ねざめ堂

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『パルプ・フィクション』感想 〜ストーリーとテーマの「ズレ」が生む気持ち良さ

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 クエンティン・タランティーノ監督『パルプ・フィクション』(1994年)を超ひさびさに観直したので感想です。ネタバレがありますので、ご注意ください。

 

◯ストーリー:着地点なし

 『パルプ・フィクション』はいちおうクライム・ムービーの体裁をそなえてはいますが、ストーリー的にはどこにもたどり着かない映画です。目指すべき結末、着地点が設定されていない。

 タランティーノ監督の前作『レザボア・ドッグス』(1992年)は『パルプ・フィクション』と同様に巧みな時間軸の操作がおこなわれている作品ですが、こちらには「この強盗事件はどういう結末をむかえるのか?」という明確な着地点が設定されていました。

 観客はその興味にひっぱられてストーリーに引き込まれ、シャッフルされた時間軸も最終的には「事件の結末」という着地点にむかって収束していきますが、『パルプ・フィクション』はそうではない。

 ウィキペディアのページには劇中の出来事を実際の発生順に整理した表が掲載されていますが、映画が全体として扱う時間のなかでみると、すごく中途半端なところでエンディングを迎えてしまうんですよね。

 有名な「ハンバーガー・トーク」(教科書的なシナリオ作りのセオリーを無視した、ストーリーの大筋や作品のテーマとはまったく無関係な与太話)とか、これまた有名なトラボルタとユマ・サーマンのダンスシーン(フェリーニ8 1/2』と『サタデーナイト・フィーバー』が合流したような)などなど観客を飽きさせない仕掛けはいろいろあって、「そのシーンごと」は楽しめるように作られている。

 でも、映画が全体としてどこに向かっているのか?については皆目見当がつかない。これが作品の大きな魅力になっています(逆に、明確な「目標」や「目的」に向かって進んでいくタイプのストーリーが好きな人にとっては、苦痛に感じられるポイントかもしれません)。

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『菊次郎の夏』感想 ~「あの世」からの生還

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 北野武監督の『ソナチネ』(1993年)と『菊次郎の夏』(1999年)を比較した記事を以前書いたことがあるのですが、

北野映画、「遊び」の意味の変遷 ~『ソナチネ』『菊次郎の夏』感想 

 今回は、その文章には盛り込むことのできなかった事柄を掬い上げた記事です。

 「片道切符の破滅型ロード・ムービー」だった『ソナチネ』にたいして、『菊次郎の夏』は「主人公が生還するロード・ムービー」だったわけですが、その主人公・菊次郎の成長と救済(!)が映像面でどう表現されていたか...について書いています。

 ネタバレがありますのでご注意ください。


◯菊次郎のヒーローズ・ジャーニー

 『菊次郎の夏』は、物語の基本的な「型」に非常に忠実に作られた作品です。

 神話学者ジョゼフ・キャンベルの研究などを元ネタにした「物語づくりのマニュアル本」みたいなものを読んだことがある方なら気付くように(私もその手の本を何冊か齧ったことがある程度なんですが)、全体としては菊次郎を主人公としたベーシックな「英雄の冒険物語」「ヒーローズ・ジャーニー」であり、その途中には、


・冒険への誘い(菊次郎の妻の強要)
・冒険の拒否(競馬・キャバクラ遊び)
・賢者からのアイテムの付与(天使の羽根つきリュック)
・仲間との出会い(旅の道連れたち)
・最も危険な場所への接近(冥界のように見える海岸)
・死と復活(お祭りでのヤクザとの乱闘)
・報酬・名前の獲得(「菊次郎だよ、バカ野郎!」)

 
 といった「冒険物語」に必要な要素が、ちょっと生真面目すぎるぐらい基本に忠実に散りばめられています(この映画について、監督はインタビューで「思い切り型通りの話をやってみたかった」みたいな発言をしていました)。

 上記の要素のうち、まずは個人的にとくに面白く感じた「菊次郎の死と復活」のシーンを振り返ってみたいと思います。

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『クリーピー 偽りの隣人』感想:「本当はつながってないよ、人間なんて」

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 楽しみにしていたのに何かとタイミングがあわず、先日やっと観てきた『クリーピー 偽りの隣人』。

 

www.youtube.com

 

  大傑作でした。ひさびさの「ジャンルから逸脱するジャンル映画」を撮る黒沢清!バカでかい掃除機最高!!!

 以下、ネタバレ感想です。

 

 

◯秩序型・無秩序型・混合型

 映画の最初のカットは、二つ並んだ取調室の窓。そこで西島秀俊演ずる主人公の刑事が、サイコパスである殺人犯の取り調べをしている。

 この二枚の窓は、のちに主人公が言及するサイコパスのふたつのタイプ…「秩序型」「無秩序型」を表しているのではないかと思った。比較的行動パターンが読みやすいふたつのタイプに呼応した、二枚の窓。

 しかし、ここで尋問されている犯人はそのどちらにも属さない両者の「混合型」だった。行動パターンが読めない…もっとも「理解できない」タイプのサイコパス。取調室から逃亡し、人質をとった犯人の行動を「読み誤った」主人公の説得は、最悪の結果を招いてしまう。

 この冒頭シークエンスで提示される「あるサイコパスの心理を理解することができない」という限定的なシチュエーションが、ストーリーを通じて人間全般にジワジワと拡大していき、最終的には「誰もが誰もを全く理解できない」という地点にまで到達する。これが『クリーピー』の物語だ。

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