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ねざめ堂

アニメ・映画・音楽

『響け!ユーフォニアム』を振り返る 前編:他者の異質性の肯定

f:id:tentofour:20150523233107j:plain 最終回が終ってしまったショックで(アニメ生活的に)ちょっと抜け殻になってたんですけど、気を取り直して感想を。

 以前、第1回~第10回までについて「「異質な他者」の可能性 」という記事を書いたので、今回はそれをふまえての、最終回までのネタバレ感想です。振り返り記事につき、以前の記事と重複する部分もある点ご了承ください。

 

◯前置き

 以前『異質な他者の可能性』という記事で書いたのは、だいたい次のような内容でした。

 

①これまでの京アニ作品では、さまざまな形で「灰色の日常に輝きを取り戻す」物語が描かれてきた(京都アニメーション文脈)

②『ユーフォ』ではその「輝き」は「 ”異質” な他者」によってもたらされる。具体的には「異質」なもの同士である久美子と麗奈の関係

③そして「輝き」を供給しあう関係と「恋愛」は「別モノ」として扱われている(麗奈は久美子と「輝き」の相補的関係=ハルヒキョンのような関係にあるが、恋愛的に好きなのは滝先生)

④そのように「輝き」の源泉を、惹かれあう二者間の相互承認関係(≒恋愛)に限定しないことで、『ユーフォ』は吹部共同体の「 “異質” な他者たち」を、その「異質性」ゆえにまるごと肯定しようとしているのではないか?(=人々みなハルヒ化)

 

 ①の「京都アニメーション文脈」については、「ランゲージ・ダイアリー」相羽さんの記事を参照させていただいたのですが(「京都アニメーション文脈」をふまえた相羽さんの『ユーフォ』総論的感想はこちら↓ さすがすぎる…)

 

響け!ユーフォニアム最終回の感想〜ポニーテールと三人のハルヒ(ネタバレ注意):ランゲージダイアリー


 ②以下の内容は、あくまで当ブログの勝手な解釈であり、文責はすべて丁稚にあります…という点は前回も書いた通りです。

 それで、この記事を書いたあとの第11回以降の展開を見ていて感じたのは、③の「輝き」の獲得と恋愛要素の分離にかかわる部分、「久美子と麗奈の関係が二者間で完結していない」(久美子と麗奈が濃〜い友情で結ばれながらも、同性愛関係ではない)というギミックが、思った以上に作品のなかで大きな役割をはたしているなー、ということでした。

 (アニメが終ってから原作を解禁したんですが、原作の久美子と麗奈もけっこうスキンシップが濃厚な、疑似同性愛関係っぽい面と、異性愛者としての面を併せ持っています。)

 そもそも、作中の久美子と麗奈の関係を通して何が描かれていたのか?についての、当ブログなりの解釈を最初に書いておくと、大きくみて以下の2点だったと思います。


A:他者の「異質性」の肯定
B:『ハルヒ』的主人公像の「次」の提示


 Aが「表テーマ」、Bは「裏テーマ」という感じ?

 「久美子と麗奈の関係が二者間で完結していない」という部分はテーマBのほうに関わってくるのですが、これについては後編でみていくとして、まずはAの話からスタートです。

 

◯A:他者の「異質性」の肯定

 こっちが作品がストレートに描きたいテーマで、以前の記事では、おもにこのAについて書いていました。

 「空気読めよ、波風たてんなよ」と、本来はバラバラ(=異質)である個人にたいして「同質」であることを強要してくる、多様性を抑圧する集団の同質化圧力。

 『サイコパス』の感想にも書きましたが、昨今この問題を取り上げたアニメは多くて、アニメ(まんが)は、キャラを魅力的に「立てる」=それぞれのキャラの「異質性」を強調することがとくに重要なジャンルなので、「多様性の抑圧への異議申し立て」みたいなテーマを描くのに向いているのかもなー、と思ったりします。

 (ちょうど、この記事を書いている途中で放映された『アイドルマスター シンデレラガールズ』第16話もそういうエピソードでした。タイムリー!)

 先日、東大の異才発掘プロジェクト(ROCKET 公式サイト)に関する記事を読んでいたら、医療への関心と高い資質を備えた中学生の女の子が、クラスの友達の話題に合わせるために、ホントは興味ないファッション雑誌を読んだり、LINEやったりしてる…という話が載っていて「あー、教室でのサバイバルしんどそうだな、もったいないな…」と気の毒になってしまったんですが。

 そういう「出る杭は打つ」的な閉塞した空気にたいして、「特別」=「異質」を貫こうとする麗奈が揺さぶりをかけていく。そして、流される側の人間だった久美子も、麗奈に触発されていく、というストーリー。

 以前の記事とダブってしまうけれど、「同質化圧力」と「異質」の相剋がこの作品のストーリーを駆動する主要素のひとつに据えられていることは、第2回の葵と、第8回の麗奈のセリフが対応していることからも見て取れます。

 

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「みんななんとなく本音を見せないようにしながら、問題のない方向を探ってまとまっていく。学校も吹部も、先生も生徒も。」

「どうして?」
「そうしないとぶつかっちゃうからだよ。ぶつかって、みんな傷ついちゃう。」

 

 傷つかないように「本音」=それぞれの「異質性」を隠して衝突を回避しつつ、問題のない「同質」な方向にまとまっていく集団。こういう多様性排除の傾向が度を超すと、集団の活力低下につながっていくよ、というのはよく指摘のあるところです。

 そのような風潮にたいしての違和感を表明したのが、第8回の麗奈。

 

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「私、興味ない人とは無理に仲良くなろうとは思わない。誰かと同じで安心するなんて、バカげてる。」

 

 このセリフでとくに重要なのは、後半の「誰かと同じで安心するなんて、バカげてる。」の部分です。

 「傷ついちゃう」ことにたいして、「痛いの、嫌いじゃないし。」と言うことのできる麗奈が、誰かと同じ=「同質」であることで安心するような風潮を斬り捨てる*1

 作品の文脈から判断するに、イメージ映像の「おそろい」のシュシュは、純粋な「仲の良さ」のあらわれではなくて、「良いジャン!」と承認を与えあわなければ「ハイジョ」の対象になってしまうような、同質化圧力の息苦しさを象徴するアイテムのようです*2

 

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「私たちから浮いているものって、ダメですよね?私たちの色に染まらないものは迷惑ですよね?そういう、空気を読めないものは “悪” です。」

(『ユリ熊嵐』第12話)


 「日本人のクセになでしこジャパン応援してないの...?」とか(以前真顔で言われて笑ってしまった。もちろんサッカーという競技や選手たちに非はないです)、「既読スルーないわー」みたいな抑圧の延長ですね。レッツ・サーチ・イーヴル!

 

◯久美子の「好き」への鈍感さ

 『ユリ熊嵐』のキーワードは「私はスキをあきらめない」で、「透明な嵐」(=集団の空気、同質化圧力)のなかで、主人公が忘れていた自分の「スキ」を削り出していく物語だったんですが。

 『ユーフォ』の久美子も、自分の「好き」に鈍感な主人公でした。このあたり、アニメと原作では弱冠ニュアンスが違うのでアニメ版準拠で話を進めますが、久美子って高校で吹部を続けるかどうか悩んだり、楽器を迷ったりしているわりには、最初から吹奏楽、そしてユーフォがかなり「好き」っぽいんですよね。

 第1回、はじめて北宇治吹部の演奏を聴くときは「吹部だ…」とおもわず目をキラキラさせて、ゴクリ…と緊張の表情を浮かべているし、そのあと、ずっと「ヘタすぎる!」とブツブツ怒っている(思い入れがなければ怒らないはず)。そして、中学時代の譜面への熱心な書き込み。

 

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 さらに第9回では、久美子がユーフォを机にぶつけて思わず「痛っ」と言ったのをうけて、緑輝が「久美子ちゃんが痛いと感じるのは、久美子ちゃんの魂がジャック(ユーフォ)に届いている証拠ですよね!」というシーンがありましたが、第10回で描かれた中一の夏事件のとき、先輩が机を蹴った反動で倒れた自分のユーフォをみて、久美子は「痛…!」と反応している。

 

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 緑輝の表現を借りれば、中学時代からすでにユーフォに「ソウルが届いてる」久美子。「全国なんて、そう簡単には…」という一方で、わりと序盤から繰り返し口にしていた「上手くなりたい」も含めて、これらはすべて、久美子の吹奏楽とユーフォへの思い入れの強さの表現だと思います。

 ついでに秀一への気持ちも、本人の「いやいや、そんなんじゃないから」という否定にたいして「え、好きなんでしょ?」的ツッコミを二度もうけてたりして。

 

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麗奈「ふーん、そんなんじゃないんだ」(第8回)

葉月「こっちも無自覚かー」(第9回)

 

 麗奈の「そんなんじゃないんだ」、第8回時点では私は「よっしゃ、ライバル消えた!」という意味かと思ってたんですが、後から振り返ると、葉月と同じく「無自覚かー」というニュアンスが強そう。麗奈と葉月の生暖かい眼差しがジワジワきますね。
 という感じで、久美子は吹奏楽といいユーフォといい秀一といい、自分の「好き」という気持ちに鈍感*3。これは生来の性格もあるでしょうけど、この性向に拍車をかけたと思われるのが、さきほどちらっと触れた、中一の夏の事件。

 

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「アンタがいなければコンクールで吹けたのに!」

 

 ドラマ的には北宇治オーディション騒動の前哨戦的な位置づけの事件で、このとき「空気を読めずに」先輩を蹴落としてしまい、結果傷ついた久美子は、これ以降過剰に空気を読むようになったのかもしれない。笑顔で一緒に写真に収まっていた先輩が、こんな風に豹変したら中一の女の子にはショックですよね。

 写真の久美子、緊張と期待とちょっと余所行きな感じがないまぜになった初々しい表情が泣けるなあ(それがこんなことに...)。

 

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 さらにいえば、これ以来久美子は空気を読みすぎ、それを乱さないことに注力するあまり、自分のなかの欲望=「好き」を無意識に押さえつけるようになってしまったのではないか、とも考えられます。「外」に意識が向きすぎて、自分の「中」にたいして鈍感になってしまった。第8回、葉月に秀一を譲った(?)ときも、無意識に自分を抑える機制が働いていたっぽいですし。

 そんなふうに、「異質」なものをハイジョしていく力が働く集団の同質化圧力のなかで、自分を抑えつけ、自分なりの「好き」を見失った久美子が、「好き」を強烈に自覚する麗奈(トランペットも、滝先生も)との関わりのなかで覚醒していく物語としての『ユーフォ』*4

 

◯「鏡」としての異質な他者

 久美子と麗奈の関係のように、お互いの「異質さ」が触媒としてポジティヴに作用する場合もあれば、かつての北宇治吹部の崩壊劇に象徴されるように、ネガティブな結果をもたらすケースももちろんあります。

 でも、最終的には「異質」な者同士の軋轢を肯定的に描いていた作品で、このあたりは第12回、吹部について久美子とは異なった意見をもつ葵や姉と、久美子のあいだの摩擦でも表現されていました。

 

『響け!ユーフォニアム』 第12回で描かれる「鏡」としての他者 

 

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 「吹部なんて将来の役に立たないじゃん」という姉や葵に反発する久美子。おもわず部屋のなかでユーフォ吹いちゃうぜ。若さ爆発です(爆音でメタルかけちゃう的なアレ?)。

 第12回では、パートを外された久美子を慰めてくれる葉月や緑輝(どちらかといえば「同質」サイド)の行動は、残念ながらあまり久美子の力にはなれていない、という描き方がされていました(葉月や緑輝と別れた直後に、久美子が泣きながら走るシーンが挿入される)。

 むしろ久美子とは「異質」で対立的な「世間的な価値」を主張する姉や葵への反発が、久美子なりの「存在論的な価値」発見の契機に!(オーバーか)。

 「異質な他者」との摩擦を「鏡」にして「私、ユーフォが好きだ…」という認識、自分の「好き」の自覚に至った久美子。「スキ」をあきらめなければ、なにかを失っても透明にはならない*5

 

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「 †自分を知るには、外に目をむけるべきなのです† 」

 

 そういう発見の契機となりうる他者の「異質性・多様性」を肯定する、という流れの延長線上で、各々が「異質」である吹部メンバーひとりひとりの存在が祝福されていた作品でした。

 だからこの作品では、メインキャラクター以外のサブキャラクターたちも「みんなハルヒだ!」とばかりに異様に丁寧に描かれていたし、

 

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 最終回の合奏シーンも「皆がひとつにまとまりました!」と、吹部メンバーたちをひとつの「カタマリ(=同質集団)」として捉えるような、一体感推しの演出からは距離をおいた、ひとりひとりの姿を独立した「個」として丁寧に映しとっていく演出になっていたのだなー、と思います。

 同じ場に集って、ひとつの曲を演奏しながらも、それぞれに抱えている想いは違う。トランペットソロの演奏中、デカリボン先輩はやっぱりまだ割り切れない顔をしているし、香織はどこか寂しげな微笑を浮かべていて、でも麗奈は堂々とソロをとる。

 基盤になるのはあくまで「個」で、皆がそれぞれの「異質性」をキープしつつ、それらの「異質」が合わさってハーモニーになる、というクライマックス。メルティング・ポットじゃなくて、サラダボウル。

 広島交響楽団の音楽監督、秋山和慶のインタビュー。「平和の夕べ」コンサートに、ナチスに抵抗したドイツの作曲家、ヒンデミットの難曲を選んだことについて。

 

平和コンサートというと、圧倒的な一体感と陶酔を約束する「第九」がお約束の向きもあるが、今回は秋山も広響もあえて選ばなかった。

 

「みんなと違うことを考えていると、おかしいと言われる。だから自分の信念は脇におき、一緒にみこしをかつぎ、いつしか『ワッショイ』と同じ方向に歩き始める。日本人ってそういうところがあります。あの時代に、芸術家としての 『個』 を貫いたヒンデミットの響きに、平和への祈りを託した私たちの思いを、東京の皆さんに感じてもらえればと思います。

 

貫いた「個」、平和の祈り託して 広島交響楽団、11日に東京公演:朝日新聞デジタル

 

 すくなくとも創作物においては、いまは一体感やそれに基づく陶酔を全面に押しだすべきタイミングではない(世の中的に求められていたとしても)、という感覚があったので、最終回の合奏シーンの演出で表現されていた時代感覚にシビれてしまったのでした。2015年の表現としてイケまくり。

 

 (後編に続く)

 


Paul Hindemith : Die Harmonie der Welt - YouTube

 

*1:もちろん、香織とのソロ対決の前に、久美子の前で「いま私が勝ったら悪者になる。」と不安を吐露したように、麗奈はナチュラルに「強い」のでも「特別」なのでもなく、そうあろうと意識的に努力しているキャラクターです。

*2:そういう同質化圧力の象徴でなければ、麗奈も「おそろい」がイヤなわけではないよ、というシーンが最終回で描かれていました。葉月が「おそろい」のお守りを久美子と麗奈に渡すシーン。ポニテと同様、お互いの異質性を認めあった久美子との「おそろい」ならOKなんですね。

*3:秀一に関しては「幼馴染みとして近すぎた」という部分もあるでしょうけど。女友達と喋っているときとは一段トーンの低い、秀一や家族に対するときの久美子の声の演技が見事でした。あの声の生っぽいトーンの使い分けがキャラに自然に馴染むのも、作画や背景、撮影効果などによって「画面のなかに、彼女たちが生きて存在している」という実在感がキープされているからこそだと思います。

*4:自分の「スキ」を忘れた主人公と、自分の「スキ」を強烈に自覚するキャラクターの関わり、という点も『ユーフォ』と『ユリ熊嵐』の共通点でした。もっとも『ユリ熊嵐』の「ユリ」と「熊」は、ひとりの人間のなかの異なった部分を別個に人格化したもの、という解釈も可能なので(塚本晋也監督の『双生児』みたいな人格統合の話?)「他者」との出会いを描いた『ユーフォ』と単純に比較はできませんが。

*5:「特別」でない者なりの「輝き」=「スキ」の可能性を描いていた点も『ユリ熊嵐』と『ユーフォ』の共通点でした(ツギハギ熊の話。『ユリ熊嵐』も素晴らしかったな...)。