『マザー!』感想:「アロノフスキー的物語」の発展型
ダーレン・アロノフスキー監督『マザー!』(2017年)の感想です。
mother! movie (2017) - official trailer - paramount pictures
アロノフスキー監督については、長編デビュー作『π』(1998年)から『ノア 約束の船』(2014年)時点までのキャリアをざっと振り返る…という記事を書いたことがあったんですけど、今回の記事はその補完という位置づけです。
この中で書いたとおり、アロノフスキー監督はすべての作品において「人が ”他者” や ”外部” を遮断して “自分” という檻に自らを閉じ込めたきに出現する地獄」というシチュエーションを描き続けています。
その内的・自閉的な「地獄」から脱出するか否か…というのが、アロノフスキー的な物語の基本フォーマットになっている。
最新作『マザー!』はそのフォーマットを踏襲しつつ、さらに一歩前進を試みた野心作で、とっても見応えがありました。以下の本文ではネタバレをしていますので、ご了承ください。
◯前提
観た方はわかると思いますが、ある夫婦の関係性を中心に据えたこの映画は、じつに多様な解釈が可能な、寓意に富んだ物語を描いています(もちろん作品というのはあらゆる解釈にむけて開かれたものですが、まあ傾向として)。
たとえば、主人公である「妻」*1には、旧約聖書に登場する「イヴ」であったり、新約聖書の「聖母マリア」であったり、あるいは「母なる大地(Mother Earth)」などなど、さまざまな存在を重ね合わせることができる*2。
そして、どの解釈をとるかによって、浮かび上がってくる物語は異なるものになります。
劇中、ハビエル・バルデム演じる夫=作家は、自分が書いた詩の受容のされ方についてこんなセリフを口にするのですが、
「同じ作品を読んでも、影響の受け方は人それぞれだ」
この映画自体が、そのような受容の多様性に自覚的な作りになっている。
...それは前提としたうえで、この記事では本作を「神(信仰)と人間との関係を描いた寓話である」という解釈でもってみていこうと思います。
アロノフスキー監督の前作『ノア 約束の船』は「神」と「人間の男(父親)」の関係を描いた作品でしたが、今回は「女 (母親)」を主人公に据えたうえで、同じ題材を扱っているのではないか...という想定ですね。
「夫=神」「妻=人間」そして、夫婦が暮らす原っぱのど真ん中の一軒家が、人間にとっての「世界」。
そのような想定にたってみたとき、全体としてどんな物語が浮かび上がってくるのか。
◯
いちおう確認しておくと、ここでの「神」は、とりあえずは「唯一神」を指します。
さきほどの「同じ作品を読んでも、影響の受け方は人それぞれだ」というセリフ。「夫=唯一神」という前提にたてば、これは、一人(?)しかいない「神」という存在や、その行いへの解釈の違いから、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教等々のさまざまな宗教が誕生する…という事態を指していると受けとることができる。
そのように、一神教からの影響の色合いが濃い本作ですが、でも「おれ多神教派だから/無神論者だからこの映画に興味もてないよね」という内容かというと、そんなことはありません。
冒頭に書いたような「アロノフスキー的物語」を念頭におくと、信仰の種類や有無を問わず、幅広い観客にリーチしうるテーマを扱った映画だということが見えてきます。
◯物語
くり返しになりますが、これまでのアロノフスキーの映画において、「地獄」は、主人公が「他者」や「外部」にたいして心を閉ざした結果として、彼/彼女の「内部」に出現していました。
自閉状態が自家中毒的な地獄を生み、その地獄を拒絶するか、あるいは恍惚とともに受け入れるか…というドラマが描かれてきた(くわしくは前回の感想を参照)。
しかし今回の「地獄」は、ジェニファー・ローレンス演じる妻の「外部」からもたらされます。
◯
妻は、過去の火災(ラストまで観ればわかるとおり、これは前回の「ループ」で訪れた「世界の終末」を指します)で焼けた家の補修を続け、そこに、他者を排除した、夫と自分「だけ」のための楽園を築くことを夢見ています。
アロノフスキーの映画では、俳優の身体に極端に接近した、息苦しさを感じさせるカメラワークがしばしば採用されますが、これはキャラクターたちの視野の狭さ・自閉的な傾向の表現になっているとみることが可能で、今回もカメラはジェニファー・ローレンスの身体に執拗にまとわりつきます。
(左:『マザー!』 右:『レスラー』)
また、ドラッグも、キャラクターたちを現実逃避の末のクローズド・サーキットに追い込むおなじみのアイテム。
妻は、前回のループの残滓と思われる「家が焼けただれていく幻覚」や「妊娠の痛み」にたびたび悩まされ、痛み止め(ドラッグ)によって心の均衡を保っています。
(左:『マザー!』 右:『レクイエム・フォー・ドリーム』)
夫との一対一の関係「だけ」を望む妻。でも「神」である夫は、妻のそのような意向を無視し、さまざまな人々を次々と家に招き入れていきます。
夫:「(この家は)二人で住むには広すぎる」
妻:「あなたと二人きりになりたい」
「家」を「世界」と捉えれば、そこに他者が入ってくることは留めようがないですよね。
それで、他人に家のなかを蹂躙されて、妻は苦しみを味わっているんだけど、夫はそのような状況を受け入れて、歓迎さえしている。
さきほどの「同じ作品を読んでも~」というセリフもそうですが、もう一カ所、夫がストレートに「他者を外部から家のなかに招き入れることの必要性」を力説するシーンがあります。「私は家を作り直したのに、あなたは何も書いてない」と責める妻にたいして、夫がめずらしく激昂してやり返すくだり。
彼は、家のドアを開け放ちながら、妻にむかってこう述べます。
「分かってる。残念だが書けない!何も思いつかない。刺激が欲しいんだ。新たな人間関係や発想が!息苦しいのは君じゃない、俺だ!」
さまざまな価値観をもつ他者による解釈の多様性こそが、夫にとってのインスピレーション源になる、と。じっさい、夫婦が二人だけの安定した世界に閉じこもっているあいだは、夫は何も書けなくなっていたわけです。
また、二人はセックスレスでしたが、外部からの闖入者による刺激によってそれが解消され、結果妻は子供を身ごもる。アダムとイヴの楽園には、蛇(=他者)が侵入してこないと、新たな展開が訪れない。
これは、文明や文化の発展に置き換えられる話ですね。クローズドな/均質的な環境は、いずれ発展が頭打ちなる(その是非はまた別として)。「他者の受容」にたいして、夫婦のあいだにはこのような態度の違いがあります。
でもその一方で、価値観の異なる他者同士の接触は、暴力的な衝突に至る...というのもまた、歴史上たびたび繰り返されてきた事態です。
外部からさまざまな人々が「家=世界」になだれ込んでくるにつれて、人類の歴史をなぞるように、混乱はどんどんエスカレート。ついには警官隊や軍隊やデモ隊が戦闘を繰り広げ、収容所が出現し、残虐な処刑が妻の目の前で繰り広げられていく。
夫婦の赤ん坊が惨殺されるくだりも、宗教的挿話が連想可能なシーンではありますが、宗教色をいったん脇において考えると、そのような「他者同士の衝突の犠牲」である、という見方ができます。家を外部に開け放ったことによりもたらされた子供が、同じ原因によって奪われる。
こうして、外部からの他者の流入によって、家のなかに妻にとっての「地獄」が出現します(このあたりの畳み掛けるようなストレスフルな描写はほんと凄い)。
「みんな私の家から出ていくがいい!」
絶望した妻は、夫の制止を振り切って世界を焼き尽くし、物語は冒頭のシーンへと回帰。灰から再生した妻が、夫に「あなた?(Baby?)」と呼びかけるところで画面が暗転します。
◯むすび
最初にも書いたように、さまざまな解釈が可能な本作ですが、私は「宗教を否定はしないけれど、自分としては神(的)なものはとりあえずは存在しないと思う」という立場の人間として、この映画で描かれた物語をつぎのようなものとして受け取りました。
◯
まず、妻=人間が存在する。人間は生きていくうえで信仰を必要とし、夫=神が生まれる(ラストの「Baby?」の呼びかけは、人間が神の「Mother」であることを表す?)。
人間が生み出した観念としての神は、他者にたいして無限に寛容であり、また、他者の存在による刺激こそが人間に必要不可欠だということを理解している。
しかし、生身の・いち生活者としての人間は「多様な他者を受け入れる」という理想を頭で理解はしていても、「みんな私の家から出ていくがいい!」と叫んでしまう限界点が必ず存在し、結果カタストロフが訪れる。
しかし、やはり人間は神を必要とし、神は人間にたいして他者の必要性を説く。
◯
そのように、人間の(見方によっては、一人の人間の)内側で繰り広げられるトライ・アンド・エラーの物語としてみることができるのではないかな、と。
「他者とのコンフリクト」という、いってみれば「普通の型」の物語を描きつつ、その上に、アロノフスキー印の「自分という檻」をめぐる内的な地獄巡りのドラマが二重写しになっている。内側と外側の区別が判然としない、クラインの壷状の構造(?)をもつ物語です。
まあ、これはちょっと調子良く「整理」しすぎた感もあって、たとえば神と人間の関係は、もっと相補的なものとして ~妙な例えだけど「鶏が先か、卵が先か」みたいなものとして~ 描かれている気もします。
ただ、「 "全体" にとっての多様な他者の必要性と、"個" のキャパシティのあいだに横たわるギャップを描いた物語」としてみると、自分のような宗教的ではない人間にとっても身につまされるものがあるなー、と思いました。
必要だけど耐えられない、というアンビバレント。人間に必要なものとしての「文化」が内包する "理想" や "理念" と、いち個人のあいだのギャップ...みたいな言い換えもできる?
ともあれ、アロノフスキーってどんなにダークな映画を撮っても、最終的には人間への慈しみみたいなものが滲み出てくるところがあって、そこがいいなあといつも思います。あとジェニファー・ローレンスめっちゃ可愛かったです。
◯おまけ
映画の終盤、妻の「あなたは誰?」という問いかけに、夫が「I am I 」と返すシーンは、旧約聖書に登場する「I am that I am」というフレーズを連想させます。
「神」という呼称は人間がつけたもので、神(的な存在)は自分を「神」だとは名乗らないので「I am that I am」で、そうとしか呼びようのない存在を、劇中ではさまざまな人間がさまざまに解釈していく。
すごく有名なフレーズらしいんだけど、私はヴァンパイア・ウィークエンドの曲経由でこれを知りました。タイトルの『Ya Hey』は、(正確な発音が不明な、唯一神を指す名である)「Yahweh」のもじりだそうです。
そういえば『レスラー』にはヴァンパイア・ウィークエンドのポスターが登場してました。そろそろ出るんじゃないかと噂されているニューアルバム、楽しみですね。
Vampire Weekend - Ya Hey (Official Lyrics Video)