のように、柔らかい肌にはならないのと同じく、どうしようもないことなのです」(第10話)

 

 そのように、作家の「ルートの乗り換え」は描かれず、彼も(そして我々も)ひとつのルートを生きていくしかない。

 ないんだけど、でも、その「ひとつのルート」には、思ったよりも「幅」や「弾力」があるかもしれないよ…という、その「幅」・「弾力」をもたらすものとして、『ヴァイオレット』には、「過去の捉えなおし」や「他者の存在」という要素が導入されているのではあるまいか。

 

                   ◯

 

 という、いささか長い下ごしらえを終えたうえで、ぬいぐるみを「どれか選ばないと、世界が終わると仮定して」というセリフとともに、主人公に「選択」させる例のシーンを振り返ってみると…

 ここにはどこか「ルート分岐」を連想させる雰囲気がありはしないでしょうか。ゲームだったら「セーブポイント」?

 

>ヴァイオレットが選んだのは…

1. 犬のぬいぐるみ
2. 猫のぬいぐるみ
3. 兎のぬいぐるみ

 

 ヴァイオレットは犬を「選択」するのですが、でも最終回では、彼女が「選択しなかった」猫と兎を持っているホッジンズ(他人)が、助け舟をだしてくれるんですね。

 さきほど「自分が選択しなかった可能性を、他人が持ってくれていることもある」というヘンな言い方をしてみたのは、以上のような理由からです。

 

  

◯むすび

 上に書いたルート分岐云々の話は「こんな見方どうですか」ぐらいにとってもらって良いんですけど、他人をシャットアウトして、自分の選択の中「だけ」に閉じこもることの呪いについては、しっかり描かれていたと思います。

 第9話、自殺を試みるヴァイオレットを、彼女が「選択」した犬のぬいぐるみがじっと見つめている…という不気味なシーン。

 

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 この行き詰まった状態から彼女が抜け出すきっかけも、部屋のドアをノックする「他人」によってもたらされるんですよね。クローズド・サーキットはアカン、と(ときには他人をシャットアウトして孤独になることも必要、みたいな事とは全然違う話ですよ、念のため)。

 そして最終回、ヴァイオレットが航空祭で、さまざまな人々、「他人」が書いたたくさんの手紙に囲まれるシーン。

 

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 ここは、ヴァイオレットが、世界に大勢いる人々のなかのワン・オブ・ゼムに「なることができた」…みたいなシーンだと思って、かなりぐっときてしまいました。大勢のなかに個が埋没する、というのとはぜんぜん違った意味で。

 

                   ◯

 

 最後に白状しておくと、このアニメについては、じつはところどころ乗りきれない部分があったのも事実です(ここまで「泣き」を押しださなくちゃあかんかったのかな?とか)。

 でも、最終回がめちゃくちゃよかったんですよ。過去を抱きしめながら、未来に向けてビューンと意識が伸びていく感じというか。「うわー観て良かった!」とすっかり感激してしまい、感想を書きたくなった次第です。

 だけど、いざ書き始めるとかなり苦労しました。このアニメ、ストーリーこそシンプルだけど、びっくりするぐらい多彩なテーマの芽が詰め込まれていて、それらが有機的にお互い関連しあってもいるので、感想を書くうちに「あれもこれも」と話題があちこちに飛んで収集がつかなくなっていくんですよ。巧妙な罠!(掘られていない落とし穴に勝手に落ちた、という見方もあるかもしれん)。

 そんなわけで、まとめきれずにカットした話題がけっこうありました。たとえば、個人にとっての「過去の捉えなおし」の延長としての、国家にとっての「集合的記憶」だとか、あるいは、いとうせいこうが『想像ラジオ』で書いたような「死者との出会い直し」みたいな話が接続できるんじゃないか…とか。 

 はたまた、まんが・アニメ的な「空虚な戦闘美少女」*3だったヴァイオレットが、内面を獲得していく…というヒロインの精神的な自立の物語と、作中で進む女性の社会進出とがリンクしていく様子をもっと見たかったなー、みたいな話とか。*4

(「働く女は嫌だ」という反動的な発言でアイリスたちの不興を買ったベネディクトが、それでも女性のようなハイヒールを履いているっていう設定とか、けっこう気になりますよね?)

 とにかく、すごくさまざまな可能性に満ちた作品で、感想を書きながらあらためて「そりゃあ京アニもあれだけ力入れるよなあ」と思わされました。すでに制作が発表されている新作では、どのあたりを掘り下げてくるのか楽しみです。

 

 

*1:「人間というものは、ただ一度の人生を送るもので、それ以前のいくつもの人生と比べることもできなければ、それ以後の人生を訂正するわけにもいかないから、何を望んだらいいのかけっして知りえないのである。テレザと共にいるのと、ひとりぼっちでいるのと、どちらがよりよいのであろうか?比べるべきものがないのであるから、どちらの判断がよりよいのかを証明するいかなる可能性も存在しない。人間というものはあらゆることをいきなり、しかも準備なしに生きるのである。それはまるで俳優がなんらの稽古なしに出演するようなものである。しかし、もし人生への最初の稽古がすでに人生そのものであるなら、人生は何の価値があるのであろうか?」ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)

*2:そのような特質を備えたルート分岐・マルチエンディングを一本の物語に再統合した例として、竹宮ゆゆこ『ゴールデンタイム』、こうの史代この世界の片隅に』、本文でも話題に出ているアニメ版『STEINS;GATE』などがあります。

*3:斎藤環は『戦闘美少女の精神分析』(2000年)のなかで、ナウシカ綾波レイなど、まんが・アニメの「戦闘美少女」が備える高い戦闘能力は、作中での説明を欠いた「自明の前提」となっているか、あるいは「唐突にー外からー理由なく」もたらされるもので、彼女たちは「徹底して空虚な存在」であると指摘しています。ヴァイオレットもまた、ディートフリートに拾われる前から突出した戦闘能力を備えており、精神的に白紙のような存在でした。「おそらく14歳ぐらい」という年齢設定も、空虚な戦闘美少女の代表格である綾波レイと被ります。

*4:放映中、原作組にネタバレをくらったのですが(以下、テレビ版最終回以降の展開の重大なネタバレのため反転)じつはギルベルトは生きていて(『アウトレイジ・ビヨンド』でビートたけしが生きてたぐらいの衝撃…)、後々ヴァイオレットと再会するらしいです。アニメ1期でヴァイオレットのギルベルトへの依存からの脱却を描いたので、続編で、ひとりの自立した女性としてのギルベルトとの再会が描かれるのでしょうか?