ゼロ年代京都アニメーションの代表作『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズ。
この記事は、「10年代京アニ諸作品の原点=『ハルヒ』」という仮定のもとに、『ハルヒ』以降の京アニがどのように作品を発展・展開させた結果、最新作『無彩限のファントム・ワールド』に行き着いたか?という「流れ」を浮かび上がらせてみよう…みたいな意図で書かれたものです。
アニメの作り手側としては、そういうことを意識せずとも、それ自体単体で楽しめる作品づくりを目指しているだろうとは思うんですが、受け手側の楽しみ方として、こういうアングルから見てみるのも面白いんじゃないかな?という企画。
まず最初に「当記事では、10年代京アニの流れをこんな感じで捉えています」…という全体図を示しておきます。
こういう図作りが好きなとこ、われながらオタクっぽいなあ…(楽しかった♡)。
もちろん、これは超・超・超図式的な整理なのでツッコミどころ満載なんですが、京アニの作品はテーマ的にどれもどこかしら繋がっている…ということを強調するために作ってみました。
記事は、この図を辿っていく形で進みますが、10年代の作品を全部追っていくのはさすがにムリだったので、いくつかの作品を抜きだして扱っています。
『涼宮ハルヒの憂鬱・消失』『けいおん!』『日常』『境界の彼方』『響け!ユーフォニアム』『無彩限のファントム・ワールド』
以上の作品のネタバレがありますので、ご注意ください。前・後編トータルで約1万5千字の長めの記事になってしまったので、時間と気持ちの余裕のあるときに、のんびり読んでいただけると嬉しいです。
◯虚構と現実の縫合
最初に、10年代の原点(と、この記事で仮定している)『ハルヒ』をじっくり目に振り返っていきたいのですが、その前に。
京アニには、『ハルヒ』で取り上げたテーマを発展させながら制作されている一連の作品群があって、『ファントム』もその系譜に連なる作品っぽい…ということについては、ランゲージ・ダイアリーの相羽さんが放映前から(!)指摘する記事を書いていて↓
『無彩限のファントム・ワールド』はハルヒの系譜?:ランゲージダイアリー
当記事は正直いって、相羽さんの一連の京アニ記事におんぶに抱っこの内容です(リンク先の『境界の彼方』『甘城ブリリアントパーク』『響け!ユーフォニアム』の記事、どれも凄い!)。
ただし、私が勝手な解釈を展開している部分も相当あるので、もちろん文責はすべて丁稚にあります。
◯
まず『ハルヒ』で何が目指されていたか?というと(これは谷川流による原作ライトノベルも含んでの話ですが)「虚構(フィクション・想像力)と現実の縫合」でした。
「虚構と現実の縫合」への指向は、他の京アニ作品にも一貫してみられるもので、京アニの自社オリジナル企画第一弾『MUNTOシリーズ』(2003年~2009年)とか、ゼロ年代で『ハルヒ』と並んで重要な一連のKEY原作アニメ(『AIR』『Kanon』『CLANNAD』)にも、同様の要素は見られます。
そして、谷川流の『ハルヒ』では、その「虚構と現実の縫合」が実に巧妙に達成されていた。京アニが『ハルヒ』をアニメ化した理由も、このあたりにあったんじゃないかと思います。
◯『ハルヒ』と『はてしない物語』
この『ハルヒ』の下敷きのひとつなんじゃないかな?と私が思っている作品として、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』(1979年)があります。これは混み入った構造をもつメタ・ファンタジー小説ですが、『ハルヒ』とのあいだにいくつかの共通点をもちます。
行き過ぎた合理主義・唯物論的価値観の蔓延・その結果としての虚構的な、カタチのない物の切り捨てによって、現実世界が色や輝きを失っている…という前提。でも、人間にとっての現実と虚構は、じつは切り離せないものとして結びついている、という陰陽思想的な世界観。涼宮ハルヒと、『はてしない物語』の主人公・バスチアンがともに持つ、世界改変能力。その能力の暴走で、めちゃくちゃに改変させる世界。
合理主義が行き過ぎて逆におかしなことになっているという例は世にいろいろあって、たとえば「経済人モデル」みたいに、人間の本来もっているはずの曖昧な要素を切り捨てるような発想は、一見リアリズムにみえて、その実人間のリアルなあり方から遠ざかっている。
『はてしない物語』には、このような過剰な合理主義に染まった人間を、想像の国=ファンタージエンの住人のひとりが評したこんなセリフがあります。
「(…)やつら、支配されてるんだよ。人間どもを支配するのに虚偽(いつわり)くらい強いものはないぜ。人間てのはな、ぼうず、頭に描く考えで生きてるんだからよ。そしてこれはあやつれるんだな。このあやつる力、これこそものをいう唯一の力よ。(...)」
「そのうえあっちにゃ、頭の弱い連中がわんさといてよーーーもちろん自分じゃたいそう利口で、真理に仕えているんだと思いこんでるんだがなーーーその連中ときたら、子どもの頭からファンタージエンをすっかりたたきだしちまうよりほか、することがないみたいなんだ。(...)」
虚構的な、非合理なものを求めるのもまた、人間のリアルな心のあり方であって、「あやつれる」「頭に描く考え」、そういった把握しやすい合理的なものだけを相手にすることは、人間にとっての世界の総体の半分を取りこぼすことなんじゃないか?
『はてしない物語』にはこのような認識があって*1、それは『ハルヒ』や京アニにも共有されているものなんじゃないかな?と思います。
画像上は『はてしない物語』の装丁に描かれたアウリン。呑み込みあう2匹のヘビですね。もうちょっとわかりやすい画像が、下段・左の映画版『ネバーエンディング・ストーリー』に登場したペンダント(エンデの怒りを買った作品ですが)。そして右が、ハルヒの考案したSOS団のエンブレム。
双方とも、ふたつの世界が合わさって、はじめてひとつの全体=円を形成している、という陰陽の図(太極図)みたいなデザインです。パクリとかじゃなくて、発想が同じということ。
ほんとうに『ハルヒ』が『はてしない物語』を下敷きにしているかどうかはどちらでも良いのですが(同型の物語は世に色々あるでしょう)、『ハルヒ』や京アニが「虚構と現実の縫合」にこだわる理由を照射してくれる作品として、話題にだしてみました(最近たまたま読み返す機会があった、という個人的理由も大きいです笑)。
◯『涼宮ハルヒの憂鬱』
では、ここから『ハルヒ』の内容に入っていきます。
『ハルヒ』のメインヒロイン・涼宮ハルヒは、子供のころに夢想した「宇宙人・未来人・異世界人・超能力者」といった「虚構的・非日常的存在」がいない、ファンタジーの介在する隙のない退屈な現実にウンザリしています。これが彼女の「憂鬱」の原因(のひとつ。その下の層にもうちょっと大人びた屈託もある)。
でも実は、本人にまるで自覚はないけれど、ハルヒは世界を改変できるほどの神パワーを持っている。作品の設定レベルで見れば、彼女は虚構サイドの存在です。
(設定レベルで見ると「虚構サイド」だけど、本人の自覚的には「現実サイド」。この二重性が涼宮ハルヒというキャラクターの面白さなのですが、現段階ではとりあえず「設定レベルで見ると、ハルヒは虚構サイドの存在」という部分に注目してください。)
いっぽう主人公・キョンは、かつてはハルヒと同じくカラフルなファンタジーを夢見たこともあったけど、いまでは「ま、これが人生さ」という諦念とともに「現実・日常」サイドに着地しかけているキャラクター。
世界の物理法則がよく出来ていることに感心しつつ自嘲しつつ、いつしか俺はテレビのUFO特番や心霊特集をそう熱心に観なくなっていた。いるワケねー……でもちょっとはいて欲しい、みたいな最大公約数的なことを考えるくらいにまで俺も成長したのさ。
中学校を卒業する頃には、俺はもうそんなガキな夢を見ることからも卒業して、この世の普通さにも慣れていた。一縷の期待をかけていた一九九九年に何が起こるわけでもなかったしな。
ちなみに、さきほどの『はてしない物語』では、世界のあり方にたいする、主人公・バスチアンのこんな実感が綴られています。
(…)生きるということがこんなに灰色でおもしろみがなく、神秘なことも驚くこともないのが、これまでどうしても納得できなかった。みんなは、二言目には、これが人生さといいはるけれども。
「これが人生さ」という境地に、なんとか自分を着地させようとしているのが『ハルヒ』冒頭のキョンで、だからアニメでは、彼の主観から見た世界がモノトーン( ≒ 灰色)で描かれています。
そんな灰色の現実を生きていたキョンが、「虚構サイド」のキャラクター・涼宮ハルヒに出会った瞬間、世界が色づく。
もちろん、この時点でキョンはハルヒを「ただの人間」としてしか認識していないので、キャラクターレベルで見れば、この場面は「かわいいクラスメイトにときめいた主人公」というシーンでしかない(し、それで充分に良いシーン)です。
ただ、もうちょっと引いた視点、設定のレベルから作品を見ると、虚構と現実とが出会うことで、世界が全体性を回復し、彩りや「輝き」を取り戻したシーンとして見ることができる、ということ。
京アニは「日常の輝きを取り戻す」という意外と正統的なテーマに一貫して取り組んでいるのでは…?という点については、以前も記事を書いたことがあって(これも相羽さんの記事に大きく依拠した内容なんですが)、
『ハルヒ』では灰色の日常に「輝き」を取り戻すために、さきほどから話題に出ている「虚構と現実の縫合」が試みられている(逆にいえば、現実が灰色だ、という苦い現状認識が前提としてある、ということですね)。
・京アニのテーマ=「日常の輝きを取り戻す」
↓
・その手段としての「虚構と現実の縫合」
後述しますが、「虚構と現実の縫合」とはまた別ルートで「日常の輝きを取り戻す」ことにチャレンジしたのが、京アニの「日常系」作品、という位置づけになります。
◯「虚構と現実の縫合」の達成
ハルヒとキョンが出会い、SOS団が結成され、その活動を通じてハルヒは、かつてはウンザリしていたはずのありふれた「現実・日常」サイドのイベント(野球の試合や部活の合宿、学生映画の撮影etc.)に楽しみを見いだしはじめます。なかでも代表的なエピソードは『ライブアライブ』ですね。
ハルヒは以前軽音楽部に仮入部し、でも「退屈」という理由で(ほかの全ての部活と同じように)あっさり辞めているのですが、『ライブアライブ』のハルヒは、学園祭でのバンド演奏という日常的イベントを楽しみ、しかも周囲から感謝される。はじめての経験に戸惑うハルヒの姿が描かれています。
いっぽうキョンは、ハルヒと関わることによって、彼女が無意識にひき起す「虚構・非日常」なドタバタに巻き込まれ、そこでの冒険を楽しんでいく。『ハルヒ』で描かれる日常の裏側には、つねに虚構・非日常があって、作品全体のバランスとして「虚構と現実の縫合」が達成されていきます。
◯『涼宮ハルヒの消失』で提示された二択
ところが、京アニ版『ハルヒ』の(おそらくは)最終作となる劇場用アニメーション『涼宮ハルヒの消失』(2010年・原作の出版は2004年)になると、このバランスは片方に大きく傾きます。
『消失』のクライマックスで主人公・キョンに突きつけられたのは「虚構と現実、どっちをとるんだ?」という二者択一でした。「ハルヒの神パワーによる虚構・非日常イベントもアリな世界」と「長門に作り出された、完全に現実・日常イベントしか起こらない世界」とがはっきりと分割・対置されたうえで、さあどっちをとる?という、キョン(そして作品の受け手)へのメタな問いかけ。
最終的に、キョンは「虚構もアリ」の世界を選択します。結果切り捨てられたのが、眼鏡バージョンの長門有希、そして彼女が象徴する日常的世界。
元々の『ハルヒ』の世界では、長門は宇宙人=「虚構・非日常」サイドの存在ですが、そんな彼女が「現実・日常」サイドに憧れて*2、眼鏡バージョンの長門のいる平穏な日常的世界を構築する。
でもその世界、長門の想いは主人公・キョンに選択されなかった…というのが『消失』の物語でした。
『ハルヒ』シリーズは「輝き」追求の手段として「虚構と現実の縫合」をやっていたんですが、『消失』では「虚構 ・非日常」の方向に大きく針が振れているんですね。
◯分岐点
虚構サイドに大きくバランスが傾いた『消失』と前後して、京アニの作風はふたつのルートに分岐していきます。
ひとつは、キョンが『消失』で選択した「虚構・非日常」へのアプローチをひき続き継続するルート。もうひとつは、ハルヒが『ライブアライブ』でその片鱗を掴んだような(そして『消失』の長門が望んだような)いまある「現実・日常」のなかに「輝き」を見いだそうとする方向性を追求するルート。つまり『けいおん!』(2009年~11年)です。
京アニの先行「日常系」作品としては『らき☆すた』(2007年)がありましたが*3、あちらよりもストレートに「日常に輝きを見いだす」という方向性を打ち出したのが『けいおん!』でした。
◯
整理すると、京アニは「灰色の日常に輝きを取り戻す」というテーマを追求していて、『ハルヒ』ではその手段として「虚構と現実の縫合」が指向されていた。
その『ハルヒ』には、『ライブアライブ』に代表される「現実・日常指向」の強いエピソードと、『消失』に代表される「虚構・非日常指向」の強いエピソードとが含まれていた。
そして、「虚構・非日常」に大きくバランスが傾いた2010年の『消失』公開と前後して、京アニの作品は『ライブアライブ』寄りと『消失』寄り、ふたつの方向に分岐していった...という感じです。
もういっぺん強調すると、この図も最初のものと同様、ものすごーくいろんなものを取りこぼしていることを承知のうえで、超大ざっぱに図式化するとこうなるよ…という程度のものです(実際には、ふたつの極の中間、グラデーション部分に、10年代のさまざまな作品が位置している…というイメージです)。
◯『けいおん!』で浮上した共同体テーマについて
ここで、図の「※後期より共同体テーマの浮上」という部分について、ちょっと触れておきます。
◯
「虚構と現実の縫合」にかわって、『けいおん!』で「輝き」の根拠となったのは、バンドの仲間たち=共同体の存在です。
作品のスタート時点では、とくにやりたいこともなく、(キョン的に)ややダルな日常を送っていた主人公・唯が獲得した、バンドのメンバーたちとともに過ごす時間の輝き。
それで、『けいおん!』シリーズの後半では「この輝いた共同体は、それこそ花火みたいに一瞬で(学生時代だけで)終わってしまう一過性のものなんじゃないの?」という問いが浮上してきます(ひらたくいえば「卒業」ということですけど)。
この課題に取り組んでいくのがシリーズ後半ですが、この点に関しても、相羽さんの一連の『けいおん!』関連記事が素晴らしいです。共同体の話題と関連が深いのは、コミックス版の感想も含むこのあたりの記事でしょうか。
けいおん!大学生編感想(ネタバレあり)〜不自由さを受け入れながら進む時代〜:ランゲージダイアリー
『けいおん!』と『ハナヤマタ』で重ねられている演出とその意図について:ランゲージダイアリー
人間関係のリンクをどんどん拡大していった結果、街の演芸大会とかライブハウスとかイギリスのフェスといった「学校の外側」での演奏が可能になっていく…というのが『けいおん!』シリーズ後半の縦軸のストーリーで、これが「高校の部活」という制度の枠から外れてもバンド共同体が継続される…という展開とシンクロしている。
どうしてそんなに「共同体継続のドラマ」にこだわるのか?という点ですけど、いまの社会の流れが共同体を解体する方向にどんどん進んでいて、でも共同体が担っていた役割を肩代わりする存在がないので、育児とか介護とか、さまざま分野で問題が噴出している…というのは、日々のニュースに接していても感じることですよね。
わが家も親が高齢なのでこの問題は他人事ではないですし、友人・知人にも、働きながらの介護や育児でめちゃくちゃ苦労している人が何人かいます(アラフォー世代多し)。
(追記:「古き良き日本の家族」を取り戻して、介護や育児はぜんぶその枠内で完結させろ…とかいうことではもちろんなくて、シンプルに人間の生存に共同体は何らかの形で必要だよね、という話です。念のため。)
「ここまで共同体がブッ壊れてるのヤバいよね…」という意識はアメリカのエンタメ作品にも表れていて*4、私が好きな作品を挙げると、ピクサーの3Dアニメ『カーズ』(2006年)は、競争から弾かれたエリートレーサーと、世の中の発展から取り残された地方共同体の再生がシンクロして描かれる話でした。
また、アカデミー脚本賞を受賞した『リトル・ミス・サンシャイン』(2006年)も同様に、世の新自由主義的な競争原理のあおりをくらってバラバラになりかけた家族が、末娘の「子供版美人コンテスト」参加をきっかけにつながりを回復する、という物語。
どちらの作品もクライマックスは、レースやコンテストといった「競争」のステージのまっただ中で、主人公たちが「共同体の価値」を叩きつける様がカタルシスを生む、という作劇になっています(これは『Free!』1期のラストとも共通する展開です)。
そして、リンク先の記事で言及されている『ハナヤマタ』とか、相羽さんがずっと感想を書いていた『SHIROBAKO』もやっぱり「共同体の維持・継続問題」に敏感な脚本。どの作品も、ストレートに社会問題に言及しているわけじゃないけど、共同体を解体させる力が圧倒的に強い世の潮流に対して「ちょっとまった」をかけている作品です。
◯
このように『けいおん!』では、「輝き」の根拠となっていた学生バンド解散の危機に、「あらゆる共同体を解体させる現代社会の力学」という問題意識が重ねあわせられた結果として、共同体にまつわるテーマが浮上してきた。
この「共同体テーマ」を引き継いだ作品が、『たまこまーけっと』(2013年)と『Free!』(2013年~2014年)です。両作品では、それぞれ
・ある共同体が時間の流れのなかで維持されていくためには、どのようなあり方が望ましいか?(『たまこまーけっと』)
・共同体を解体に向かわせる競争原理とどう関わるか?(『Free!』*5)
という、いわば「共同体の内側と外側」にまつわるテーマが追求されているんですが、これについて詳しく追っていくとまた長くなってしまうので、ここまでにします。
ただ『たまこまーけっと』にも、喋る鳥=デラが登場したり、『Free!』のクライマックスに登場する「見たことのない景色」が非常にファンタジックに描かれていたりと、これらの作品でも「虚構と現実の縫合」への指向が垣間見える点は要注目です*6。
そして、後編で触れる内容を先回りして記しておくと、この「共同体テーマ」を経由しつつ、ふたたび「虚構と現実の縫合」にアプローチしたのが『響け!ユーフォニアム』(2015年)でした。
*1:後半部分では逆に「閉じた想像力」が暴走する危険性も描かれていて、これは『ハルヒ』では「閉鎖空間」としてあらわれます。
*2:『エンドレスエイト』は「何気ない夏休み最後の2週間が、じつは15,497回もループしていた」という話でしたが、皆の記憶がループのたびにリセットされる中、長門だけは約594年分(!)の記憶をキープしていました。つまりこれは「何気ない日常が、ループという非日常事態をただ一人把握する長門の犠牲のうえに成りたっていた」という話で、そのストレスに耐えかねた長門が、ループなど起こらないありふれた「日常」を求めたのが『消失』でした。
*3:『らき☆すた』には「主人公たちの日常を、幽霊(=虚構・非日常サイドの存在)になった母が見守る」というエピソードがあって、ここに注目すれば「虚構と現実の縫合」へのアプローチの入った作品ともいえます。
*4:1980 ~ 90年代のアメリカ映画は「個人が共同体のしがらみを断ち切ってでも、自身の進歩を追求する」という話が目立っていた印象があって、たとえば『スタンド・バイ・ミー』(1986年)とか『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』(1997年)はそういう話でした。もちろんそれ自体は良いことなんだけど、世の中があまりにも「そっちだけ」に行きすぎた結果共同体が壊れすぎて、進歩を追うどころか日々の暮らしが立ちいかなくなった…というゼロ年代の世相を反映したのが『カーズ』とか『リトル・ミス・サンシャイン』なのかなー、と。もちろんこれは、私が無意識に「90年代まではこういう傾向で、ゼロ年代からはこうなった」という自作のストーリーに適合する作品を、数多ある作品のなかから恣意的に抜き出しているだけ…という可能性もあるので、話半分以下で(笑)読み流してください。
*5:『Free!ES』(2期)の結末に表れているように、競争を全否定しているわけではなくて、そのポジティヴな側面も描かれている点は注意が必要です。
*6:一方で、虚構へのアプローチの強い作品にも「共同体テーマ」は流れ込んでいます(グラデーションですね)。志茂文彦がシリーズ構成を担当した『甘城ブリリアントパーク』と『無彩限のファントム・ワールド』は、ともに「共同体の中の個人のポジション」というテーマが追求された作品でした。