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『トウキョウソナタ』感想:都市に踏みとどまる「赤い服の女」

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 昨年の『岸辺の旅』に続き、今年も黒沢清監督の新作が2本も観られる!嬉しい。

 まず『クリーピー』(公式サイト )は6月公開。最近、一足先に観た人たちの「やべえ!」というリアクションがちらほらと視界に入ってきてイライラMAXです。はやく観てえ...。(追記:『クリーピー』感想書きました。

 もう1本、『ダゲレオタイプの女』(公式サイト)は秋に公開予定。

 今回は『クリーピー』とも関連ありそうな気配がする『トウキョウソナタ』(2008年)の感想です。『叫』葉月里緒菜=「赤い服の女」と、『トウキョウソナタ』の主婦=小泉今日子を絡めて書いてみました。

 話の流れで『CURE』(1997年)以降の黒沢清作品のネタバレをしていますので、ご注意ください。

 

◯家

 この映画は一見「バラバラだった家族の再生」という典型的なホームドラマのフォーマットを踏襲しているように見える作品で(単純にそうでないことは最後まで観るとわかるのですが)、まず映画の冒頭、具体的なストーリーが語られはじめる前に、この家庭が行き詰まっているぞというイメージ映像が提示されます。小泉今日子演じる主婦が、雨にもかかわらず家のガラス戸を開け放つ映像。

 風や雨が部屋に吹き込んでくるのにもかまわずに、彼女は床にぺたんと座り込んでしまう。家庭の「現状維持」に疲れちゃってる感じです。外の風を家の中に入れてみたい。なにか変化が欲しい。

 (後のシーンでは、このガラス戸から「リストラされた夫」や「不況のあおりで、強盗に走った男」という形をとった「社会の行き詰まり」が家庭に侵入してきます。)

 家のなかにやたらと棚や柱、階段などがゴチャゴチャと配置されていて、食事シーンになると、まるで家族のあいだを区切って引き離すみたいに、それらの大道具が画面に映り込むのも効果的。いちおう表面上は「夕食は家族で」みたいなルールが機能しているんだけど、心はバラバラ、というあたりが表現されています。

 くわえて、建物自体が線路脇にあって、しょっちゅう電車が家のすぐ傍を猛スピードで走り抜けるという設定も「家庭がつねに社会情勢の影響にさらされている」というイメージの補強に一役買っています。
 これは、夏目漱石の『門』で主人公が暮らす「崖の下の家」をちょっと連想させますね。いつ均衡が崩れて、ありがたくない「何か」が落っこちてくるかわからない、という不安定感。

 

◯カタストロフ願望の空振り

 そのような道具立ての揃った家に暮らす家族四人は、それぞれに個人的な袋小路に突き当たっています。でも、その「行き詰まり」は家族間で共有されません。そういう話し合いがもたれる雰囲気の家庭ではない。

 なかでもメインで描かれる「行き詰まり」は、香川照之演じる夫のリストラ。この原因が、彼が会社で担当していた総務の仕事の中国へのアウトソーシング…という設定になっているあたり、映画で描かれる「行き詰まり」の背景には、社会の過当な「競争・効率至上主義」も設定されている感じです。

 そんな登場人物たちの抱える、にっちもさっちもいかない閉塞感を代表するのが、長男のバイト仲間が口にするこのセリフ。

 

「来ないかな、大地震。ぜんぶひっくり返ってさ、威張ってる奴らをボコボコにしてさ。オレが総理大臣になって、バイクノーヘルOKの法律出す。」

 

 90年代に流行った終末待望論っぽい発想ですね。カタストロフが起きて、このクソ社会リセットされねーかなー、と。でも、もちろん彼も本気でそんなリセットが可能だとは思っていないだろうし、実際この映画のなかで「ぜんぶひっくり返す」ようなカタストロフは起こりません。

 過去、とくに97年に『CURE』で映画界に復帰して以降の黒沢清は、最終的に社会がひっくり返ってしまう(あるいはそのような事態のおとずれを予感させる)話を好んで描いてきましたが*1、『トウキョウソナタ』ではそういった事態は起こらない。

 2016年の視点からみても、たとえ大地震を経験したところで日本の社会構造は変化などしない、ということが明らかになっているわけで(むしろ息苦しさは震災前より強まっている)、『トウキョウソナタ』で描かれる閉塞感・行き詰まり感は現役で有効です。

 

◯「坑道のカナリア」としての主婦

 それで、一家の父親や子供たちについては、その「行き詰まり」の内容が具体的に描写されるのに対して、主婦=小泉今日子に関しては、いったい彼女が何に対して「行き詰まり」を感じているのかは、具体的には描かれません。

 でも、専業主婦である彼女は、それでも家族のなかで一番敏感に(坑道のカナリア的に?)都市生活の抑圧を感じ取っている。

 (最初に書いたように、『トウキョウソナタ』は、家に「外」の風雨を引き込む主婦のイメージからスタートする映画です。)

 それはもしかしたら、「外」の社会から家の「内」に、家族がめいめいに持ち込んでくる「澱み」みたいなものを、主婦である彼女が一手に感じ取っているということなのかもしれません。彼女が何によって抑圧を受けているのか?が具体的に描写されないことが、彼女の感じている「行き詰まり」の抽象度を引き上げ、映画の寓意性を担保している。

 彼女は淀んだ現状を打破する変化を希求していて、さしあたってとくに必要のない運転免許をとってみたり、ファミリー向けではないコンバーチブルタイプの車に惹かれたりします。

 立ち寄った車の展示場で、販売員からコンバーチブルカーの屋根の開けかたの説明を受けた小泉今日子は、「屋根がなくなっちゃうんですか」と嬉しそうにつぶやきますが、これはガラス戸を開け放つことの延長にある願望ですね。行き詰まった家庭をいっそ全否定してしまいたい、というプチ・カタストロフ願望。

 

黒沢清映画の「赤い服」

 ここからは、この主婦=小泉今日子が終始「赤い服」を着ている点に注目してみたいと思います*2

 彼女は映画全編にわたって、ずーっと赤系の服しか着ていなかったですよね。それ以外の色の服を着ているシーンがひとつもない。

 

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 このサイズだと判別できないですが、上の写真で小泉今日子が着ているトップスは、全部種類が違う。でも、色はすべて深い赤(ボルドー系)で統一されています。ボトムスも、赤とか茶とか、同系色で衣装のトーンが統一されている。

 それで、これはよく知られてることだろうと思うけど、黒沢清の映画の「赤い服」は、けっこう不吉というか「不幸の印」みたいなところがあります*3。印象的だったのは『回路』(2000年)の、投身自殺する女。ベージュのコートの下に、鮮やかな赤の服。

 (幽霊出現のトリガーとなった「赤いテープ」をはじめとして、複数脚登場する「赤い椅子」や赤い冷蔵庫などの家具等、赤は『回路』のキーカラーでした。)

 

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 この飛び降りは、映画史上最高の「人死にシーン」のひとつですね。こういうのをワンカットで見せるために映像技術の進歩はあるんだよ!(興奮)

 『回路』ではその後、「赤い服= ”不幸の印” の法則」が伝播していって、麻生久美子の友達は、赤いワンピースを着ているときに幽霊に遭遇して、その後宙に消えてしまいますし、小雪も上下ボルドーのコーディネートのときに幽霊と出会い、その服装のまま拳銃自殺を遂げます。

 

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 右の小雪は暗くて色が分かりづらいな...。ソフトだとはっきり確認できます。

 続く『アカルイミライ』(2003年)でも、浅野忠信に殺害される女は、その前のシーンで赤いワンピースを着用していたし、『ドッペルゲンガー』(2003年)でも、永作博美の弟は赤のTシャツ姿で自殺。柄本明も赤シャツに着替えた途端に死んだり...と、黒沢清の映画で「赤い服」はなにかと縁起が悪い。

 

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※上段:『アカルイミライ』 下段:『ドッペルゲンガー

 

 もちろん、赤い服を着ていても「お咎めなし」のキャラクターも何人かいるので、安易な法則化はできないですが。黒沢映画で「赤い服」は不吉だよ...ぐらいのニュアンスの話にとってください。

 

◯「都市の敗者二部作」としての『叫』と『トウキョウソナタ

 「赤い服= ”不幸の印” 」が全面的に押し出されたのは『トウキョウソナタ』の前年に制作された『叫』(2007年)でした。

 葉月里緒菜が演じる幽霊(役名もズバリ「赤い服の女」)は、東京という都市の発展から取り残され、見放されてひとり死んで行った恨みを爆発させ、その結果世界から人が消えていきます。

 

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「わたしは死んだ。だから、みんなも死んでください」

 

 この映画の葉月里緒菜、陰惨な顔で素晴らしかったなあ...。

 『叫』で全面化したのは、「都市の敗者」のやるせなさです。「都市の繁栄から取り残された人びと」というモチーフは、これまでの黒沢清の映画にも登場していましたが、その虐げられた側の恨みが爆発したのが『叫』

 都市の表面的な繁栄と、その裏側の荒廃は、加瀬亮演じる船員による「東京河川ツアー」でも映し出されていましたね。『叫』の幽霊=葉月里緒菜は東京の「裏側」を代表する存在で、彼女によって、それまでの黒沢清の映画でも不吉なアイテムだった「赤い服」は、「 ”都市の敗者” のコスチューム」として意味付けられています*4

 この『叫』と『トウキョウソナタ』は「都市の敗者」を中心に据えた二部作、コインの裏表のような関係を持っています。『叫』が、敗者の恨みが都市を侵蝕していくというストーリーなのに対して、『トウキョウソナタ』では、都市の抑圧が家庭に侵蝕していく。「都市に侵蝕する」か「都市に侵蝕される」か…の矢印が逆方向なんですね。

 それで、『トウキョウソナタ』で都市の抑圧を一番敏感に感じ取っている主婦は、『叫』の幽霊から「 ”都市の敗者” のコスチューム」=「赤い服」を受け継いでいる。

 

◯家族に感染していく「赤い服」

 ストーリーの序盤では、主婦ひとりだけが身につけていた「赤い服」は、映画がクライマックスに近づくにつれて、家族全員に共有されて(感染して?)いきます。

 あの決定的な一日…夫の清掃員の仕事が妻にばれて、妻が強盗と駆け落ちをし、次男が自分と似た境遇の友人を救えないという挫折を味わった日、全員が赤系の服を身につけているんですね。

 

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 次男に関しては、他の日のシーンでは彼が一切赤を身につけていない、という点にも注目。彼が赤を着ているのはこの日だけです。

 いっぽう、夫=香川照之の服に注目してみると、彼はリストラの当日だけはスーツにグレーのネクタイをしめていますが、会社を辞めた後はずっと赤のネクタイで通しています。そして清掃員の、全身赤の作業服に至る。ストーリーの進行にしたがって、しだいに赤に侵蝕されていく様子が描かれています。

 

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 この3人それぞれが、別々の「行き詰まり」を抱えたまま、バラバラな方向に走る(逃げる)。

 

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 ここに至っても、それぞれの悩みは家族間で共有されない。そして、それぞれが自分のトラブルから逃げて逃げて、「もう逃げきれない」という行き止まりを確認したところで、このバラバラの逃走劇は幕を閉じます。

 その翌朝、家族は家の台所に集合し、黙々と朝食をとります。ここでもやっぱり、それぞれの前夜の経験は共有されない。でも、この、三人が同じ赤い色の服を着て食事をするシーンには、奇妙な「調和」の感覚があります。ぎこちない会話をしていたそれ以前の食事シーンより、よほどしっくりとした感覚がある。

 三人がそれぞれの「行き止まり」を確認した結果、同じ心的状態・波長みたいなものを「ただ共有している」ような、穏やかな調和。

 

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 「赤」の服「黄」のコップ「緑」のポットという配色も面白いです。この家族は全員が「赤信号」の状態で調和しているんですね。

 人と人との関係について、『回路』にはこんなセリフがあります。大学の研究室で、小雪加藤晴彦に、コンピュータ上で人間の生存環境をシミュレーションするプログラムについて説明するシーン。

 

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「(コンピュータのスクリーン上で動きまわる複数の点は)ふたつの点があんまり接近しすぎると死んじゃうし、あんまり離れすぎると近づこうとするようにプログラムされてるわけ」

「本当はつながってないよ、人間なんて。コンピュータの点と同じ。ひとりひとりばらばらに生きてる。そんな感じするな」


 黒沢清自身が執筆した『回路』のノベライズ版*5には、さらに立ち入った記述があります。

 

「ここにある例の人口生命を見てるとね、つくづく思うの。彼らは離れすぎると接近し、接近しすぎると離れていくようにプログラムされてるわけだけど、だから傍目には一見、コミュニケーションを取り合ってるように見えるの。でも本当は違う。ひとつひとつはばらばらで何のつながりもない。

ひょっとしたら人間も同じじゃないかなって思うことがある。言葉でも文字でも電話回線でもいいけど、そんな物で外部とつながってるって考えるのは錯覚かもしれないよね。魂は結局自分の中だけにあって、一歩も外に出ることがない。これに触れることができる他者も、これを揺り動かすことができる外部もない。そんな気がするな」

 

 「他者」とか「外部」とか、現代思想を連想させるようなワードも散りばめられていますが、もっと素朴な生の実感・一般論レベルの話として「"つながり" とか "コミュニケーション” なんて錯覚じゃないか?」というのは、多くの人が感じることなんじゃないかなー、と思います(もちろん言葉の定義にもよりますけど)。

 むかし某作家がエッセイで「たとえ手をつないでビルから飛び降りる瞬間の心中カップルだろうと、お互いの心はわからない」みたいなことを書いてましたけど、それはその通りで、他者の内面(わお♡)は、どんなに誠実に手を伸ばそうとも「自分の勝手な仮想」の域をでない。そういう意味においては、人間はどこまでも孤独*6

 それで、映画版の『回路』では、幽霊までもがこんなセリフを呟きます。

 

「永い…。死は、永遠の、孤独、だった。助けて。助けて。助けて」


 生きるも孤独、死ぬも孤独。

 『回路』は、「人間はそんな風にどうしようもなく孤独な存在かもしれないけど、それでも一瞬の ”すれ違い” はあり得る」という結末で、だからラスト、消えていく加藤晴彦を見つめる麻生久美子のモノローグに泣かされてしまうんですが。

 

「いま、最後の友達と一緒にいます。私はしあわせでした」

 

 『トウキョウソナタ』でも「孤独」は人間存在の前提としてあって、それは解消されない(できない)*7。だから、ホームドラマでありがちな「話し合いでお互いの悩みを "共有" する」とか、「ある出来事を "団結" して乗り越えることで、家族が “ひとつ” になる」みたいな展開は採られません。

 でも、家族が同じ波長というか、状態というか、そうしたものを束の間でもともに感じて、それぞれが孤独なままに調和する、そういう瞬間はあり得るんじゃないか…というのがあの朝食のシーンだったと思います。美しいシーンでした。

 このまさに同じ瞬間、アメリカ軍に入隊して、イラクに派兵された長男も同じような「状態」を経験して、それが彼の考えの転向のきっかけになったのでは?などと妄想してみたり。


◯むすび

 ラストの次男のピアノ演奏シーンは、この「状態の共有」の拡大バージョンとしても見られるんじゃないかな、と思います。

 彼の演奏によって、ある「状態」が、家族やピアノ教師のみならず、見ず知らずの人びとのあいだでも共有される。もちろん、それが本当に共有されたのかどうかを確かめる術はないのですが。

 

                    ◯

 

 次男が生来のピアノの才能を発見されるのは、黒沢清の映画で繰り返し描かれてきた「自分の本懐との一致」のポジティブ・バージョンでしょうか。

 これまでの黒沢清の映画だと、個人が自分の本懐との一致をみることは、社会と相容れない、破滅的な結果を導くものとして描かれてきました。

 そういう役柄は全て役所広司が演じているのですが、『CURE』や『カリスマ』での彼は、最終的に自信に満ちあふれた快活な性格に変貌するものの、同時に社会を破滅させかねない危険な存在になりますし、いっぽう『ドッペルゲンガー』で覚醒した役所広司は、ウキウキと社会の「外」に出て行ってしまう。

 個人の本懐…『カリスマ』で印象的に使われた言葉を借りれば「あるがまま」と社会は相容れない、個人が活き活きと生きることと社会は対立する…という姿勢が徹底されていたのですが、それが『トウキョウソナタ』ではじめて社会化(?)された。

 でも、このラストシーンに至っても、小泉今日子は赤い服のままです。それもそのはず、映画のなかで諸々の問題はほとんど解決していなくて、彼女はおそらく社会の抑圧を感じ続けている。最初に漱石の話をちょっと出しましたが、もう一度『門』になぞらえてみれば、

 「本当に難有いわね。漸くの事春になって」
 「うん、然し又じき冬になるよ」

 という感じでしょうか。それでも映画は一瞬の奇跡を画面に定着させたのち、音楽抜きの静寂のなかでエンドクレジットを迎えます。

 

 

 

*1:「社会の表層に出たらヤバイもの」が拡散していくことによって、最終的に社会がひっくり返ってしまう作品。殺意の社会への拡散を予感させる『CURE』、「あるがまま」の拡散によって社会が混乱状態に陥る『カリスマ』、幽霊の侵入の拡大と入れ替わりに人間が消えていく『回路』、テロ(革命)の芽が社会に放たれる『アカルイミライ』、恨みの拡散によって人間が消されていく『叫』。「黒沢清の拡散系」と勝手に呼んでいる系譜の作品群。

*2:「色」を活用した演出については、このあたりの記事もよろしくお願いします。→『パンチドランク・ラブ』感想  『ふらいんぐうぃっち』をキーカラーで振り返る 

*3:黒沢清の作品に、最初に「赤い服=不幸の印」というパターンが登場したのはいつか?については、残念ながらわかりません。『神田川淫乱戦争』以降の劇場用映画はいちおう全部観てるのですが、記憶が曖昧なうえに手元にソフトがないものもあるし、オリジナルビデオやテレビドラマなどでチェックできていない作品もあるので…。ヌルいファンですみません。

*4:もちろん、『回路』の飛び降りる女と同様に「遠目にも目立つ色」として赤が選択された、というシンプルな理由もあると思います。

*5:ノベライズ版は映画とはかなり違う結末が描かれていて、興味深いです。黒沢清がぜんぜん文章にこだわっていないのが、根っから映像の人だなあという感じでダイナミックな味わい。

*6:『叫』の幽霊のセリフ「私は死んだ。だから、みんなも死んでください」は、自他の区別がなく、自分の死が当然のように「みんな」の死にいきなり接続されてしまうという幼児性が怖いんですよね。「他人のことはわからない」という不安が180度ひっくり返ると、別種の怖いものが出てくる。よくこんなセリフ考えついたな...。

*7:『カリスマ』にも、主人公のこんなセリフが登場します。「 ”特別な木” なんて一本もなかったし、”森全体” というものもなかった。ただ、あっちこっちに平凡な木が一本ずつ生えてる。それだけだ」木=個人、森全体=社会。主人公は、社会秩序を守る仕事(警察官)を辞め、すべてを「あるがまま」に任せることにします。