ねざめ堂

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雑感/どうして記事が長くなってしまうのか?他

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 かなりとりとめのない雑感、月末の反省会的記事。なぜか一瞬『魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』のネタバレがあります。

 

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丁稚:番頭さん、ちょっとこの記事読んでみてくださいよ。

 

(15年2月1日追記:アニメ専門サイト『AniFav』の『たまこラブストーリー』考察記事リンクを載せていたのですが、サイトの閉鎖にともない、読めなくなってしまっていました。良い記事だったので残念!)

  

番頭:ん、なんだ?

丁稚:このあいだ、私が書いたこんな記事(北白川たまこの孤独と、その解消 )があったじゃないですか。この中で、『たまこラブストーリー』を『ベルリン・天使の詩』に例えたんですけど、この記事でも同じ例えをしていて。

番頭:ほお。

丁稚:嬉しかったですよ、視点が近い記事を読んで。おこがましいけど、「ですよね!」って勝手に思っちゃったりして。

番頭:どれどれ。…うーん…

丁稚:あら?なんか微妙な反応…

番頭:や、たしかに後編は、部分的に着眼点が被ってるところはあるな。『たまこま』では商店街をある種超越的、天使的な視点から見守っていたたまこが、もち蔵の告白で「いちキャラクター」になるのを『ベルリン・天使の詩』になぞらえてるあたり。

丁稚:でしょう?

番頭:でもだからこそ、文章力とか構成力の差が残酷なまでに際だってるぞ。こっちの新しい記事は、たまこの変化を「ポスト日常系」と関連づけるっていう射程の長さもあるし。

丁稚:え?いやいや、これはプロが書いた記事なんで、そんなシビアな比較をされても困るんですけど。

番頭:比べたのはお前だろ。お前の記事は、ほぼ作品内の解釈に留まってるしな。

丁稚:いやだから、ちょっと目のつけどころが似てたから嬉しいなっていうだけで、文章の全体的な方向性は違うっていうか...

番頭:(無視して)だいたいお前の記事、何文字あったっけ?

丁稚:9千字ぐらいです…

番頭:作品内の解釈に留まってる文章のわりに長いよな...ちょっとそこ座れ。

丁稚:え、なんです?

番頭:反省会。

丁稚:(どうしてこんな事に…)

 

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丁稚:いや、一応いつも3千字あたりを目標にして書き始めてるんですよ。ブログの文章は長くて3千字が限度だって、どこかで読んだので。

番頭:それがなんで3倍になってるんだよ。しかも元ネタの記事は3万字とか、ロキノンの巻頭インタビューかよ。なんか赤裸裸に激白しちゃうのかよ。

丁稚:なにも激白しないし革命も起こしませんよ。

番頭:小説ならともかく、「記事」でこの長さはなぁ。

丁稚:整理・要約力がないんですよね…。

番頭:それに加えて、アレだな。いろいろ盛り込もうとし過ぎだな。1本の文章のテーマは1つに絞れって、学校で習わなかったか?

丁稚:あ、それ言われました!小学生のとき、作文がいつも規定の枚数に収まらなくて、「丁稚くんは、いいたいことをひとつに絞ったほうがいいね」って高橋先生が。

番頭:いい先生じゃないか。

丁稚:ぼくの初恋の人です。

番頭:知らねえよ。心の底からどうでもいいよ。

丁稚:いや、自分の中では最終的にテーマはひとつで、一応全部つながってるんですよ。でも、「これを説明するには、まずこれを説明しなきゃ」ってやってるうちに、連鎖的にどんどん文章が長くなっていくっていう。

番頭:ああ、トリミングが下手なんじゃないか?

丁稚:トリミング?

番頭:ほら、よく「人間は ”物語化” することで物事を理解する」なんていうだろ。そのときの、物語化する過程でのトリミング。

丁稚:もうちょいくわしく。

 

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番頭:たとえば「本能寺の変」っていう史実を理解しようとするとき、「光秀と信長という人物がいて、本能寺の変が起きた」っていうのは単なる「点」としての知識の羅列にすぎないわけだよ。

丁稚:光秀が信長に「反乱する」という行動をとったのが「本能寺の変」ですよね。

番頭:うん。もっといえば、「”なぜ” 光秀は信長に反乱するという行動を起こしたのか?」という理由を考えて、点と点を「線」でつないで理解しようとするのが物語化だな。すごい俗流の説明だけど。

丁稚:ああ、そういう。「こうだから、こうなった」っていう流れを考える作業ですね。

番頭:それで、「本能寺の変」って、「なぜ」光秀が信長に反旗を翻したのか?っていう部分での定説はないんだよな。

丁稚:諸説あるみたいですね。怨恨説、野望説、ノイローゼ、はたまた黒幕がいたとか 。

番頭:そのなかの怨恨説ひとつとっても、人が人を憎む理由って「これ」っていう明白で大きな原因のほかにも、いろいろ細かい事の積み重ねがあったりする。

丁稚:会社や学校の人間関係なんかを考えると、そうですね。

番頭:で、憎まれた側の信長がどうしてそういう人間になったのか?っていう原因も、ひとつには特定できない。生来の気質、育った環境、受けた教育。さらに信長の親世代のこと、光秀側のこと…そうやって細かくみていくと、怨嗟説の視点からだけでも、「本能寺の変」っていう出来事が起きるうえでの要素は無限にあるわけだ。

丁稚:でも、それじゃキリがないですよ。

番頭:そう。だから、どこかでそういう細々とした要素を切り捨てて、主な原因を取り出すわけだ。信長は「とにかく」暴君で、光秀はキレてしまったと。こういう風に、細かい要素を切り捨てる作業がトリミング。

丁稚:いきなり雑に切り捨てましたね。

番頭:トリミングはべつに正式な用語とかじゃなくて、平野啓一郎が本でそう表現してたのをパクったんだけどな。

丁稚:物事が「なぜ」起きたのかを物語化して理解するには、ある程度そのトリミングが必要になるんですね。うん、「なぜ」って好奇心をかきたてますよね。

番頭:好奇心もあるし、「なぜ」の部分がわからないと人間は不安になるっていうのもある。行動原理がわからない人間って、対処できなくて怖いだろ?『羊たちの沈黙』のレクター博士とか。

丁稚:ああ、あれは怖い。それで、シリーズを重ねてレクターの内面が説明されていくと、怖くなくなっていきますよね。

番頭:「物語」が語られていくから、理解できるキャラクターになっていっちゃうんだよな。

丁稚:『ハンニバル』の原作読んでけっこう唖然としましたよ。あえての方向性なんだろうけど、できればレクター博士には不可解でおっかない存在であって欲しかったです。

番頭:時事ネタだと、少女誘拐犯の部屋に美少女アニメのポスターが…っていうテレビのコメンテーターの発言も、不安を解消したいっていう動機からくる物語化のひとつかな。というか、そういう不安を抱える層にアピールするためのコメント。

丁稚:「自分には理解しがたい行動をとる奴がいる」っていう「わからない」不安を手っ取り早く解消するために、「誘拐」と「アニメ好き」という点と点を線で繋いじゃったわけですね。

番頭:まあ、本物のロリコンが代償行為として二次元キャラに「結果的に」ひきつけられることはあるだろうけど、その逆ルートで二次元キャラ好きが「原因で」リアルの犯罪まで行く、って考えるのはかなり飛躍がある感じだよな。

丁稚:原因と結果を逆に考えちゃうっていう。昔からこういうのはなくなりませんね。オジー・オズボーンのレコード聴いたから自殺したんだとか…

番頭:また懐かしいネタだな。「オジーのレコードには自殺を促すサブリミナル効果が仕込まれている!」って主張してる狂った弁護士いたよな。

丁稚:あれ、おかしかったですね。それに対してオジーが「俺が科学者にみえるのかね?」って返したりして。

 

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番頭:話しを戻すと、大きい話でいえば、歴史とか国家は物語だし、身近な話でいえば、家族とか自分の生い立ちもひとつの物語だな。

丁稚:いろいろ自分でトリミングしてそうですよね。

番頭:それって本当は、ひとつの説にすぎないわけだよ。無数にある要素から、いくつかを選択して1本の物語としてまとめてるわけだ。

丁稚:たしかに、自分の学生時代に対してもってる物語っぽいイメージと、就職の面接なんかで訊かれる「学生時代の活動は?」っていう質問に答えて出てくる物語のあいだには差がありますよね。でも、どっちもウソをついてるわけじゃなくて、1本の物語をまとめるにあたって、選択している要素が違うんですね。

番頭:でも、お前の場合「この要素もあったし、これも関係あるかもしれないし」というのを切り捨てられない、つまりトリミングできずにいろいろ入れようとするから文章が長くなる、と。

丁稚:そうか、厳密にいえばいろいろ絡みっている要素のなかの、どれを抜きだして説明すれば人に話が伝わるかの取捨選択がヘタなんですね。なにかメンタルの問題なんだろうか…はっ、幼児期のトラウマ…!?

番頭:頭が悪いだけだと思うぞ。

丁稚:その話で思い出したんですけど、前に雑誌で庵野秀明のインタビューを読んでたら、インタビュアーが「庵野氏は子供のころから絵に情熱を持っていて、それが昂じてアニメ業界に入った」っていうあらかじめ用意したストーリーに沿ってインタビューを進めようとしていて、それにたいして庵野さんがメチャクチャ怒ってたんですよ。

番頭:ほう。

丁稚:「そうやって物語にしないでください!」って。「私がアニメ業界に入ったのは単なる成り行きです!」

番頭:庵野さんらしいな。

丁稚:物語をつくる立場の人だからこそ、そういう安易な「物語化」がガマンできなかったのかもしれないですね。そういえば、宮崎駿もやっぱりインタビューで同じような怒り方してるのを読んだことがありますよ。

番頭:物語化は大事だけど、ヘタすると物事をねじ曲げたり、単純化・矮小化するっていう側面もあるからな。どこかで「一応こう理解してるけど、これってあくまで仮説だよな」って意識はあったほうがいいかもな。

丁稚:そうだ、それで思ったんですけど、私が『たまこラブストーリー』を好きなのって、トリミングが雑じゃないところなんですよね。

番頭:というと?

丁稚:あの映画でたまこが変わっていく理由には、もちろんいくつかの大きなポイントはあるんだけど、その他の細々としたこと、例えば結婚して出ていった銭湯の娘に再会したとか、肉屋の夫婦が仲良くしてるのを遠くから見かけたとか、そういう細かい要素もちゃんと描かれてるんですよ。そういう細かいことが降り積もっていって、やがてたまこが変わる、という意味で、トリミングが丁寧なんです。

番頭:ああ、「こうなって、こうなった」式の因果関係でストーリーが進んでないんだな。

 

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番頭:で、そんな話しをしてる間にもどんどん記事が長くなっていくわけだが。

丁稚:あああ…

番頭:お前の記事への「長い」以外のツッコミだけど、あの記事は要するに「”たまこま” の日常系アニメ的な切り口からは、日常の安定という”求めるもの” に向かうたまこのストーリーアニメ的な行動は断片化されて、たまこの持つ文脈、行動の意味が見えにくい」って内容だろ。

丁稚:(要された…)

番頭:手法としては『風の歌を聴け』とかに近いよな。

丁稚:春樹ですか?どこら辺が?

番頭:あの小説も、水面下では鼠や指のない女の子の「ストーリー」がうごめいてるわけだけど、それを久しぶりに帰省した「僕」の視点を通すことで、わざと断片化するっていう手法で語られていくだろ。

丁稚:そうか。でも、手法は近くても意図はだいぶ違うと思いますよ。

番頭:『たまこま』であの手法がとられたのには、たまこの「ストーリー」が表面に出てしまうと、描きたい「場」としての商店街が背景に引っ込んでしまうから、っていう理由があったよな。お前の解釈によれば。

丁稚:それに対して『風の歌を聴け』は、物語の解体とか、ベタっとした日本的な情緒、情念への反感とかが背景にありそうですね。あと、村上春樹が当時バーを経営してて、書く時間が細切れにしか取れないっていう物理的な制約も大きかったみたいだし。

 

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番頭:で、お前の記事を読んでて一番ひっかかったのは「たまこと商店街の人たちの視線のズレ」のところだな。

丁稚:どのあたりが気になりました?

番頭:お前の記事だと、「たまこの視線は商店街という ”基盤” の維持に向かってるのに、商店街の人々の視線は、商店街を守ろうと “がんばっているたまこ” に向いている。目指している方角は同じなんだけど、目的は違う、ゆえに皆と視線を共有できてないたまこは孤独だ」ってことだったよな。

丁稚:そんな感じです。

番頭:でも、その「ズレ」って商店街の維持のためには、必然だった気もするんだよ。

丁稚:というと?

番頭:うさぎ山商店街って、いろんな思想の人が住んでる場所だろ。

丁稚:ええ、いろいろな立場の人が共存できてるのが、あの商店街の魅力ですね。

番頭:でも、その共存ってたまこの存在を前提にしてるんじゃないか?

丁稚:ん?

番頭:もしも「商店街の維持」に、たまこと同じくみんなの視線が向いたとすると、みんな思想が違うわけだから、維持の方法をめぐって対立が起きるだろ。

丁稚:ああ…たしかに、少なくとも豆大と吾平は間違いなく対立しますね。

番頭:保守と革新だからな。で、その「維持の方法」っていうところからみんなの視線を逸らしてるのが、「頑張ってるたまこのため」っていう意識なわけだ。

丁稚:たまこのためなら、皆が思想の違いを乗り越えて一致団結して協力できる、っていう。

番頭:そう、たまこの人徳な。つまり、あくまでお前の解釈にのっとっていえば、『たまこま』での商店街の維持のためには、たまことその他の人たちの視線の「ズレ」が必要なんだよ。

丁稚:…そうか!あの記事では「たまこは鹿目まどかのように超越的な力をもたないから、周囲の協力をあおいで商店街を維持しようとする共同体型ヒロイン」みたいな事を書いたんだけど、その視点からすれば、たまこも鹿目まどかのような超越的なポジションにいる、とも言えるわけですね。

番頭:ん?...まあ、オーバーにいえばそういう事になるのかな?

丁稚:つまり『たまこま』でのたまこは、アルティメッドたまこなんですよ!

番頭:え?

丁稚:一人だけメタ視点を持っているという孤独に耐えながら、「基盤」を守る。まさに「まど神」ならぬ「たまこ神」じゃないですか!そうだ、私は「たまこ=天使」説からさらに一歩論を進めますよ!『たまこま』でのたまこが人間離れしてるのも当然なんですよ。だって天使どころか「神」ですから!

番頭:・・・・

丁稚:そして『たまこラ』では、もち蔵の告白によって、たまこがその「神」の座から地上に引きずり下ろされる。『たまこラ』は『叛逆の物語』だったんですよ!

番頭:おまえはなにをいっているんだ。

丁稚:そうとしか考えられないじゃないですか!

番頭:これだからあさっての方向に暴走するタイプのオタクは…。『たまこま』は、「顔の見える個人への思いやりが、抽象的な思想への凝り固まったこだわりをほぐして、柔軟な対応を導き出す物語だった」っていう素直な捉え方はできないのか?イーストウッドの『グラン・トリノ』みたいなさ。

丁稚:あ。

番頭:「アルティメッドたまこ」って(笑)

丁稚:(当分このネタでいじられるな…)