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『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』感想③:未来の流入

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 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』(公式サイト)については、第6話までが放映された時点で記事を書いたんですけど、

 

感想①:変えられる / 変わってしまうものとしての過去

感想②:他人のなかの未来の自分


 この内容を踏まえたうえで、今回はアニメ最終回までの感想です(原作小説は未読)。前回同様、今回もテーマごとに記事を2本に分けています。

 

感想③:「未来」の流入(縦軸)
感想④:「他者」の流入(横軸)

 

 感想③は、個人の主観における過去・現在・未来…つまり「時間」の捉え方についての内容になっていて、これはいわば作品の縦軸です。

 感想①で、『ヴァイオレット』では「 “過去” を現在の自分の立ち位置からどう捉え直すか」ということがテーマになっているっぽいよ…みたいなことを書いたのですが、その延長線上にある話ですね。

 ただ、テーマが主観の内側のことだけに終始してしまうと、これはちょっと息苦しい。作品が自家中毒を起こしてしまう可能性もあります。

 そこで、水平方面の広がり、横軸として、ギルベルト以外の人間が視界に入らない…「きみとぼく」しかいない「セカイ」にいたヴァイオレットが、他者で溢れた「世界」に入っていく、というドラマが描かれる(『旧エヴァ』にはやっぱり『旧劇』が必要だったよね、みたいな感じ)。

 ほんとうは、この縦軸と横軸は作品のなかで有機的に絡みあって1+1=2以上の相乗効果をあげているのですが、当記事では浅はかにも腑分けして(スルメを見てイカをわかろうとするようなイージーな態度で)取り扱っています。

 以下の本文中ではネタバレをしていますので、ご了承ください。

 

 

◯第1話~第6話:「過去」と「現在」の相互作用


 前回、第6話までが放映された時点での感想記事では、このアニメの中心的なテーマは「過去と現在の相互作用」なのではあるまいか?ということを書きました。

 一般的には、「過去」に起きた出来事は、もう変えることのできない固定的なもので、その固定化した土台の方向性のうえに「現在」が積み重なっていく…という捉え方をされることが多い。でもじつは、「現在」は「過去」の影響を被ると同時に、逆に「過去」にたいして影響も与えている、という視点です。

 といっても、もちろん「過去」に起きた出来事の顛末そのものが変化するわけではありません。そうではなくて、「過去」から「現在」までのあいだに自分が獲得した情報や知見の影響を受けて、「過去」を眺める眼差しが変化していく、みたいな話。

 実際、自動手記人形の仕事についたヴァイオレットは、依頼人の気持ちに寄り添おうと努めることを通じて、自身が過去に経験した出来事への理解を深めていきます。「現在」における経験が、「過去」の出来事を見つめる眼差しに影響を与えていく。

 「現在が過去に影響を与える」というのはそういう意味で、つまり、個人の主観のなかでの、過去の「捉えなおし」です(くわしくは感想①を参照)。

                    ◯

 第6話までは主に、そのような「過去」と「現在」との動的な関係性が描かれていたんだけど、第7話を転換点として、『ヴァイオレット』の物語には「未来」が流入してきます。「過去 / 現在 / 未来」が相互に影響を与えあいながら「動的にゆらいでいる状態」みたいなものが表現されていく。

 


◯第7話~:「未来」の流入

 第7話は、娘を亡くした父親の再起の物語で、ストーリーだけを追うと、非常にオーソドックスな「泣き」のエピソードです。

 でも、これは『ヴァイオレット』という作品全体に言えることなんだけど、たとえストーリーはベタであっても、その実かなり野心的なテーマが展開されたお話でもある。

 ここで一応確認しておくと、様々な要素が集まって構成されるひとつの物語作品のなかで、「ストーリー」と「テーマ」は別々のレイヤーに属する要素であるので、同じ「ストーリー」に、異なる「テーマ」を込めるということは可能です(と、冷や汗がでるほど便宜的に言いきってみる)。私はときどき、ストーリーを「器」に、テーマを「中身」に例えてみたりします。

 たとえば、古典的な「ストーリー / 器」の形はそのままに、そこに現代的な「テーマ / 中身」を盛りつけた例として『かぐや姫の物語』と『スカーフェイス』の記事を書いたことがあるので、良かったら読んでやってください。

 

美少女キャラの消失 〜『かぐや姫の物語』感想

『スカーフェイス』感想:「競争」と「共同体」の挟み撃ち


 
 せっかくなのでもうひとつ宣伝。『パルプ・フィクション』はその結末で「テーマの完結感」と「ストーリーの未完結感」を同時に提示していて、両者のズレが良い味を醸し出していることだよ…という記事です↓

 

『パルプ・フィクション』感想 〜ストーリーとテーマの「ズレ」が生む気持ち良さ

 
 ところで今ふと思いだしたんだけど、じつは私、二十代ぐらいまでは「映画や小説のテーマやストーリーなぞどうでもいい、表層のテクスチャが全てだ」派だったんですよ(そういう「気分」はいまでもちょっと残ってたりして)。このブログを読んだら失笑するだろうな、あのころのオレ。

 と唐突に過去の自分語りをしてしまいましたが、それはまあどーでもいいとして、第7話に流入してきた「未来」の話です。これは、ヴァイオレットの跳躍を見た父親が、その一瞬の静止状態のなかに、あり得たかもしれない娘の 「いつか、きっと」=「未来」を幻視する…というシーンで表現されていました。

 

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「君は、死んだ娘の "いつか、きっと" を叶えてくれた」

 

 前回の感想で、『ヴァイオレット』では、毎回*1時間経過をあらわす早回しの映像が挿入されているよ…ということを書いたんですけど、それはおそらく、このシーン(と、後述する最終回のもうひとつのシーン)の「静止状態」を際だたせるために、シリーズを通しての演出の統一がなされていた、ということだと思います。

 時間というものは(すくなくとも、我々が日常的に感じている「時間」についていえば)止まらないし、後戻りもしないですよね。数々の早回し映像は、そのような時間の不可逆性を強調するために挿入されていたのではないか。

 作中に繰り返し挿入される早回し映像で「前にしか進まない、止めようのない時間の流れ」を視聴者に(潜在的に)意識させることによって、ヴァイオレットの跳躍の瞬間、画面上におとずれる一瞬の静止状態=「今」が強調される。

 そして、その「今」のなかに、父親は「 “過去” の娘の姿」と、彼女が生きていたらあり得たかもしれない「 “未来” の娘の姿」を同時に見るんですよね。

 つまり、空中で静止したヴァイオレットの姿が、父親にとっての「過去」と「未来」の結節点としての「現在」の表象になっている、というシーンで、ここは「すっごいことやるな、このアニメ…」とびっくりさせられました。

 この強烈な「現在」の表象を目の当たりにした父親は、心を麻痺させていた状態から脱却して喪失の悲愁を新たにし、それが再起につながっていきます。「過去」に囚われていた彼は、「現在」を突きつけられることで、今ここにある「現実 / 実存」に帰ってきた…という感じでしょうか。

 

                    ◯

 

 いっぽうヴァイオレットは、この依頼をきっかけに「過去に戦場で人を殺した自分は、様々な人々の ”いつか、きっと = 未来” を奪ったのだ」という罪の意識に苛まれるようになります。*2

 これもまた、作中で繰り返し描かれてきた「過去の捉え直し」で、「過去の見方が変わる」というのは、けっして現在の自分にとって都合良い方向に、ポジティヴに過去を解釈する、ということではありません(ここ重要)。

 そうではなくて、あらたに付け加わった経験や知見によって、ときには自分にとって苦しい方向に、否応無しに過去の見方が「変わってしまう」…という事態も含めての「捉え直し」です。
 

 

◯立ち現れる「現在」

 
 このように、シリーズ全体のなかでも非常に重要だった第7話の跳躍シーンですが、これと同様の「静止状態」が、最終回のラスト近くでも描かれていました。

 ヴァイオレットの涙の雫が、菫の花びらの上に落ちていく瞬間をスローモーション( ≒ 静止状態)で捉えた心象的な映像と、彼女の外側の現実世界を捉えた早回し映像とが、交互に映しだされるシーン。

 

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 もちろんこのシーンも様々な見方が可能だと思いますが、この記事で書いてきた内容に則していえば、「過去」と「未来」の結節点としての「現在」がヴァイオレットの前に立ち現れた…という風に見ることができるんじゃないかな、と思います。*3

 この直前の航空祭のシーンで、ホッジンズが未来に生まれてくる自分の子供に向けて書いたおセンチな手紙が、皆のまえで朗読されてしまう、というシーンがありました(良い手紙でした)。そして、一時は自死さえ考えたヴァイオレットも、この先の「何が起きるかわからない未来」を生きていくという意志を、ギルベルトに宛てた手紙に綴る。

 そうした「未来」への志向と、ギルベルトに関する「過去」の記憶とが重なりあって、ヴァイオレットのまえに「現在」が立ち現れる。その表象が、涙の雫をスローモーションで捉えた映像です。池の上を跳躍するシーンとともに、本来不定形なはずの液体(水/涙)が、「今」この瞬間のなかで一定の形を留めている、というイメージですね。

 

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 (左:第7話 右:第13話)

 

※感想④に続く

 

*1:じつは、テレビ放映された全13話中、第3話だけは例外的に早回しの映像が使われていないんですよね。早回しを「時間の不可逆性の強調」ととらえると、第3話では「時を告げる鐘の塔 ≒ 時計」を中心にストーリーが展開されるので、そのうえに早回しを重ねたら意味がダブって「やりすぎ」だという判断があったのか。それとも、私の解釈とは全然別の理由があったのか。いずれにせよ、他の話数では早回しカットの挿入が徹底されているので、「なんで3話だけ?」とあれこれ考えてしまいます。

*2:記事中では触れませんでしたが、「未来」への指向は第10話(母と娘のエピソード)や、第11話(兵士とその婚約者のエピソード)にもあらわれていました。第10話は「いつか、きっと=未来」が死を超えて続いていく物語。逆に第11話は「いつか、きっと=未来」が死によって断ち切られる物語。

*3:映像をいちいち言語的に翻訳することの野暮は承知で、この記事の枠のなかで「とりあえず」言ってみればって話ですよ。あーもう、うるさいな(記事を書く労力・気力の半分以上が「ツッコミをいれてくる自分自身との闘い」に費やされる。あるとおもいます)。