ねざめ堂

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良いニュースと、悪いニュースがある。 ~『パンチドランク・ラブ』感想

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 ポール・トーマス・アンダーソン監督の新作『インヒアレント・ヴァイス』が公開中。

 原作トマス・ピンチョン(おお)、音楽は今回もジョニー・グリーンウッド様。え、CANの『ビタミンC』なんて使ってるの?うーん、気になる…けど、地元・仙台での上映はなし。

 ふん、じゃあいいよ、と拗ねながらひさしぶりに『パンチドランク・ラブ』(2002年)を観返したので感想を。ネタバレ注意です。


◯啓示

 映画は、ガランとしたうす暗い部屋にポツンと置かれたデスクで、ひとり電話をかける主人公の映像からスタートします。「青」「白」のひんやりとした空間。

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 まるでエドワード・ホッパーの絵みたいな空虚な質感をもった画面のなかで、電話回線を通じて他者とつながる主人公、バリー。ここでまず、バリーが孤独を抱えている、というイメージが観客に提示されます(このイメージは、のちに具体的なエピソードによって補強されます)。

 バリーの孤独感の遠景には、人と人とのつながりを分断していく資本主義の力学みたいなものが設定されているようなのですが(これに関しては後述)、この孤独感の解消手段として映画が用意するのは「女性との出会い」というすごくシンプルなもの。

 でもこの監督らしく、その見せ方にはひとクセあります。まずは女性が出て来る前に、これからのバリーの運命を予告するように、ふたつの自動車がらみのアクシデントが唐突に彼を襲います。


・目の前でいきなり横転する自動車
・バンから捨てられるハルモニウム

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 横転する自動車は「女性にまつわるトラブル」を、ハルモニウムは「女性との調和」をそれぞれ表しているんじゃないかと思います。女性にまつわる悪いニュースと、良いニュース。

 具体的なエピソードを語りはじめる前に、「孤独」→「トラブル」→「調和」と進んでいく映画全体のストーリーを抽象化したイメージを、観客の前に啓示的にガン!ガン!と置いていくという手法で、これはインパクトありますね。こういう演出が鼻につく、という人もいるかもしれないけど。

 映画はこのあと、女性がらみの「トラブル」と「調和」、ふたつのストーリーを、バリーを軸にしてひとつに縒りあわせながら進行していきます。見方を逆にすれば、この映画は、ひとりの女性のなかに混在しているふたつの側面(「トラブル」と「調和」)を、二本のルートに分岐させて物語っていくんですね。


◯孤独感の遠景

 映画のスタート地点で提示される、バリーの孤独感。

 これには、抑圧的な姉たちの存在や、バリーの生来の性格などさまざまな個人的原因があると思われますが、遠景には「資本主義社会のなかで分断されていく個人」という問題意識も設定されているようです(これはポール・トーマス・アンダーソンがこだわっているテーマのひとつ)。

 バリーがプリンを買い込むスーパーマーケットのシーンで印象的な、整然と陳列された商品の数々(ポップアート=大量消費社会的アイテム)。

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 ヒロインのリナが出張であちこち飛び回っている、という設定も、プライベートよりも仕事が優先されがちで、一緒にいたい相手と離ればなれになってしまう...という、個人の関係性を分断していく方向に力が働く現代社会の力学を反映させたものと受けとれます。

 (バリーと一緒にいたいリナは「出張先のハワイに来ない?」と何度か誘いをかけます。)

 なので、バリーがプリンでマイレージを溜めようとしている(これ、実際にあった話だとのこと)というエピソードからは、そういう、個人を抑圧してくる社会システムの隙をついてやろうという、システムにたいする個人のささやかな抵抗、みたいなニュアンスを感じるんですね。


◯「トラブル」と「調和」

 それで、そのプリンのバーコードを切り取っているときにたまたま目にした広告が原因で、バリーは悪質なテレフォンセックス詐欺にひっかかります。資本主義社会の問題を遠景にもつ孤独感を「お金」という資本主義的手段で解消しようとした結果、「女性とのトラブル」に巻き込まれてしまう。

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 いっぽう「女性との調和」サイドのストーリーを代表するリナとの出会いは、姉がバリーの写真をリナに見せたことがきっかけでした。これは、テレフォンセックスの相手との出会いが「広告」という(資本主義的)メディアを通じてもたらされたのとは対照的です。

 バリーの姉たちは、ひどく抑圧的な存在(ときには、窓ガラスをぶち破りたくなるぐらいウザい存在)として描かれるんですけど、それでも映画は最終的には「家族のつながり」を肯定的に捉えているようです。

 (リナがバリーのことを冗談まじりに悪くいってみせたときに、いつもは横柄な姉が「そんなに悪い子じゃないわよ」とかばってみせるシーンが印象的。)


◯青と赤

 この映画では、「青」が男を、「赤」が女をイメージする色として扱われていました*1

 リナは出会いのときから赤系の服を着こなしていますけど、いっぽうバリーが着ている青いスーツのネクタイの色に注目してみると、リナと出会う前のバリーは青のネクタイ。出会いの後は黄、そしてリナとの仲が深まるにつれて、赤のネクタイをつけるようになります(画像だと色がわかりにくいかもしれませんが...)。

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 面白いのが、バリーがリナに会うためにハワイに出かけるシーン。飛行機に乗りこむ前のバリーは赤のネクタイをつけていますが(ちなみに、ここでちらっと映るキャビンクルーの女性たちも赤のスーツ)、機内のシーンでは、バリーのネクタイは黄に変わります(座っている=待機状態?)。そしてハワイに到着すると、またネクタイが赤に戻る。こういうちょっとした遊びは楽しいですね。

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 色の話でいえば、映画の冒頭で「女性にまつわるトラブル」を象徴していたクラッシュする車も、「女性との調和」を象徴するハルモニウムを置いていく車も、両方とも赤でした(赤=女性)。時間帯もちょうど夜明けごろ、夜の闇のと夜明けの光のが混じり合うあたりに設定されています(上掲の画像を参照)。


◯車の両義性

 「車」はアメリカ型資本主義のイメージと結びつくアイテムですが(T型フォードに代表される大量生産・大量消費社会のはじまり)、この映画のなかの「車」は、良い事と悪い事、どちらももたらす両義的な存在です。

 悪いイメージとしては、冒頭の横転する車にくわえて、バリーとリナが車をぶつけられるシーンがありましたね。命を奪う凶器にもなりうる道具、としての車。

 いっぽう良いイメージとしては、ハルモニウムを置いていくバンのほかに、映画のなかで3回映される大型トレーラーの存在があります。トレーラーは、バリーが良い選択・行動をとっているときに、彼を見守り導くように登場していて、まず1回目は、彼が捨てられていたハルモニウムを拾うシーン。

 「女性との調和」を象徴するハルモニウムを拾う、という彼の決断を後押しするように、猛スピードでバリーの傍を通過するトレーラー。車体の色は、白ベースに赤と青があしらわれたもので、この3色の組み合わせは、バリーとリナの出会いのシーンでも登場します(バリーの青いスーツ、リナの赤い服、リナの白い車)。

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 2回目は、レストランを追い出されたバリーとリナが夜道を歩くシーン。ロマンチックな音楽が流れる美しいナイトシーンですが、ここでも二人に寄り添うように、ゆっくりとさきほどのトレーラーが走っています(このシーンで二人が着ている服の色との一致)。

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 そして3回目、リナに会いにハワイにいくことを決意したバリーがオフィスを飛び出すシーン。愛する女性のもとにひた走る彼の決意を後押しするように、真っ赤なトレーラーがバリーと同じ方向に走っていきます(壁の青・白の配色にも注目)。

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◯電話

 物語のなかで、さんざん電話に振り回されるバリー。接客中に何度も電話で姉に呼び出され、せっかくのリナとの会話も電話に邪魔され、テレフォンセックス詐欺の被害にも遭う(これは自業自得ですけど)。

 彼がはるばるハワイまでリナに会いにいってしまうことにも表れているように、この映画では、通信テクノロジーを介したコミュニケーションよりも、直接顔を会わせたコミュニケーションのほうが肯定的に描かれています。

 これは最後の、バリーのユタ行きによってトラブルが解決する、という流れにも表れていましたね。電話ごしでは対等に罵りあっていたバリーとゆすり屋(フィリップ・シーモア・ホフマン!名優でした)ですが、直接顔をあわせることで、ゆすり屋はバリーの気迫に圧倒されてしまう。

 電話を介したやりとりに業を煮やしたバリーが、コードをひきちぎってユタまで受話器を握りしめていくという発想が面白かったですけど、ここで思い出したのが、イギリスのミュージシャン、ピーター・ガブリエルのライブでのパフォーマンス。

 90年代に行われた『シークレット・ワールド・ツアー』の『カム・トーク・トゥ・ミー』という曲で、セットの電話ボックスのなかで歌うピーター・ガブリエルは、やがて電話ごしのコミュニケーションにあきたらなくなって、受話器を握りしめたままコーラスの女性のところまで歩いていこうとします。でも彼女の元には辿り着けずに、コードに絡めとられて電話ボックスに引き戻されてしまう。

 「テクノロジーを介したコミュニケーションの限界」というパフォーマンスなんですけど、その限界を認識したバリーは、コードを引きちぎって相手のところまで行ってしまう。勢いありますね。


◯むすび

 バリーは最初、これといった目的なしに、お金(貨幣)と同じ感覚で使うためにマイレージを溜めていました。

 でもリナに出会ったことで「出張であちこち飛び回る彼女と一緒にいるためにマイレージを使う」という方向性が出てきます。価値の保蔵機能は「貨幣」(=映画の遠景にある資本主義の諸問題と関連)の特徴のひとつですが、そっちにはいかない、という転換がなされる。

 とはいえ、もちろん「いまの資本主義に汚れきった社会はイカンから暖かい昔に帰ろう」みたいなことを言っているわけではありません。バリーのやった「安く買ったプリンで大量のマイルがゲットできる」というのは、資本主義システムのもとで繰り広げられる商業キャンペーンの「隙」を突いた作戦ですよね。

 「個を分断する力の働くシステムのなかで、システムのバグを利用して個のつながりをキープする」というたくましい結末になっていたと思います。 

                       ◯

 この映画はストーリーがきっちりと構築されていて、つまり小説などの他のメディアに移し替えてもいけそうな話なんですけど、でも最後の最後にモノを言うのは映像と俳優の肉体の存在感、というところが好きでした。

 ラストの、バリーがゆすり屋と対決するシーン。ここを小説で書くとしたら「どうしてバリーは勝てたのか?」というあたりの理屈をもうちょっと詰めないといけないと思うんだけど、この映画ではアダム・サンドラーの存在感と演技で押し切ってしまっている。

 ふたりが黙って向かいあっている映像だけで「ああ、そりゃあこのゆすり屋も引っ込むよな」という説得力が出ていて、これは優れた人間の俳優が演じる実写映画ならではの見せ方だと思いました。

 私はアニメも大好きで、このブログではアニメの記事を中心に書いてますけど、これは2次元のキャラでやっても説得力が出せない見せ方ですね(もちろん逆に、生身の俳優には出せない、2次元キャラならではの質感・表現もあります)。もしこの話をアニメでやるとしたら、小説同様に「なぜバリーは勝てたのか?」というあたりの理屈をもっと詰めないといけない。

 こういう「途中まではきっちりストーリーを構築しながら、最後は映像と演技・肉体性にモノをいわせる」タイプの作品としては『セックスと嘘とビデオテープ』が大好きでしたけど、『パンチドランク・ラブ』もこの系譜に属する作品で、「ああ、”映画” を観たなあ」という満足感がありました*2

 長尺の多いこの監督のフィルモグラフィのなかで、95分ともっともコンパクトで気軽に観られる雰囲気をもちながら、でもしっかりと密度の濃い本作。近作の重厚路線もいいけど、こういうタイプの作品ももっと撮ってほしいことですよ。

 

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 ポール・トーマス・アンダーソンが監督した、フィオナ・アップル『Fast As You Can』のビデオ。

 なんか応援したくなるカップルでした。別れちゃったけど。

 


Fiona Apple - Fast As You Can - YouTube

 

*1:「色」を活用した演出については、このあたりの記事もよろしくお願いします。→都市に踏みとどまる「赤い服の女」 ~『トウキョウソナタ』感想  『ふらいんぐうぃっち』をキーカラーで振り返る

*2:映画監督の黒沢清(大好き)は「“映画” とは、たとえ演技であろうとカメラの前で実際に起きた出来事を撮るもので、だからアニメーションは “映画” ではない」という意味のことを言っていて、これには賛成です。べつに「映画」という呼び方にこだわらなくても、良いものは良いんだから『となりのトトロ』が「アニメーション”映画”」じゃなくてもぜんぜん構わない。とはいえ、このブログでも便宜上「劇場用アニメーション」を「映画」と呼んでしまうことはよくあるんですけど。