『クズの本懐』感想(前編):代替可能な恋愛関係
現在ノイタミナ枠で放映中のアニメ『クズの本懐』(公式サイト)。
昼ドラばりの扇情的なエロ展開を連発しているようでいて、根っこの部分では青春ものの王道テーマをきっちりとふまえた良作で、毎週楽しく観ております。花火ちゃん愚かわいい。
この記事は、原作マンガ・実写ドラマ版は未見状態での、アニメ第1話~第6話までの感想です。1万字近くあるので、お時間のあるときにのんびりと読んでいただけると嬉しいです。
ネタバレを含みますのでご注意ください。
◯代替可能な恋愛関係
『クズの本懐』は、普通は「かけがえのない=代替不可能」なものである、とされている恋愛関係を「かけがえのある=代替可能」なものとして扱う…という点がフックになっている作品ですよね。
この「恋愛関係の代替可能性」は、第1話冒頭から、ヒロイン・花火のモノローグによって明示されます。
「私たちは付き合っている。でも、お互いがお互いの、かけがえのある、恋人」
花火も、そしてパートナーの麦もそれぞれに「本命」の相手が別にいて、でもその相手には手が届かないので、寂しさを埋めあわせるための「代わり」としてお互いを利用している。そういう契約関係としての「恋人(仮)」。
なので、キスやペッティングをしているときも、お互いの頭のなかに思い浮かべるのは「本命」の姿。あくまで「本命」がいるうえでの(仮)の恋人なので、花火にとっては相手は麦じゃなくてもいい、麦にとっても相手が花火である必然性はない…ということで、花火は自分に想いを寄せる早苗と、麦は中学時代のセフレとそれぞれ寝たりもする。
かけがえのない「本命」がいて、それ以外の人間は本命の「代わり」でしかない。ゆえに「代わり」の人間たちはすべて等価で、代替が可能…という関係性。
花火にとって本命の「お兄ちゃん(鐘井先生)」がどれだけ「かけがえのない」存在であるかは、第1話で告白してきた相手を花火が振ったときのセリフにも表れていました。
「興味のない人から向けられる好意ほど、気持ちの悪いものってないでしょう?」
お兄ちゃん以外からの好意なんてキモいだけだからいらん、と。
このセリフは、幼いころから鐘井に好意を向け続ける自分にもブーメランとして帰ってきてしまうんですがそれはともかく、ここに表れているのは花火の純粋さ・潔癖さです。
「本命」への気持ちが一途すぎるがゆえに、その感情を持て余してこじらせた結果として「代替可能な恋愛関係」という泥沼に足を踏みいれてしまった花火。このアニメのキャッチコピーは「私たちはまっすぐに、歪んでいく。」ですけど、まさにそういう感じです*1。
◯エンディングについて
このような「代替可能な恋愛関係」はエンディングアニメでもわかりやすく表現されています。主要キャラクター6人が、パートナーを入れ替えながら万華鏡のように入り組んだ関係性を展開していく…という印象的なエンディング。
それで、エンディングのキャラクターたちは、お互い向き合っていても目を閉じていて、相手の姿を見ていません。
唯一、花火が目を開けるシーンがありますが、そこで彼女は向きあっていた相手が自分自身だということに気付く。驚愕に目を見開く花火。
つまり花火も他のキャラクターたちも、自分の創りあげた「イメージ」を相手に投影しているだけで、相手の実像を見ていない。相手の身体は、自分にとって都合の良いイメージを見つめるための「依りしろ」みたいなものなので、代替が可能なんですね。
こうなると、花火や麦にとっての「本命」も、本当にその相手の実像を見て好きになっているのか?というあたりにやや疑問符がついてきます。さっきは「本命」にたいして一途、みたいなことを書いたけど、でもやっぱり勝手なイメージを相手に押しつけて、そのイメージに恋しているだけなのではないか?花火たちの恋愛は自己愛の投影に過ぎないのではないか…という含みもある描写。
対人関係(ここでは恋愛)において、自分の捏造した勝手なイメージを相手に押しつけてしまう…つまりは他者性(の欠如)が『クズの本懐』のメインテーマになっているのだな、というのがわかるエンディングです*2。
◯青春ものにおける「他者性」テーマ
この「他者性」は青春ドラマで取り上げられることの多いテーマです。
青春期 /思春期って、幼児期の親との関係を通じて培われた全能感が本格的に打ち砕かれて、「世界は自分を中心に回っているわけではない」ということを受け入れていく時期なので*3、自分の思い通りにならない、自分には理解しきれない「他者」との関係をどう捉え、構築するか…という葛藤を描くのが「成長」の表現としてわかりやすいんですね。
超有名タイトルだと『新世紀エヴァンゲリヲン』(旧)とか、近年の作品では『氷菓』などが「他者性テーマ」を扱った作品として個人的に印象深いですが、この記事では竹宮ゆゆこのライトノベル『ゴールデンタイム』(2013年にアニメ化・公式サイト)を例として挙げたいと思います*4。
◯
大学に入学したての若者たちの群像劇『ゴールデンタイム』には、「自分が好意を寄せる相手は、完璧に自分の理想通りの存在であって欲しい」…という強い欲望をもつキャラクターが二人登場します。ヒロイン・加賀香子と、オタクの青年・通称「二次元くん」。
このうち香子は「完璧な相手と完璧なシナリオで完璧に結ばれたい」という理想を自分の幼馴染み(光央)に強引に押しつけようとして、結果さまざまなトラブルをひき起します。いっぽう二次元くんは、想像の世界で完璧に自分好みの女の子のキャラクターを創り出して、その欲望を発散させている。
ふたりの持っている欲望は同質のものだけど、それを現実に反映させようとするか、空想の世界で自足するか…という表れ方に差があって、いろいろなことが自分の思い通りにいかずに苦い思いを経験した香子は、両者の差に思い至ります。
「私よりずっと成熟してて、大人だから、彼(註:二次元くん)にはわかってたんだ。自分以外の人間を、自分の思い描く『完璧』な形に押し込むことなんかできないってこと。そんなの、現実には、絶対に無理だってこと。そんなに世界は自分中心にはできてないってこと。そんなことを無理矢理やろうとしたら、人間関係がどうなるかってこと。……二次元くんには、ていうか、ちゃんと年齢なりに成熟してる人には、そんなのわかってるっていう前提があるから、ああいう言い方をしている自分自身のことを楽しめるんだよね。同じ年なのに、私はばかだから、なーんにもわかってなかった。(…)」
「(…)光央のことを好きだ好きだって追いかけ回すばっかりで、それで、光央のことを、どれだけ本当に想ってたって言えるんだろう?って。柳澤光央という人間を、その現実の存在を、全然尊重してなかった。私の思い通りにしたい、それだけだった。……彼には命がある、生きてる、ってことさえ、わかってなかったかも。私の世界の登場人物扱いしかしてこなかったかもしれない」
(竹宮ゆゆこ『ゴールデンタイム1 春にしてブラックアウト』)
補足しておくと、香子は超がつくお嬢様なうえに、自身も人並み外れた美貌と学力を兼ね備えており、色々なことが自分の思い通りにできてしまう女の子です。なまじっか実力があるだけにこれまで暴走できていた彼女が、はじめて自分の思い通りにならない「他人」の存在に思いを巡らせた瞬間が「成長」として描かれているシーン。
(ちなみに香子からは「年齢なりに成熟している」と評された二次元くんですが、『ゴールデンタイム外伝 二次元くんスペシャル』では、そのオタク的閉鎖性をこれでもかというほどフルボッコにされます。)
◯自分の世界を壊した相手への恋
『クズの本懐』に話を戻すと、エンディングでも表現されているように、現在の花火と麦はそれぞれの「本命」に自身の創りだした勝手な「イメージ」を投影して、その「イメージ」に恋をしているようにも見えます(『ゴールデンタイム』の香子が幼馴染みに対してやっていたのと同様に)。
でも、恋のはじまりの時点ではそうではなかった…ということが描かれていたのが、第5話。ふたりが、それぞれの「本命」を好きになった、そもそものきっかけのシーン。
まず花火ですが、彼女は幼いころ「泣かない子供」だったことが冒頭で述懐されます。
「寂しさは与えられていたものが奪われたとき、はじめて感じるもの。はじめから与えられなかった者は、それすらわからない。ずっと心地よくすらあった、一人の世界」
家庭の事情があって花火は精神的に孤独だったんだけど、その孤独なモノクロームの世界はそれなりに安定していて「心地よくすらあった」。
でも、そこに「お兄ちゃん」がやってきて世界に色がつき、花火は堰を切ったように泣き出します。
自分の閉塞したモノクロ世界の安定を突き崩した「他者」としての「お兄ちゃん」に恋に落ちたんですね。
いっぽう麦。中学時代の彼は、恋する相手・家庭教師の茜先生がビッチだということが信じられず「茜さんに限って」なんて言ってたんですが、ラブホにおっさんと入っていく姿を目撃してショックを受けます。
「その日一晩泣き濡れた」
泣き濡れてる麦めっちゃかわいいな。
その日を境に目につきはじめた茜のあざとさ・計算高さに最初は嫌悪を感じた麦ですが、しだいにそういう部分に魅力を感じていきます。
まあ、たんに麦の「クズ女属性」が目覚めただけともいえるんですけど、でも彼も茜によって「清純な女性」というイメージの世界を突き崩されて、泣かされている。
花火・麦ともに、自分のそれまで持っていた世界の安定を壊し、自分を泣かせた、自分の思い通りにならない「他者」に恋していた…ということが描かれた第5話でした。
◯極限で似るもの:茜と花火
花火と麦は「自分の大切にしたいイメージ」と「他者性」とのあいだで揺れ動いているようです。
花火は麦を鐘井の「代わり」にするいっぽうで、麦自身のことも意識しているフシがあるし、麦もまた、花火を茜の「代わり」としてだけではなく、ひとりの女の子として見始めている模様。
「お兄ちゃんを想う気持ちで麦と触れあうのは、すごく気持ち良かった。けど、それだって途中からは、麦自身を求めていた部分もきっとあった」(第6話・花火)
「なんだよ、俺あいつに嫌われたくなかったのか」(第5話・麦)
「代替可能な ”代わり”」として接していたはずの相手との関係に、いつしか「代替不可能性」が芽生えはじめている模様。
◯
そんな風に揺れ動く二人とは対照的に、怪物的な「ブレなさ」を見せつけてくれるのが「お兄ちゃん」の意中の人であり、麦の「本命」でもある音楽教師の皆川茜。
茜と花火は対照的なキャラクターで、異性からの好意について、まったく正反対のリアクションを見せています。
「興味のない人から向けられる好意ほど、気持ちの悪いものってないでしょう?」
「男の子から向けられる好意ほど、気持ち良いものなんてないのに」
花火は、自分の好きな相手以外からの好意が「気持ち悪い」。いっぽう茜は、異性からの好意はすべて「気持ち良い」。
この茜さん、じつは作中で一番好きなキャラクターなんですけど、彼女は人間に「内在的な価値」があるということを信じておらず(あるいは「内在的な価値」に興味がなく)、「関係性」のなかで立ち現れてくる価値しか信用していないんですね。
「いま、誰もこの人を魅力ある人だと証明する人がいない。なんか、醒めちゃった。誰かが良いって言ってなきゃ、良さがわからないよね」(第4話)
キープしていた男が「彼女とは別れたから」と言ってきたとたん、醒めてしまう茜。
「Aさん自身」に価値があるのではなく(あるいは「Aさん自身」の価値には興味がなく)、「皆が良いと言っているAさん」にこそ、茜にとっての価値がある。なぜなら、皆が「良い」と承認することが、Aさんに価値を発生させているから…というロジック。
これは、人間を通貨と同じように見るという価値観です。一万円札は、皆が「一万円分の価値がある」と認めているからこそ、そこに価値が発生しているわけで、その前提が崩れたらただの紙切れになってしまう。茜にとっては男も同じ。
「価値は関係性の中にしか発生しない」という、わりとポストモダンちっくというか、市場原理主義的な価値観。茜のキャラづけに「市場経済における強者」っぽいニュアンスが導入されている…というのは、第4話のこんなシーンにも表れていました*5。
高校時代、友人の片思いの相手に(興味もないのに)ちょっかいをかけて、それでも涙目の友人から健気に「お似合いだよ、応援するね」という言葉をかけられたときに沸き上がってきた感情。
「そのとき私のなかに生まれた感情は、罪悪感じゃなかった。薄っぺらい優越感でもなかった。こんな風に、搾取される側には死んでも回りたくない、ってこと」
「搾取」というキーワード。茜は恋愛を「搾取する/される」の市場のパワーゲームのようなものとして捉えているんですね。
さきほど通貨のたとえを出しましたが、通貨の特徴は「交換(代替)可能性」で、茜は他人を通貨とおなじように捉えているから、他人はすべて「代替可能」な存在です。
いっぽう花火は、鐘井を「かけがえのない=代替不可能」な存在として自分のなかで設定しているから、それ以外の他人はすべて「代替可能」。
「代替不可能」な存在を設定している・していない、という点で両者の通っている回路は正反対なんだけど、結果としての行動は同じで、だから茜は花火に同類の匂いを感じて執着している模様。
「安良岡花火さん、あなたは無自覚なだけで、こっち側の人間だわ。無自覚?ううん、気付かないようにしてるだけよ」(第4話)
「こっち側」というのは「搾取する強者側」という意味ですね。しかし「同類の匂いを嗅ぎつけた相手に執着する」って、男くさいアクションものみたいな展開ではあります。『Fate/Zero』の綺礼と切嗣みたいだな。
◯
そのように茜と花火は結果としての行動は似ているんだけど、ふたりが決定的に異なるのは「他者」への目線があるかどうか、という点です。
さきほども見たように、花火は自分の求めるイメージを「代わり」の相手(麦や早苗)に投影しつつも、やっぱりそれが徹底しきれずに、相手のことを見てしまう。
いっぽう、茜は自分にしか興味がありません。
「思えばあの日から、搾取する快感に目覚めちゃったのね。いいじゃないちょっとくらい。羨ましいのよ。自分以外の誰かを好きになるなんて、私にはあり得ないから」
これはさきほどの「搾取される側には死んでも回りたくない」に続くモノローグで、茜の心が閉じていることがわかります。閉じて、他人の姿、一人一人が持つ差異を見ていないから「代替可能」な存在として扱えている。
茜はもしかしたら、「幼い日の花火が、”お兄ちゃん” のような自分の世界を壊す存在に出会えなかったとしたら?」という「if(もしも)」的なキャラクターとして造形されているのかもしれません。
それで、自分はそんなふうに自分しか愛せないのに、「同類」だと思える花火は、鐘井の前で「恋する乙女」の顔をみせている。なんで?キーッ!という執着。茜にとって花火は、唯一の「執着したくなる他人」なのかもしれません。いっそこのまま茜×花火のライバル百合展開に突入してくれてもよくってよ?(中の人的には平沢唯×高坂麗奈だと思うとさ...いいよね...)。
いずれにせよ、この茜 ⇄ 花火の対照関係が『クズの本懐』のコアにある感じです。
◯恋愛のパワーゲーム
それで、第6話では花火が茜と同じ種類の恋愛パワーゲームをはじめてしまいそうになっていますね。根っこのところでは茜とは違う種類の人間である花火ですが、ぐっと茜サイドに傾きはじめている。
「あなたに夢中な人達みんな、私のものにしたい。(...)私、いま、わかってる。自分のことしか考えてないって。でも何でだろう、止まらないの。あいつに向いてる気持ちが欲しいの。勝ちたいの、あいつに。そうしないときっと、あたしこのままじゃ空っぽになっちゃうの」
うーん、こういう場合「相手の得意とするゲームに乗っかる」というのはかなり悪手です。それに、茜のように世界が閉じている=ブレない人というのは強い。
「ブレない」というのは、ようは「世界観が閉じており、自己懐疑がない」ということですけど(もっとしなやかな「ブレなさ」もあるとは思いますよ)、こういうタイプの人は、ある限定された枠(ゲーム)のなかではしばしば強さを発揮します。いまの花火…なんだかんだで、相手の実像を見てしまう=ある程度「開いている」花火のままでは勝ち目はない。
上のシーンでも「自分のことしか考えてない」といいつつ、そんな自分に対して「幼い花火」の姿をとったもう一人の自分が非難を加えてるんですよね。そういう自己批判があるようでは茜に敵いません。
『未来日記』のストーカーヒロイン・由乃がなんで殺し合いゲームにおいて圧倒的に強かったかというと、彼女の視界が他人にたいして完全に閉じていたからでした。
ストーカーは自分の創り上げたイメージに執着しているのであって、執着する相手の実像を見てはいないですよね。由乃も(ネタバレのため反転)主人公に激しく執着しながらも、じつは依存する相手は「誰でも良かった」という事実が終盤で明らかになります。
◯
このブログで記事を書いたアニメでは『中二病でも恋がしたい!戀』*6のサブヒロイン・七宮智音も、世界が閉じていたキャラクターでした。
『中二恋・戀』では、「恋愛」という外部からやってきた「変化」を受け入れたメインヒロイン・六花の精神的な不安定さと、自分の世界を守るために「恋愛=変化」を拒絶した智音の安定感が対比して描かれます。二人はまさに、花火と茜のような関係性。
それで、最初のほうは圧倒的に智音が強いんだけど、やがてあることをきっかけに否応なしに外部からの変化にさらされた智音は、しだいに安定感を失っていきます。世界観が閉塞・硬直している人は、ある状況、「枠」のなかで強くても、その「枠」そのものが変化してしまったときに対応できずに弱さを露呈する。
『クズの本懐』も同様に、いまは自分しか愛せない(=世界が閉じている)・故に強い茜が「外部から否応なしにやってくる変化」の影響になんらかの形でさらされることで、彼女の優位が崩れていく…という展開になっていくのか。それとも茜はこれからもずっと閉じたままなのか。
個人的には、閉じたままでモンスター化していく茜…というのも見てみたい気がします。
◯むすび
でも、茜の抱える「寂しさ」みたいなものにも、今後触れられていく可能性はあるんですよね。第6話、茜のプレーする「恋愛のパワーゲーム」に乗っかりそうになっている花火に、早苗(えっちゃん)がしたアドバイス。
「男を落とすのなんて簡単だよ。(...)あのね、心を開いたフリをするの。開かなくてもいい、本当の心は。ずっと閉ざしてないと壊れちゃうよ」
「本当の気持ち、知ってほしくなったら?」
「自分のことは、死ぬまで自分が知っていたらそれでいいじゃない」
早苗の言葉をきいた花火は、茜のことを連想します。
瞬間、なぜだろう、あいつもそう言いそうだと思った。ということは、どういうことだろう。えっちゃんの言葉は、どこか寂しそうにきこえた。それはじゃあ、つまり、誰もかれもが寂しいってことじゃないのか?あいつでさえ。
ここで視聴者的にさらに連想されるのは、さきほども触れた第4話の茜のモノローグ。
「羨ましいのよ。自分以外の誰かを好きになるなんて、私にはあり得ないから」
花火はもちろんこのような茜の心情を知りませんが、でもどこかで彼女の寂しさを感じ取っている。
「誰もかれもが寂しい」という、ここで垣間見えているのはもしかして「他者性」テーマとコインの裏表の関係にあるもうひとつのテーマ「個別化」、すなわち「人間は自分の主観に閉じ込められた存在だから、"他者" や "外部" っていってもそういうのは脳内の仮想の域を出なくて、だから本当はみんな生まれてから死ぬまでずっとひとりぼっち」という感覚なんじゃないかな? …とも思ったのですが、これについては深追いはやめておきます*7。
◯
今後そっちの方面に『クズの本懐』が進むかどうかは別として、第6話時点までで描かれている緊張関係…個人にとって「代替不可能」な価値をもった事柄であるはずの恋愛が、茜が象徴する市場原理的な力学によって「代替可能」になっていく…という作品の基本設計はスリルがあります。そして、その根本には「他者性」の問題が絡んでいる。
扇情的な展開を手当たり次第にぶちこんで視聴者をひっぱろうとしている作品のようでいて、じつはテーマに沿ってかなりきっちりとストーリーが構築されている印象。心情説明のモノローグが多すぎるのはちょっとばかり気になるけれど(さんざん引用しておいてなんですが)、毎週楽しく観ております。
記事はほとんど「花火と茜」の話に終始してしまって、それはやっぱりこの二人の関係が作品のコアだと思うからなんですけど、でも最新話でいい感じにヤンデレ化してきた(閉じてきた)早苗とか、「クズ女属性」が表に出てはじめてから妙に色気が増してきた麦とか、「天使の羽根つきリュック」という「現実から遊離したキャラクター」に象徴的なアイテムを背負いながらも*8、実はいちばん他人を「他人」として見る意思を備えていそうな最可とか、他のキャラたちも魅力的。
そんな濃いキャラ揃いのこのアニメの中でどうにも分が悪いのが、いまのところ一番キャラの掘り下げが弱い鐘井先生ですけど、第5話のラブホのシーンは大好きでした。
「い、いいんですか…?」「(了承!?ここにきて了承とるの?)」
声だして笑ってしまった。『クズの本懐』の清涼剤ですわ...。お兄ちゃんありがとう。
*1:花火に恋愛相談を持ちかけてきたクラスメイトたちが、スペックを基準に二股中の彼氏を「どっちがいいかな~」と悪意なくナチュラルに比較するシーンがありましたが(その彼氏のほうも彼女に同じようなことをしている)、「普通」っぽいこの子たちに比べたら「クズ」の自覚をもって歪んでいく花火たちはほんとまっすぐに見えます。
*2:北野武監督『Dolls』(感想)や、黒沢清監督『クリーピー 偽りの隣人』(感想 )は「他人と向き合うことの根本的な不可能性」を描いた作品です。
*3:幼児期の全能感を喪失するのはもっと早い時期だとおもうけど、それを理屈として受け入れていくのが一般に思春期あたり…という話です。
*4:『ゴールデンタイム』には、この記事で触れた「他者性テーマ」のほかにもうひとつ「ギャルゲー的なマルチエンディングの統合」というテーマも組み込まれています。人生で直面するあらゆる選択肢とルート分岐の可能性(「香子ルート」と「リンダルート」)を、良い面も悪い面もひっくるめて可能性の束として提示してみせる…という、つまり『この世界の片隅で』(公式サイト)に近いことにチャレンジしている作品で(すずさんにとっての「広島ルート」と「呉ルート」の話)、『ゴールデンタイム』で本当に凄いのはむしろこの部分なのだけど、記事の主旨からは外れてしまうのでスルーします。
*5:市場原理とか競争原理のような公的な力学が、恋愛や家族といった私的な領域に侵蝕してくるときに発生する緊張関係は、今期のアニメだと『3月のライオン』(感想)でも取り上げられています。
*6:関連記事→『中二病でも恋がしたい!戀』感想 「連関天則」の意味するもの 〜『中二病でも恋がしたい!戀』感想②
*7:でも、このテーマを扱うとしたら、えっちゃんは「自分のことは、死ぬまで自分が知っていたらそれでいい」じゃなくて「自分のことは、死ぬまで自分にしかわからないから仕方ない」と言うはずなんですよね。ともあれこういうことを意識し始めるのってやはり思春期あたりからなので、「個別化」もまた「青春もの」の定番テーマ。記事中で例にあげた『ゴールデンタイム』や『氷菓』『新世紀エヴァンゲリヲン』でもこのテーマは取り上げられています。このブログで記事を書いた作品では、『Dolls ドールズ』(感想)や『クリーピー 偽りの隣人』(感想 )、『映画 聲の形』(感想1 感想2)などがあります。