NHK総合で毎週土曜日に放映中のアニメ『3月のライオン』(公式サイト)。
じつは私はまだ羽海野チカの原作を読んでいないのですが(『ハチミツとクローバー』は大好きだったので、こちらもそのうちまとめ読みしたい)、数々の賞を受賞し大ヒット、今春には実写映画2部作の公開も控えるなど、とても注目度の高いタイトルですね。
アニメ版は全22話予定で、先日放映された第12話からすでに後半戦に突入していますが、この記事は昨年末まで放映された前半分・第1話~第11話までについての感想です。ネタバレがありますのでご注意ください。
◯三月町(暖かな共同体の世界)と六月町(孤独な競争の世界)
物語の主人公・桐山零が暮らす「六月町」と、ヒロイン・川本三姉妹の住む「三月町」。
零が、橋でつながったふたつの町(世界)を行き来することで『3月のライオン』のストーリーは動いていきます。「六月町」は、冷え冷えとした孤独感が漂うモノクロームの世界。いっぽう「三月町」は、暖かく賑やかでカラフルな世界。
このふたつの町が、それぞれ「人と人との繋がりのある世界」と「孤独な勝負の世界」を表している…というのは、これは見たままですよね。
・三月町=(広義の)共同体の世界
・六月町= 勝負・競争の孤独な世界
という対照関係。
◯家庭への競争原理の介入
零は幼いころに交通事故で家族を亡くし、父の友人で、プロ棋士である幸田の家に内弟子としてひきとられました。やがて将棋の才能を開花させた零は、幸田からの愛情を幸田の実子よりも受けるようになり、しだいに家庭はギクシャクしていく。
やがてそのギクシャクした雰囲気と「自分が幸田家を壊した」という罪悪感に耐えられなくなった零は中学卒業後に独立、六月町で一人暮らしをはじめた…と、ここまでがアニメ第1話開始前までの『3月のライオン』のプレ・ストーリーでした。
零が将棋をはじめたそもそものきっかけは、生前の実父が趣味でやっていた将棋の相手をつとめたい、という気持ちから。
「将棋は苦手だったけれど、忙しい父と一緒に過ごせる大事な時間だったから、一生懸命がんばってた」(第5話)
零が将棋をはじめた動機の根っこには「父親と繋がりたい」という欲求があったんですね。人と人とを繋げる、コミュニケーションツールとしての将棋。これは、二海堂が川本姉妹に将棋を教える幸福なシーンでも表現されていました。
そして内弟子に入った幸田家でも、零は将棋の腕前によって養父からの愛情をうけることになるんですが、でもそのことが、幸田家に軋轢をひき起してしまいます。
「養父は将棋を愛していた。良くも悪くも、全てが将棋中心だった。だから彼を愛するものは、強くなるしかなかった。彼の視界に入り続けるために」(第5話)
血の繋がりの有無に関係なく、もっとも将棋が強くなった子供に愛情が注がれ、それ以外の子供たちには関心が向けられなくなる…という、父親からの愛情をめぐるゼロサムゲーム。
これは、家族という「共同体」にネオリベ的価値観、「勝ち負けが全て」という競争原理が介入してきた状態です。
「全てが将棋中心」な幸田の関心が、将棋の才能を開花させた零に向けられた結果として、実子たちへの関心が薄くなっていることは、子供達へのクリスマスプレゼントのチョイスにも露骨にあらわれていました。
そして零は、将棋の「勝負」に勝って養父の関心と愛情を勝ち取ることによって、逆に幸田家という「共同体」から自らを追放せざるを得ないというポイントまで追いつめられてしまう。その結果彼がたどり着いたのが、六月町の、あの冷え冷えとしたマンションの一室でした。
そもそも零は「人との繋がり」を求めて将棋をはじめたのに、自分が将棋の勝負(競争)に勝つ事が、人と人との繋がり(共同体)を破壊してしまい、自らも孤独に落ちていく。『3月のライオン』の根底にあるのは、このような「競争と共同体の相克」というテーマです。
人が「個」として自らの勝利や進歩を追求すること(それ自体はもちろん良いことです)と、そうした「個」の集まりとしての「共同体」(これもまた、人間の生存には必要不可欠)とがなかなか相容れない…という難しさ。
この作中の二大要素…「競争」と「共同体」をそれぞれ代表しているのが、六月町と三月町です。
◯「ペットボトル」と「川」の対比
六月町と三月町のほかに、作中で「個(としての競争)」と「共同体」との対比を表わしているものとして「ペットボトル」と「川」があります。一人分の水(飲料)が小分けになった「ペットボトル」と、たくさんの水があつまって構成される「川」*1。
作中では「ペットボトル」と「川」とがしばしば同一の画面に描き込まれ、そのことが両者の対照関係を強調します。たとえば零の部屋の窓からは幅の広い川が見渡せますが、そういうシーンの多くで、部屋の床にペットボトルが配置されています(この画像サイズでは判別しにくいかもですが…)。
上から第1話・第3話・第5話・第6話 他の話数でも同様の構図が複数回登場
川は「個の集まり」としての共同体。そこに上手く合流できずに孤立している零=「ペットボトル(閉じ込められた水)」という構図。
物語のなかで、川=「共同体」サイドを代表する三月町に住む三姉妹の苗字が「川本」なのも偶然ではないかもしれませんね。漢字の「三」はタテにすると「川」にもなりますし。
◯川について
作中の「川」が、個の集まり=「共同体」を示唆していることは、第2話で対局に向かうときの零のモノローグからも伺えます。
「川が好きだ。好きなものなんてそんなにはないけど。水がたくさん集まった姿をみてると、ぼーっとして頭がしんとする。(...)妙に落ち着くのは、小さいころ、川に囲まれた町に住んでいたせいかもしれない。もう、かすかにしか憶えていないけど」(第2話)
川が、かつて実の家族(共同体)と過ごしていた時代の記憶と結びついているんですね。
川がらみでは、第7話のこんなシーンも印象的でした。川本家の次女・ひなたの片想いの相手…野球部の高橋と零とのあいだで「コミュニケーション」が成立した、というシーン。その背景に、零の人との交わりの成功を祝福するかのように、夕日の反射する川面が美しく描き込まれています。
そしてその夜、「人と通じ合えた」という喜びを噛み締めながらの零のモノローグ。
「(…)ふと気付くと、6階の僕の部屋まで、水の匂いと波の音がのぼってきていた」(第7話)
いままで羨望まじりに遠くに眺めていた「川」の水が、身近に感じられたというシーン。ここではいつもの「ペットボトル」が描き込まれていないのもポイントだとおもいます。
いっぽうこの零のモノローグと対になっているのが、つづく第8話、零のマンションを急襲した義姉のこのセリフ。
「へえ、すごい眺めね。これでホントに6階?高く見えるわ。川面が低いから?」(第8話)
義姉にとっても、川=共同体や人との繋がりは「遠いもの」に見えるということですね。太く描き込まれた窓枠も「個」がバラバラに切り離されている…というイメージづくりに一役買っています(野球少年・高橋くんのシーンとの、窓枠の配置の違い)。
父親からの愛情をめぐって「競争」した(させられた)結果袂を分かった義姉と零は、おそらくはどこか似た者同士で、けっこうイビツな愛憎関係にある模様。
さらに第10話、零と義姉が川の前で待ち合わせるシーン。これまた第7話の高橋くんのシーンとは、同じ川をバックにした映像でもずいぶんと印象が違います。凍えるような冷たい色調にくわえて、このときの川の水位が「低い」ことを伝える映像も周到に挿入済み。
「共同体・人との繋がりを遠く感じている者同士の共感状態」みたいな、寒々しくて寂しいシーンでした。
◯ペットボトルについて
つづいて「ペットボトル」にも注目。
さきほどペットボトルを「閉じ込められた水」「共同体から切り離された ”個” のイメージ」みたいに書いたので、なんとなく作中でネガティヴな扱いを受けているアイテムのような印象を与えてしまったかもしれないですが、そうとばかりもいえません。
たしかにこの作品で、ペットボトルは「孤独」なイメージを付与されています。たとえば第10話、試合(=勝負・競争)に向かう零が電車の車窓から「川」を眺めているシーン。彼の右側に、ペットボトル飲料の広告が貼られています(これまた小さいですが)。
ひとり勝負にむかう道すがら、水の集まり=「川」を眺める零。でも、彼と「川」とはガラスによって隔てられていて、その横には「ペットボトル」。
孤独感が立ち上がってくる映像ですが、でも「孤独」が全面的に悪いものなのか?というと、もちろんそんなことはありません。棋士たちが勝負の場で、飲み物をごくごくと飲むシーンが何度も挿入されることに表れているように、ペットボトルには「孤独」のエネルギーが必要とされるシビアな場もある…という意味合いも付与されていそうです。
対局がおわったときに、勝者にはまだペットボトルの中身に余裕があって、いっぽう敗者は飲み尽くしている…みたいな描写も幾度かみられます。孤独な勝負の場での「ペットボトル」は、棋士たちにとっての拠り所のような描き方もされているんですね。孤独に向き合う力もまた人間には必要、というか。
◯「競争」と「共同体」の相克
作中で零が対局して破る相手の多くは「共同体」がらみの事情を抱えています。
まず、第1話で零が勝利したのは彼の義父で、この試合によって零と幸田家のあいだの溝がさらに深まります。
つづく第2話の対局相手・松本は、勝負に勝ってテレビに映った姿を「身体の悪い田舎の爺ちゃんにみてもらいたかった」けれど、その願いは叶いません。零が勝つことが結果的に、松本と爺ちゃんのあいだの「繋がり」を阻害してしまう。
でも、松本の性格の明るさにも助けられて、このエピソードはカラッとした明るい後味になっていました。それとは一転してヘビーだったのが、第10話、安井との対局。
離婚が決まった安井が家族と過ごす最後のクリスマス。「負けると酒におぼれて暴れてしまう」という安井をそれでも零は破り、その結果安井から「あーあ、最後のクリスマスだったのになぁ!?」という恨みがましい言葉を投げつけられます。
これは零にとっては、「自分が勝負(競争)に勝つ事で家族(共同体)の繋がりを破壊してしまった」という意味で、幸田家のケースのリフレイン…「またか」という出来事なんですよね。もちろん安井の自業自得な部分がおおきくて、零はぜんぜん悪くないんだけど、でも解体寸前の家族共同体=幸田家と安井家をどこかで重ねていたであろう彼にはこたえた。
「家族との最後のクリスマスの時間」=「共同体」を守るために対局にのぞんだはずの安井が、あっさりと勝負を放棄してしまったことが許せなかった…という部分もあるのでしょう。
ここで零が絶叫するセリフの数々…「弱いのが悪いんじゃんか!弱いから負けんだよ!勉強しろよ!してねえのわかんだよ!」とか「酒飲んで逃げてんじゃねーよ!弱い奴には用はねーんだよ!」というのは勝負の場においては反論しようのないド正論なんですが、言いながら自分がボロボロになっている姿が痛々しいです。
「人との繋がり」を求めて将棋をはじめたのに、自分が勝つことが共同体を破壊してしまい、結果「なんにも持てないから将棋ばっかりだよ!」という孤独な状態に追い込まれている零。第1話からずっと作品の通奏低音として流れていた「競争と共同体の相克」というテーマが一気に表面化してきたのが、第10話・安井との対局でした。
逆にいえば、これとは対照的に第9話・松永との対局の後味が悪くないものだったのは、松永はなんだかんだいっても家族との関係が円満で、勝負に負けても彼を受けとめてくれる共同体=「セーフティーネット」があったからでしたね。
「共同体」についてかなり屈折した感情を抱えているはずの零が、松永を相手にしていると「家族は助け合うものなんです!」なんてありきたりな言葉をつい口にしてしまう。人のガードを下げさせてしまうダメジジイの人徳です。
(とはいえ『3月のライオン』が「 "古き良き" 家族共同体を復活させて、育児や介護はその中で賄うべき」みたいな話をしているわけではない、という点は言い添えておきます。零と川本家・幸田家の関係をみれば自明のことだけど。)
◯さまざまな作品で取り上げられる「競争と共同体」テーマ
ここまで書いてきたような「競争と共同体」にまつわるテーマは『3月のライオン』のみならず、さまざまな作品で取り上げられています。ここからは、ちょっとのあいだ寄り道して、それら他作品の例をみていきたいと思います。
まずは2006年に公開された2本のアメリカ映画…アカデミー脚本賞を受賞した『リトル・ミス・サンシャイン』(公式サイト)と、ピクサーの3Dアニメーション『カーズ』(公式サイト)。どちらも大ヒット作なのでご覧になった方も多いとおもいますが、この2作は似通ったストーリー展開を採用しています。
(※以下の文章で『リトル・ミス・サンシャイン』『カーズ』『Free!』の結末に触れているのでご注意ください。「ネタバレは一切ダメ派」の方は、次の「零の “if”としての宗谷冬司」までスキップおねがいします。)
序:主人公たちが何かしらの形で「競争原理」の抑圧をこうむり、そのことで「共同体」から疎外され(あるいは「共同体」が機能不全を起こし)孤立している
破:それら「孤立したもの同士」が、ひとつの目的に向かって力を合わせざるを得ない状況に追い込まれ、さまざまな衝突を経験する
急:衝突の結果、結束を深めた主人公たちが、レースやコンテストといった「競争原理」が支配的な場で「共同体」の価値を叩き付ける行動に出る
どちらの作品の主人公(たち)も物語スタート時には孤立しており、その孤立にはなんらかの形で「競争原理」が影響しています。
「勝ち組・負け組」という単純な二分法の価値観に思考を支配され、その視野の狭さが周囲とのコミュニケーションを疎外していたり。あるいは恋人が別のゴージャスな相手に乗り換えて捨てられたショック(=「競争」での敗北)で、自殺未遂を経験していたり。
(このようなテーマの作品では、「恋愛」も限られたひとつのイスをめぐって”個” が争う「競争」に類する事象として扱われることが多いです。念のため付け加えておくと「誰かが傷つくことになる ”恋愛” というものはけしからん!」みたいな悪平等な話をしているわけではなくて、単純に、誰かが恋を実らせれば誰かが失恋することになる…という事実が「結果的に」ゼロサムゲームの様相を呈する、という話。*2)
そういった孤立したキャラクターたちが、しだいに共同体の価値を再確認していく…という物語が2006年に続けて公開され、どちらも大ヒットしていたのが印象的でした。
とくに『リトル・ミス・サンシャイン』は、ミニシアター系っぽい映画が、映画祭での評判や口コミ効果で拡大公開され、最終的には1億ドル超えの大ヒット…という、最近の日本でいえば『この世界の片隅に』(公式サイト)のような支持のされ方をしていて「時代に求められている感」がありました。
こういうタイプの作品は昔から一定数作られてきたものではあると思いますが、21世紀に入ってから制作された諸作品とその受容のされ方には、この前後にいよいよ浸透したネオリベ的な価値観への反動とか、共同体の崩壊とか、それに替わるセーフティネット不在の問題なんかが影響を及ぼしているのではないかな、と思います*3。
◯
このような「競争と共同体」にまつわるテーマが、日本のアニメーションでも頻繁に取り上げられている…ということを私が知ったのは、ブログ「ランゲージダイアリー」の相羽さんの記事を読んでのことでした*4。
たとえば、『3月のライオン』を制作している「シャフト」と並ぶ人気スタジオ「京都アニメーション」*5のヒット作『Free!』シリーズ(2期公式サイト)。
高校競泳の世界を舞台にしたこの作品では「競争と共同体」テーマが明確に取り上げられており、とくに第1期の最終回では「レースという ”競争原理” が支配的な場で ”共同体” の価値を叩き付ける」という、ささきほど挙げた『カーズ』『リトル・ミス・サンシャイン』と同パターンの結末が描かれていました。
Free!/感想/第7話「決戦のスタイルワン!」〜第12話(最終回)「遥かなるフリー!」:ランゲージダイアリー
でも、この作品がシンプルに「競争は良くない、共同体が大事!」と言っているわけではないのは重要で(それは『カーズ』『リトル・ミス・サンシャイン』も同様ですが)、これは両者のバランスの問題。私個人は競争にほとんど興味がないけれど、でも世の中からいっさいの競争がなくなるとヤバい、というのもまた一面の真理です(旧共産圏を見よ)。
なので、第2期『Free! -Eternal Summer-』ではテーマを進めて、「競争と共同体」のあいだのバランスを取って、どう両立させていくか?…ということが焦点になってきます*6。
この「バランス」についても、相羽さんの記事から一部を引用させてもらいたいと思います。
(…)要は、振り子が「競争」側に振れ過ぎても上手くいかず(勝てなかった者を蹴落としてしまうから)、逆に「共同体」側に振れ過ぎても上手くいかない(「同調化圧力」に乗れなかった者は排斥されるから)。
この二つのバランスをとる、ないし、二項対立で捉えずに「全体性」を回復する……という物語が求められていることが見えてきます。
「競争」は「個」を押し進めていく方向性ですし、「共同体」は「全体」を押し進めていく方向性ですから、哲学とか、そういうジャンルでは古来からの、逆に言えば普遍性がある物語にまで接続が可能になってくる……というのが見えてきます。
『けいおん!(!!)』から五年経ったあなたへ〜響け!ユーフォニアム2第十回「ほうかごオブリガート」の感想(ネタバレ注意):ランゲージダイアリー
「競争」と「共同体」の問題は「個」と「全体」の問題とも言い換えられるんですね。
ここで話題になっている京都アニメーション制作の『響け!ユーフォニアム』(2期公式サイト)は、吹奏楽に打ち込む高校生たちの姿を描いたシリーズで、作中では「"全体" としてはコンクール= "競争" へのコミットを受け入れた部活共同体のなかでの "個" のポジションと、新しい共同体モデルの模索」が、おそろしく精緻・かつ有機的に描写されています*7*8。
『カーズ』『リトル・ミス・サンシャイン』『Free!』では、「ある個人が ”競争と共同体の相克” というテーマに対してどうリアクションするか」というドラマを描いていたのにたいして、『響け!ユーフォニアム』では、もう少しカメラが後ろに引いて「共同体 ≒ ひとつの社会」全体のメカニズムが画面におさめられている感じ。
(これは視野が広いからエラいとかエラくないという話ではなくて、それぞれの立ち位置からしか描けないドラマがあるということです。)
◯
予定していたよりも寄り道が長くなってしまいましたが、どうして『3月のライオン』の感想から離れてこんなコーナーを書いたかというと、この作品が描いているのが「恵まれた才能ゆえに孤独に苦しむ天才少年棋士の ”特殊” な物語」ではなくて、「競争と共同体」「個と全体」のあいだでさまざまなトラブルを抱えるわれわれ視聴者にとっても、身近な物語なのだなあ…ということを確認しておきたかったのです。
では、このあたりで『3月のライオン』に話題を戻しましょう。
◯零の「if」としての宗谷冬司
なんとも後味の悪い安井との対局の余波をくらっての第11話、風邪で寝込んだ零がみた夢はこんな内容でした。
「熱に浮かされた僕は何度も同じ夢をみた。子供のころから繰りかえしみたやつだ。長い長いエスカレーターをのぼる夢。何が怖いというわけではない。ただ登って登って登りつめたそこには、帰る道がないのだ」(第11話)
人との繋がり・共同体を破壊しながら勝負に勝ち続けて、最後にたどり着くのはこんな寂寞とした場所なのではないのか…という夢。
このような不安を抱える零が、孤独な「六月町の世界」に身を置き続けるなかで、いつしか「三月町の世界」を完全に諦めて心を閉ざしてしまったとしたら?
そのような、零の「if(もしも)」の姿を体現しているのが、宗谷冬司です。零と同じく中学生でプロデビューを果たしたかつての天才少年にして、史上初の全タイトル制覇を達成した現・天才棋士。
「(...)10代のころからぜんぜん顔が変わんないんだよ。なんかこう、時間が止まってるっていうか、不思議なんだよなあ。」(第6話)
川やペットボトルの「水」ではなく、冬司のまわりを取り囲むのは凍りついた「雪」。彼は、夢のなかの零が到達したような寂寞とした世界にずっと身を置いているのかもしれません。
この、零の「if」としての冬司と零が対局する場面…いってみればルーク・スカイウォーカーとダーズベイダーの決闘みたいなシーンはこの先描かれるんでしょうか?
ただ気になる点は、冬司の凍りついたタナトス的世界が現時点では静謐でひたすら美しく描かれているので、「もうコレでいいじゃん」と思えてしまうところ。2クール目では「実際こういう世界に身を置くとしんどい事もあるぜ」という内実が描かれていくのか、それとも「いや、俺はこの世界で俺なりに幸せなんだよ」というアングルが示されるのか(孤独を好み、かつ現実的な諸々をカバーできる経済力をもった人というのはかなり幸せな気がします)。
◯むすび:三月町と六月町の「合いの子」桐山零
以上のように、1クール11話を通して「個としての競争(六月町・ペットボトル)」と「共同体(三月町・川)」とのあいだで揺れ動く零の姿が描かれてきた『3月のライオン』。
零はどちらか一方の世界にどっぷりと浸かっているのではなくて、両者の「合いの子」のようなポジションです。それは、頻繁に描かれる「橋を渡ってふたつの町を行き来する姿」ももちろんそうですが、現在の育ての親たち=「義父・義母」の存在も大きい。
◯
まず義父ですが、これはもちろん棋士の幸田。勝負・競争の世界=六月町サイドの住人。なにしろ、悪気はないままに、家庭にまで「競争原理」を持ち込んでしまった人物です。
そして零のなかにもまた「六月町的な価値観」が強く根付いていることは、第10話ラスト、あの絶叫シーンに続くモノローグで提示されていました。
「闘う理由がないといいながら、本当は身のうちに獣が棲むのを知っている。まわりのものを喰いちぎってでも、生きていくためだけに走りだす獣。闘いがはじまればどうしても、生きる道へと手が伸びてしまう。誰を不幸にしても、どんな世界が待っていても」(第10話)
自らのうちにあることを否定できない勝負師としての「業」、あるいは「個」としての生存本能みたいな感じでしょうか。対局=闘いの場においては、まわりのものを犠牲にしてでも自分が生き残る、と。
いっぽう現在の零にとっての育ての親…「義母」は、これは幸田の妻ではなくて、三月町の住人である川本家の長女・あかりです(あくまで「物語上の」義母ポジションの話)*9。
「僕はあかりさんに、なんとなく逆らえない。最初にいちばんみっともないところを全部見られてしまったから、もう取り繕えないのだ」(第2話)
ナウシカばりに大きな胸にくわえて、「痩せた動物を ”ふくふく” にしたい(育てたい)」という強い欲求など、あかりは非常に母性の強い女性として描写されています(そのいっぽうで、母性とは相反する「夜の女」としての色っぽさを併せ持っているあたりは、女性作者によるキャラ造形という感じ)。
この幸田とあかりの二人が、物語上の零の「義父・義母」ポジションである…ということを印象づけていたのが、第11話。「幸田の家からは独立した」とつげる零に、あかりは彼が風邪で寝込んでいたあいだの携帯電話の着信履歴を突きつけます。履歴はそろって、幸田(義父)と川本家(義母)からのものばかり。
「こんなに周りに心配させているうちは、独立したっていいません」(第11話)
◯
六月町と三月町、ふたつの世界にまたがって育ての親をもつ「合いの子」である零。
この設定が意味するのは、「競争と共同体の相克」という問題が、零というひとりのキャラクターのなかでせめぎあっている、ということです。
「 ”個” としていったん対局にのぞんだら、たとえ相手を不幸にしようとも叩き潰さずにはおけない」という「業」。いっぽうで、そもそも将棋をはじめた動機の根っこにあった「人と繋がりたい」という気持ち。
彼はどちらも否定できず、内側からふたつの世界によって引き裂かれていて、そのことが彼の苦しみを呼び起こしている。どちらかを捨てて、どちらか一方の価値観に自分を同化することができていたら、第10話みたいなことにはなっていないですよね。
なので今後のストーリーでは、これまでは比較的分かれていたふたつの世界…三月町と六月町が、良くも悪くも次第に混じりあっていく感じになるんじゃないかなー?と思っています。
そのことで、これまではどこか受動的・逃避的だった零(プロ棋士になった動機も、「幸田家から逃げるため」というのが大きい)が能動的・主体的に動かざるを得ない局面がおとずれて、その結果として零のなかで両者が統合に向かう・バランスがとれる・全体性が回復される…みたいな想像をしてみてはいるんだけど、果たしてどうなるんでしょうか(占いばりにぼかしておくスタイル)。楽しみです。
*1:作中の「水」は、場面によって「才能」や「コミュニケーション」などさまざまな事象のメタファーになっていますが、この記事では、テーマとして取り上げている「共同体と個」にまつわる「水」の表現のみをピックアップして扱っています。
*2:関係者全員が合意のうえで、複数での関係性を築く「ポリアモリー」のような恋愛・結婚の形もあることを考慮すると、「恋愛」が「競争」に類する事象として扱われている物語においては、キャラクターたちがモノガミー志向であることが前提になります(ポリガミーの恋愛に競争要素がまったくないという話ではない)。
*3:00年代アメリカ映画で「競争と共同体テーマ」を扱った作品としてもう1本おすすめなのは『マイレージ、マイライフ』(2009年)。「リストラ請負人」(競争・効率至上主義の権化)の仕事を愛し、決まった恋人を作らずカジュアルなセックスを楽しみ、共同体のしがらみからの自由さを誇って生きてきた中年男をジョージ・クルーニーが好演。その仕事にインターネットを導入して彼の地位を脅かす新入社員が登場するんですが、その若者は彼とは違い、地元の恋人との絆を大事にしている…というあたりに、旧世代と新世代の価値観の違いが出ていて面白いです。
*4:当記事では触れなかったハードアクション系のアニメ...『甲鉄城のカバネリ』や『東京喰種トーキョーグール』などでも「競争と共同体」テーマは取り上げられています。
*5:近年の京都アニメーション諸作品の関係を体系的に取り上げてみた記事はこちら→ 『無彩限のファントム・ワールド』と、10年代京アニの現在地点(前編)(後編)
*6:『Free!ES』を観ていた人向けの注釈:「僕はバッタしか泳げない!」というアンバランスさを持っていた伶が他の種目にチャレンジするのも、渚が「勉強」と「部活」の両立を目指すのも、江の料理の「栄養」と「味」のバランスがガタガタ…といった小ネタにいたるまで、すべてクライマックスの「遙のなかでの ”競争” と ”共同体” の両立」と呼応する仕掛けになっていました。
*7:『響け!ユーフォニアム2』を観ていた人向けの注釈:あの作品を「全国金賞を目指してがんばる吹奏楽部の物語」としてのみ捉えると、もしかしたらシリーズ後半の展開は奇妙に映るかもしれません。なんで吹部のストーリーから逸れて、あすか先輩や久美子の「家庭の事情」の話を延々とやってるの?と。でも、「共同体についての試論」というアングルからみると、後半の展開には極めて妥当性があります。人間は複数の共同体にまたがって所属しており(「学校」「部活」「家庭」「塾」など)、それらは個人のなかで相互に結びつき、影響しあっているもの。第5話までで「北宇治吹奏楽部」という共同体の「内側」の問題は決着をみたので、続く第6話からのストーリーの主軸は吹部共同体と、その「外側」の共同体との関係性に移行していくんですね。なので、全国大会でもテーマ的なクライマックスに設定されていたのは「吹部が金をとれるかどうか」よりも、「久美子と姉」「あすかと父親」それぞれの「家族共同体メンバー」との関係性の再構築。さらに最終回でそれが「あすかと久美子」という「吹部共同体の先輩と後輩」の関係の話に戻ってくる...という構成になっていました。
*8:『ユーフォニアム2』で描かれた共同体モデルが相当凄いことになっている…という点については、相羽さんの感想記事のなかでも、とくに第12話分に詳しいです→まだ生きている大事な人にちゃんと想いを伝えておくこと〜響け!ユーフォニアム2第十二回「さいごのコンクール」の感想(ネタバレ注意):ランゲージダイアリー
*9:川本三姉妹の長女・あかりが現在の零にとっての義母ポジションだとすると、三女・モモは、亡くした妹を思わせるキャラクター。もちろん「亡くなった妹の替わり」ではなくて、むしろモモと接することが、実妹の不在を零に強く意識させるような描かれ方がされていました。そして残る次女・ひなたは「擬似的な異性」。いや「擬似的な異性」って何だよという感じですが、第7話でひなたが零に「禁断の果実=リンゴ」を食べさせるシーンは無邪気さが逆になんかエロかったです。