ねざめ堂

アニメ・映画・音楽

『無彩限のファントム・ワールド』と、10年代京アニの現在地点(後編)

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※前編はこちら

◯虚構は現実に憧れる

 前編は「現実・日常」指向の強い『けいおん!』と、その後期から浮上した「共同体テーマ」についてざっと触れたところで終わりました。

 ここからの後編では「虚構と現実の縫合」へのアプローチを継続した作品について見ていきたいと思います。

 とはいってもやはり全作品については書けないので、ひとつの軸を設定したうえで、それに沿った作品をピックアップしていきます。「現実に憧れる、虚構サイドのキャラが登場する作品」という軸。

                    ◯

 日常系的な「現実・日常」を求めながらも、切り捨てられた『消失』の長門有希。彼女の存在は、10年代京アニがこだわりつづける「しこり」のようなものとして、さまざまな作品にその影をおとしています。

 彼女を切り捨ててしまったことに対する後悔の念が京アニにはあって… というのは話をドラマチックにしすぎですが(笑)、「切り捨てられた長門の救済」に追求するべきテーマ、ストーリーの「芽」がある…と考えたのはおそらく確かで、さまざまな作品にこの「長門有希的なキャラの救済」要素がみられます。

 「長門有希的なキャラ」というのは、作中で虚構・非日常サイドにありながら、現実・日常に憧れをもっているキャラ、ということ。では、まずはそんなキャラたちのうちの一人「東雲なの」の登場する『日常』(2011年)を振り返っていきます。

 

◯『日常』:「日常」に憧れる女子高生ロボ

 『けいおん!』シリーズの最終作『映画けいおん!』(2011年)と同年に放映された『日常』は、「”日常系” を経由した、虚構への再アプローチ」を開始した作品でした。

 10年代京アニ諸作品のなかでの『日常』のポジションを確認するために、前編にのせた図の部分拡大バージョンをのせておきます。

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 『けいおん!』という「日常系」作品を経由して、虚構への再アプローチを開始したのが『日常』と『氷菓』(2012年)*1で、さらに日常サイドからダイレクトに『ハルヒ』への再アプローチを図ったのが『中二病でも恋がしたい!』(2012年)...という流れです。

 『中二恋』のメインヒロイン・小鳥遊六花が、涼宮ハルヒの反転バージョン…「ただの人間バージョン」であることは、OPの映像でも明示されていましたよね。

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  『日常』の話に戻ると、これはタイトルにズバリ「日常」と銘打ちつつ、それを裏切るかのような非日常的なシュールなギャクが展開されていくのが持ち味の作品。

 …なんですが、そのような作中においても、比較的(比較的、ですよ)「現実・日常」サイドの時定高校と、「虚構・非日常」サイドの東雲研究所、ふたつのメインになる舞台があって、アニメのスタート時点では、このふたつの舞台(世界)は隔てられています。

 私は原作マンガの『日常』も大好きで(先日完結してしまった!)ずっと読んでいたんですが、原作では、ロボット=虚構サイドの存在である「東雲なの」は、第1巻の冒頭から高校に通っています。

 やがてシリーズの途中で、なのが高校に編入した当初のエピソードが紹介されていく…という構成になっていて、時系列がシャッフルされている。

 でもアニメ版では、1クール目の時点では、東雲研究所と時定高校、ふたつの世界はまだ交わっていない、というふうにストーリー構成が変更されています。これ、地味にメチャクチャ大変な作業だと思うんですが、そういう操作をわざわざ手間隙かけてやっている。

 そして、虚構サイドの存在である東雲なのは、現実サイド=「普通の学校生活」にずっと憧れを抱いている。だから2クール目の第1話で、ついになのが東雲研究所を飛び出して高校生活に踏み出すシーンは、グッとくるものがあります。制服に着替えるなの → 新OPの登校シーンに突入!

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 OPの、ゆっこ(現実サイド)となの(虚構サイド)の像がクロスしてバチバチッ!と光る映像は「現実と虚構の交錯」の表現になっていますね。両者の交わりによって、世界はより「輝き」を増し、活気づいていく。

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 さらに、モノトーンの「nichijou」の文字がつぎつぎとカラフルに塗り替えられていくという演出は、ハルヒキョンの出会いのシーンを連想させます。

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 ちょっと先回りすると、同様の演出は『ファントム』のOPにも見られます。真っ黒な画面に、しだいにグレーのモザイクが侵蝕していき、タイトルコールとともに色彩が爆発!

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 OPの絵コンテ・演出は『日常』『ファントム』ともに石原立也監督。

 なのの転入を起点にして、はかせとゆっこ達の交流も深まっていく…つまり現実世界と虚構世界とが混じりあっていく「過程」を強調する。これが、アニメ版『日常』でストーリーの構成が変更された意図だと思われます。

 

◯「普通の女の子っぽく見えますか?」

 めでたく高校に通いはじめたなのは、でもずっと背中のネジを気にしています。もちろんネジは、彼女の虚構性のシンボル。

 高校編入の初日、はじめて制服を着たなのは「喋る猫」の阪本とこんな会話をかわしています(東雲研究所にやってきて喋れるようになった阪本は、現実サイドから虚構サイドへの越境者)。

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なの「どうです?」
阪本「まあ、似合ってんじゃねえのか?」
なの「そうじゃなくって!普通の…女の子っぽく見えますか?」

 このセリフは今聞くと、『境界の彼方』の栗山さんのセリフ「私はーーー。普通の人間に見えますか?」を連想させます。「普通=現実・日常」に憧れる京アニの「虚構・非日常サイドのキャラ」たち。

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 プロトタイプ栗山さん。ちょっとだけ大人っぽいですね。これはこれでかわいい。

 『日常』では、このネジをめぐって、なのとはかせの「とる vs. とらない」の諍いが何度も繰り広げられますが、なのがネジを気にするのは「これがあると ”普通” にみてもらえない、みんなに溶け込めない」という思いがあるからでした。

 なので、ネジをつけたままでゆっこたちに受け入れられたなのは、最終回で自らネジを「とらない」ことを選択します。これ、「現実・日常」に憧れて、「ただの人間」である「眼鏡バージョンの自分」をつくり出した長門有希に「そのままでいいんだよ」と言ってあげてるラストなんですよね。

 だから『日常』最終回のラストカットは、なののネジのアップ。

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  この「多様な存在がいていい」という姿勢は、遠くは『たまこまーけっと』に登場するトランスジェンダー・花瀬かおるさんにもつながっていきます。

 1期OPの「片想い」の歌が2期では「友情」の歌になるのも、「虚構 ⇄ 現実の片想い」が成就した、という表現になっていました。1期OPではバラバラに描かれていた、ふたつの世界の交わり。

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(左・1期OP 右・2期OP)

 そして、最終回に描かれた「なのの誕生日」…東雲なのという虚構的存在が生まれてきたことを祝福する、という話は、『境界の彼方』で、秋人が栗山さんの誕生日プレゼントを選ぶ…というくだりでもリフレイン。

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◯『境界の彼方』:「消失長門」の救済劇

 『日常』と同じく、花田十輝がシリーズ構成を担当した『境界の彼方』(2013年)。
 この作品が思いきり『消失』長門の「if」である栗山未来の救済を目指して作られていた…ということについては、私があーだこーだ書くよりも、相羽さんの記事を読んでもらった方がずっとクリアになると思います。

 当記事のなかで何度も「長門の救済」と書いてますが、10年代の京アニでこれが重要テーマのひとつになっている…というのはぜんぶ相羽さんの記事を読んで「そうか!」とわかったことなのでした。

『涼宮ハルヒの消失』と『境界の彼方』との関係について(『境界の彼方』第8話〜第11話感想):ランゲージダイアリー

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(左:『涼宮ハルヒの消失』 右:『境界の彼方』)

 …だから「世界を破滅させかねない力をもつ存在(=ハルヒ / 秋人)」を監視する機関は「文芸部」の体裁をとっていた。だから栗山さんは「メガネとカーディガン」だった、と。

 それで最後は、メガネなしで「生まれ直した」栗山さんにむかって秋人が、『消失』長門のシンボル=メガネを「かけてくれないか?」で〆。『消失』では選ばれずに消えていった長門を見事に救済するラスト。これ完璧やないか...。

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◯『響け!ユーフォニアム』の共同体テーマ

 続いては、これまた花田十輝がシリーズ構成を担当した『響け!ユーフォニアム』(2015年)。

 じつはこの作品だけ「長門有希的キャラの救済」というラインからは外れるのですが、「 ”現実” に憧れる ”虚構サイドのキャラ” 」という観点から取り上げておきたかったのです。

 『ユーフォ』のポジション確認のために、しつこく図をあげておきます。

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 『ユーフォ』にメインで流れ込んでいるのは『けいおん!』~『たまこまーけっと』~『Free!』で追求された「共同体テーマ」。とくに中盤あたりまでは、同調圧力の強すぎる、閉塞した吹奏楽部共同体の行き詰まりが描かれていました。

 『たまこまーけっと』の第6話、お化け屋敷イベントのエピソードでは、商店街共同体の人々のあいだに「外側」の視点から見たら理解不能な、奇妙な「迷信・偏見」が広がっていく様子が描かれます。

『たまこまーけっと』を振り返る 第6話 

 この話で描かれているのは「閉塞した共同体は腐っていく」ということで、それを打破するために「外側」の視点をもった存在~『たまこまーけっと』なら史織~が必要とされる。「共同体大事!」でギュッと固まるだけだと、いずれ内側から自壊するよ...というのが『たまこまーけっと』の共同体観。

 そして、このような意味において『ユーフォ』で史織のポジションにいたのが麗奈で、彼女は行き詰まった吹奏楽部共同体に揺さぶりをかけて活性化させる、という重要な役割を担っていました。

 

◯高坂麗奈の虚構サイド

 そのいっぽうで、麗奈は「虚構サイドのキャラ」としての扱いを「演出的に」受けています。どういうことか。

 当記事の前編・最初のほうで、涼宮ハルヒというキャラの「二重性」についてちらっと書きました。ハルヒは「設定レベルでは虚構・非日常サイド」のキャラだけど、「本人の自覚レベルでは現実・日常サイド」という話。

 麗奈の扱いにもそれと似た二重性があって、彼女は「ストーリーのレベル」では、さきほど見たような「共同体に揺さぶりをかけるキャラ」として扱われています。
 いっぽうで、主人公・久美子の視点から見たときの麗奈は「虚構・非日常」サイドのキャラとして「演出」されている。

 久美子とふたりきりのときの麗奈、とくに夜(=昼間の「日常」とはちょっと異なる時間帯)の彼女が、ほとんどスーパーナチュラルなレベルで「光っている」様子を思い出してみてください。

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 『ユーフォ』の主人公・久美子は、物語のスタート時点では、『ハルヒ』スタート時のキョンよろしくモノトーンな日常を送っていた。彼女は、キョン=「現実・日常」サイドのキャラです。

 そんな彼女の目から見た麗奈は、ほとんど「虚構・非日常」サイドの存在であるかのようにブーストして「演出」されている。つまり、久美子と麗奈のナイトシーンは、京アニ的な文脈において「虚構と現実の邂逅・縫合」として描かれていた。

 それこそ、ハルヒキョンの出会いのシーンと同じような、虚構と現実が衝突して、世界がその全体を表す瞬間…みたいなシーンとして「演出」されていて、だから第8話の山頂シーンは、あそこまで神々しく描かれていたんじゃないか、と。原作に元からあった「女の子同士の濃い〜い友情」描写*2に、京アニの「虚構と現実の縫合」要素が合流してさらにブーストがかかったのが、あのシーン。

 (もちろんストーリーのレベルから見ても、あれらのシーンは、久美子と麗奈という「異質」な人間同士が出会った結果の科学反応として捉えることのできる美しいシーンです。)

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 麗奈があそこまで久美子に執着するのも、これまで見てきたような「京アニの虚構サイドのキャラは現実に憧れる」という法則に照らしあわせると、よりしっくりきます*3

 長門はもちろんのこと、ハルヒも「設定上」虚構サイドの存在ですが、『ライブアライブ』に顕著なように、現実・日常(そしてキョン)に惹かれていきましたよね。

 そしてもちろん、久美子やキョンといった「現実・日常」サイドのキャラは、虚構的存在に恋いこがれる。虚構と現実は惹かれあう関係です(だから「赤い糸」とまで言っちゃう!)。

 

◯臨界点としての(?)『無彩限のファントム・ワールド

 ようやく最新作『ファントム』まで辿り着きました。

 『甘城ブリリアントパーク』(2014年)でも、「テーマパークのキャスト」として、現実世界に虚構サイドの住人たちがこっそりと紛れ込んでいましたが、今回はもうおおっぴら。虚構存在=ファントムが、人間社会に当たり前のように溶け込んでいる世界が描かれます。

 前編でリンクさせてもらった相羽さんの記事中にあるように、ハルヒが最初のころに望んでいた世界が実現している状態が『ファントム』なんですよね。『消失』での分裂以来じりじりと駒を進めて、ついにここまで来たか京アニ…という感慨を覚える世界観。
      
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 その『ファントム』からは、『消失』と同様に「 ”現実” に憧れる ”虚構サイドのキャラ” の物語」だった第10話『小さいルルの大きな夢』を取りあげたいと思います。

 なんでもない日常的な楽しみ(大好きなラムネを1本丸ごと飲み干す!)に憧れる、虚構・非日常サイドのキャラクター=妖精ファントムのルル。彼女が魔女の力によって「普通の人間」になる。…ここまでは『消失』と同様の展開です。虚構サイドの存在が、人間との同化を望む。

 この、ルルの願いを叶えてくれる魔女をみて思わず連想してしまったのは『ハルヒ』の学園祭映画で長門が扮した敵キャラ。帽子だけだけどね。

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 現実・日常サイドの自分=「眼鏡長門」をつくり出す手段をもっていた『消失』の長門にたいして、ルルには自分自身を現実・日常サイドにもっていく力がない。そんな彼女が現実・日常サイドへ移行するにあたって力を貸してくれるキャラが、長門のようなコスチュームを着ている...という遊びですね。

 最終的に、ルルは晴彦を助けるために、妖精の姿=虚構サイドに戻ります。

 虚構的存在が現実・日常に憧れるけど、その願いは結局叶わない…という部分は『消失』と同じなんだけど、「キョンに選ばれなかった」消失の長門と違って、ルルは自分の意思で虚構であることを選択するんですね。『日常』の東雲なのと同じように、自分はこれでいいんだ、と。

 これが『消失』の「次」を提示しているところで、ここだけでもグッときたんですけど、さらに良かったのが、妖精サイズのままラムネを1本飲み干したルルの侠気!

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 人間に同化しなくても、虚構・非日常サイドの存在のままで、日常の楽しみを手に入れてやるよ。やってやるよ!と。ルルちゃん漢やで…。

 もう、この1話で『消失』の長門を救済して、『日常』のなの・『境界』の栗山さんの物語をも再度肯定するようなパワフルなエピソードでした。

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 『ファントム』全体の感想。これはためらいつつ、でも軽卒に書いてしまうんだけど、『ファントム』みたいな世界観と、「震災のあと東北地方で幽霊の目撃譚が増加している」という研究がある…みたいな話は、どこかでシンクロしている気がします。

 私は仙台在住なので、新聞の地方版を読んでいると時おりそういう話題を目にするのですが、最近の東北の幽霊目撃譚の特徴として、「怖い話」ではなくて、亡くなった方への敬意を感じさせる話が多い、という傾向があるらしくて、それは記事の最初のほうで書いた「人間にとっての世界の全体」ということとも関わるんじゃないかと。

 幽霊が本当にいる・いないの問題ではなくて、体験した人にとっての真実性とか、切実さ。そういうものを必要とするのもまた人間のあり方の一側面であって、人間は脳味噌の表面で「扱える・あやつれる」ものだけで生きているわけではない、みたいな意識。

 そういう姿勢が『ファントム』には表れていた気がして、そこが好きな作品でした。

 

◯むすび

 『消失』での分岐以来じわじわと歩みを進めて、『ファントム』でついに縫合をみた虚構と現実。

 

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 いや、この図はあらかじめ『ファントム』を終点に設定して作ってあるので、なんだか「完結感」がありますけど(笑)、実際には全然そんなことはないわけで。これからの京アニがどういうアプローチで作品を展開させていくのか、はたまた全く新しいことに挑んだりもするのか。楽しみです。

 とりあえずは、山田尚子監督で企画が進行中の『聲の形』(公式サイト)がすごーく気になってます。

 

*1:図の『氷菓』のポジションについて補足。最終回での「生きびな祭り」の幻想的な描写は「奉太郎の灰色の日常に、虚構が侵蝕してきた」ような表現になっています。武本監督のコメンタリーによると、ここを際だたせるために、それまでの話数ではあえて派手なフィルター効果や色づかいを抑制していたそう。『ハルヒ』冒頭の「モノトーンからカラーへ」を22+1話かけてじっくりやった...という側面があった作品でした。くわえて『氷菓』の特徴として「推理の裏付けがとれない・でも千反田が納得すればOK」なパターンが多い、という点があって、つまり奉太郎の推理(仮説)は「フィクション(≒ 虚構)」に近いものです。でも、そのフィクションの力で「他者」の心情に迫ろうとするのが『氷菓』で、「フィクションだから自分の好きな方向に引きつけていいよね」という慢心に対しては、手痛いしっぺ返しがくる(『愚者のエンドロール』)。推理の力で「他者」の心情を汲みとって尊重したい、という真摯さと、でも「他者」の心はどこまでいっても(親友のことですら)わからない、という孤独の自覚。このバランスが『氷菓』の魅力です。

*2:『ユーフォ』女の子同士の関係性についても、ちらっと触れられているインタビュー→ 『響け!ユーフォニアム』原作 武田綾乃インタビュー 今しか綴れない物語

*3:原作時点から麗奈は久美子にご執心なんだけど、それがアニメ化によって、京アニ的な「虚構と現実の縫合」要素が加わりさらに加速した、ということです。