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『中二病でも恋がしたい!戀』感想②:「連関天則」の意味するもの

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 このあいだアクセス解析を眺めていたら、「連関天則」のキーワード検索経由でこのブログを覗いてくれる方が時折いるらしいことに気づきました。

 「連関天則」は『中二病でも恋がしたい!戀』に登場するキャラクター、七宮智音が何度か口にする中二用語。劇中でいかにも "作品を理解するためのキーワード" っぽい扱いを受けているので、気になる言葉ですよね。

 以前書いた感想記事の中でもちらっとこの言葉に触れてはいたのですが、ちょっと掘り下げが足らなかったかな〜という心残りも感じるので、あらためて「連関天則」という言葉の解釈オンリーに絞った記事を書いてみることにしました。

 以下の本文では『中二病でも恋がしたい!戀』最終回までのネタバレをしています。ご了承ください。

 

◯前提

 「連関天則」は、智音が創作したオリジナル中二用語のようです。

 「連関」の意味は「関連」とほぼイコールで「つながりがあること」「かかわりあいがあること」。「天測」はgoo辞書先生によれば「自然の法則」。

 なので、字面だけで解釈すると「つながりの法則」ですね。劇中で「中二病をずっと続けていくには?」...という文脈の中でこの用語がもち出されていたことを考慮すれば、「連関天則」は

 

 「ある物事を継続していくために、のっとらなければならない法則」

 

 という感じの意味だと考えられます。智音の場合、「ある物事」はもちろん「中二病」を意味します。

 では、「ずっと続けていきたい」と心から願ったことを実際に続けていくためには、具体的にはどのような「法則」にのっとらなければならないのか?

 『中二恋・戀』のストーリーを通して、智音のなかでこの「法則」の中身、意味するところは更新されます。物語スタート時点の「連関天則」と、最終回時点でのそれは意味合いが変化しており、そしてその変化が、そのまま智音というキャラクターの成長を表している...というドラマ作りになっていました。

 つまり「連関天則」には「旧」「新」2つのバージョンがある。ということで、この2種類の「連関天則」がそれぞれどんなものだったのか?を見ていこうと思います。

 

 

◯旧・連関天則

 まずは中学時代の智音が提唱していたオリジナル、「旧・連関連則」ですが、これはいわば「瞬間冷凍パック」です。

 

ある物事をずっと続けていくには、一切の変化を排除して、一番良いときのままの形をキープしなければならない

 

 博物館や美術館の、ガラスケースに収められた収蔵品をイメージしてもらっても良いかもしれません。いかに今の状態をそのままキープするか?という考え方。

 中学時代の智音が勇太に黙って転校していったのは、このような発想にのっとってのことでした。別れを口にさえしなければ、自分の中では別れは訪れない。別れる前の楽しかったころの状態を「自分の心の中では」キープすることができる。

 

 「別れの言葉を口にすると、その瞬間、それは別れになるんだよ。(…)口にしない限り、別れじゃないんだよ。それが世界の理、"連関天則" だよ。(…)私は未来永劫、変わらないよ」(第3話)

 

  最終回は見ないから、俺の中では『ごちうさ』は終わらないんだ!的発言ですね。

 それだけ勇太との別れが辛かったんだなあ…という切なさもありつつ、でも、これってやはり無理があるんですよね。いくら自分が内面的に変化を凍結しても、外の世界はたえず動き続けているわけで。実際、智音が高校生になった勇太と再会したら、勇太には彼女ができていて、しかもその彼女は、自分と同じような中二病患者。

 以前の感想でも触れたように、作劇的には、六花と智音は「中二病と恋愛、ふたつの価値観の両立を目指すかどうか」という選択肢でルート分岐した「if」的な存在です。

 智音が「両立は不可能」ルートを選んだキャラクターであるのにたいして、六花は「両立は可能」ルートを選択したキャラクター。勇太とともに、恋愛と中二病を両立させようと苦闘する六花は、智音にとっての「こうありえたかもしれない "if" の姿」なんですね。

 なので、勇太と六花の関係を見ているうちに、智音は「あのとき違った選択をしていれば、自分にもこういう未来があったのかもしれない」という可能性に思い至る。結果、彼女の安定は揺らいでいきます。

 一切の変化を拒絶して、一番良いときのままの形をキープする...という「旧・連関天則」のありかたに、智音のなかでクエスチョンマークがついてくる。

 

 

 ◯新・連関天測

 それにたいして、第11話で智音が到達した「新・連関天則」は、

 

物事の本質を守っていくために、部分的な変化を受け入れる

 

というもの。

 

「私は変わらない。未来永劫、魔法魔王少女なんだよ。だから変わらないという名のもとに、溜まっていたものを破壊し、変わらないために強く大きく変わる闘いが必要だったんだよ」(第11話)

 

 「変わらないために、変わる」。わかるような、わからないような...?

 この発想を理解するうえで参考になるのが、批評家・東浩紀のこんなツイートです。

 

 (…)サブカルチャー(日本での用法の)とハイカルチャーの違いって、内容じゃなくて要は受容者の年代的持続性だと思うわけ。

年代的持続性というのはぼくがいま編み出した言葉wなんだけど、要は、「20代のときに好きなジャンルのものを30代40代50代になっても好きで興味の対象を更新できるか」ってこと。サブカルはじつはこの持続性が決定的に弱い。40歳でオタクとか言っても、好きなものは20代のときに見たアニメだったりする。

それで、同じことは残念ながら思想でも起きていて、60代はいつまでも吉本隆明だし50代はいつまでも柄谷行人ニューアカ。多くのひとが「若いころ読んだオレ的に最高なもの」に執着し変わらない。つまり日本では思想がサブカルと同じ構造で消費されているわけだ。これはやっぱり改善の必要がある。

(2014年6月6日)

 

  この内容を「連関天則」に即していえば、時代や状況の変化を無視して「オレ的に最高なもの」に固執してしまうのが「旧・連関天則」。

 いっぽう、興味の対象を更新しながら、自分の好きなジャンルにたいする「年代的持続性」を高めようとするのが「新・連関天則」。

 さすがに説明が上手いというか、以前の記事を書く前にこの発言をしていてくれれば、あの文章ももうちょっとスッキリ書けたのに…とかいう自分勝手な感想はさて置き。

 その記事の中で、私はこんな書き方をしていました。

 

 オタクであることを楽しみ続けるためには、時代の変化にたいしてアンテナをはり、知識と感性をアップデートし続ける、みたいな感じでしょうか?時代との関係性を見失うと、「昔のアニメは良かった」しか言わない懐古厨になっちゃうよ、というような。

 

 

◯智音的に最高なもの

 さて、智音にとっての「オレ的に最高なもの」は、「中学生のときに勇太と一緒に追いかけた中二病的虚構世界」でした。彼女は長いこと、そのバージョンの中二病「だけ」に執着していた。

 智音にとっての中二病は、最高だった「勇太と一緒に楽しんだバージョン」だけを意味していて、それが逆に、彼女がこの先も中二病を楽しんでいくことを妨げる枷になってしまっていたんですね。

 

「やっとわかったの、私が戦うべき相手、戦わなきゃいけない敵が。それは勇者と想い、勇者と追いかけ、勇者と諦めた暗炎龍。それが私の戦わなきゃいけない敵、決着をつけないといけない相手!」(第11話)

 

 「暗炎龍」は、そのころの彼女達が魅了されていた中二病的虚構世界を象徴する存在。その暗炎龍と戦い、いったん葬り去ることで、智音のなかの中二病的虚構世界はあらたにバージョンアップされ、彼女はこれからも中二病を楽しむことができる。

 過去に経験した「オレ的に最高な中二病」への執着を捨てることで、「中二病を楽しみ続ける」という本質の部分を守ることができたわけです。

 もちろんそれは、過去に出会った素晴らしいものを否定することではありません。こんな例え方もできるでしょう。さっき博物館や美術館の収蔵品の話題を出しましたが、保存する対象が「モノ」であれば、そのように変化をシャットアウトする態度は有効です。

 でも、モノではなく、落語や歌舞伎、オペラのような古くから伝わる芸能が昔のままの「型」をキープしようとするだけでは、変化していく時代から取り残されて、やがては消えてしまう。

 そこで「スーパー歌舞伎」のように、その時代ごとの意匠を取り入れた新たな試みが(時に内側からの批判を浴びつつも)伝統のなかに組み込まれて、少しずつバージョンアップしながら現代まで生き残ってきた、という経緯がありますよね。これも「新・連関天測」的な試みです。

 

 

◯むすび

 「連関天則」は「ある物事を継続していくために、のっとらなければいけない法則」。その法則には旧・新の二種類があって、

 

旧:一切の変化を排除し、物事を「瞬間冷凍」することで守ろうとする

新:部分的には変化を受け入れることによって、逆に本質を守ろうとする

 

 両者の大きな違いは、他者・社会・時代などの「外部」へ意識が向いているか。そして、「外部」の変化が不回避であるという事実を受け入れているか。

 以上が「連関天則」の当ブログなりの解釈でした。