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『たまこまーけっと』『たまこラブストーリー』記事のまとめ

当ブログでは『たまこまーけっと』『たまこラブストーリー』関連の記事を書きすぎて、どれから読んだら良いのかわかりにくい状態になってしまっているので、比較的まとまりが良いんじゃないかなー?と思われる記事を4本抜粋して宣伝です。

 

まず『たまこまーけっと』シリーズ全体についての総論的な記事はこちら。

『たまこまーけっと』を振り返る 序論「結局、デラってなんだったの?」

 

シンプルな『たまこラブストーリー』単体の感想はこちら。

アニメは「あらすじ」ではない 〜 『たまこラブストーリー』感想 (ネタバレなし)

 

つぎに『たまこまーけっと』と『たまこラブストーリー』の関連性についての記事を2本。

2013年初頭に放映されたテレビシリーズ『たまこまーけっと』は、震災を通過した後にストレートな「日常系アニメ」は作れない…という意識が反映された「日常系アニメを成立させることについての "メタ日常系アニメ"」という側面をもっていました。『たまこまーけっと』のメタ構造については、こちらの記事を参照。

「メタ日常系アニメ」あるいは「共同体アニメ」としての『たまこまーけっと』

 

それで、主人公・北白川たまこは「うさぎ山商店街=日常系アニメ的空間」をなんとか守らなきゃいけない、「日常」は自明のものではない…という意識を作中で唯一明確にもっているキャラクター。

たまこまーけっと』におけるたまこ以外のキャラクターたちが、日常系アニメ的空間の「内側」にすっぽりと含まれているのにたいして、たまこだけはそれを「外側(メタ)」から眺める視点を備えたキャラクターなんです。

それで、メタな視点を備えているぶん、『たまこまーけっと』でのたまこは浮いていた。放映当時「主人公なのに何を考えてるのかよくわからない(から、感情移入しにくい)」みたいな意見が散見されましたが、たまこは「日常」を成立させる「日常の土台」への意識が強すぎるあまり、『たまこまーけっと』が描く「なにげない日常の物語」にキャラクターとして没入しきっていないのですね。

ヴィム・ヴェンダース監督『ベルリン・天使の詩』でたとえると、天空から人間の営みを見守る天使のポジション。地上の人間の生活(=物語)にコミットしきれていない。

そんなたまこが、もち蔵の告白によって『ベルリン〜』のブルーノ・ガンツさながらに「堕天」する物語...つまり「たまこが物語に全身でコミットしていく物語」が、劇場版である『たまこラブストーリー』だった…という記事がこちら。

北白川たまこの孤独と、その解消 

                    ◯

ところで、「『たまこまーけっと』は観てないけど『たまこラブストーリー』は評判良いし観てみようかな?」という方にお願いをひとつ。

たまこラブストーリー』はもちろんそれ単体でも楽しめる作品なんですが、『たまこまーけっと』を観ていない人にとって、本編の前に挿入される短編『南の島のデラちゃん』は謎の存在だと思うんです。

CMなどのイメージから、美麗な映像の瑞々しい青春ストーリーを期待してたのに、突然ヘンな喋るトリ(ちょいウザ)が出てくるのでいきなりめげそうになる人もいるかもしれないけどちょっと待って!おねがい!ちゃんと本編と関連があるのです、この短編も。

長くならないようにかいつまんでいうと、この短編のなかで「お餅=おっぱい=母性」というイメージづけがされていることだけ意識しておいてもらえると、より本編を楽しめると思います。

たまこまーけっと』では「おもち」は人と人とをつなぐ「きもち」のメタファーだったけれど(関連記事 『たまこまーけっと』第8話感想)、北白川たまこという主人公の心情が掘り下げられる『たまこラブストーリー』ではより直接的に、たまこの追いかける「母親・母性」のイメージが投影されたアイテムになっておりました。

そのイメージが変容していく様子...たまこの中で「過去」の解釈がしだいに更新されていき、クライマックスでは「過去」と「現在」とが二重写しになる...というのが『たまこラブストーリー』の見所のひとつです。

                    ◯

最後に、『たまこまーけっと』全12話の各話ごとの感想はこちらから。

『たまこまーけっと』を振り返る カテゴリーの記事一覧 

当ブログの『たまこまーけっと』『たまこラブストーリー』関連記事すべてのリストはこちら。

たまこまーけっと・たまこラブストーリー カテゴリーの記事一覧 

よろしくお願いします。

映画『聲の形』感想 ~コミュニケーションの不完全さをあぶりだす

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※記事前半はネタバレなし、後半はネタバレあり感想です。

 先日、試写会でひと足早く、映画『聲の形』(公式サイト)を観ることができました。誘ってくれたランゲージダイアリーの相羽さん(ブログ)ありがとうございます!!

 大変な傑作でした...。「すっごい泣けた!」みたいな即効性の高いカタルシスを与えるタイプの作品では(あまり)なくて、ディティールを丁寧に丁寧に積み上げていき、その積み重ねがしだいにジワジワ効いてくるという、エンタメ成分抑えめのストイックで精緻な作りに惚れ惚れ。もう余韻で頭がいっぱいで、他のことがうまく手につかない…。

 以下、簡単なネタバレなし感想です。

 

▶︎ヒロインの聴覚障害は作品のメインテーマではなくて、人間同士のコミュニケーションが原理的にはらむ「不完全さ」を増幅してあぶりだす役割を担っていたと思います。

▶︎言葉や表情を介したコミュニケーションは、「障害者」「健常者」(カギ括弧つけておきますけど)の別に関わらず本来はとても不完全なもので、でも普段はあまりそれを意識せずに日常のやりとりを交わしているわけだけど、それって本当に伝わってる?他者とのコミュニケーションって本当に成立するのかな?という普遍的な(おお)問いを突きつけてくる作品。

▶︎だから「若いモン同士の “傷ついた・傷つけられた” のドラマには興味もてないよなー」という世間擦れした大人(オ、オレは違うし...)にもリーチし得る作品になっている。人と人との間にあたり前に存在する「断絶」をふまえたうえで、その先にある「かろうじて」のつながりが希望として描き出されています。

▶︎もちろん、思春期に誰もが抱える「痛さ」や「青さ」も驚くべき繊細さと精度で描かれていて、この点では十代のころの自分に観せてあげたかったなーと思いました。あ、CMでは告白シーンがフィーチャーされているけれど、恋愛要素はそんなに前に出ていなくて、もっと広い意味での人間関係が扱われています。

▶︎山田尚子監督作らしく映像イメージもとんでもなく豊かで(過去最高レベル!!)1回や2回の鑑賞ではとうてい咀嚼不可能。もうすでに観返したくてたまらない。公開はよ!

▶︎最後に。この作品は「音」がとても重要で、皮膚にビリビリくるような重低音を出すことのできる劇場の音響環境を活かした演出がなされている個所がいくつかあるので、ぜひ映画館で観るのが良いですよ。

 

※テレビ放映されたメイキング番組のロングバージョンが、公式サイトで公開中。

映画「聲の形」ができるまで | 映画『聲の形』公式サイト

 では、以下の感想はネタバレありです。一部上の感想と重複する個所がありますが、ご了承ください(原作マンガ未読、文中の『聲の形』はすべてアニメ版を指します)。

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『パルプ・フィクション』感想 〜ストーリーとテーマの「ズレ」が生む気持ち良さ

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 クエンティン・タランティーノ監督『パルプ・フィクション』(1994年)を超ひさびさに観直したので感想です。ネタバレがありますので、ご注意ください。

 

◯ストーリー:着地点なし

 『パルプ・フィクション』はいちおうクライム・ムービーの体裁をそなえてはいますが、ストーリー的にはどこにもたどり着かない映画です。目指すべき結末、着地点が設定されていない。

 タランティーノ監督の前作『レザボア・ドッグス』(1992年)は『パルプ・フィクション』と同様に巧みな時間軸の操作がおこなわれている作品ですが、こちらには「この強盗事件はどういう結末をむかえるのか?」という明確な着地点が設定されていました。

 観客はその興味にひっぱられてストーリーに引き込まれ、シャッフルされた時間軸も最終的には「事件の結末」という着地点にむかって収束していきますが、『パルプ・フィクション』はそうではない。

 ウィキペディアのページには劇中の出来事を実際の発生順に整理した表が掲載されていますが、映画が全体として扱う時間のなかでみると、すごく中途半端なところでエンディングを迎えてしまうんですよね。

 有名な「ハンバーガー・トーク」(教科書的なシナリオ作りのセオリーを無視した、ストーリーの大筋や作品のテーマとはまったく無関係な与太話)とか、これまた有名なトラボルタとユマ・サーマンのダンスシーン(フェリーニ8 1/2』と『サタデーナイト・フィーバー』が合流したような)などなど観客を飽きさせない仕掛けはいろいろあって、「そのシーンごと」は楽しめるように作られている。

 でも、映画が全体としてどこに向かっているのか?については皆目見当がつかない。これが作品の大きな魅力になっています(逆に、明確な「目標」や「目的」に向かって進んでいくタイプのストーリーが好きな人にとっては、苦痛に感じられるポイントかもしれません)。

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