『菊次郎の夏』感想 ~「あの世」からの生還
北野武監督の『ソナチネ』(1993年)と『菊次郎の夏』(1999年)を比較した記事を以前書いたことがあるのですが、
北野映画、「遊び」の意味の変遷 ~『ソナチネ』『菊次郎の夏』感想
今回は、その文章には盛り込むことのできなかった事柄を掬い上げた記事です。
「片道切符の破滅型ロード・ムービー」だった『ソナチネ』にたいして、『菊次郎の夏』は「主人公が生還するロード・ムービー」だったわけですが、その主人公・菊次郎の成長と救済(!)が映像面でどう表現されていたか...について書いています。
ネタバレがありますのでご注意ください。
◯菊次郎のヒーローズ・ジャーニー
『菊次郎の夏』は、物語の基本的な「型」に非常に忠実に作られた作品です。
神話学者ジョゼフ・キャンベルの研究などを元ネタにした「物語づくりのマニュアル本」みたいなものを読んだことがある方なら気付くように(私もその手の本を何冊か齧ったことがある程度なんですが)、全体としては菊次郎を主人公としたベーシックな「英雄の冒険物語」「ヒーローズ・ジャーニー」であり、その途中には、
・冒険への誘い(菊次郎の妻の強要)
・冒険の拒否(競馬・キャバクラ遊び)
・賢者からのアイテムの付与(天使の羽根つきリュック)
・仲間との出会い(旅の道連れたち)
・最も危険な場所への接近(冥界のように見える海岸)
・死と復活(お祭りでのヤクザとの乱闘)
・報酬・名前の獲得(「菊次郎だよ、バカ野郎!」)
といった「冒険物語」に必要な要素が、ちょっと生真面目すぎるぐらい基本に忠実に散りばめられています(この映画について、監督はインタビューで「思い切り型通りの話をやってみたかった」みたいな発言をしていました)。
上記の要素のうち、まずは個人的にとくに面白く感じた「菊次郎の死と復活」のシーンを振り返ってみたいと思います。
◯死と復活
「冒険物語」において定番の、主人公が象徴的な「死」を迎えたのち、復活する(新たに生まれ変わる)…という通過儀礼。
このようなシーンについて、いま手元にある本には、こんなふうに記述されています。
(復活) クライマックス。ヒーローは故郷の <戸口> で再び厳しい試練に直面する。もう一度犠牲を払うことで再び死と再生の瞬間を迎え、それによって身を浄めたヒーローは、今度はさらに高い次元の人間として完成される。ヒーローの行動により、物語の始まりからあった両極の対立も、ようやく解決される。
クリストファー・ボグラー&デイビッド・マッケナ著『物語の法則 強い物語とキャラを作れるハリウッド式創作術』
他の「物語づくりのマニュアル本」でも、おおむね似たような記述がされていると思います。『スター・ウォーズ』でいえば、クライマックスの戦闘でルークが死んだ…!?いや、生きてた!というシーン。
『菊次郎の夏』では、少年の母を探す旅の帰路に描かれる夏祭りでの騒動が、この「死と復活の儀式」に相当します。
◯
夜店で好き放題暴れた菊次郎が、ヤクザに殴られるシーン。ここで、菊次郎の「白+黒」の衣装に配色が対応したパンダのぬいぐるみが、まるで菊次郎の「分身」のように画面におさまっています。
くわえて、少年が菊次郎のために薬を買いに走るシーンでも、踏みつぶされたパンダのお面のカットが。ここで菊次郎はいったん(象徴的に)死んだ、と捉えることが可能です。
※菊次郎が倒れている写真のパンダのぬいぐるみはすごく見辛いですが、菊次郎の横に放置されています。
その後、少年に介抱された菊次郎は「坊や、ありがとうな。ごめんな」とあやまります。彼がここまで素直に少年に接したのははじめてのことで、ここで菊次郎は生まれ変わっている。さきほどの本の表現を借りれば「高い次元の人間として完成」された、と。
その足元には、パンダのぬいぐるみ。これは、古い菊次郎の「抜け殻」です。この直後に、回る風車のカットが挿入されるのも印象的。
夜の風車の映像からはどことなく不吉なイメージも感じられますが、本来は「回る=物事が好転する」という意味をもつ縁起物。ここでは「死」とともに「菊次郎がちょっと前に進んだ」という含みを持たされている感じ。
映画の冒頭でも、菊次郎の背後で風車が回っています。彼の後の成長が、いちばん最初に予告されていたわけですね(「章」ごとにオチの映像を最初に見せるのがこの映画のスタイルですが、これはその大掛かりなバージョンといえます)。
そして翌朝、掃除をする神主に回収される「古い菊次郎の抜け殻(パンダのぬいぐるみ)」。
…と「高い次元の人間として完成」とはいっても、ダメ人間・菊次郎がいきなり更生するはずもなく、この直後のシーンで性懲りもなくトウモロコシを盗んだりしているのは良いですね(作劇的に)。
芽生えたのは少年にたいする責任感だけで、世間にたいする態度は相変わらずです。あまりストレートに「成長」を描かれても乗れないので、このぐらいがいい感じ。
◯衣装について
ここで菊次郎の衣装の変化に着目してみると、旅のスタート前~旅の途中までは、彼は白のトップス+黒のボトムス+黒のサンダル…というモノトーンで固めています。いつもの北野映画のビートたけし。
それが旅の途中で、カラフルなアロハ(少年とお揃い)に着替えます。
『ソナチネ』では、浜辺で少年のように遊びほうけていても、他のヤクザたちがアロハを着る中でただ一人(喪服のように)モノトーンの服を身につけていたビートたけし。
ずいぶんな主人公像の変化で、ここでまず菊次郎は、少年と同じレベルに立ってはしゃいでいるわけです。
それが旅の途中で、もう一度モノトーンの服に着替える。着替えるきっかけは「盲人の演技をしてヒッチハイク」というしょうもない理由ですが、ここで後の縁日のシーン…パンダの「白+黒」と対応させた、菊次郎の死と復活が準備されているんですね。
それに対して少年はずっとアロハ姿のままで、モノトーンの服を着た「大人」である菊次郎に庇護される対象。擬似的な父親を得ている。
白シャツ → アロハ → 白シャツ...という衣装の変化によって
「ダメな大人 → 子供と対等にはしゃくダメな大人 → 自覚をもった大人」
という、一周回ってちょっと大人になった菊次郎の成長が表現されています(彼がいったん少年と同じ目線ではしゃぐくだりも、二人の関係性の構築にあたって必要なプロセス)。
◯むすび:「あの世」からの生還
『ソナチネ』に代表される過去の北野映画には、つねに「死」の影がつきまとっていましたが、『菊次郎の夏』も「この世」と「あの世」を行き来しているような印象を受ける映画です。
たとえば、作中何度か登場するトンネル。
まるで「この世」と「あの世」の境目(リンボ)のような、人気のない海岸。
このシーンは、少年の母親が彼を捨てて再婚していた…ということが判明した直後で、物語的には「最も危険な場所への接近」というあたり。最も「死」に近づいているシーンなのですが。
ストーリーはいったん脇において、映像のみでこのシーンを見ると、ここで「死」に近づいているのは、少年よりもむしろ菊次郎に見えます。
はじめて気付いたときおもわずギョッとしてしまったのが、菊次郎の足跡。少年に先立って歩き始める菊次郎の歩いた後には、(ほとんど)足跡が残っていない。
いっぽう、彼を追う少年は、しっかり足跡を残しています。
菊次郎に追いつき、彼の手をとる少年。ふたりの足跡の有無が際だつカット。
二人は手を取って歩き始めます。ここからの菊次郎は、ちゃんと足跡を残している。
うーん、これ、サンダルとスニーカーでたまたま差が出ただけなのか、意図してそういう衣装を選んだのか、もしかしてCGでちょっと足跡を消したりしているのかわからないんですが、とにかく効果的。
ストーリーだけを追うと、母を失って傷ついた少年を菊次郎が不器用ながらも慰めた…というシーンなんだけど、映像で見ると逆に、「あの世」にいきかけていた菊次郎が、少年の重力によって「この世」に繋ぎ止められた…みたいなシーンに見えるんです。
これまでの北野映画だったら、海とか空とかの青(キタノブルー)は「死」の色で、実際俳優としてのビートたけしは物語のなかで、たいてい自殺かそれに近い形で命を落としていた。
今回も近いところまで行くんだけど、菊次郎は少年のおかげで、ギリギリ踏み止まる。監督としての北野武は、映画のメイキング映像のなかでこんな風に話しています。
(映画は)自分の履歴書を書き直してるみたいな気がするね、最近ね。やっぱり本当は映画の中の自分っていうのが意外に本物っていうか、「俺こんだけ暗いんだよ」っていうのがあるかなと。
だからヤバイヤバイと思って、映画変えなきゃって。映画を変えるってことは自分も変わるってことで。もうちょっと明るいの撮りたいとか、生きなきゃなというのは、実は自分のことなんだけどね。
素直にストーリーを追うと、少年の救済シーン。北野映画の「流れ」を意識しながら映像を解釈すると、俳優・ビートたけしの救済シーン*1。
もちろん、二つ目のほうはわからなくても楽しめるように映画は作られているんですが、ひとつのシーンに重層的な解釈が可能なことが『菊次郎の夏』に魅力的な広がりと厚みをもたらしていることは間違いないです。
大好きで、毎夏観返している映画。このシーンの詩情にいつも大泣きです。