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『クズの本懐』感想(後編):花火と茜・ひとりのヒロイン

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  今年の1~3月に放映されていたアニメ版『クズの本懐』(公式サイト)。放映中に第1~6話までの感想はアップしていたのですが、

『クズの本懐』感想(前編):代替可能な恋愛関係 


 この内容を前提としたうえで、「後編」として、シリーズ全体の感想です。今回はおもにストーリーの構成に焦点をあてた内容になっています。最終回までのネタバレありです。

 

◯花火と茜:極限で似る者

 6話までの感想で、主人公・花火と、彼女に執着する音楽教師・茜との関係についてこんな事を書いたんですけど、

茜はもしかしたら、「幼い日の花火が ”お兄ちゃん” のような自分の世界を壊す存在に出会えなかったとしたら?」という「if(もしも)」的なキャラクターとして造形されているのかもしれません。

 最終回まで観終えてみると、このふたりは思った以上に明確に、お互いの「if」として物語のなかで対置されていました。

 『クズの本懐』には計6人のメインキャラクターが登場して、その関係性がどんどん錯綜していくところが見所だったわけですけど、物語のさまざまな枝葉を取り払って幹の部分だけを取り出してみると、最終的には「花火と茜の話」だった、ということが言えると思います。

                    ◯

 …と、ちょっと先走ってしまったのであらためて順をおって書くと、前回の感想に書いたように、この作品のテーマは「他者性」で、「自分の世界を壊す他者」と出会うかどうか、というのが物語上のポイントになっていました(すっごい図式的に整理してますよ)。

 花火にとっては鐘井が、麦にとっては茜が、それまで自分の保持していた世界を壊した「他者」。ふたりはそれぞれ、自分の世界の安定を揺るがし、自分を「泣かせた」相手に恋に落ちていた…という経緯が過去にありました。

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 そんな花火と麦にとっては、それぞれ本命である鐘井 / 茜が「かけがえのない」存在。なので、それ以外の人間を、本命の替わり=「かけがえのある」ものとして扱ってしまう。花火が、麦の身体を鐘井の ”替わり” として使う…というあたりのことですね。

 こういうふうに、他人を誰かの「替わり」として扱うということは、「替わり」にされている相手の顔(=実像)を見ていない、ということ。そして同時に、自分も相手から「替わり」として(「かけがえのある」ものとして)扱われることを受け入れる、ということです。お互いの顔を見ようとせずに、利用しあう関係。

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「良かった。これなら顔、見えないから」(第1話:花火)

 自分の世界を壊した相手に恋したはずのふたりは、「かけがえのなさ」をこじらせた結果として、ふたたび他者のいない世界に自らを閉じ込めている。これが『クズの本懐』のスタート地点。

 いっぽう、自分以外に興味がない茜の世界は一貫して閉塞したままです。

「思えばあの日から、搾取する快感に目覚めちゃったのね。いいじゃないちょっとくらい。羨ましいのよ。自分以外の誰かを好きになるなんて、私にはあり得ないから」(第4話:茜)

 「搾取」というキーワードに象徴されるように、茜はブラック企業の経営者みたいなキャラづけがされたヒロインでした。

 他人をすべてかけがえのある=「代替可能」な存在として扱う。「お前なんか死んでもいくらでも替わりはいるから」というアレですね。『クズの本懐』の背景には、他人や自分のかけがえのなさが「ないもの」のように扱われる社会...みたいなムードが流れている感じです。組織の存続と個人の尊厳とは、なにかとぶつかりがち。

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 このように、花火と茜は「 “かけがえのない存在” を持っているか否か」という点では正反対で、にもかかわらず、恋愛において他人を「かけがえのある」相手として扱う…「代替可能な恋愛」という泥沼に足を踏み入れている点では同じです。

 

花火:「かけがえのない」相手が「いる」から、それ以外の人間を「かけがえのある」存在として扱う

茜 :「かげがえのない」相手が「いない」から、全ての人間を「かけがえのある」存在として扱う

 

 通っているルートは正反対なのに、結果としての行動は同じ。「花火と茜が物語のなかで対置されている」というのはこのような意味においてです。

 


◯ひとりのヒロイン?

 それで、私は、花火と茜はもともとは「ひとりのヒロイン」だったといえるのではないかと思います。

 これは作劇方面の話になっちゃうんだけど、ひとりのヒロインが、自分の世界を壊す相手と「出会ったルート」と「出会わなかったルート」とに応じて分裂したのが、花火と茜というふたりのヒロイン。

 他にも多くのメインキャラクターが登場する『クズの本懐』ですが、究極的には、この二本のルートが平行して進んでいく「花火と茜の物語」だったのではないかなー、と。

 この仮説に従って本作のストーリーを図にすると、こんな感じです。

 

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 もちろん、こういう図式化によって取りこぼしてしまう作品の魅力は膨大にあるので、その浅はかさは前提で見てください(たまにこういう即物的な方向に走ってみたくなるのです)。

 ここでちょっと余談ですが、一人のキャラクターを二人に分裂させてストーリーを展開する…というのは、ごくポピュラーな作劇法ですよね。『となりのトトロ』のサツキとメイが、初期の構想段階では一人の女の子だった、というのは有名な話。

 このブログで記事を書いた作品でいうと、『中二病でも恋がしたい!戀』(感想 )のヒロイン・六花と智音は、まさに花火と茜のようなお互いの「if(もしも)」だったし、『パンチドランク・ラブ』(感想 )も、ひとりの女性のなかに混在する「調和をもたらす側面」と「トラブルをもたらす側面」とを、ふたつのルートに分岐させて描いてみせた「寓話」でした*1

                    ◯

 閑話休題。図を頭からたどってみましょう。

 まず最初に一人のヒロインがいて、彼女が「自分の世界を壊す相手=鐘井」と出会うかどうかというポイントで、物語のルートが二つに分岐します(「花火ルート」と「茜ルート」)。

 それで、花火は鐘井に自分の世界を壊され、彼をかけがえのない=「代替不可能」な存在として自らのなかで設定したことをきっかけに、代替可能な恋愛という「沼」に足を踏み入れてしまう。

 逆に、茜は鐘井と出会わず、「代替不可能」な存在を持たないがために、自ら代替可能な恋愛という「沼」にハマっていく。

                    ◯

 ふたりがこの「沼」を脱出する契機も、やはり鐘井との関係がキーになっています。

 第8話で、花火は鐘井に告白し、正面からきっちり振られることで「沼」からの脱出を果たします。花火にとっての『クズの本懐』のメインストーリーはほぼここで終わっているといってよく、この作品の後半のクライマックスは、もう一人のヒロイン=茜が、鐘井によって自分のそれまで保持していた世界を「壊される」シーンに設定されています。

 茜にはずっと「自分が自分のことを他人事のように観察している」という「無感覚さ」(離人症っぽい症状)がつきまとっており、それは幼少期「泣かない子供」だったころの花火が抱いていた「無感覚さ」と呼応するものでした。

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「寂しさは与えられていたものが奪われたとき、はじめて感じるもの。はじめから与えられなかった者は、それすらわからない。ずっと心地よくすらあった、一人の世界」(第5話:花火)

「いわゆる ”一線を超えた” ってやつなのかな。それが私にはわからないの。特別な相手のラインを超える高揚も、自分のラインを侵蝕される快感も、喜びも、怒りも、悲しみすらも、私にはきっと縁がない。だって、当事者意識が薄いんだもの」(第11話:茜)

 そんな茜が、第11話、鐘井の不可解な言動によって「狂うのよ、ペースが」という状態に追い込まれ、ついには涙を流します。花火と同様に、茜にとっても鐘井が、自分の世界を壊し、自分を「泣かせる」他者になったシーン。

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 ここで彼女は、代替可能な恋愛という「沼」から抜け出します。

 (茜は「(結婚しても)めちゃくちゃ浮気しますよ?」とも言っていますけど、浮気したとしても、鐘井という自分の世界を揺さぶる「特別」な相手との出会いをすでに経てしまっているので、「他人は全て等価で代替可能」という態度はもはやキープできていないことになります。)

 花火にとっては鐘井との別れが、茜にとっては鐘井との出会いが「沼」からの脱出の契機になった、という構成ですね。

 以上のように、見方によっては「ひとりのヒロイン」から分岐した…ともとれる関係をもつ花火と茜なので、第12話で茜から花火にブーケが手渡されるシーンは物語の必然というか、キレイな着地点だったと思います。

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◯鐘井の「装置」っぽさ

 ただ、「律儀」という言葉を使ってみたくなるほどストーリー構成がきっちりしているが故に、初見時はちょっと作り物っぽさを感じてしまった部分もありました。たとえば、鐘井というキャラクターの、物語のなかでのポジション。

 複数のメインキャラクターたちが、ときに歪んだ形で自分の欲望を満たそうとするさまの活き活きとした描写がこの作品の最大の魅力だったと思うんだけど(素敵でした)、そんななかで、鐘井に関しては終盤近くまでキャラクターを掘り下げる描写がほとんどなされず、ひたすら「純朴な好青年」という印象。

 べつに、ドロドロとした面がないからといって「人間が描けていない!」みたいな寝言を言うつもりはないですが、『クズの本懐』という作品が設定している世界のなかでは、彼はちょっと浮いている(あるいは、影が薄い)ように見えてしまったんですね。

 極端にいうと、この物語のなかで、彼は生きたキャラクターというよりも「ヒロイン(花火 / 茜)に変化をもたらすために配置された ”装置” 」という印象を受けてしまいました(上の図にも、その感じは出ていると思います)。

                    ◯

 鐘井は幼いころ、大好きだった母親を亡くした経験から「好きな人にはただ、元気で生きててほしい」という考えをもっており、茜の男漁りも「好きでやってるんでしょう?やめなくていいですよ」と笑顔で受け入れます。 

 

f:id:tentofour:20170804022746j:plain横槍メンゴ 『クズの本懐』原作・第44話)

 
 そして、もし茜が自分のことを嫌いになったとしても、自分はずっと茜を好きなまま、と断言する。

 他人に自分の捏造したイメージを投影せず、そのあり方を(過剰なまでに)あるがままに受け入れる…という意味で、鐘井は『クズの本懐』が扱ってきた「他者性テーマ」の極限を体現する存在です(ラスボス級)。そのような鐘井の極端なあり方が、茜を混乱させ、彼女の閉塞していた世界に揺さぶりをかけます。

「仮に、自分を嫌う相手を好きで居続けられるだろうか。答えは大概の人がノーだろう。”相手のことが好き” ったって、その ”好き” のなかには、自分を好いてくれてるってのも多分に含まれてるのだ、普通。無条件で他人を好きになるなんて、ありえない。わかんない。なんで?それじゃまるで、」(第11話:茜)

 アニメ第11話のサブタイトルは「やさしいかみさま」ですが、茜の「それじゃまるで、」に続く言葉もおそらくは「神様」ですよね。そんな鐘井の人間離れしたブレなさに、ちょっと「装置」っぽい...という感じを受けてしまったのでした*2

 
◯むすび

 でも、そんなふうにブレない「神様 / 装置」っぽい存在だった鐘井が、「キャラクター」の位置にまで引きずり降ろされる予感、みたいなものも描かれています。

 鐘井は、じつは自らの欲望の深さを自覚しており、いったんそれを解放してしまうとキリがなくなって、大切な相手を傷つけるかもしれない、という恐れをもっていました。だからそれを抑え込んでいた(ほんとは、花火に対して欲望を感じていたこともあったんですね)。

 そんな鐘井にたいして、茜が「それじゃだめ」「足らなくなってよ」と言うのですが、ここで鐘井が茜からの影響を受けて変化する可能性が示唆されます。物語のなかで、自らはブレることなく一方的にヒロインに「変化」の契機を与える側だった鐘井が、逆に他人からの影響を受けて、変わる(かもしれない)。ここから彼は「キャラクター」になっていくのだな…という感じがしました。

                    ◯

 そして、最後にあらためて強調しておくと、茜は「かみさま」のような鐘井の善性に触れて改心した(「当事者意識」を獲得した)…というわけではないんですよね。「善良な恋人に無条件に受け入れられることで、孤独なヒロインが救われて、良い方に変化しました」というお話ではない。

 そうではなくて、「ありえない。わかんない。なんで?」という茜の慌てっぷりに表れているように、彼女を揺さぶり、変化に導いたのは、あくまで鐘井の「理解できなさ(他者性)」。

 第11話の茜が涙を流すシーンで、茜と鐘井は何かを「わかりあった」わけではありません。鐘井が「好きな人にはただ、元気で生きててほしいんです」と言ったとき、彼の頭には母親のイメージがありますが、茜はそれを共有しておらず、また根本的な共有は不可能。そこにあるのは、心の交流のきわめて不確かな「きざし」のみです。

 「他人が、よく理解できないままになぜか心のなかに侵蝕してきて、世界が揺さぶられた」という出来事を「でもそれは素敵なことだよね」とポジティブに描いている。人と人とが通じあうこと、コミュニケーションを「確かなもの」としては描かない…というスジをきっちり最後まで通したところがとても良いなー、と思った作品でした。

 

 

*1:パンチドランク・ラブ』を観た人向けの注釈:ひとりの女性にまつわる物語がふたつのルートに分岐していることは、冒頭の「車にまつわる ”ふたつ” の出来事」(突然クラッシュする車と、ハルモニウムを主人公の前に置いて行く車)によって明示されます(くわしくは感想を参照)。この映画に関して「エミリー・ワトソン演じる優しいヒロインが、あまりにも男にとって都合の良い造形だ」みたいな批判があったけれど、彼女と、主人公を追いつめるテレフォンセックスの相手の女性は「ふたりでひとり」。そして作品は「非モテ男が女性への恐怖を克服する」というだけの話にはとどまらず、その背景には「高度資本主義が個人のつながりを分断する」という、P.T.アンダーソン監督が一貫して取り上げているテーマが設定されています。

*2:鐘井は重度のマザコンで、そのあたりを掘り下げればもう少し彼に人間味が出た気もするんだけど、あんまりそういう部分にこだわりすぎると、また別のお話になってしまいそうではあります。亡き母という「この世にはいない存在」を見つめている鐘井は、作中で展開される現世的な恋愛ゲームの「外側」にいる、という見方も可能ですね。だから彼はラスボス級に強い。べつにメタゲームを掲揚するつもりはないし、この場合強ければいいってものでもないですが。