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『スカーフェイス』感想:「競争」と「共同体」の挟み撃ち

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 ギャング映画の傑作『スカーフェイス』(1983年)の感想です。

 


Scarface (1983) Blu-Ray Release Trailer HD


 監督:ブライアン・デ・パルマ、脚本:オリバー・ストーン、主演:アル・パチーノ、音楽:ジョルジオ・モロダー

 と、メインスタッフやキャストの名前を眺めてるだけで、観る前から「もうお腹いっぱいです…」となってしまいそうな暑苦しい個性あふれるメンツが集結して作られたこの映画。

 クスリでハイになったアル・パチーノが絶叫しながらグレネードランチャーをぶっ放すクライマックスの印象があまりにも強烈なので(Say Hello To My Little Friend!)すごく混沌とした印象もありますが、でもこれ、じつはかなりきっちり・生真面目に脚本が構築された作品です。

 シェイクスピアの悲劇を鑑賞しているみたいな趣もあったりして(オリバー・ストーンってそういう人ですよね)。

                   ◯

 この映画はハワード・ホークス監督『暗黒街の顔役』(1932年)のリメイクで、実際あらすじも近いのですが。

 でも、テーマ部分では、やはりアル・パチーノを主演に据えて1974年に製作された『ゴットファーザー PARTⅡ』の「次」を意識して作られた作品だと思います。

 ストーリーという「器」は『暗黒街の顔役』から借り受けつつ、テーマ=「中身」は『ゴットファーザー PARTⅡ』を継承・発展させている…ということですね*1*2

 というわけで、ここからは『ゴットファーザー PARTⅡ』との対比を通して『スカーフェイス』がどのようなテーマを扱っていたのか?をみていきたいと思います。

 両作のネタバレをしていますので、ご了承ください。

 


ゴットファーザー PARTⅡ

 まずは『ゴットファーザー PARTⅡ』のおさらいから。

 


The Godfather Part II - Trailer


 この作品では、父と息子、ふたつの世代の物語が、時系列を入れ替えながら交互に描かれていきます。

 「父の物語」の舞台は、1900年代初頭のアメリカ。イタリア系の移民・ヴィトー・コルレオーネ(ロバート・デ・ニーロ)がギャングとして成り上がっていくサクセス・ストーリーです。

 ヴィトーはギャングとしての仕事を次々と成功させることで、イタリア系コミュニティの人々からの尊敬と信頼を勝ち取っていきます。この父親サイドの物語で描きだされるのは、「仕事で成果をあげることが、そのまま自分の所属する共同体への貢献につながる」…という、牧歌的 / 神話的 / 『プロ倫』的世界です。

 いっぽう「息子の物語」では、時代は1950年代末にまで下ります。ヴィトーの息子であるマイケル・コルレオーネ(アル・パチーノ)は、父から引き継いだ「ファミリー」を守ろうと懸命に立ち回っています。

 でも、ファミリーのドンとしての自分の仕事に懸命に取り組めば取り組むほどに、彼は自分の家族や友人たちとの関係性から孤立していく。

 この息子サイドの物語で描き出されるのは、高度資本主義が到来しようとしている世界の荒寥とした風景です。

 マイケルが個人として、ビジネス、つまり資本主義的な「競争」のなかで勝利を収めるほどに、彼がビジネスでの成功を通じて守ろうとしているファミリー、つまり「共同体」との繋がりが失われていく…というジレンマが描かれるんですね。

 急いで付け加えておくと、私は「冷たい現代にくらべて、暖かい昔は良かった」みたいな話をしたいわけではありません。コトはそんなに単純ではないよね…というあたりのことは、こちらの記事に書いたので読んでもらえると嬉しいです。↓

 

『3月のライオン』感想①:「競争」と「共同体」のバランスゲーム

『3月のライオン』感想②:桐山零の見習い時代

 

 話を戻すと、『ゴットファーザー PARTⅡ』では、息子・マイケルよりも、父・ヴィトーのほうがはるかにカッコ良く描かれるんだけど、それは個人の資質の問題ではないのですね。パチーノよりもデ・ニーロのほうがカッコ良いという話でもない。時代と、そのなかで生きる人間との関係性の問題。

 父の生きた時代の神話的な輝き ~それは後世代による美化を含んだものかもしれないけれど~ はもう二度と戻らない…というマイケルの悲愁と虚無感が、この映画のキモになっています。

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マイケル:パパは強かった。”ファミリー” を守るために。でも強さがかえって “ファミリー” を壊すとは?

母親  :家族を失うことはないよ。

マイケル:時代が違う。

 


◯マイケル・コルレオーネの反転バージョン

 いっぽう、本題である『スカーフェイス』ですが、この映画でアル・パチーノが演じる主人公のトニー・モンタナは、おそらくはマイケル・コルレオーネの「反転バージョン」として造形されています*3

 インテリのマイケルと、粗野なチンピラのトニー。ファッション面でも、フォーマルな着こなしをビシッと決めるマイケルと、成り上がり的バッドテイスト全開なトニーは正反対。

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 次に出自ですが、マイケルはイタリア系移民の二世。いっぽうトニーはキューバからの移民です。キューバは『ゴットファーザー PARTⅡ』でも重要な舞台として登場した国ですよね。

 『ゴットファーザー PARTⅡ』で描かれるキューバは、アメリカのバックアップを受けたバティスタ政権と、ソ連をバックにつけたカストロ率いる反政府ゲリラの抗争の真っただ中。資本主義vs.共産主義の戦いです。

 マイケルはキューバを食い物にせんとするアメリカ資本側の人間としてハバナに乗り込むんだけど、そこで反政府ゲリラの奮戦を目の当たりにして、こんなセリフを口にします。

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「彼らは金のために戦っていない。ひょっとしたら勝つかも」

 

 資本主義のシステムに絡めとられて孤独に落ちて行く最中のマイケルが、共産側ゲリラの勝利を予告するシーンが描かれる。

 マイケルが自爆テロを美化して賛美したり、共産主義に共感したりするはずもないのですが、先に見たように『ゴットファーザー PARTⅡ』は高度資本主義の引き起こす弊害をテーマに据えた映画なので、それとの対比として共産圏になろうとしているキューバが登場するわけですね。

 いっぽうそのキューバから、1980年のマリエル港封鎖解除に乗じてアメリカにやってきたトニー・モンタナ。彼は、ことあるごとに共産主義への敵意をむき出しにします。

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共産国は考える自由も感じる自由もない。ヒツジになりたいか?1日10時間の奉仕労働。警察が街中に張り込んでて、一挙一動を監視してる。食い物は三食タコ。耳からタコが出る。クツはソ連製で、履くとすぐに底が抜ける」

共産主義者ならいつでも殺るぜ」

 

 1950年代の末、個を分断する資本主義の力学に否応なしに絡めとられながら、目の端でキューバを捉えていたマイケル・コルレオーネ。そのキューバを飛び出し、80年代アメリカ資本主義のビッグウェーヴに嬉々として飛び込んでいくトニー・モンタナ*4

 ふたりの主人公の、このような「コインの裏表感」に「  “ゴットファーザー PARTⅡ” のテーマ的続編としての "スカーフェイス”」を感じることができると思います。

 


◯矛盾するふたつの価値観が引き起こす悲劇


 資本主義の弱肉強食ゲーム…「競争」至上主義に全のっかりにもみえるトニー・モンタナですが、彼のなかにも、家族や友人といった他人との繋がり=「共同体」を求める気持ちがあります。

 独立した「個」として他人を蹴落としてでも競争を勝ち上がっていきたいという気持ち(公正な実力勝負の範疇であれば、それ自体は真っ当な欲望です)と、それでも他人との繋がりを求めてしまう気持ち(綺麗ごと抜きで人間はひとりでは生きて行けないので、これもまた人間の生存条件と密着した欲望)。

 「競争」は「個」の問題、「共同体」は「全体」の問題で、おそらくは誰のなかにもあるであろう、そのような中々相容れないふたつの価値観がトニーの中にも存在しており、やがて両者の矛盾が彼のなかで摩擦を生み、最終的に悲劇に至る…というのが『スカーフェイス』のストーリーです。

 上にもリンクをあげた『3月のライオン』の記事のなかで、「互いに矛盾する価値感の存在は、社会や個人に進歩をもたらすスパイスになる」みたいなことを書いたのですが、いっぽうでそれが悲劇を生む可能性にも言及しました。

 『スカーフェイス』ではまさに、そのような「 "矛盾" が引き起こす悲劇」が描かれるんですね。

 


◯妹・ジーナのポジション

 映画の中盤までは、資本主義社会の「競争」のなかで順調に勝ち上がっていくトニーが、その成功と引き換えに「共同体」=妻や友人といった周囲の人々との繋がりを失っていく…という『ゴットファーザー PARTⅡ』とほぼ同型の物語が描かれます。

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「俺がこの暮らしを築いた。信用できるのは自分だ。自分以外に誰を信用できる?誰もいない」

「どいつもこいつもアタマにくる。あの野郎もあの女も消えちまえ。一人でいい...」

 

 いっぽう『スカーフェイス』で面白いのは、トニーの実妹・ジーナの物語上のポジション。

 ギャングとして頭角を表したのち、数年ぶりにジーナと再会したトニーは、美しく成長した妹にたいして、無意識のうちに性的な欲望を抱きます。

 (この近親相姦的な設定自体は『暗黒街の顔役』からの引き継ぎですが、後述するように、テーマ面においてはここにも『ゴットファーザー PARTⅡ』の「次」が盛り込まれています。)

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 ※妹との再会。密着する彼女の身体の感触に微妙な表情を浮かべるトニー


 トニーは基本的に、女性を「競争の勝者に与えられる景品・所有物」のように扱う男で、彼のそのような態度は、以前のボスから情婦・エルヴィラを奪う経緯で描かれます。

 エルヴィラがまだボスの情婦だったころ、トニーは彼女を口説こうとこんなセリフを口にしているのですが、

「君が好きだ。初めて見た時にこう思った。”あの女はトラだ。俺のものだ” だから俺と結婚してくれ」

 その後、ボスを殺して奪い取ったエルヴィラとの結婚式で、トニーが手に入れた「鎖に繋がれたトラ」を皆で見物するシーンが描かれるんですね。エルヴィラもまた、トニーにとっては「鎖で繋いだ所有物」であり「競争の景品」。

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 でも、ジーナは血の繋がった彼の家族で、彼女に手を出すことは、トニーのなかの(おそらくはかなりマッチョでシンプルな)倫理感に抵触します。つまり、トニーにとってジーナは「競争の景品」であると同時に、手を出すことができない「共同体の成員」でもある。

 トニーのなかでせめぎ合う「競争」と「共同体」、ふたつの価値観の「矛盾」を具現化したようなキャラクターがジーナなんですね。

 もちろん粗野なトニーには、そのような自己分析はできていません。彼は、ジーナに他の男が近付くと、過剰なリアクションを示して男を排除しますが、何故自分がそんなに苛立つのか自分自身理解できていない。

 でも、男からの視線に敏感なジーナは、トニーの秘められた欲望を感じ取っている。これがこの兄妹の関係です。

 


◯むすび:「競争」と「共同体」の挟み撃ち

 映画のクライマックス、トニーが犯すふたつの殺人が彼を破滅へと追い込むのですが、ここにも「 “競争” と ”共同体” のあいだの矛盾」というテーマが関係してきます。

                   ◯

 まず、ひとつ目の殺人は、麻薬取締委員会顧問の暗殺がらみで起こります。

 麻薬製造の大元締め・ソーサから顧問の暗殺を依頼されたトニーは、彼を自動車もろとも爆殺すべく、ソーサの部下とともに暗殺予定現場に向かいます。しかしその日、顧問の車には、彼の妻と子供も同乗している。

 「女子供を巻き添えにしたくない」として暗殺の中止を主張するトニーですが、ソーサの部下は決行を譲らない。すると、トニーは「てめえが死にやがれ!」と、衝動的にソーサの部下を射殺してしまいます。

 ここでのトニーは「顧問の “家族共同体” を守る」という行動を、ソーサとのビジネス…つまり資本主義的な「競争」よりも優先させています。結果、ソーサから「裏切った」とみなされたトニーは、命を狙われるハメになる。

                   ◯

 ビジネスがらみの現場で起きたひとつ目の殺人にたいして、もうひとつの殺人は、トニーのプライベートの領域で起こります。

 弟分であり、長年の友人でもあるマニーの家を訪ねたトニーは、妹・ジーナが彼とともにいるのを見て激昂し、やはり衝動的にマニーを射殺してしまう。じつはマニーとジーナは結婚したばかりだったのですが、トニーは図らずも、その出来立ての「家族共同体」を破壊してしまうんですね。目の前で夫を殺されたジーナは狂気に駆られ、兄を殺そうとします。

 以上ふたつの殺人を整理すると、こんな感じです。


・ビジネスの場での殺人→ 家族(共同体)を守る結果に
・プライベートの場での殺人→ 家族(共同体)を破壊する結果に

 

 この対応関係は『暗黒街の顔役』にはない、『スカーフェイス』のアレンジです。

 トニーが内に抱える「競争と共同体の矛盾」が表層に噴出して衝動的にふたつの殺人が起き、結果、トニーはソーサ(「競争」側の代表)と妹(「共同体」側の代表)の双方から命を狙われることになる。

 「競争」と「共同体」、ふたつの価値観による挟み撃ち状態。

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 最終的に、トニーは両者のあいだですり潰されるように死んでいきます。

                   ◯

 どちらか一方の価値観に与することなく、両者を止揚する「解」を示そうとするでもなく(物語の役割は「問い」を投げかけることであって、「答え」を示すことではないですよね)、ただただ現代人の宿命を提示してみせる『スカーフェイス』。

 劇中、すごくティピカルで人工的な南国のイメージ...「夕日とヤシの木のイラスト」が幾度か登場するんだけど、それが醸し出すような薄っぺらい哀しさがこの映画のラストには漂っていて(ジョルジオ・モロダーによるケバい音楽の功績も大)、でもそのペラさこそが逆説的な切実さをもって迫ってくる。

 『ゴットファーザー PARTⅡ』の重厚さとはまた違った、80年代型のプラスティッキーな悲劇。傑作でした。

 

 

*1:同様に『ゴットファーザー PARTⅡ』を下敷きにした映画としては、『ソーシャル・ネットワーク』の感想を以前書いたのでよろしくお願いします。→「身も蓋もない」という誠実さ ~ 『ソーシャル・ネットワーク』感想   この映画のマーク・ザッカーバーグは「SNS時代のマイケル・コルレオーネ」として描かれていました。

*2:古典的なストーリー=「器」に、現代的なテーマ=「中身」を盛りつけた例としては、高畑勲監督『かぐや姫の物語』も素晴らしかったです。→ 美少女キャラの消失 〜『かぐや姫の物語』感想 もちろん、アニメーションや実写映画において「テーマ」や「ストーリー」は魅力や可能性の中心ではない...というのは前提のうえで。

*3:トニー・モンタナ役は当初ジェフ・ブリッジスが演じることになっていたらしいのですが、アル・パチーノのほうが『ゴットファーザー PARTⅡ』の「次」を描くという方向性がくっきりしますね。

*4:トニーはよく他人のセリフを流用します。「てめえのケツにアタマを突っ込んでやる」とか「こいつは演説がお上手だぜ」といった、彼が人から浴びせられた罵倒をそのまま別の人間に投げつけたりする。このあたりにも、取り込めるものは節操なくなんでも取り込んで利用する彼の強かさ...「資本主義マシーン」感が滲み出ています(トニーが共産主義のみならず、最初は賞賛していた資本主義をも罵倒するシーンがありますが、そうした場当たり的な無思想性もまた資本主義社会にはフィットします。良くも悪くも)。