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『八つ墓村』感想:戦前と戦後のせめぎ合い

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 脚本家・橋本忍の訃報をきっかけに、『八つ墓村』(1977年版)をひさしぶりに観返してみました。

 


八つ墓村

 

 『羅生門』や『七人の侍』、『砂の器』も手掛けている人なのになんで『八つ墓村』?という感じですが、この映画の脚本が橋本さんだということを恥ずかしながら今回初めて知って、「子供のころにテレビで観た、あのやたらとおどろおどろしい映画もこの人だったのか」と興味を惹かれたのです。

 当時は例のキッチュな大殺戮シーンにしか目がいかなかったんだけど(友達と「村人32人殺しごっこ」やったりしてね)あらためて観ると、シリアスなテーマが立てられた映画だったのですね…。

 以下の本文ではネタバレをしていますので、ご了承ください。

 


◯戦後の日本をめぐる寓話

 こういう「解釈」を加えるのはベタすぎてちょっと気恥ずかしいんだけど、主人公の青年(萩原健一)は物語のなかで「現代の日本国」を象徴するキャラクターとして位置づけられています。

 この映画は1977年公開なので、ここでの「現代」は昭和50年代初頭を指します。高度経済成長のピークこそ過ぎたけど、基本的には日本がまだイケイケに経済発展を遂げていた時代。

(私は横溝正史の原作小説は未読なのですが、映画版は時代を原作の昭和20年代から、公開当時の「現代」=昭和50年代に移し替えた他にも、さまざまなアレンジを加えているようです。)

 青年は地方の生まれ故郷を離れて、ピカピカに現代的な空港で働いています。映画とタイアップしたというJALのジャンボジェットがやたらと画面に入ってくるのですが、これは商業的な理由だけではなくて、「ザ・現代日本の象徴」として必然性をもって映し込まれています(「日の丸」があしらわれた機体)。

 

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 そこにのっぴきならない呼び出しがかかって帰郷した彼は、地方共同体のドロドロとしたしがらみや因習、あるいは、理屈では説明のつかないスーパーナチュラルな伝承の世界に絡めとられていく。

 戦後の日本が獲得した現代性が、戦前から続く土着的なものに呑み込まれていくという、わりかしブンガクっぽいテーマです。戦後と戦前のせめぎ合いというか、戦争が終わって、経済は豊かになって、表層をモダンに取り繕ってみても、一枚皮を剥ぐと何が出てくるかわからんよこの国は…みたいな不穏さ、二層構造。

 作中で青年が昭和22年生まれであることが言及されるのですが、これは日本国憲法が施行された年ですよね。この設定からも、彼が物語のなかで、戦前的な価値観と断絶し、民主主義国家としてリセットされた(かのように見える)「戦後日本国の象徴」というポジションを与えられていることが見て取れます。

 彼は自身の出生の秘密、両親が自分をもうけるに至った経緯(≒ 歴史)を解き明かそうとします。このうち、母親側の事情については、胎内めぐりを思わせる洞窟内での彷徨や、母親が自分を身ごもり、出産したのと同じ場所でのセックスシーン(嫌だなあw)などを通して、ある程度明らかになります。

 

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 いっぽう父親側の事情ですが、まず、一体誰が青年の父親であるのかがはっきりせず、この謎が物語を最初から最後まで貫く縦糸になっています。青年は父親の素性、自らのルーツを確認しようと躍起になりますが、これがなかなか明らかにならない。

 最終的にこの謎を解くのは探偵役の金田一耕助で、彼は青年の父親が存命であること、その人物の所在や出身地などの情報を掴みます。その結果、青年は一連の事件のそもそもの原因となった、戦国時代に起きた虐殺事件の被害者の末裔である可能性が浮上する。話がいよいよ理屈では割り切れないオカルト的な色彩を帯びてきます。

 これ以上調べても誰も幸せにならない…と判断した金田一は調査を打ち切り、青年に、父親についての偽の情報を教えます。「あなたの父親は南米で事業家として成功している」。フェイクの物語を与えて、史実を隠蔽したのですね。金田一のこの判断によって、青年のルーツ=「戦前」との断絶が決定的になります。

 ラストシーンは、冒頭と同じく空港の風景。青年のルーツをめぐる「行きて帰りし物語」という構成なんだけど、でもその旅を通して、彼のルーツにまつわる事実は明らかになるどころか、逆に隠蔽されてしまう...という捻りが加わっている。仕事に復帰した青年は、離陸していくジェット機の機体を眩しげに見送ります。

 

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 ここでの青年 / ジェット機は「戦前的なものと断絶し、経済成長の上昇気流に乗る国・日本」にも見えるし、あるいは「表層の現代性の下に、自らも自覚しない前近代性を温存した国・日本」にも見える(なにしろ青年の父親は、本当はいまだに日本で暮らしているのですから)。

 映画はそのような状況を肯定も否定もせず、ただ「そういうもの」として突き放して描いており、なかなかに硬派な後味でした。

                    ◯

 全体としては、正直いってダレてしまうところもある映画だったんだけど、場面が例の虐殺シーンになると、とたんに画面が息を吹き返すのが愉快でした。ギアが突然トップスピードに入って、お祭りの見せ物小屋的ないかがわしい面白さが横溢。

 そういう映像面でのB級な魅力と、この記事で触れたような脚本面でのわりかし硬派なテーマとが、見事にバラバラな方向を向いている感じが奇妙な味わいの映画でありました。あと、「キャラ」っぽさを抑えた渥美清版の金田一はすごく良かったです。