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『クリーピー 偽りの隣人』感想:「本当はつながってないよ、人間なんて」

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 楽しみにしていたのに何かとタイミングがあわず、先日やっと観てきた『クリーピー 偽りの隣人』。

 

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  大傑作でした。ひさびさの「ジャンルから逸脱するジャンル映画」を撮る黒沢清!バカでかい掃除機最高!!!

 以下、ネタバレ感想です。

 

 

◯秩序型・無秩序型・混合型

 映画の最初のカットは、二つ並んだ取調室の窓。そこで西島秀俊演ずる主人公の刑事が、サイコパスである殺人犯の取り調べをしている。

 この二枚の窓は、のちに主人公が言及するサイコパスのふたつのタイプ…「秩序型」「無秩序型」を表しているのではないかと思った。比較的行動パターンが読みやすいふたつのタイプに呼応した、二枚の窓。

 しかし、ここで尋問されている犯人はそのどちらにも属さない両者の「混合型」だった。行動パターンが読めない…もっとも「理解できない」タイプのサイコパス。取調室から逃亡し、人質をとった犯人の行動を「読み誤った」主人公の説得は、最悪の結果を招いてしまう。

 この冒頭シークエンスで提示される「あるサイコパスの心理を理解することができない」という限定的なシチュエーションが、ストーリーを通じて人間全般にジワジワと拡大していき、最終的には「誰もが誰もを全く理解できない」という地点にまで到達する。これが『クリーピー』の物語だ。

 

 

◯感情移入できないキャラクターたち

 「誰もが誰もを理解できない」といえば、この映画は、基本的にキャラクターへの感情移入を許さない。

 主人公はそもそもの最初からまともには見えないし(サイコパスの殺人犯とやけに穏やかに言葉を交わす取り調べシーンの西島は、ことによると犯人以上にヤバい男に見える)、香川照之は言わずもがな。主人公の元同僚である刑事(東出昌大)もイケメンながら良い感じにのっぺりとしていて、なにを考えているのかわからない。

 香川に捕われている少女も主人公にSOSを出すシーンはあるものの、その必死の決意に至るまでの「過程」は描写されないし、唯一まともに見えた主人公の妻(竹内結子)も、いつのまにか壊れている。彼女が壊れていく「過程」の描写がバッサリと省かれているわけで、これはおそらく「あえて」の操作だと思う。

 人が苦しむ「過程」を描くということは、「内面的なドラマ」が発生するということで、そこに観客が感情移入する余地が生まれる。しかし『クリーピー』は(「心の中のドラマはカメラには映らない」というスタンスを持つ黒沢作品らしく*1)その「内面的なドラマ」を見せてくれない。気がついたら香川照之に従属している妻の姿を目にして、観客は呆気にとられることになる。いつの間にこんなことになってしまったのか「理解できない」。

 一連の事件に追いつめられていく「過程」が描かれるのは主人公だが、繰り返すが彼は最初からまともには見えず、感情移入することは難しい(なにしろ講義で、凄惨な「人間狩り」事件を紹介しながら「さすがアメリカはスケールが違いますね」と笑うような男だ)。

 


◯作品世界の違和感

 そのように、すべてのキャラクターに違和感が感じられるこの映画の「世界」そのものも、やはりどこかまともではないものとして描かれる。たとえば、大学でのあのゾクゾクするようなインタビューのシーン。

 かつての失踪事件の生き残り(?)の女性を、主人公が質問によって追いつめていく。明かりが不自然に暗くなったり明るくなったりして、現代的なキャンパスの一室が突如、超自然的な空間に変質してしまう。

 それだけならまだ「質問される女性の心象」として解釈可能だが、窓の外で談笑する学生たちの動きも明らかに不自然だ。まるで下手なパフォーマンスをみているようなギクシャクした感じを観客に与えた末に、突然ひとりの学生がじっとカメラを見据える。なぜそんな演出が入るのかまったく意味不明なのだけど(おそらく意味はないと思う)、だからこそ「気味が悪い」。

 そして、解釈不能香川照之のセリフの数々。「えっ、犬を躾けるんですか!?...いいと思いますねえ、そういうの」。これは怖い。やはり黒沢清監督の『叫』(2007年)で葉月里緒菜演じる幽霊が「わたしは死んだ。だからあなたも死んでください」というとんでもないセリフを言っていて、どうして自分の死と他人の死が当然のように直結するのかまったく理解できなくてものすごく怖かったが、それに通じる不条理な怖さ。

 

 

◯積み重なる「読み誤り」

 そうした、微妙に世界のパースが狂っているような「色々なことが少しずつおかしい・理解できない」という違和感を中盤までじっくりと積み上げた末に、映画は突然異次元に突入。香川照之演じる犯人の住む家の内部は、内装も、そこの住人たちを支配するルールも、完全に社会から逸脱している。

 多くの黒沢清ファンが、監督のフェイバリット『悪魔のいけにえ』(1974年)を連想するであろう逸脱っぷりで、『悪魔のいけにえ』の殺人鬼一家の行動原理をまともな人間が理解することが不可能であるのにも似て、ここに至って『クリーピー』からは「他者への理解」の可能性が完全に放逐される。

 まず主人公は、犯人の性質について「読み誤る」。「自分では罪を冒さず、人に全てをやらせるタイプ」という確信のものに犯人に詰め寄るのだが、観客は、犯人が場合によっては自ら手を下すこともある「混合型」のサイコパスであることを、少女の母を射殺するシーンによって知らされている(そこに凄いサスペンスが生まれる)。ここで主人公は、冒頭の人質事件のときと全く同じ失敗をおかしている。

 主人公は、彼の妻のこともまったく理解できない。主人公が妻に「今まで君のことを少しも理解してあげられていなかった」と詫びる一見エモーショナルなシーンでも、じつはふたりの間にはなんの相互理解も成立しておらず、その直後、妻は主人公を裏切る。それをみた犯人は「狂ってるな( ≒ 理解できない)」とつぶやく。

 そして犯人もまた、主人公を「読み誤る」。主人公のマインドコントロールが完了した、という確信のもと彼に銃を渡すが、そもそもコントロールされるべき主人公の心は最初から壊れており、犯人はあっさりと射殺される。理解できないのは「混合型サイコパス」だけではない。犯人は主人公が理解できないし、主人公は犯人を理解できず、夫婦もお互いを理解できない。

 そんな「誰もが誰もを理解できない世界」のなかで、妻がベットに繋がれた夫と食べものを分かち合うシーンは「心で通じ合えないのであれば、せめて物理的に一緒にいたい」という痛ましい最後の抵抗のようにも映る。

 


◯「本当はつながってないよ、人間なんて」

 そもそも黒沢清の多くの映画では、人間はお互いになんのつながりもない(つながりを持てない)孤独な存在として描かれる。たとえば『回路』(2000年)で小雪が口にするこんなセリフ。コンピュータ上で人間の生存環境をシミュレーションするプログラムについて説明するシーン。

 

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本当はつながってないよ、人間なんて。コンピュータの点と同じ。ひとりひとりばらばらに生きてる。そんな感じするな。

 

 黒沢清自身によるノベライズ版には、さらに立ちいった記述がある。

 

ここにある例の人口生命を見てるとね、つくづく思うの。彼らは離れすぎると接近し、接近しすぎると離れていくようにプログラムされてるわけだけど、だから傍目には一見、コミュニケーションを取り合ってるように見えるの。

でも本当は違う。ひとつひとつはばらばらで何のつながりもない。ひょっとしたら人間も同じじゃないかなって思うことがある。言葉でも文字でも電話回線でもいいけど、そんな物で外部とつながってるって考えるのは錯覚かもしれないよね。魂は結局自分の中だけにあって、一歩も外に出ることがない。これに触れることができる他者も、これを揺り動かすことができる外部もない。そんな気がするな。

 

 『カリスマ』(1999年)でも、役所広司は人間を「木」に例えて、そのつながり(森=社会)を否定してみせる。 

 

”特別な木” なんて一本もなかったし、”森全体” というものもなかった。ただ、あっちこっちに平凡な木が一本ずつ生えてる。それだけだ。

 

 そのように基本的にはバラバラである人間同士が、それでもほんの一時だけ交錯できる...という可能性を描いたのが『回路』や『トウキョウソナタ』(2008年)だった。

 

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  いっぽう『クリーピー』は、人間の根源的な断絶の認識に至る。犯人が射殺された直後、擬似的な家族は一瞬で瓦解する。夫婦と少女のあいだには「被害者同士の連帯感」めいたものは微塵も生じていない(少女が犬を連れてあっという間に走り去る瞬間の爽快感!)。彼等はどこまでもバラバラだ。

 普通に生きている人は、「人間は孤独な存在で、手をつないでビルから飛び降りる瞬間の心中カップルですら、お互いの本当の心の中はわからない」といわれれば「そりゃまあそうだよね」と理屈では納得できる。しかし、その孤独をきちんと実感するのは難しい。

 それは、そんなことをまざまざと実感できてしまったら、まともに生きていくことができないからだ。これはたとえば「 "時間" というのは本当はわけがわからないものなのに、世の中はそのわけがわからないものを土台にしてなぜか平然と動いている」ということを本気で気にし始めたら、社会生活が立ち行かなくなる…というのに近い。

 だから、普通はその「断絶」や「孤独」を直視できないように、上手いこと認識にフィルターがかかっているのだけど、何らかの出来事を通してそのフィルターが外れてしまったとしたら?...『クリーピー』の夫婦が辿り着いてしまったのは、そのような荒寥とした境地に見えた。

 『回路』で自殺し幽霊になった者たちは、自分の前にひろがる「永遠の孤独」を直視してしまい、絶望的な悲鳴をあげる。『クリーピー』のラストで竹内結子があげたあの凄まじい絶叫と、何かに縋りつこうとするような仕草も、あの幽霊たちの悲鳴と同質のものではなかったか。素敵に陰惨な傑作でした。

 

*1:もちろん作品やシーンによって幅はありますが、基本的には『回路』のメイキングで語っていたようなスタンスが根底にあると思います。飛び降り自殺のシーンで、心理的な味付けはせず、だだ起きた事だけをそのまま撮ったことについての黒沢監督のコメント。→「映像の場合、心の中はまあ映せないわけです。俳優の演技している顔のアップばかり撮っているとですね、心の中はまあ何となく演技からわかるんですが、人が上から下まで落ちるのが1秒でした、といったような具体的に起こった出来事はむしろ薄まってしまうわけですね。映画はどちらかというと、起こった出来事をそのまま撮ること、そのまま描写することのできるメディアだと思ってますから。それが有効な場合は、なるべく映画本来の有効な物事の起こりをそのまま撮る。心の中のドラマは映らないですからね。」