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『響け!ユーフォニアム』を振り返る 後編:ポスト・キョンとしての黄前久美子

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前編はこちら

 『響け!ユーフォニアム』シリーズ全編に加えて、原作小説1巻(アニメ最終回までに相当)、そして『涼宮ハルヒの憂鬱』(アニメ版)のネタバレがありますので、ご注意ください。

 

◯B:『ハルヒ』的主人公像の「次」の提示

 前編では、久美子と麗奈の関係を起点にして描かれたテーマA:「他者の異質性の肯定」を振り返ってみました。つづいてこちらの裏(?)テーマ

B:『ハルヒ』的主人公像の「次」の提示

 以前の記事(「異質な他者」の可能性 )で「『涼宮ハルヒの憂鬱』で例えると、麗奈はヒロイン=ハルヒで、久美子はちょっと醒めた主人公=キョンのポジション」みたいなことを書きました(※この記事では、女性主人公=久美子と、ヒロイン=麗奈をあえて分けて扱っていきます)。

 今回はそこをもうちょっと突っ込んで、久美子は主人公のあり方として、キョンの「次」を体現していたのでは?という話。

 これだけだとちょっと意味不明ですけど、順番にみていきましょう。まずは、あらためて『ハルヒ』と『ユーフォ』の関連について。

 

ハルヒ~六花~麗奈ライン

 第8回で「特別になりたい」「他の奴らと同じになりたくない」とブチあげた麗奈様が、「ただの人間には興味ありません」というリアル中二病涼宮ハルヒ的なヒロインだ、という点については、放映当時もいろいろと言われていました(一流を目指す人って、多かれ少なかれそういう面はあると思います)。

 前編でリンクをあげさせてもらった相羽さんの記事でも指摘されている通り、ビジュアル面でのハルヒと麗奈の共通点は、なんといってもこれですね。ストレート、時々ポニテ

 

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 普段はストレートのヒロイン、ハルヒ / 麗奈がポニテにするのはどんな時かというと、主人公(キョン / 久美子)の気を惹きたいとき。ハルヒは言うに及ばず、麗奈がポニテにするのも、久美子の気を惹きたい場面です*1

 第8回の山頂デート、最初から山登りするつもりだったにもかかわらず、白ワンピにヒール靴という「勝負服」でやってきた麗奈は、久美子の前でポニテに。そして、中学時代のコンクールの話を蒸し返すときに、わざわざそのポニテを触って強調しながら喋る。

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「中3のコンクールのとき、本気で全国いけると思ってたの?って訊いたんだよ。性格悪いでしょ。」

 

 「アタシに酷いこと訊いてきたとき、ポニテだったよね?」という久美子へのアピール。演出細かいなあ。でもその性格の悪さが好きだったんよ♡と。

 そして最終回でも、久美子と旧友・あずにゃんが手を振りあっているのを見るや、

 

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「結ぶの手伝って。キツめがいい。」

 

 あの、先日はご自分で結んでましたよね?

 愛が…重い!

 

                      ◯

 

 ここで、ハルヒを源泉と見た場合の京アニ中二病患者の系譜(?)を確認しておくと、明確な形では「涼宮ハルヒ小鳥遊六花~高坂麗奈」というラインが浮かび上がってきます。

 まずハルヒ~六花。これ有名ですね。

 

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 OPラストの立ち位置もポーズも、六花はハルヒの反転です。六花はハルヒのような神パワーを持たない「ただの人間」の中二病患者=ハルヒの反転バージョン、という表現。

 続いて六花~麗奈を繋ぐラインは、OPでの麗奈の中二病ポーズ。

 

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 くっ、左目が…。

 こちらも、ハルヒ~六花同様に左右が入れ替わっていますが(右目→左目)、これは「麗奈は六花みたいなファンタジー趣味の入った中二病じゃないよ」ぐらいのニュアンスでしょうか?(麗奈はもっと本質的な意味での中二病)。

 この3作=『涼宮ハルヒの憂鬱』『中二病でも恋がしたい!』そして『響け!ユーフォニアム』は、すべて石原立也監督作品。上に画像をあげたOPも、すべて石原監督がコンテを描いています(京アニの「中二病担当監督」?)。

 そして『ハルヒ』と『ユーフォ』には、ともにキャラクターデザインを池田昌子が担当、という共通点も(池田昌子がキャラデザを担当するのは『ハルヒ』シリーズ以来のこと)。

 くわえて『ハルヒ』の制服と、『ユーフォ』夏服の配色はちょっと似ています。イメクラっぽい独特な白×水色。

 

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 原作小説(公式サイト)2巻の表紙イラストでは、北宇治の夏服はオーソドックスな白×濃紺のセーラー服(『氷菓』みたいな感じ)なので、アニメ版『ユーフォ』の夏服の配色が『ハルヒ』に寄せられた可能性はあるかも。

 『ユーフォ』の劇中で制服が『ハルヒ』っぽい夏服に切り替わるのが、麗奈がハルヒ的な側面を全面開陳する第8回から、というあたりも計算?

 


                      ◯


 スタッフ面での「ハルヒ~六花~麗奈ライン」の話をもうちょっと続けると、『ユーフォ』でシリーズ構成・脚本を担当した花田十輝は、過去の京アニ作品だと『日常』『中二病でも恋がしたい!』『境界の彼方』でシリーズ構成として参加しているのですが。

 『日常』は除いて、『中二恋』と『境界の彼方』は、ともに『ハルヒ』のバリエーション、発展系的な側面を持った作品でした。

 『中二恋』と『ハルヒ』の類似点はわかりやすくて、どちらも「日常」に憂鬱を感じて「非日常」を希求するヒロインが、主人公との関係を通じて「日常」をポジティヴに読み替えていく物語。

 「ただの人間」である六花をヒロインに据えた『中二恋』は、『らき☆すた』『けいおん!』というふたつの日常系作品を通過した京アニの、日常サイドからの『ハルヒ』への再アプローチ。物語スタート時点の主人公(キョン / 勇太)のキャラ造形にも「かつては非日常を夢見たけれど、現在は意識的に日常に着地しようとしている」という共通点がみられます。

 そして『境界の彼方』。

 世界を滅ぼしかねないパワーを持った存在を監視するための機関が「学校の部活(文芸部室)」の形態をとっている、みたいな『ハルヒ』設定との共通点に加えて、全体としてこれが『涼宮ハルヒの消失』の眼鏡長門を救済する物語だった…という点については、相羽さんのこちらの記事を読んでいただきたいです。これ、ホント凄い↓

 

境界の彼方/第12話(最終回)感想(少しラストシーンの解説含む):ランゲージダイアリー

 

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 (左:『涼宮ハルヒの消失』 右:『境界の彼方』)

 

 つまり、花田十輝京アニで(最初の『日常』は除くけど)『中二恋』『境界の彼方』と、連続して『ハルヒ』のバリエーション的な作品を手掛けている。

 そして『ユーフォ』もまた、ある程度まで『ハルヒ』を意識して作られた(原作小説のアニメ化にあたって『ハルヒ』文脈が導入された)作品だった、というのが、この記事で書きたいことです。

 

◯ポスト・キョンとしての黄前久美子

 『ハルヒ』と『ユーフォ』の関連についての前置きが長くなってしまったけど、やっとここでキョンと久美子の話に移ります。

 最初にも書いたように、麗奈がハルヒ同様に現状に満足せず理想を追う「中二病ヒロイン」だとすれば、久美子は何ポジションか?というと「キョン系主人公」でした。

 いまひとつ冴えない表情で日常を送りつつ「ま、現実はこんなもんか」と受け入れようとしていて、友人の前向き発言にも「そんなに簡単じゃないよ」なんてセリフを返す、ちょっと醒めた主人公。

 久美子のこうした態度は、とくに第1回で強調されていましたね。冒頭の「本気で全国いけると思ってたの?」はもちろん、朝、鏡の前で身支度を整えるときの表情とか、先生にスカート丈を注意されたクラスメイトの姿をみたときの「ま、私もあわせとくか」という小狡さなんかも。

 

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 そんなふうに生きていた久美子が、麗奈との関係のなかで「こういう “輝き” があり得るんだ」という気付きを得る、というのが第8回以降に前にでてきた展開でした。

 ボンヤリと生きていた主人公が、強烈なヒロインに触発されていく…「麗奈  / ハルヒ」「久美子 / キョン」という対応関係がいよいよ本格浮上してくるわけですが、でも両作品には大きな違いもあります。

 その違いは「輝き」をどこに求めるか?という部分で、これは『ハルヒ』の場合だと、二者間の相互承認(恋愛)でした。「あなたは私にとって特別だ」というキョンからの承認が、ハルヒの憂鬱の源になっていた「自身の無価値観」を払拭する。キョンのほうも、ハルヒに承認され(口には出さないけど、あのポニテは結果的にキョンが自分にとって特別であることの表れ=キョンへの承認になっている)、彼女に引っ張り回されることで、モノトーンだった日常が「輝いて」いく。

 いっぽう『ユーフォ』第8回でも、久美子と麗奈の承認関係が成立するんだけど、それは久美子が「輝き」を手にする決定打にはならなくて、あくまで「輝き」の存在に気付き、それを渇望するようになる「きっかけ」なんですね。

 ここが以前『異質な他者の可能性』という記事を書いたときに、まだ私にはきちんと見えていなかった部分で、これは「久美子と麗奈の関係が二者間で完結していない」ことに関わってきます。

 

 

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 これは以前の記事にも載せた図で、久美子と麗奈の関係を「輝きの相補的関係」と書いています。

 でも、第11回以降の展開をみると、とくに久美子にとっては麗奈との関係は「輝き」に気付くきっかけにはなっているけど、「輝き」を全面的に供給してくれるものではないんですね。ここの見通しが甘かった。

 久美子と麗奈がはっきりと同性愛的に結ばれていれば、ハルヒキョンのような二者関係が成立します。でも、麗奈は久美子に濃~い重~い友情を示しながらも、異性としての滝先生を求めているし、前編でも書いたように、久美子のほうもおそらくは秀一のことが好きっぽい。

 ともに異性愛者である、同性の「主人公」と「ヒロイン」の関係が二者間で完結せずに、外にむかって開いている(二者間の共依存に陥る危険が回避されている)ことが象徴するように、久美子は麗奈からの全面的な承認は受けられず(そして久美子のほうも求めておらず)、久美子は自分なりの「輝き」を探す必要がある。

 ここが、主人公としてキョンと久美子の置かれた立場の違いです。「輝き」の獲得において、久美子はキョンとは「別解」、他者からの承認による「輝き」獲得の「次」を提示する必要がある...という意味での「ポスト・キョン」的主人公、黄前久美子*2

 自分が「在ること(being)」への承認はもちろん大事で、その段階を経て、行動=「すること(doing)」に移行していく、というストーリー展開。

  

 

◯久美子の「鏡」としての香織

 その「行動」にあたる部分が描かれたのが、第12回(感想)。久美子は、自分とは違う麗奈の「異質性」に触発され、自分も「麗奈みたいに特別になりたい」(=麗奈のように輝きたい)と必死の努力をしますが、挫折。その後、自分なりの「輝き」(=「ユーフォが好き」という気持ちの自覚)を掴みます。

 久美子の挫折は原作にはないオリジナル展開で、これはキョン的な主人公のあり方の「次」を描くために、アニメ化にあたって挿入されたエピソードだったと思います。

 原作は麗奈vs.香織のソロ対決の決着から、そのままコンクールになだれこんでいくのですが、アニメでは第11回のソロ対決を、第12回の久美子の挫折エピソードの前哨戦として位置づけ・再構成しているんですね。これは久美子にとってはけっこう酷な展開です。

 第11回のオーディションでは、強い意志をもって麗奈の演奏に拍手をおくった久美子。

 

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 でも第12回で久美子に突きつけられたのは、久美子は奏者としての才能的には、麗奈に敗れた香織サイドの人間だった、という事実でした。奏者としての麗奈は、久美子にとっては手の届かない「特別」な存在で、「特別」になれない久美子にとっての等身大の「鏡」は、麗奈に敗れた香織のほうだった。

 第11回で香織が麗奈に敗れたのと同じように、第12回では久美子が麗奈に(奏者としての実力的に)突き放されます。

 

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「私、上手くなりたい。麗奈みたいに。私、麗奈みたいに特別になりたい。」

「じゃあ私は、もっと特別になる。」

 

 そして麗奈の「もっと特別になる」というセリフのあと、低い位置で戯れて飛んでいた2匹の蝶のうちの片方が、上空に飛び去っていくというダメ押し演出。

 

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 第4回あたりまでの、無気力にやさぐれていたころの中川夏紀が「久美子が勇気を出せなかったとしたら」の「if」の姿、ということについては何度か書いてきました(最終回の、ふたりのポニテでの顔合わせはジーンときましたよ)。

 そして今度は、必死な努力の結果、自分は奏者としては麗奈のようにはなれないことを思い知った久美子の「鏡」が香織になっている*3

 だから、第11回の香織と第12回の久美子が、自分の楽器に対して口にした「好き」の気持ちは対応しているんですね。「特別」になれない者なりの輝き=「好き」という気持ちの自覚。

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香織 「(トランペットは)上手じゃなくて、好きなの」(第11回)
久美子「私、ユーフォが好き!」(第12回)

 

 「好きなの」と言う香織の頭が半分影に隠れているのは、ひょっとして久美子が掴んだ「半月」(=「運命の神様のウインク」)と対応してるんだろうか。シリーズ演出の山田尚子か監督の石原立也によって、シリーズ全体のイメージ面が統一されている可能性はありそう。

 そして同時に、香織は久美子の未来の姿でもあるかもしれなくて、「上手じゃなくて、好きなの」と言った去年の香織は(もしかしたら何らかの形での挫折を経て)いったん「特別になれない者なりの輝き」=「好き」の獲得に至っているはずです(そこには、田中あすかの存在が絡んでいたりするんだろうか?)。

 でも、やっぱりソロを諦めきれずに、麗奈のほうが実力は上であることは理解しつつもすんなりとは納得できずに、その気持ちが公開オーディションにつながっていく。「特別」になれないとしても「好き」だからやってるんだ、という気持ちと、「好き」だからこそ負けたくない、という気持ちのせめぎ合い。

 

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「 "努力した者に神様が微笑む” なんてウソだ。だけど、運命の神様がこちらをむいてウインクをし、そして、次の曲がはじまるのです。」(第12回)

 

 「運命の神様のウインク」はあくまで「半分(半月)」なので、「好き」の自覚で救われはしても、完全に「悟った」わけではない(高校生で悟っちゃうのもどうかと思うし)。揺れることもあるよ、ということが、久美子のいわば「1周先をいっている」香織によって示される。ここまで織り込まれているのも、この作品の凄さだなー、と。

 自分の「好き」を自覚した久美子も、もしかしたらこの先、香織のように揺れることがあるかもしれない。そのたびに「好き」と「悔しい」のあいだを揺れ動いていくのだろうと思います。

 

◯合奏シーンでの、香織と久美子のつながり

 香織と久美子が同じ境地に至った、という点は、最終回の合奏シーンでも表現されていました。麗奈のソロを、どこか寂しそうな、でも穏やかな表情で聴く香織。これはエンジェル先輩ですわ…。

 

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 その香織から久美子へのカットが、両者の至った境地の類似性を強調するようにフェードでつながれる。

 フェードインやフェードアウトは、あたり前だけど無意味に使われることはありません*4。この約6分間の合奏シーン*5でも、前のカットと次のカットの関連性を強調したい、ここぞという4個所でしか使われていないです。

 まず最初は、久美子の演奏する姿から、モノローグとともに回想に入るところと、出るところ(ここは久美子の心象ですよ、というつながり)。

 

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 続いて、楽譜のメッセージ(それぞれに応援している人がいる、というつながり)。

 

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 低音パートの難所が成功して、ハンドタッチする葉月&夏紀と、タンバリンを叩く仕草(外で応援する部員と、中で演奏する部員のつながり)。

 

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 最後に、麗奈のソロを聴く香織の表情から、久美子の表情へ(「特別」にはなれない両者の立場、至った境地のつながり)。

 

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 そして、そんなふうに久美子が自分の「好き」という気持ちの自覚に至る契機になったのは、前編にも書いた通り、必ずしも友好的ではない姉や葵=「異質な他者」との摩擦だった…というところで、再びテーマA:他者の「異質性」の肯定につながっていく。

 

「異質な他者」麗奈の輝きにあこがれるが、挫折

自分なりの輝きを掴む

でもその契機となるのは、やはり「異質な他者」の存在
 

 プラスの異質性とマイナスの異質性が、どちらも自分を触発する可能性を秘めている、という構成。

 この「異質な他者」の可能性をあぶりだすためにも、そして『ハルヒ』的な「輝き」獲得の手順=相互承認の「次」のステップを描くためにも、原作にはない久美子の挫折エピソードが必要だった、ということだと思います。

 

◯むすび

 という感じで、京都アニメーション文脈の最新型を見せてくれたストーリー的にも大満足だった『ユーフォ』なのですが、映像・演出面も凄かった。

 もう、明らかに「違う」としか言い様のないシロモノを毎週みせてくれた作品で、今まさにテレビアニメの「表現」が、新しいフェイズに突入していく様をリアルタイムで目撃しているッ!という興奮を感じ続けた3ヶ月間でした。大マジで。

 あらすじで説明しようとすると「テンプレの部活もの」という印象になっちゃうんだけど、あきらかに「違う」。小津安二郎の映画が、あらすじだけ取り出すとベタベタのホームドラマだけど全然「違う」とか、アラバマ・シェイクスの音楽が、ルーツ・ミュージックをベースにしながらも「新しい」のと同じように「違う」し「新しい」のです*6

 新番組予告で大粒の涙をこぼす麗奈の姿をみたときは、正直「この作風乗れるかなー?」という気分もあったんですが(直球の「燃え」や「泣き」に引いちゃうタイプなので)、いざ蓋をあけてみれば、思いきりハマッてしまいびっくり。チンケな先入観がブッ壊される快感。

 自分のなかのテレビアニメの基準が更新されてしまった作品でした。制作陣に感謝です。

 

◯おまけ

 『ユーフォ』最大の萌えポイント。

 

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 秀一の熱演を聴いて、目元に優しい笑みを浮かべる滝先生。音をきくと分かるんですが、ここ、秀一がひっかかって「練習でできない事は、本番では絶対にできません」と滝先生に責められていた個所なんですよね…。

 結論。滝×秀!(なんかすみません)

 

*1:第4回の、みんなで校庭をランニングするみたいな場合のポニテは除く。

*2:もちろん『ハルヒ』以降も、様々な形での「輝き」獲得は模索されてきたわけですが、京アニ設立30周年作品という位置づけだったであろう『ユーフォ』で、あらためて京アニの歴史のなかで大きな作品だった『ハルヒ』に立ち返って主人公像のアップデートを計った、という感じでしょうか?

*3:原作の夏紀はポニテじゃないし(ショートカット)、原作では久美子の挫折エピソードがない…ということで、夏紀と香織を久美子と対応させたのは、アニメ化に際してのアレンジでした。この操作によって話の構造がより立体的になっており、エンタメとしてうまい操作だなーと思います。原作の久美子はアニメよりもさらに能動的じゃないところがリアルで、そこが小説版の面白さでした。

*4:カサヰケンイチが、カットじゃなくてシーンつなぎに関して「意味のない安易なフェードイン・フェードアウトを見ると、もう止めちまえ!って思う」みたく言っていましたが(『青い花 公式読本』)、山田尚子は『ユーフォ』に限らず、意味のある使い方が上手いなあ、と思います。

*5:やっている方も多いと思いますが、音を消して観ると、あらためてこの6分間の合奏シーンは感嘆のため息連発もの。もちろん多くの方の指摘通り、「輝き」に加われない梓の孤独などがきちんと織り込まれているところも超大事なポイントです。シーンをひとつの感情だけでは塗りつぶさない重層性。

*6:最終回の合奏シーンの演出にもあらわれていた通り、北宇治吹部は「メルティング・ポット」ではなく「サラダボウル」として描かれていた、と思います。 → 「人種や出自の問題に関して、かつて80年代から90年代には、誰もがハイブリッドになることで、その問題を超えていこうという考え方がありました。でも、ここ10年はむしろ、それぞれがそれぞれのルーツを明確に意識し、保持し続けながら、互いのハーモニーを探り出すという方向に向かっている。」何がすごいの?どこが新しいの?今年、全米No.1に輝いた唯一のインディ・バンド、アラバマ・シェイクスのすべてを解説させていただきます:前編 | the sign magazine