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『Dolls ドールズ』感想:人が向きあうことの困難さ

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 北野武監督『Dolls ドールズ』(2002年)の感想です。

 じつはこれ、長年「北野監督のなかではイマイチだな〜」という印象をもっていた映画だったんですが、先日の深夜テレビでやっていたので久々に観てみたら、思いのほか良くてびっくり。よくいわれることではあるけれど、作品の受けとり方って本当にトシとともに変わるものですね。

 本文中はネタバレありです。

 

◯相手のことが見えないカップルたち

 映画の冒頭に映し出される人形浄瑠璃の舞台。人形遣いに操られる人形と、それを見つめる人間の観客たち。

 しかし、いつしか人形遣いの姿が消えて、人形はひとりでに動きだします。やがて「見る・見られる」の関係が転倒し、人形たちの視線のもとで、人間たちによる物語が繰り広げられていく…という導入部。
                   ◯

 その導入部に続いて、本編には3組のカップルが登場し、3つの物語が語られていきます。

①「つながり乞食」の物語
②老ヤクザと昔の恋人の物語
③アイドルと追っかけの物語

 このうち、①が映画の最初から最後までを貫く縦糸になっており、②と③がそれと平行して語られるという構成なのですが、この3つの物語は共通したシチュエーションを描いています。それは、

求める相手がすぐ隣にいるのに、その人のことが見えない(認識できない)

 というシチュエーションです。

                   ◯

 まず①では、男が婚約していた女を裏切り、他の女との政略結婚を決めます。そのショックで女は自殺を図る。それを知った男は後悔して、全てを棄てて女のもとに駆けつけますが、女は自殺未遂の後遺症で、目の前に男がいてもそのことを認識できなくなっています。

 ②でも、やはり男が女を棄てます。ヤクザになることを決意した男は、付き合っている彼女を極道の道に巻き込むまいと別れを告げますが、女は男に「ずっと待っている」と告げる。そして数十年後、ヤクザの組長にまで出世した男は、女がいまだに自分を待ち続けていることを知りますが、男が話しかけても、女はそれが「自分が待ち続けている相手だ」ということを認識できない。

 この①と②は同じ型のメロドラマを描いています。男が女を棄て、やがて後悔の念とともに女と再度コミュニケーションを図るが、女は精神的な錯乱状態にあり、もはや男のことが認識できなくなっている(見えなくなっている)…という物語。

 続く③では男女の立場が逆転し、ふたりの関係性にもアレンジが加わっていますが、描かれている物語はほぼ同型です。

 生活の全てを賭けて、ある女性アイドルの追っかけをしている男。あるとき、そのアイドルが事故で顔を怪我してしまい引退する。傷跡を見られることを嫌い世間から隠遁した彼女に会うために、男は自らの眼を潰してしまう。

 男は念願かなってアイドルと対面しますが、その代償として自ら盲目になった彼は、相手のことが見えない状態にいます。つまり①②③どの物語でも、目の前に自分の求める相手がいるけれど、その相手が「見えない」という状況が描かれている。

 

◯『春琴抄』について

 気付いた方も多いと思いますが、③の物語は谷崎潤一郎の小説『春琴抄』をはっきりと下敷きにしています*1

 それで、さっきは③について「①②の物語に弱冠のアレンジが加えられている」みたいに書きましたが、実際はその逆で、私は③(『春琴抄』)が『ドールズ』という作品の原型で、①②がそのバリエーション(変奏)として見られるのではないか…と思っています。

 ちょっと先回りして、3つのエピソードの関係を整理した図を載せておくと、こんな感じ*2

 

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 ここで『春琴抄』がどのような物語だったかを確認しておきましょう。

 盲目の三味線奏者・春琴と、彼女が子供の時分から献身的に仕え続ける弟子の佐助。このふたりが物語の主要キャラクターです。春琴は美貌と才能に恵まれた奏者ではあるけれどひどく高慢で、それが元で何者かの恨みを買い、あるとき顔に大やけどを負わされてしまう。

 自慢の美貌をめちゃくちゃにされた春琴(彼女は9歳ごろまでは眼が見えていたので、自分の美しさを自覚していました)は人に顔を見られることをおそれたため、佐助は針で自らの眼を突いて失明し、その後も生涯彼女に仕えつづけた…と、これがおおよそのストーリーです。

 このように書くと『春琴抄』は常軌を逸した「純愛」や「没我的な献身」の物語のようにも思えてしまうのですが、実際に小説を読むと、受ける印象はかなり異なります。

 小説の終盤では、佐助が失明した後に春琴に仕える生活が、失明前よりもどれだけ幸福に溢れていたか…という恍惚の境地が語られるのですが、そのあたりの記述がけっこう凄い。引用してみます。

(…)畢竟めしいの佐助は現実に眼を閉じ永劫不変の観念境へ飛躍したのである彼の視野には過去の記憶の世界だけがあるもし春琴が災禍のため性格を変えてしまったらそう云う人間はもう春琴ではない彼はどこまでも過去の驕慢な春琴を考えるそうでなければ今も彼が見ているところの美貌の春琴が破壊されるされば結婚を欲しなかった理由は春琴よりも佐助の方にあったと思われる。佐助は現実の春琴をもって観念の春琴を呼び起こす媒介としたのであるから対等の関係になることを避けて主従の礼儀を守った(...)

谷崎潤一郎春琴抄』(青空文庫

 つまり、佐助はいっけん春琴に献身的に仕えているようでいて、実際には春琴を支配し、利用しているのですね。佐助の心のなかには、生身の人間にはとうてい到達不可能なイデア的美しさを備えた春琴の「イメージ」がある。そして佐助は生身の春琴を、そのイメージを現実のもののようにありありと感じるための「媒介」として利用している。

 だから彼は、大やけどという苦しい経験を経た春琴が、その結果として性格的に丸くなったり、自分に対等に接してきたりすることを許しません。そうしたら、佐助の心のなかの高慢で美しい春琴のイメージとズレが生じてしまうから。人間は、生きていれば時間の経過とともに否応なく変化をしていくものですが、佐助はその変化を拒絶し、生身の春琴にも変化を禁じる。

 「佐助は現実の春琴をもって観念の春琴を呼び起こす媒介とした」というのが凄まじいですが、佐助が見つめ続けていたいのは、あくまで彼が自分の心のなかに作りあげた春琴の「イメージ」であって、その美しい「イメージ」を守るためには、自らの眼を潰すことは好都合であったとさえいえます。そのおかげで、歳をとっても、佐助のなかでは春琴はいつまでも絶頂期の美しさをキープしたまま*3*4*5

 …というあたりを踏まえると、『春琴抄』は「純愛」や「没我的な献身」というよりも、むしろ「我」しか感じとれないような悪魔的な「支配」の物語ではないか…という側面が見えてきます。

 谷崎潤一郎の小説については「マゾヒズム」という言葉を使って語られることもありますが、SMとは究極的にはサディストがマゾヒストに奉仕する関係である…みたいなことも言われますよね*6。支配と奉仕(服従)は循環関係にある。

 

◯老婦人と追っかけ青年の盲目さ

 『春琴抄』のような倒錯した支配・被支配関係こそないものの、「相手の実像ではなく、自分が創り出した美しいイメージだけを見つめ続けている」という意味では、『ドールズ』の②③に登場したふたり…自分を棄てた恋人のお弁当を何十年も作り続けている老婦人と、自らの眼を潰したアイドルの追っかけの青年も、やっていることは同じです。

 老婦人は、男が隣に座っても、それが自分の待ち続ける相手だと認識できない。彼女は彼のイメージだけを見つめているので、生身の相手が「見えない」んですね。

 この老婦人が、追っかけの青年に余ったお弁当をあげるシーンがあって、ふたりはそのようなやり取りを何度か交わしているようなのですが、これは両者の「求める相手をほんとうには見ていない」という共通点を示唆していたと思います。

 青年については、彼が『春琴抄』の佐助と同じような動機で眼を潰す前、自分の部屋で、ヘッドホンでアイドルの曲を聴きながら眼を閉じて踊り狂っているシーンがありましたが、これも彼がアイドルのイメージを「盲目的に」見つめている…という表現になっていました。

 あたりまえですが、相手と向き合えるかどうかというのは「眼が見える・見えない」の問題ではない。彼は眼を潰す前から、アイドルの女の子の実像を見ていなかったのです(もちろん、それは悪いことではないですが*7)。

 ③のエピソードでは、もう一人の古参ファンの存在も重要でした。出待ちやイベント会場などでたびたび顔を合わせ、青年がライバルとして認識している男。彼はアイドルの子にも顔と名前を覚えてもらっていて、青年は男への対抗意識を燃やします。

 アイドルの引退後に、彼女の実家にまでお見舞いに訪ねていった青年は、そこでも男と鉢合わせします。そのような事態の積み重ねからくる対抗意識の高まり、「アイツもここまではできないだろう」という気持ちが、自分の眼を潰すという過激な行動に青年を駆り立てた部分があると思います。

 この意味でも彼は、アイドルの子を見ていない。見ているのは「アイドルにそこまで忠誠をつくすことのできる自分」の姿です。

 

◯他人と向き合うことの不可能性

 このように、②の老婦人も③の青年も、求める相手の姿をほんとうには見ていませんでした。自らの作り上げたイメージに執着するばかりで、ありのままの相手と向き合うことができていなかった。

 でも考えてみれば(考えるまでもなく)「ありのままの相手の姿」を見る、ということは基本的に不可能ですよね。人間は「自分の認識」というフィルターを通してしか相手と向き合うことはできなくて、多かれ少なかれ自らの作り出したイメージを相手に投影してしまっている(「ありのままの相手」とか「ありのままの自分」というものが本当にあるのか?という話はまた別として)。

 できるのは、自分がそのようなフィルターを通してしか他人の姿を見ることができない…ということを念頭において注意深く相手に接することで、②の老婦人や③の青年と我々のあいだにある違いは、程度の問題でしかありません。もちろん、その「程度」が大事なんだけど。

 逆にいえば、自分の求める相手が「見えない」老婦人や青年の姿は、他人と本当の意味では向き合うことが不可能な、でも他人を求めずにはおれない、根源的にはどこまでもバラバラで孤立している我々の置かれた状況をデフォルメして表したものだ…とも見ることができます。

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◯むすび

 ②と③では、登場人物たちが本当の意味で向き合うことができないままに、突然の死によって物語は断ち切られます。でも①のクライマックスでは、「このふたりは、ついにお互い向き合うことができたのではないか」というシーンが描かれる。

 かつてふたりが結婚を友人たちに発表した雪山のロッジを再訪したシーン。ここでのふたりは、本当の意味でお互いの姿を見つめあっているように見えます。

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 では、②や③の登場人物たちと、①のカップルのなにが違ったのか。それは「自分を棄てて ”空っぽ” になったかどうか」=「”自分” というフィルターを外すことができたかどうか」という点だと思います。

 ①の青年はもともと、両親のいいなりに彼女を棄て、政略結婚を承服してしまうというような、「自分」をもたない中途半端な「人形」のような生き方をしていました。

 そんな彼が、自分の意思で何もかもを放り出して、彼女を病院から連れ出した。ここで彼は「人間」として生き始めるわけです。やがてお金が底をつき、車中泊を繰り返すようになると、青年の外見は汚れていきます。人間だから、生活とともに身体が汚なくなるのは当然。

 でもそんな生活が限界に達して、彼女と自分の身体を紐で繋いで放浪をはじめてからは、ふたりはどんどん中身がからっぽの「人形」に近付いていく。これはふたりが身体の汚れから解放され、衣装が現実離れして豪華になる…という変化にも表れています。この作品の寓話性が表に出てくる。

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 やがて訪れた雪山で、人形たちから衣装が贈与されるにいたって、ふたりの人間の「人形化」は完成します。ほぼ完全に、中身が空っぽになった状態。

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 そのような空っぽの状態、「自分」というフィルターがほとんど機能しなくなった状態でふたりの思い出の場所を訪れたとき、はじめてお互いがお互いの姿を「見る」ことができた…というクライマックス*8

 ここでは、かつての思い出…青年が彼女にペンダントを贈ったときの回想シーンが描かれますが、この幸せだった頃のふたりは、本当の意味で向き合うことができていたわけではないと思います。

 ただ、それはお互いにとって大事な思い出だったことは確かで、思い出の中身...そのときにお互いがどんな気持ちだったかを共有することは不可能だけど(脳がつながっているわけではないので)、「その思い出が大事だ」という認識は共有できる。そのことを「人形」のように空っぽな状態で、それでもかろうじて確認することができたとき、はじめてふたりは向き合うことができた(かもしれない?)…という奇跡的な瞬間が描かれます。「人形」から「人間」への揺り戻し。

 しかし、その直後にふたりはあっけない死を迎え、人形のような骸をさらす。いろいろあったけど、結局は人間は何かの力によって動かされている人形のようなものだ...というか、自由意志への懐疑みたいなことも連想されたり。ここでは、ふたりを襲った悲劇を悼んでいるかのようにみえる人形たちの姿のほうが、人間よりも情感豊かに描かれています。

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 登場人物たちの繰り広げる物語が、それとは因果関係のない突発的な暴力によってあっさりと断ち切られる、というのは①②③に共通する(そして他の北野映画でもおなじみの)展開。

 人間は「自分」という檻に閉じ込められた存在だけど、暴力的な死は圧倒的な「外部」としてやってくる、という結末でしょうか?

 

その他の北野武関連記事一覧

 

*1:ちなみに『春琴抄』には、人形浄瑠璃にまつわる記述もちょっとだけ登場します。

*2:これはあくまでテーマ面からこの映画を見るとこのように整理できるよ…という図であって、北野武がこういう順序でストーリーを発想したはずだ!といってるわけではないです(そんなのわかるわけない)。

*3:横槍メンゴの漫画をアニメ化した『クズの本懐』には、相手の身体を「自分の望むイメージの投影先」として都合よく利用し合う、という契約関係を結んだカップルが登場します。→ 『クズの本懐』感想(前編):代替可能な恋愛関係

*4:高畑勲監督『かぐや姫の物語』では、姫を硬直した「イメージの世界」に閉じ込めておきたい「翁=男」と、人間としての生を全うさせてあげたい「媼=女」とのあいだで綱引きが繰り広げられます。→ 美少女キャラの消失 〜『かぐや姫の物語』感想 

*5:アニメ『中二病でも恋がしたい!戀』にも、このような「理想の冷凍保存」への志向を持ったキャラクターが登場します。→「好き」を続けていくために 〜『中二病でも恋がしたい!戀』感想  この作品では、そのような「現実を無視して、自分の理想の世界だけを見つめ続けたい」という冷凍保存志向が、時間の流れが不回避にもたらす「変化」によって限界に突き当たる…というドラマが描かれるのですが、『春琴抄』は過激な手段によってその限界を乗り越えてしまう。ここまでやられると清々しいです。

*6:SとMのこのような関係性については、村上龍が90年代に書いたSM&ドラッグ3部作『エクスタシー』『メランコリア』『タナトス』に詳しいです。びっくりするほど面白いです。おすすめ。

*7:そもそもアイドルは魅力的な「偶像」…イメージをファンに提供する存在ですよね。ファンとして厄介なのは「俺だけは彼女の “本当の姿” を理解している」とか勘違いしてストーカー化するタイプです。

*8:オムニバスに近い形式で、ストーリーごとに少しずつテーマが成就されていく…という構成は『パルプ・フィクション』でも採用されていました。→ 『パルプ・フィクション』感想 〜ストーリーとテーマの「ズレ」が生む気持ち良さ