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マーティン・スコセッシ:ビジョンの拡大と収縮(前編)

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◯前提:「スコセッシ的物語」の原型

 マーティン・スコセッシは、ギャングやボクサーや救命士や宣教師といったキャラクターたち、あるいはラスベガスやウォール街、19世紀末ニューヨークの社交界といったコミュニティなど、じつに多彩な題材をとりあげて映画を撮ってきた監督です。

 ですがこの監督には、そのキャリアを通じてほぼ一貫して描き続けている物語の原型があって、それは、つぎのようなものです。

 

「ある特定のビジョンが周囲の人間を呑みこみながら拡大していく」

 

 スコセッシは、この原型的な物語をさまざまに変奏しながら ~作曲家がひとつのテーマメロディを基にして、バラエティに豊んだ変奏曲をつくりあげるみたいに~ 映画を撮り続けている監督である…ということができます。

 この記事では以上のような前提をもとに、スコセッシのキャリアをひとつの限定されたアングルから、超・大雑把に振りかえってみよう、という試みをおこなっています。

 結果的に、私家版「ラフ・ガイド・トゥ・マーティン・スコセッシ」みたいな記事になっているかもしれません。前編約15,000字・後編約7,000字と、ブログとしてはちょっと長めですが、カタログっぽい軽めな部分もある記事なので、気楽に読んでいただけたらうれしいです。

 

                    ◯

 

 なにしろ50年以上にわたってコンスタントに映画を撮り続けている監督なので(えらい!)全作品を取りあげることはできなかったんですが、以下の作品については結末を含むネタバレをしています。ご了承ください。

 

マーティン・スコセッシ:『君のような素敵な娘がこんなところで何してるの?』『アリスの恋』『タクシードライバー』『ニューヨーク・ニューヨーク』『レイジング・ブル』『キング・オブ・コメディ』『グッドフェローズ』『アビエイター』『ディパーテッド』『シャッターアイランド』『ヒューゴの不思議な発明』『ウルフ・オブ・ウォールストリート』『沈黙 -サイレンス-

遠藤周作:『沈黙』

村上春樹:『1Q84

 

 

◯『タクシードライバー』(1976)

  最初に取りあげるのは、スコセッシの代表作のひとつ『タクシードライバー』。この映画には「ある特定のビジョンが周囲の人間を呑みこみながら拡大していく」というスコセッシ的な物語の原型がストレートにあらわれています。

 ここでの「特定のビジョン」は、ロバート・デ・ニーロ演じる主人公の内的なビジョン…「病的に歪んだ正義感」を指します。

 


Taxi Driver - Trailer

 

 ベトナム帰還兵で、現在はタクシーの運転手として生計をたてる主人公。彼はニューヨークの街の腐敗を憎み、クライマックスではそれを粛正せんと、ヒロイックな行動 ~具体的には、少女に売春をさせるヒモの殺害~ に打ってでます。

 だけど実際のところ、そのような彼の正義感はかなりの程度、私怨にまみれた場当たり的なものです。このことは、彼が当初計画していた大統領候補の暗殺に失敗し、その代わりとしてハーヴェイ・カイテル演じるヒモの殺害にあっさりと「路線変更」をおこなう…というくだりによく現れていますよね。

 そもそも「街の腐敗を洗い流したい」と願っているはずの彼は、なぜ汚職などをおかしたわけではない(すくなくともそのような描写はない)大統領候補の暗殺を計画したのか。

 脚本のポール・シュレーダーは、主人公の動機についてこんな風に話しています。

 

タクシーは孤独のメタファーだ。それさえ決まれば後はプロットを作りさえすればいい。欲しいが手に入らない女と、手に入るが欲しくない女。前者の父親代理を殺そうとして失敗する。それで後者の父親代理を殺す。

『スコセッシはこうして映画をつくってきた』メアリー・パット・ケリー 齋藤敦子・訳 |  文藝春秋BOOKS


 
 つまり主人公は、孤独感や、選挙事務所で働く女性への欲望など諸々をこじらせて殺人を企てるんだけど、本人はそれを正義の行いと思いこんでいる。

 いっぽう、主人公にとって「手に入るが欲しくない女」である娼婦の少女が、ヒモの男と(良い悪いは別にして)彼女なりに幸せにやっているシーンも映画には挿入されます。

 スコセッシ自身が語っているとおり、『タクシードライバー』は全編にわたって主人公の主観からみた世界のあり様を描く映画ですが*1、少女とヒモがダンスを踊るシーンでだけは、彼の主観の「外部」が描かれている。

 

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(...)それからカメラの動きはトラヴィスの視点の動きに合わせて移動させること。すべてを彼の視点で描いた。彼以外の視点で描かれたシーンは、カイテルジョディ・フォスターとダンスする即興のシーンだけだ。

(『スコセッシはこうして映画をつくってきた』)

 

 しかし、そうしたこの映画における「外部」は結局のところ、主人公のビジョンに呑み込まれていきます。

 ヒモは殺害され、主人公はマスコミによって「いたいけな少女を救った英雄」として祭りあげられる。主人公の歪んだ正義感(ビジョン)が、メディアを通じて周囲の世界に拡大していく…という結末です。

 (ということは、スコセッシは逆説的な形で「外部」について語り続けている作家でもあるんだけど、話が逸れるのでこの記事では触れません。)

  

 

 

◯『キング・オブ・コメディ』(1982)

 やはりロバート・デ・ニーロを主演に据えて製作された『キング・オブ・コメディ』は、主人公が病的な気質を抱えているという点で、しばしば『タクシードライバー』と比較される映画です。

 コメディアン志望の主人公が、ジェリー・ルイス演じるテレビの大スターにストーカーのようにつきまとい、自分を彼の番組に出演させるよう迫る。その手段がどんどんエスカレートしていき…という話なんですが、面白いのは、この主人公には(ラスト近くで明らかになるように)けっこうスタンダップ・コメディアンとしての才能があるのですね。

 にも関わらず、彼にはライブハウスへの出演といった下積みを経由してスターを目指す、という発想がまるでありません。

 彼がひとり、大観衆の写真を前にネタを披露して「大ウケをとっている」という妄想にひたるホラーじみたシーンがありますが、頭のなかでは彼はすでに大スターです。なので、地道な下積みという発想に至ることがない。

 

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 思春期あたりまでは誰だって、大観衆の前でギターをかき鳴らす自分の姿を妄想したりするものだけど(したことがないとは言わせない)、彼は三十代半ばにしていまだにそのビジョンを頭から追い出せずにおり、それどころか、そのビジョンを現実と混同しはじめている。

 ついには彼はジェリー・ルイスを誘拐してテレビ局を脅迫、という強硬手段にうったえ、念願のテレビ出演を果たします。「テレビジョン」に映る自分の姿を、意中の女性に自慢げに見せびらかす主人公。

 

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 主人公の頭のなかの歪んだビジョンが、マスメディアを通じて全米規模に拡大していく。まさにコメディアン版『タクシードライバー』です。

 

 


◯ 『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(2013)

 近年のスコセッシ作品では、実話を基にした『ウルフ・オブ・ウォールストリート』も、ストレートにこの型の物語を描いていました。

 レオナルド・ディカプリオ演じる株式ブローカーの「とにかく売れればなんでもOK」な、モラルが完全に欠落した世界観が巻き起こす騒動をコメディタッチで描いた大傑作。

 


The Wolf of Wall Street Official Trailer

 

 主人公の常軌を逸した強欲なビジョンは、彼が興した会社の社員たちを呑みこんでいき、やがて会社は、外部の人間には理解不能な異様な価値観が支配するカルト的共同体へと先鋭化していきます。
  

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 『グッドフェローズ』のマフィアや『カジノ』のラスベガス、『ミーン・ストリート』のイタリア人コミュニティや『エイジ・オブ・イノセンス』のニューヨーク社交界など、スコセッシ作品でたびたび描かれる閉鎖社会(単一のビジョンに支配された社会)ですね。

 こうした「外部からは理解不能な価値観が支配する共同体」の形成は、映画の冒頭で予告されています。レストランで、まだ新人証券マンだった主人公が、先輩から業界で生き抜くための心構えについてレクチャーをうけるシーン。

 周囲の人目をはばからずに、ふたりはそろってヘンな歌(The Money Chant) を口ずさみはじめます。

 

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 傍目には異様に映る光景ですが、本人たちは気にしていない。ここで主人公は先輩証券マンのビジョンに呑み込まれ、異様な価値観に支配されたふたりきりの「ミニ共同体」が形成されているのですね。

 そしてこれ以降は呑み込む側の立場にたった主人公が、この共同体を拡大していく。その延長線上にあるのが、会社でのあの乱痴気騒ぎです。

 やがて犯罪行為に手を染めた主人公は投獄され、彼自身の密告によって会社は(『グッドフェローズ』のマフィアや『カジノ』で描かれた往年のラスベガスと同様に)瓦解。服役後、彼はこんどはカリスマ的なセールストレーナーとして活躍をはじめます。

 ラストシーンは、主人公のセミナーにやってきた生徒たちを、彼の歪なビジョンが呑みこんでいく…というもの。

 

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 映画は1987年のブラックマンデーを起点に、90年代末までのウォール街を描いていますが、現実ではこの10年近く後に、サブプライムローンに象徴される証券会社の「とにかく儲かればなんでもOK」な経営方針が引き金となった株価の大暴落がやってきます。

 この映画の主人公が代表するようなビジョンが拡大を続けた結果、世界経済にふたたび破綻がもたらされた…という見方もできるかもしれません。

 ただ、こうした危うい人物を批判的なトーンで描くことはけっしてしないのが、スコセッシの映画の魅力のひとつ。

 肩入れするわけではないけれど、大上段に立って非難もしない。「観客はこの男を嫌いになっても好きになってもいいけど、いずれにせよこいつはこういう風にしか生きられないんだよ」というフラットな語り口がどの映画にも通底しています(「悪を為す側にもそれなりの理や事情がある」みたいな話ではなくて)。

  

 


◯『レイジング・ブル』(1980)

 ここまでは「ある特定のビジョンが周囲の人間を呑みこみながら拡大していく」という原型的な物語を紹介してきましたが、こんどは、そのバリエーション(変奏)をいくつか見てみます。

 


Raging Bull Official Trailer #1 - Robert De Niro Movie (1980) HD

 

 『レイジング・ブル』でロバート・デ・ニーロが演じる主人公(実在のボクサー、ジェイク・ラモッタ)は、『タクシードライバー』や『キング・オブ・コメディ』で彼が演じた主人公たちと同様に、妄想的なビジョンを抱えています。具体的には「妻が自分の弟と浮気している」という事実無根の思い込みです。

 しかし、『タクシードライバー』や『キング・オブ・コメディ』とは違い、彼のビジョンは最後まで周囲に伝わることはありません。誰からも相手にされず苛立った彼は弟に殴りかかってしまい、両者の信頼関係は破綻します。そこからジェイクは、坂道を転げ落ちるように周囲の世界との接点を失っていく。

 つまりこの映画で描かれているのは、自分の内的なビジョンが周囲にまったく通用しない、「ビジョンの伝達不全」とでもいうべき事態です*2。これまで見てきた「ビジョンの拡大」という原型的な物語のひっくり返し、変奏がおこなわれているんですね。

 象徴的なのが、ジェイクと、ジョー・ペシ演じる彼の弟とが居間でテレビをセットしているシーン。ジェイクは「映りはどうだ?」とたずね、弟は「マシになった」と答えますが、実際には画面には砂嵐しか映っていません。

 

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 このシーンで、ジェイクはテレビをセットしながら「俺の女房とやったのか?」という話を切り出すけれど、弟は素で「何いってんだコイツ…」というリアクションを返す。

 テレビジョンは「ビジョンを映しだすスクリーン」であり、ジェイクはそれを調整して彼なりのビジョンをそこに投影しようとしているけれど、弟の目には砂嵐しか映らない。ジェイクのビジョンは外界にまったく伝わらない。『キング・オブ・コメディ』のデ・ニーロが、テレビに映った自分の姿を嬉々として意中の女性に誇示していたのとは対照的です。

 でも、妄想的なビジョンが通用せずに、いったん孤独のどん底まで落ちるという経験を経た末に、最後にはジェイクは周囲の世界との関係性をある程度回復します。

 このあたりも、妄想的なビジョンを周囲に押しつけることに成功「してしまった」がために、最後の最後まで孤独にみえる『タクシードライバー』や『キング・オブ・コメディ』の主人公とは正反対。

 

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 ポール・トーマス・アンダーソンの『ブギーナイツ』(1997)にも引用された、有名な鏡のシーン。子ども時代にカトリックの司祭を目指したこともあるというスコセッシらしい、贖罪と復活を示唆するラストです。

 

 

◯『シャッターアイランド』(2009)

 『レイジング・ブル』のおよそ30年後に製作された『シャッターアイランド』で描かれるのは、ジェイクのケースよりもはるかに深刻化した「ビジョンの伝達不全」です。

 


Shutter Island (2010) Trailer #1 | Movieclips Classic Trailers

 
 孤島に建設された精神病院に、行方不明患者の捜索にやってきた主人公の保安官。彼の捜査の様子を追ってストーリーが進行するのですが、ラストで明らかになるのは、じつは主人公はこの精神病院に入院している患者のひとりだった…という事実です。

 彼は「自分が保安官として事件の捜査にあたっている」という妄想(ビジョン)を抱えており、周囲の人々(医師や看護師たち)は、治療プログラムの一環として彼の妄想に付きあっていただけだった、というオチ。

 映画は、ほぼ全編にわたって主人公のビジョンに支配されており、観客はそれに付きあわされるんだけど、ラストでそれがひっくり返される。彼にとっては切実なビジョンが、じつは周囲にはまったく通用していなかったことが強調される仕掛けです。

 劇中、こんなセリフが登場するんだけど、

 

f:id:tentofour:20190304000011j:plain「普通の爆弾は外に向けて爆発する。水爆は中に爆発するんだ。だからものすごいパワーの爆発を起こす」

 

 この映画全体が、中、内側にむけた爆発みたいな感じなんですね。

 こういう仕掛けの物語って、「開始後すぐにどういうネタかわかっちゃったよ」みたいな反応も当然あるだろうとは思うのですが、肝心なのは、主人公の置かれた状況が、現代の観客をとりまく状況のデフォルメとして提示されている点です。

 主人公は、過去のトラウマティックな出来事から目を逸らすために、自ら捏造したストーリーに埋没しています。自分にとって都合の悪い情報は目に入らず、彼にとってリアルなビジョン/世界観は、他の人にとってはたんなる妄想です。

 これが9.11の後に世界を覆った陰謀論や顕在化した修正主義、あるいは情報のフィルターバブルによって分断された私たち自身の姿の反映になっている…みたいなことを書くと「そういう解釈こそが妄想的なんじゃないの」と言わちゃうかもしれないですが、00年代のスコセッシは9.11の余波のもとに映画を撮っていた、というのが私の、まあ “解釈” です。

 (00年代以降の作品のこうした傾向については後編で取りあげます。)

 お互いがお互いのリアリティにたいして共感も敬意も抱けない、人々をつなぐ最低限の共通基盤が失われた ~あるいは、そんなものは最初から存在していなかったことが露呈した~ 世界。

 そうした意味で「人は島嶼である」みたいな映画が『シャッターアイランド』なのではないかな、と。

 

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◯スコセッシの原体験

 ところで、さきほど『レイジング・ブル』の項で、「子ども時代にカトリックの司祭を目指したこともあるというスコセッシらしい、贖罪と復活を示唆するラスト」と書いたのですが、私は基本的にはこうした「この作家にはこういう原体験があったから、こういう作品を作るようになったのだ」式の理解=物語化は控えたほうがいいよね、と考えている人間です。

 それは(世代的な呪縛として?)テクスト論っぽい作品への接し方に馴染んでいるからでもあるし、また、作家はできうる限りにおいて作品に自分を投影するべきでは「ない」と考えているからでもあるし、あるいはもっと素朴に「そう簡単に人様のことを分かった気になったらあかんのとちゃうか」と思っているからでもある*3

 ただ、スコセッシはインタビューなどで「映画製作は個人的なものであるべきだ」と公言しており*4、また、たびたび子供時代の体験が自身の作品に及ぼした影響について語っています。

 なかでも興味深いのは、スコセッシが世界各地でおこなった講演をまとめた本『スコセッシ オン スコセッシ』に登場する、こんなエピソードです。

 

一一歳のとき『聖衣』を見て、そのなかに描かれたキリストを目にした瞬間から、彼の生涯を映画にしたいものだと思い続けてきた。そのころ私は少年従者で、実地見学の名目で担当の司祭に連れられてロキシー劇場まで出かけて行った。司祭はあまりの馬鹿馬鹿しさにあきれていたが、私は、ロビーを通って場内に入りあの巨大なシネマスコープの画面を初めて目にしたときの魔法のような感覚は決して忘れない。そしてステレオ音響の音楽を耳にしたとたん、毎週土曜の朝一〇時半から始まった死者のためのミサでのグレゴリオ聖歌とその音楽が心のなかでごっちゃになりはじめた。

(…)

ミサに連れていかれたとき、なぜ両親はこれまで一度も連れてきてはくれなかったのかと訝ったものだ。それほど感動的だった。白と金、あるいは緑と金というように、ミサが異なれば法服の色の組み合わせも変わった。小さい時分は大聖堂に行くのと映画館に行くのを同じように考えていた。事実、子どものころ私たちは、ミサは毎回中身の変わらないショーだと言っては笑ったものだ。

スコセッシ・オン・スコセッシ【増補新装版】 私はキャメラの横で死ぬだろう –  |  フィルムアート社

 
 ここでは、少年時代のスコセッシが映画館のスクリーンの巨大さに圧倒され、そして、大聖堂で行われるミサと映画をともに「心を奪うショー」として捉えていた…という体験が語られています。

 それで、スコセッシが「ある特定のビジョンが周囲の人間を呑みこみながら拡大していく」という物語*5を描き続けている背後には、このような「映画」や「ミサ(宗教)」のようなスペクタクル=「ビジョン」に、身体ごとすっぽりと呑みこまれた体験が原点としてあるのではないか。このような仮説をもとに、私はこの記事を書いているわけです。

 スコセッシが、ザ・バンドローリング・ストーンズのコンサート・フィルムを手掛けたり、あるいはボブ・ディランジョージ・ハリソンのドキュメンタリーを製作したりしているのも、ロック・ミュージックへの愛情のほかに「あるミュージシャンのビジョンが拡大していく過程」への興味もあるのではないかな、と*6

 くわえて、スコセッシが学生時代に撮った初期の短編映画『君のような素敵な娘がこんなところで何してるの?』(1963)は、主人公が壁にかけてある絵/写真(≒ スクリーン)にとりつかれ、やがてはその中に入りこんでしまう…という物語を描いている点も、注目に値します。

 

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 スコセッシの映画には「鏡」が頻繁に登場することがよく知られますが、これも「壁にかけられた写真」と同様に「映画のスクリーン」の変形した形象、バリエーションとして捉えることも可能でしょう*7

 スコセッシは、そのような個人的に惹きつけられる原型的な物語に、その時代ごとの社会状況を掛けあわせた映画を撮り続けているように見えます。

 たとえば、『タクシードライバー』の主人公が歪んだ正義感にとりつかれる背景にはベトナム戦争が影を落としているし、『キング・オブ・コメディ』はマーク・チャップマンジョン・レノンを射殺した事件の衝撃を引きずっている(そしてその背後には、大衆のセレブリティに対するいびつな憧れの拡大があります)。また、後述しますが『ディパーテッド』は、9.11以降に人々が置かれた状況と、スコセッシ的な物語の形式が結びついた映画です。

 スコセッシが個人的に惹かれる原型的な物語を「縦軸」とすると、時代ごとの社会状況は「横軸」で、両者が交錯するポイントに作品が生成される、という感じ。もちろんこういうのは多くの作家が創作過程で経ているであろうプロセスであり、特殊なものではないですが。

 スコセッシは、映画を観る(スクリーンのビジョンに呑みこまれる)体験について、こんな風に述べています。

 

タクシードライバー』は、映画は実際のところ一種の夢の状態、あるいは麻薬に酔った状態だという私の考え方に起因するところが大きい。真っ昼間、映画館から出てくると慄然とすることがある。常時映画を見ているので、私など現実に戻るのが苦手なんだが、あの映画はちょうどそんな半酔半醒の状態を描いていた。

(『スコセッシ オン スコセッシ』)

 
 そんな風にスクリーンに映し出されるビジョンに人々が呑みこまれていくさまを、きわめてストレートに、またポジティヴな側面を強調して描いた作品として『ヒューゴの不思議な発明』があります。

  

 


◯『ヒューゴの不思議な発明』(2011)

 いまのところスコセッシが撮った唯一の3D映画である『ヒューゴの不思議な発明』。

 映画の前半では、1930年代のパリを舞台に、孤児の少年が父親の形見である機械人形を修理しようと奮闘するさまが描かれます。

 


Official "Hugo" Trailer- In Theaters November 23

 

 ですが映画の後半になると、ベン・キングスレー演じる老人のストーリーがぐっと前にでてくる。老人は、じつはあの『月世界旅行』(1902)などを監督し一世を風靡したジョルジュ・メリエスなのですが、現在は人々から忘れ去られ、駅構内で玩具屋を営み生計をたてています。
 


A Trip to the Moon - the 1902 Science Fiction Film by Georges Méliès

 
 少年が父親との繋がりを辿っていく過程で、紛失したと思われていたメリエスのフィルムが再発見され、クライマックスでは、満場の観客を前に回顧上映がおこなわれる。メリエスのビジョンが再び観客たちを呑みこんでいく…という事態が、非常な幸福感をともなって描かれます。

 (この「観客達がスクリーンに投影されるビジョンに呑みこまれる感覚」は、『ヒューゴの不思議な発明』が没入感の高い3D作品として製作されたことにより、メタレベルで強化されています。)

 この映画の2年後に、さきほど触れた『ウルフ・オブ・ウォールストリート』が公開されるのですが、両作のラストはコインの裏表のような関係に見えます。

 どちらの作品でも「スクリーン」をバックに立つキャラクターが提示するビジョンが、観客を呑みこんでいく。ビジョンの拡大のポジティヴな形と、ネガティヴな形。

 

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(上:『ヒューゴの不思議な発明』 下:『ウルフ・オブ・ウォールストリート』)

 

 ついでに『ヒューゴの不思議な発明』と『キング・オブ・コメディ』の画像も並べてみます。どちらも、登場人物が「スクリーンに映る自分自身のビジョン」を観客に披露しているシーンですが、実際映画を観ると、受ける印象はまったく異なりますね。

 

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◯『アリスの恋』(1974)/ 『ニューヨーク・ニューヨーク』(1977)

 『ヒューゴの不思議な発明』と同様に「映画のビジョンに呑みこまれる状態」を扱った作品としては『アリスの恋』も外せません。

 まだ30代前半のスコセッシの瑞々しい感性が漲った作品で、主演のエレン・バースティンも活き活きとしていてめっちゃキュート(前年の『エクソシスト』では終始思い詰めたような顔をしていたのでなおのこと)。

 


Alice Doesn't Live Here Anymore - Trailer


 『アリスの恋』は、少女時代に歌手に憧れを抱いていた主婦が、抑圧的な夫の死をきっかけに故郷のモンタレーに帰り、ふたたび歌手を目指そうとするロード・ムービーです。当時盛んだったウーマンリブの影響を色濃く反映した作品。

 この映画におけるスコセッシは、『明日に処刑を…』(1972)のときと同様に、企画の途中から参加を請われた「雇われ監督」のポジションなのですが(多くの場合、企画の初期段階から映画にかかわることの多いスコセッシにとっては珍しいケースです)、それでもこの作品にはスコセッシ的な物語が顔をのぞかせています。

 それを象徴するのが、映画の冒頭、歌手に憧れる少女時代のアリスを描いたシーン。このたった2分間のシーンを撮影するために、8万5千ドルを投じて大掛かりなセットが建設されました。

 

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 このシーンについて、スコセッシは次のように話しているのですが、

 

少女時代のアリスを描く冒頭のシーンでは、『惑星アドベンチャー』のウィリアム・キャメロン・メンジスのスタイルで『白昼の決闘』と『風と共に去りぬ』の結合を狙ってみた。全ステージの半分、一八〇度に及ぶ真っ赤な夕焼けをこしらえ、『オズの魔法使』のドロシー風にメーキャップした少女をこの超特製の背景幕の前に立たせて「ユール・ネバー・ノウ」を歌わせた。アリスが歌う歌の数々は、ある意味で、かつてのベティ・グレーブルの映画に触発されたものばかりだ。

(『スコセッシ オン スコセッシ』)

 
 ここには、往年のハリウッド映画へのスコセッシの憧れがストレートにあらわれています。つまり、主役であるアリスの「歌手への憧れ」と、監督・スコセッシの「往年のハリウッドへの憧れ」が二重映しで表現されている。

 別な言い方をすれば『アリスの恋』は、「黄金時代のハリウッド映画的なビジョンに呑み込まれ、そこへの憧れに囚われた映画」としてスタートしているんですね。

 しかし、これ以降『アリスの恋』に大掛かりなセットは登場せず、ほとんどのシーンがロケーションか、それに類する省エネな環境で撮影されています。

 そして、最終的にアリスが故郷のモンタレー(もちろん、けっして手の届かない少女時代の憧憬を意味します)に帰りたいという願望をすて、いま自分のいる場所で生きていく決意を固めるのと呼応するように、映画はなんということのない路上で撮影されたシーンで幕を閉じる。

 かつてのハリウッドへの憧れを捨て、スタジオシステムが崩壊した70年代の映画界を引き受けて映画を撮っていくぞという、若きスコセッシの「宣言」のようにも映る作品です。

 …などという解釈をしておいてなんですが、実際にはこの後のスコセッシには、巨大なセットへのオブセッションみたいなものがつきまといます。

 『ニューヨーク・ニューヨーク』にはじまる、巨費を投じてセットを建造した大作で興行的に大コケするパターンと、『アフター・アワーズ』に代表される、比較的コンパクトな予算で早撮りした映画で評価を回復するパターン。

 NYインディ出身のシャープなフィルムメーカーと、ハリウッドに憧れる純朴な映画少年が、一人の才能ある人間のなかでごちゃまぜになった結果の混乱というか。振れ幅の大きいこの監督のキャリアの「予兆」としても『アリスの恋』は面白い映画です。

 

                    ◯

 

 話が出たついでに『ニューヨーク・ニューヨーク』にもちょっとだけ触れておきます。

 『ラ・ラ・ランド』(2016)の元ネタとして近年ふたたびスポットのあたったこの映画では、ロバート・デ・ニーロライザ・ミネリが演じるミュージシャンのカップルが「ビジョンの拡張競争」を繰り広げます。

 


New York, New York Official Trailer #1 - Robert De Niro Movie (1977) HD

 

 途中まではデ・ニーロのビジョンが優勢で、ふたりの所属するバンド全体を支配するまでに至るんだけど、徐々に形勢が逆転し、最後には「スクリーン」に大写しになるライザ・ミネリのビジョンにデ・ニーロが圧倒されることになります。

 そういう生々しい闘争的な部分、そこにはっきりとケリがついてしまうという意味では、『ラ・ラ・ランド』と『ニューヨーク・ニューヨーク』はまったくの別物。

 

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 さっき『ニューヨーク・ニューヨーク』よりも『アフター・アワーズ』のほうが評価が高かった…みたいなことを書いたけど、いまの視点からみると、いかにも都会的にスマートにまとまった『アフター・アワーズ』よりも、部分的なシーンの強度があちこちで全体のバランスを食い破っている『ニューヨーク・ニューヨーク』のほうが野蛮で面白いよなあ、と思います。

  

 


◯『グッドフェローズ』(1990)

 「往年の映画界への憧れ」という点で『アリスの恋』との共通点をもつ映画が『グッドフェローズ』。スコセッシ監督作のなかでも、とりわけ人気と評価の高い一本です。

 原作のニコラス・ピレッジと組んだ「ギャング実録もの」としては、じつは『カジノ』(1995)のほうが上なのでは…と私は思っているのですが(演出の洗練度合いや、単線的な因果関係から解放され、かつギリギリのラインで「エピソードの寄せ集め」には堕さないストーリーテリングの巧妙さなど)、どちらも傑作であることは間違いなし。

 そこから先は、スティーリー・ダンでいえば『彩(エイジャ)』と『ガウチョ』のどちらが上か…みたいな話になってきますね。ならないか。すみません。

 


Goodfellas (1990) Official Trailer #1 - Martin Scorsese Movie

 

 この映画は、レイ・リオッタ演じる主人公が少年時代から憧れたイタリアン・マフィアの世界(=特殊なビジョンに支配された世界)に呑みこまれていき、やがてそこを出ていくまでを描きます。

 劇中で主人公は、マフィアの世界についてこんなふうにコメントするのですが、

 

暗黒街こそ俺の世界だ。カスばかりの街でデカい顔ができる。何だってやりたい放題だ。消火栓の前に駐車してもサツは知らん顔。夜通しカードをしても誰もタレ込まない。

 
 この「なんでもあり」な活気に満ちたマフィアの世界が、スコセッシにとっての「往年の映画界」を意味しているであろうことは、ラストで『大列車強盗』(1903)の有名な発砲シーンが引用されていることからも伺えます。

 


The Great Train Robbery

 

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(左:『大列車強盗』 右:『グッドフェローズ』)

 

 映画のラスト、主人公はスリルに満ちたマフィアの世界を後にして、郊外の住宅街に身を潜めて余生を送ることを余儀なくされる。発砲するジョー・ペシ(=かつての活気に満ちていた映画界の象徴)に背を向け、家の中に入っていく主人公。彼がドアを閉めると、ズシンと重い音が響きわたります。

 彼は小綺麗で退屈な住宅街に「収監」されたのですね。このサバービアに、スコセッシにとっての現代の(『グッドフェローズ』が製作された当時の)映画界が重ねられている。

 1980年代は、サバービアのショッピングモールにある映画館でかけられるのにぴったりなファミリー向け映画が量産された時代でした。そんな退屈な映画界への呪詛のようにもきこえるのが、主人公のこのモノローグ。

 

すべてが変わった。賭博もやらず、行列に並んで待つ。食い物もひどい。スパゲッティのマリナーラ・ソースはただのケチャップ。クソ面白くない。これが死ぬまで続く。

 

 ただ、生粋のイタリア系ではない主人公がイタリアン・マフィアの世界に完全には入りこめずに、その周縁をウロつくしかないポジションに置かれている…という設定には「今の映画界に文句を垂れている自分だって、映画の黄金時代にはけっして手が届かないのだ」みたいな屈託も感じてしまったり。

 ジョー・ペシが演じるイタリア系のキャラクター、トミーが組織に消されるも、主人公たちには何もできない…というシーンについて、スコセッシはこのように話しています。

 

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トミーがあのような最後を遂げるのには意味がある。(主人公の)ヘンリーやジミーには手の届かぬ場所での出来事であり、イタリア人同士の内輪の問題だからだ。(…) ヘンリーも、またジミーすら、この大組織に属してはいない。

(『スコセッシ オン スコセッシ』)


 結局のところ、トミーらが属するマフィアの世界( ≒ 映画の黄金時代)において、主人公は最初から最後まで「観客」なのですね。周縁にいたからこそ面白いことができた部分、美味い汁を吸えた部分もあったとはいえ、子供のころに憧れた世界に本当の意味で入り込むことはできなかった。

 映画の黄金時代への憧れを断ち切り、いまここで生きていくんだという前向きな姿勢で終わる『アリスの恋』と、かつての映画が持っていた活気から決定的に隔てられてしまった、という悔いを感じさせる『グッドフェローズ』。

 エンド・クレジットで流れるシド・ヴィシャス版『マイ・ウェイ』のやぶれかぶれなイキの良さとは裏腹の、ねじれた悔悟にみちた映画だとおもいます。

 

(後編につづく)


 

*1:「主人公の視点から見た世界を描きだす」という演出方針は、音楽の選択にもあらわれています。「『ミーン・ストリート』の映画音楽は、僕が住んでいた街や隣近所、アパートで普段耳にしていた音楽を使った。ある窓から歌が流れてくると、別の窓からは別の音楽が流れてきたりする。オペラからロックまで、フランク・シナトラなんかがね。だから『ミーン・ストリート』で使いたいと思った音楽もそういうものだったし、引き続き映画にはそういう映画音楽をつけたいと思った。だから『アリスの恋』でも同じように、映画で流れる音楽はアリスがいつも聞いていた音楽になっている。アリス・フェイとか、そういった類いの音楽だ。ところが『タクシー・ドライバー』のトラヴィスは音楽なんか一切聞かないんだ!そんな世界を音で表現できる人間はバーナード・ハーマンしかいない。」(『スコセッシはこうして映画をつくってきた』)

*2:当たり前だけど、自分のビジョンやイメージが他人にそのまま伝わることなどありえないし、その必要もありません。伝達過程でのズレが創造的に作用するケースもいくらでもあります。ですがここで話題にしているのは、ビジョンがズレて伝わることではく、妄想として「全否定」されるような事態です。

*3:庵野秀明がどこかのインタビューで、「あなたは子供時代から抱いていたアニメ創りへの憧れが昂じてアニメ業界に入ったのですね?」というストーリーをインタビューアーに提示されて「そうやってすぐ ”物語” にしないでください!私がこの業界に入ったのはたんなる成り行きです!」みたく怒っていて、この人いい怒り方するなーと思いました。いろんな要因の絡みあいを無視して、物事を単線的な物語(因果関係)に還元してはあかん。

*4:いっぽうでスコセッシは次のような相反する気持ちも述べているので、その点には留意が必要です。「私には、新しい試みができて仕事のとぎれるときがなければそれでいい。作る映画のすべてが一〇〇パーセント自分のハートから発したものでなくともいい。(...) “監督” を私流に定義すれば、それはかつての撮影所システムのなかで活躍することができた人間、どんなシナリオを渡されてもプロの技量できちんとこなせた人間ということになる。目指しているのはーーーというのも監督の仕事はとてもハードだからなんだがーーー自分の内なる素材以外のものに対しても共感を抱けるだけの活力を持った映画作家になることだ。」(『スコセッシ オン スコセッシ』)

*5:当然ここには「 ”世界はビジョンの拡大競争だ” という考えは古いのであって、ひとりの人間は複数のビジョンのレイヤーを生きているものだ」というビジョンを拡大しようとするような指向も含まれます。

*6:もしグループが音楽をつくるためだけに存在していたら、各人の貢献は音楽的に判断すればすむ。しかしバンドは、他の存在と同じく、己の存在を小さなサブカルチャーとして繁殖させるために存在しているのだーーーそしてそのために必要な特質や才能はまったくちがう。」ブライアン・イーノ『A YEAR』)

*7:「俳優演出のトレーニングは多くの映画を見、そしてそれらにゾクゾクするところから始まった。私の映画に鏡のシーンがたくさん出てくるのもそれと関係なくはない。私は鏡の前であこがれのヒーローを演じて自分だけの夢の世界によくひたったものだ。」(『スコセッシ オン スコセッシ』)