ねざめ堂

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『響け!ユーフォニアム』 第12回で描かれる「鏡」としての他者

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 なにかと周囲に流されやすく、楽器もなんとなく成り行きで決めたようなキャラクターだった久美子が、ユーフォニアムにたいしての自分の気持ちを確認する、という「主人公覚醒回」だった第12回。

 …なんですが、その「覚醒」は自分の中だけでもたらされるものではなくて、契機になったのは、久美子の周囲の「他者」の存在であったことだよ…というあたりが非常にストレートかつ丁寧に描かれていたエピソードでした。今回もすばらしかった…というか、なんで毎回こんなに凄いの!?

 本文中はネタバレ注意です。

 

「鏡」としての他者

 前回の記事で、『響け!ユーフォニアム』とテーマ的な関連が強い京アニの過去作品のひとつとして『中二病でも恋がしたい!戀』を挙げました。「他者」の存在の重要性、自分の姿を映しだす「鏡」としての他者。

 

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「私は、勇太が信じてくれた自分を信じる。」(第9話 六花)

 

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「自分を知るには、外に目を向けるべきなのです。」(第11話 モリサマー)

 自分の姿は他者との関係性を通してしか確認できない、というのは一般論ではあるけれどやっぱり重要で、テレビ版の『新世紀エヴァンゲリオン』最終回でも「他の人のカタチを見ることで自分のカタチを知っている」なんていうセリフがありました(ちなみに、テレビ版よりも旧劇びいきです。関係ないですねすみません)。

 『響け!ユーフォニアム』でも「鏡」としての他者の存在はかなり意識的に描かれていて、たとえば第7回の感想で書いた「久美子と髪色が似せられた中川夏紀は、久美子が勇気を出せなかった “ if ” の姿を体現したキャラクター」という話もこのような表現のひとつです。

 

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(左:第1回の久美子 右:第4回の夏記)

 

 第1回、なんとなく覇気のない表情のまま、鏡で自分の姿をチェックする久美子。そして髪をポニテに。

 

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 このあと、微妙な心境の変化があって久美子はポニテをやめるのですが(ここがルート分岐ポイント)、ここで「心境の変化がなく、久美子がポニテを続けていたとしたら」という存在が夏紀先輩。去年の吹部の崩壊劇を、ただ見ていることしかできなかったキャラクターです。

 良くも悪くも周囲に流されやすい夏紀は、久美子にとって鏡のような存在。

 

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「それに意見できる人はいなかったわけよ。相手は先輩だったし、怖かったしさ。」(第7回)

「ま、練習したのは今の部の空気にあてられたっていうか、滝先生にのせられたっていうか。あたし、なんかそういうのに弱くてさ。」(第10回)

 
 久美子は自分の「鏡像」としての夏紀が気になって、第4回で勇気を出して「みんなで、合わせてみませんか」と声をかける。ここから「久美子のバッドエンドバージョン」として無気力にやさぐれていた夏紀のルートも、まったく違う方向に動きだします(いまや屈指の人気キャラ!)。

                   
                      ◯
 
 
 そして今回は、まるまる1話をつかって、久美子がさまざまな「他者」のありようを「鏡」にしながら、自分の「カタチ」を探っていく姿が描かれます。

 

◯他者(+):麗奈

 「プラスの他者」というのもイマイチな表現ですけど、第12回冒頭時点での久美子にとっての理想像が麗奈。

 

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「私、上手くなりたい。麗奈みたいに。私、麗奈みたいに特別になりたい。」

 

 エピソード前半のむせ返るような夏の暑さ、照り返しの表現が良かったですね。なんとか突破口を探そう、さなぎの状態から羽化しようともがく久美子の発熱、焦燥感。ただ、これに関しては、ふたりの間に厳然たる実力差がある、ということがシビアに映像で表現されていました。

 気付いた方も多いかもしれませんが、戯れるように低い位置で並んで飛んでいた二匹の蝶が、麗奈の「じゃあ、私はもっと特別になる。」というセリフのあと、一方が高いところに飛び去っていく演出とか。

 

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ビフォア → アフター 

 おわかりいただけただろうか...この画像サイズだとちょっと厳しい。

 このカットも同じ表現ですね。「特別になりたい」と言う久美子の周囲の空間は草で区切られて閉塞感がある一方、麗奈の頭上は開いている。

 

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 この話で印象的に何度か登場した蝶*1で例えれば、演奏者としてすでに羽化しかけている麗奈と、いまだ固いさなぎの久美子、という感じでしょうか。あるいは、もっと根本的な才能の差の表現か。

 このあとストーリーは、ここで予告されたような、現時点での久美子の限界を突きつける展開になっていきます。

 

◯他者(=):秀一

 久美子にとっての「見上げるポジション」な麗奈とは対照的に、もろに「鏡像」的、イコール的に、現時点の久美子のポジションを映しだす存在が秀一でした。

 もちろん秀一にとっても、戦力外通知をつきつけられた久美子の姿は、練習でダメ出しされ続ける自分自身の姿を鏡でみているような痛さがあるはず。お互いが、お互いにとっての鏡像のような存在。

 このふたりが、川や道路をはさんで「こだま」のようなやりとりをかわす。ここで両者のあいだに距離がキープされているのが良いです。

 

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 最初の川は「お互い頑張ろうぜ!」というエール交換、二回目の道路は「もっと上手くなりたい!」という悲痛な叫びの交錯ですが、どちらの場合もふたりのあいだには距離がある。いま、ここで距離をつめたら弱者同士の傷の舐めあいになる、的な覚悟?

 久美子は「鏡像」としての秀一を見ていることに耐えられなくなり、彼に背をむけて「悔しい、悔しくって、死にそう」と呟く。

 いっぽう秀一からすれば、「ダメな自分の鏡を見ているみたいで辛い」というのに加えて、「好きな女の子が追いつめられているのに何もできない自分」を突きつけられる、というダブルの辛さがあって、彼にとっても厳しいシーンです。

 

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◯他者(ー):葵・麻美子

 これも「マイナスの他者」なんていうとネガティブな感じがしますが、あくまで久美子にとっての「自分とは違う=異質性」を強く感じさせる他者、という意味であって、プラスやマイナスに「正しい・正しくない」という価値判断の含みはありません。念のため。

 葵と久美子の姉・麻美子は、両方とも「世の中に出たときに有利」という「実利」を重視して受験をとり、「趣味」的な吹奏楽を「将来なんの役にもたたないじゃん」的に切り捨てたキャラクターです(本心はわからないんだけど、いちおう現時点の情報では)。これはこれで、個人の選択とは言える。

 

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「私は吹部より受験のほうが大切だったから。たぶん、部のゴタゴタがなくても辞めてたと思う。私には、続ける理由がなかったから。」
「音大行くつもりないのに吹部続けて、なにか意味あるの!?」


 ただ、久美子はそんな二人と向き合うことで、自分の気持ちを確認する。姉に「意味あるよ。だって、私、ユーフォ好きだもん!」と言い切ったあとの、「鏡」をみての「私、ユーフォが好きだ…」という確認(ここは思い切ってストレートな演出!)。

 「異質な他者」との違いを認識し、自分の意見をぶつけることで、自分自身の「カタチ」を確認する。第1回でのぼんやりとした立ち位置から、ずいぶん遠くに来ました。

 

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(左・第1回 右・第12回)

 

 久美子がこの作品の「主人公」らしいのは、彼女は橋の上で「上手くなりたい、誰にも負けたくない」と泣いたわけですけど、それは受験のような「実利」的な「競争指向」とは結びついていないところ。単純にユーフォが「好き」だから上手くなりたいという、それだけなんですね。

 

◯むすび:滝先生と滝昇

 それで、「直接は “実利” に結びつかなくても、”好き” だからやるんだよ、それで充分意味あるじゃん」という久美子の姿勢を「鏡」として後押しするのが滝先生。

 有名な吹奏楽の指導者だった父親と同じ職業につくなんて、プレッシャーだったのでは?と訊く久美子。滝先生が父親と同じ仕事をするのは、父親とどうしても比べられてしまうという点で実利に反するのではないか、「損」なのではないか?ということですね。姉や葵との「実利」がらみの会話を引きずっている。

 これは「宮崎駿の息子に生まれてアニメーションの監督をやるのって、どう考えても "損" ですよね」みたいな話に置き換えるとよくわかります(素直にものすごい精神力だと思います。想像もつかないプレッシャー…)。

 その質問を受けての滝先生の答え。

 

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「小さいころは、父と同じ仕事に就きたいなんて思ったこともなかったのですが。でも選んだのは、この仕事でした。結局 ”好き” なことって、そういうものなのかもしれません。」


 プレッシャーとか損得とか実利じゃないんだ、「好き」だからこうなっちゃったんだよ、というこのシーンの滝先生が、「指導者」じゃなくて、滝昇というひとりの「個人」として久美子と向きあっているのが良いですね。

 「個人」としての経験からなにげなく漏らした言葉が、姉や葵とのやりとりを通じて新たな認識に至った久美子を後押し。

 

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「私、上手くなりたい。麗奈みたいに。私、麗奈みたいに特別になりたい。」
「私、ユーフォが好き!」

 

 夏の昼の熱に浮かされたような焦燥(それはそれで美しい)から、夏の夜の優しさへ、の移行。

 オーディションでの麗奈の演奏を聴き「上手くなりたいという熱病」に冒され、一度は麗奈と「同質」になりたいと欲した(月に手を伸ばした)久美子が、自分だけの「好き」を見つける。「 "特別" になりたいから上手くなりたい」から「ユーフォが "好き"だから上手くなりたい」へ。

 久美子の「ユーフォが好き」は、第11回の中瀬古香織のセリフ「(トランペットは)上手じゃなくて、好きなの」と呼応していそうですね*2。オーディションでは麗奈の演奏に拍手した久美子だけど、そしてその気持ちは変わらないけれど、久美子自身はオーディションに敗れた香織サイドのポジションだった。

 また京アニ作品がらみでたとえてみれば、奉太郎ではなくて、里志の視点から語られた『氷菓』、遙ではなくて真琴の視点から語られた『Free!』の物語でしょうか。

 いっぽう滝先生は元気を取り戻した久美子に、こんどはすかさず「指導者」としての顔で「あなたの ”できます” という言葉を、私は忘れていませんよ」。なんという人たらし...。

 

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 ふたつのやりとりはともに「階段の上の滝先生、下の久美子」という同一の位置関係で行われますが、同一であるからこそ、「個人」としての滝昇と「指導者」としての滝先生、ふたつの側面の違いが際だつ演出になっていました。正面から久美子の目を見据えて、意識的に口にされる言葉と、後ろ姿をみせながら何気なく口にした言葉。

 作品のなかで、滝先生がこういうプライベートの側面を垣間見せたのは、これがほぼ初めてですよね。


                      ◯


 イルカが超音波を出して自分や相手の位置を把握するみたいに、久美子がさまざまなタイプの「他者」との関係性を通して、現時点での自分のポジションやカタチを発見していった第12回。

 麗奈のような「特別」にはなれないけれど、自分の「好き」を確認できた。いまは「満月」には手が届かないけれど、「半月」なら掴むことができた。半分の月は「運命の神様の "ウインク” 」。

 

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「"努力した者に神様が微笑む” なんてウソだ。だけど、運命の神様がこちらを向いてウインクをし、そして、次の曲がはじまるのです。」

 

 主人公・久美子の個人的な物語としては、とりあえずはひと区切り、ここで終ってもOK!ぐらいの到達感があるエピソードでした。いや、まだ終ったら困るんだけど。

 

 

*1:公式サイトで、石原立也監督は中高生を主人公にしたアニメを作ることに関して「心身ともに大きく変化していく時期で、それは花開く蕾や、昆虫の羽化を、ビデオの早回しで見るような面白さがあると思います」とコメントしていました。

*2:このセリフを言った時点で、香織は自分の才能の限界(かなり上手くはあるが「特別」ではない)を理解していて、それでもトランペットが「好き」だからやるんだ、という第12回で久美子が至ったような認識に到達していた、ともとれます。ただその一方で、まだそこまでは割り切れない、という気持ちの揺らぎが描かれたオーディションのエピソード。