ねざめ堂

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『けものフレンズ』感想:人類の夜明けぜよ。

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 正直なところ、第11話まではずーっと「なんでここまで人気なんかな?」と首を傾げながら視聴しておりました『けものフレンズ』(公式サイト)。

 面白さに惹かれてというより、自分には魅力が理解できない人気作を「でも視野を狭めたらアカンよな」という動機で「社会見学」として観ていた感じだったのです(たまにそういうことをやる)。

 でも、最終回!あれで自分がいままで抱いていた『けものフレンズ』への認識が見事にひっくり返されて「ようこそジャパリパークへ!」状態に(おっそい入園だな)。ほんと良い最終回だったね…。

 というわけで、にわかのフレンズによるシリーズ全体の簡単な感想です。さまざまなメディアミックスがなされ、作品ごとに少しずつ設定が異なる『けものフレンズプロジェクト』ですが、当記事はアニメ版の設定・ストーリーを対象にしています。ネタバレがありますのでご注意ください。

 

◯サンドスターとセルリアン

 考察が捗るさまざまなネタが仕掛けられた『けものフレンズ』の作品世界ですが、なかでも大きな仕掛けは「サンドスター」と「セルリアン」。このうち「サンドスター」は接触した動物を「フレンズ化」。いっぽう「サンドスター・ロー」が無機物に接触することで発生する「セルリアン」は、フレンズを本来の動物の姿に戻す…という役割を担っていました。

 サンドスターによるフレンズ化は、「人間化・文明化」作用です。フレンズ化した動物たちは、言葉を話し、簡単な絵文字を解し、ジャパリまんという「加工食品」を主食にすることで自然本来の捕食ー被食関係から脱却し、平和に共存する*1。そのような進化をもたらすという意味では、サンドスターは『2001年宇宙の旅』のモノリスをちょっと連想させる物質です。

 いっぽう、セルリアンが果たしているのは「人間化・文明化」の解除、「自然状態へのリセット」作用。フレンズを吸収して本来の動物の姿に戻していくという、自然界にはないものを打ち消していく存在です。

 人間やフレンズたちの立場から見れば、セルリアンは「敵」「災厄」で、実際過去に人間はサンドスター・ローをフィルタリングして、セルリアンの発生を抑えようとしたようです。でももうちょっと視点を引いて、作品世界全体で捉えると、サンドスターとサンドスター・ロー(≒ セルリアン)はセットで「明と暗」「陰と陽」のような「対」を形成しています。『もののけ姫』のシシ神が生命を与え/奪うように、サンドスターとセルリアンは文明を与え/奪う。

 このような世界設計のもと、「さばんなちほー」に「ヒトのフレンズ」として誕生したかばんは、サーバルとともに人類の文明の創造過程を追体験する旅に出、その道程をとおして「ヒトらしさ」を獲得していきます。

 

◯かばんとピノキオ

 第11話、身を呈してサーバルを救った結果セルリアンに取り込まれた彼女は、「ヒトのフレンズ」から「ヒト」への変化を遂げます。

 これは「出来事」としては、かばんの正体が判明した…ということですが、同時に物語上の「意味」としては、人間的な価値観に基づく行動をとったことで、かばんがセルリアンの体内で「死と再生」を経て「本物の人間」になった…というシーンだったようにおもいます*2*3

 このあたりは『ピノキオ』のクライマックスがベースになっているのかもしれません。木彫りの人形・ピノキオが、ゼペットじいさんをかばった結果死んでしまうけれど、その人間的な行動を讃えたブルー・フェアリーの力によって「人間の子供」として蘇る。「ヒトのフレンズ」から「ヒト」になったかばんには身体的な変化はみられないけれど、彼女のなかでは「自分が何者なのか」というアイデンティティーが確立されています。

 (最終回のラスト、かばんはミライの所持品だった帽子を脱いでいますが、これは元々はミライの「クローン」のようなものとして誕生した彼女が「かばん」としての「個」を確立した...という表現にもとれる感じでした。)

 かばんのそのような行動は、周囲のフレンズたちにも影響します。第1話で「ジャパリパークの掟は、自分の力で生きること。自分の身は自分で守るんですのよ」と「自然の摂理」を説いていたカバは、最終話では「本当に辛いときは、誰かを頼ったっていいのよ」と、人間的な助け合いの価値を認めています。

 ただし作中では、ヒトのみせる「人間らしさ」の価値がひたすら掲揚されているだけではありません。ジャパリパークから人間が避難し、放置され荒れ果てたパークにフレンズたちが取り残されている…という不穏な作品の設定からは、自然災害や原発事故などで発生した避難区域内に、動物が取り残された状況をうっすらと連想させます*4

 

◯あらたな人類

 サンドスターとセルリアンが「対」で全体を形成するように、この作品では「文明」「人間らしさ」と「自然」は分ち難いものとして存在しており、二項対立的には描かれていません(「言葉を喋り、捕食ー被食関係から脱却した、でも野性の特徴をとどめたフレンズたち」の存在自体が、両者の混合物です)*5

 最終回、かばんが海のむこうに向けて出航するラストシーンは、未知のフロンティアに踏み出さずにはおれない「人間」の可能性を映し出して美しかったし、その傍らに「動物」としての野性を留めたサーバルの姿があるのも嬉しかったです。はたしてジャパリパークの外側に人間は住んでいるのか、あるいは、行き過ぎた文明が自壊したあとの荒廃が待ち構えているのか。

 もし後者だったとしても、「文明」や「人間らしさ」というものを少しずつ再検証するように(空のかばんに荷物を詰め直すような慎重さをもって)、フレンズたちの野性の力も借りながら歩みを進めてきた「あらたな人類」であるかばんなら再出発できるはず。まるで、一生のうち数度しか拝めないような見事な初日の出を眺めているみたいな、晴れやかな気持ち。掛け値無しに素晴らしいラストシーンでした。

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*1:もともとは肉食獣であるサーバルとかばんが最初に交わした会話は「食べないでください!」「食べないよ!」で、これは自然の摂理には反していますよね。

*2:ときには野性動物も身を呈して仲間を助けたりすることがあるようですが、それはさておき。

*3:追記:リアルの非常時にどのような行動を取れば「人間的な価値観」に基づいているといえるのか...という話じゃなくて(そんなのわかるわけない)、あくまで物語上のイニシエーションについての話です。

*4:パークでは「ジャパリまん」の供給は止まっていないので(どういう仕組みなんだろう?)食料の心配はないようですが。

*5:もちろん「人間はゼロから何かを生み出すことは不可能で、どんなに "人工的" な物でも、結局は自然に手を加えたものなのだから自然の一部である(たとえそれが一時的には自然を壊すようなものであっても)」という見方は可能です。

『クズの本懐』感想(前編):代替可能な恋愛関係

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 現在ノイタミナ枠で放映中のアニメ『クズの本懐』(公式サイト)。

 昼ドラばりの扇情的なエロ展開を連発しているようでいて、根っこの部分では青春ものの王道テーマをきっちりとふまえた良作で、毎週楽しく観ております。花火ちゃん愚かわいい。

 この記事は、原作マンガ・実写ドラマ版は未見状態での、アニメ第1話~第6話までの感想です。1万字近くあるので、お時間のあるときにのんびりと読んでいただけると嬉しいです。

 ネタバレを含みますのでご注意ください。

 

◯代替可能な恋愛関係

 『クズの本懐』は、普通は「かけがえのない=代替不可能」なものである、とされている恋愛関係を「かけがえのある=代替可能」なものとして扱う…という点がフックになっている作品ですよね。

 この「恋愛関係の代替可能性」は、第1話冒頭から、ヒロイン・花火のモノローグによって明示されます。

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「私たちは付き合っている。でも、お互いがお互いの、かけがえのある、恋人」

 花火も、そしてパートナーの麦もそれぞれに「本命」の相手が別にいて、でもその相手には手が届かないので、寂しさを埋めあわせるための「代わり」としてお互いを利用している。そういう契約関係としての「恋人(仮)」。

 なので、キスやペッティングをしているときも、お互いの頭のなかに思い浮かべるのは「本命」の姿。あくまで「本命」がいるうえでの(仮)の恋人なので、花火にとっては相手は麦じゃなくてもいい、麦にとっても相手が花火である必然性はない…ということで、花火は自分に想いを寄せる早苗と、麦は中学時代のセフレとそれぞれ寝たりもする。

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 かけがえのない「本命」がいて、それ以外の人間は本命の「代わり」でしかない。ゆえに「代わり」の人間たちはすべて等価で、代替が可能…という関係性。

 花火にとって本命の「お兄ちゃん(鐘井先生)」がどれだけ「かけがえのない」存在であるかは、第1話で告白してきた相手を花火が振ったときのセリフにも表れていました。

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「興味のない人から向けられる好意ほど、気持ちの悪いものってないでしょう?」

  お兄ちゃん以外からの好意なんてキモいだけだからいらん、と。

 このセリフは、幼いころから鐘井に好意を向け続ける自分にもブーメランとして帰ってきてしまうんですがそれはともかく、ここに表れているのは花火の純粋さ・潔癖さです。

 「本命」への気持ちが一途すぎるがゆえに、その感情を持て余してこじらせた結果として「代替可能な恋愛関係」という泥沼に足を踏みいれてしまった花火。このアニメのキャッチコピーは「私たちはまっすぐに、歪んでいく。」ですけど、まさにそういう感じです*1

*1:花火に恋愛相談を持ちかけてきたクラスメイトたちが、スペックを基準に二股中の彼氏を「どっちがいいかな~」と悪意なくナチュラルに比較するシーンがありましたが(その彼氏のほうも彼女に同じようなことをしている)、「普通」っぽいこの子たちに比べたら「クズ」の自覚をもって歪んでいく花火たちはほんとまっすぐに見えます。

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『Dolls ドールズ』感想:人が向きあうことの困難さ

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 北野武監督『Dolls ドールズ』(2002年)の感想です。

 じつはこれ、長年「北野監督のなかではイマイチだな〜」という印象をもっていた映画だったんですが、先日の深夜テレビでやっていたので久々に観てみたら、思いのほか良くてびっくり。よくいわれることではあるけれど、作品の受けとり方って本当にトシとともに変わるものですね。

 本文中はネタバレありです。

 

◯相手のことが見えないカップルたち

 映画の冒頭に映し出される人形浄瑠璃の舞台。人形遣いに操られる人形と、それを見つめる人間の観客たち。

 しかし、いつしか人形遣いの姿が消えて、人形はひとりでに動きだします。やがて「見る・見られる」の関係が転倒し、人形たちの視線のもとで、人間たちによる物語が繰り広げられていく…という導入部。
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 その導入部に続いて、本編には3組のカップルが登場し、3つの物語が語られていきます。

①「つながり乞食」の物語
②老ヤクザと昔の恋人の物語
③アイドルと追っかけの物語

 このうち、①が映画の最初から最後までを貫く縦糸になっており、②と③がそれと平行して語られるという構成なのですが、この3つの物語は共通したシチュエーションを描いています。それは、

求める相手がすぐ隣にいるのに、その人のことが見えない(認識できない)

 というシチュエーションです。

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