ねざめ堂

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マーティン・スコセッシ:ビジョンの拡大と収縮(後編)

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※後編では『ディパーテッド』を中心に、21世紀に入ってからの作品について見ていきます。前編の冒頭で挙げた諸作品のネタバレをしていますので、ご了承ください。

 

 

アビエイター(2004)

 21世紀に入って最初に公開されたスコセッシの映画は、2002年の『ギャング・オブ・ニューヨーク』でした。

 これは、ギャング組織間の抗争(移民同士の対立)や、南北戦争にともなうニューヨーク徴兵暴動(人種差別と貧富の格差)などが絡みあい、ラストでは爆撃の硝煙のなかから暴力と矛盾に満ちたアメリカという国のビジョンが立ちあがってくる…という凄まじい映画です。

 たしかに中盤あたり、悪い意味でダレるところはあって(という書き方をするのは、私は映画には「良いダレ方」もあると思っているからなんですが)、手放しで傑作とは言いきれないんだけど、それでもこんなに巨大な映画を撮れる現役の監督は他におらんだろう!という意味で見応えたっぷりの大作でした。

 

                    ◯


 『ギャング・オブ・ニューヨーク』は2001年の3月に撮影が終了しており、クリスマスの公開を予定していたところ、同時多発テロの影響をうけて公開が延期された…という経緯があるそうなので、9.11以降にスコセッシが撮ったはじめての映画は『アビエイター』ということになります。

 


The Aviator (2004) Official Trailer #1 - Leonardo DiCaprio

 
 『アビエイター』は、実在の億万長者、ハワード・ヒューズの半生を描いた映画です。

 この人は「資本主義の権化」という異名をとった人ですが(すごい)、映画ではヒューズの抱えるビジョンが、彼の手掛ける事業(映画製作と航空会社の経営)によって全米規模に拡大していく様が描かれます。

 映画の後半では、国際線の運行に参入しようとするヒューズのトランス・ワールド航空(当時はトランス・コンチネンタル・アンド・ウエスタン航空)と、国際線の独占展開をはかるパンアメリカン航空との対決が展開されます。

 強迫性障害や飛行機事故の後遺症に苦しむヒューズはしかし、逆境を跳ねかえしてこの闘いに勝利。これにより、彼の所有する飛行機はいよいよ世界中にむけて飛び立っていく。ヒューズが象徴するアメリカ型資本主義が、世界規模に拡大していくわけです。

 念願だった試作機の試運転にも成功したヒューズは栄光と賞賛に包まれ、そのまま終わればいかにも往年のハリウッドらしい大団円。でも実際には、この映画はなんとも不穏な雰囲気のなかで幕切れをむかえます。

 試運転のあと、発作に襲われトイレに閉じこもるヒューズ。彼は鏡のなかの自分の顔を見つめながら、壊れたレコードのように「未来への道だ」という言葉を繰り返します。

 

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 映画のキーカラーである青と赤に染まった瞳、畏れと恥が張り付いたようなディカプリオの顔が素晴らしいですね。

 この映画のなかでヒューズが敷いた「道」が、どのような「未来」につながっていたのか…を描いているように見えるのが、2年後に公開された『ディパーテッド』です。

 

 

 

◯『ディパーテッド』(2006)

 『ディパーテッド』の冒頭、まだストーリーが動きはじめる前。

 ジャック・ニコルソン演じるギャングのボスが、海岸で一組のカップルを射殺するシーンが描かれます。

 

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 銃撃によって崩れ落ちる「二柱」の人体。その画面の奥から手前にむけて「2
機のジャンボジェット機」が飛んでくる(画像だと確認が困難ですが、映像だとはっきりとわかります)。

 ベタに解釈すると、このシーンは、2001年9月11日にワールド・トレード・センターに2機のジャンボジェット機が突入したテロ事件を示唆していると思われます。

 冒頭にこういったシーンを配置することで、「この映画が描くのは、9.11が起きた ”後” の世界である」という宣言がなされているのですね。

 ついでなのでもう少し突っ込んだ仮説を書いておくと、WTCに突入した2機の飛行機のうち、1機はアメリカン航空が所有する機体でした。そして、『アビエイター』のハワード・ヒューズが所有していたトランス・ワールド航空は、2001年の4月に、そのアメリカン航空に吸収合併されている。

 つまり、『アビエイター』でヒューズが世界中に飛び立たせた飛行機(そして、それが象徴するアメリカ型資本主義のビジョン)が、ブーメランのように戻ってきた事態が9.11である…という見方もできるシーンです。

 まあ、こういう仮説はいきすぎると陰謀論めいてきてしまうのでこのあたりで自重。ただ、『ディパーテッド』には他にもパトリオット法の適用など、あきらかに9.11以降を連想させるシーンが登場するよ…という事実は指摘しておきます。

 それでは、この映画はどのような「9.11以降のアメリカ」を描きだしているのか。


                    ◯


 よく知られているとおり『ディパーテッド』は、香港映画の傑作『インファナル・アフェア』(2002)のリメイクです。「リメイクにはあまり食指が動かない」*1と語るスコセッシにとって、『ケープ・フィアー』以来15年ぶり2作目の(そして、現時点では最後の)リメイク作品。

 


The Departed (2005) Official Trailer - Matt Damon, Jack Nicholson Movie HD
 

 舞台を『インファナル・アフェア』の香港からニューヨークに移し、イタリア系とアイルランド系の対立などスコセッシらしいアレンジも加わえられている『ディパーテッド』ですが、ストーリーの基盤となる設定には大きな変更はありません。

 主人公はふたり。警察からギャング組織に潜入した男と、ギャング組織から警察に潜入した男が織りなすサスペンスを描く映画です。

 それで、この基本設定を、当記事で取りあげてきた「スコセッシ的物語」という観点から眺めてみると、ふたりの主人公はそれぞれ「本来彼らが所属していた世界とは異なる世界に呑みこまれた状態」にある、ということが分かると思います。

 警察官はギャングのビジョンが支配する世界に、ギャングは警察官のビジョンが支配する世界に呑みこまれている。彼らは表向きは何くわぬ顔で日常を過ごしながら、その裏では必死に「本来自分の所属していた世界」とのコンタクトを保とうとあがいている。

 もうちょっと突っ込んでいうと、この映画の主人公たちは「自分は間違った世界に含まれてしまった」という感覚に苛まれ続けているんですね*2

 私は、こうした感覚は、9.11以降のアメリカ人(に限らず、世界中の多くの人々)に共有されるものではないかと思います。

 

                    ◯

 

 村上春樹は2005年にアメリカの雑誌で受けたインタビューのなかで、1995年の阪神・淡路大震災、あるいは9.11のあとに人々がとらわれた感覚について、次のように話していました。

 

この本(短編集『神の子どもたちはみな踊る』)の中で僕が描きたかったのは、地震の余波です。地震そのものではない。人々は世界中でつらい状況に置かれています。神戸だけではない。同じようなことがこの国中で、あるいは世界中で起こっているのです。人々はこの地面がソリッドなものではないと感じています。いつそれがでんぐり返るかもわからない。この本がアメリカで翻訳出版されたのはちょうど9.11のすぐあとで、アメリカの読者からたくさんの手紙をもらいました。地震ワールド・トレード・センターも状況はある意味で同質です。もうソリッドな地面は我々の足元にはない。これがそこに共通している認識です。そのアフターマスは今でも続いています。

『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1977-2011』 | 文藝春秋BOOKS

 


 ここで言及された「もうソリッドな地面は我々の足元にはない」という感覚を物語の構造に組み込んだのが、長編小説『1Q84』(2009 ~ 2010)です。 

 小説の主人公・青豆は、本来彼女が含まれていた「1984年」の世界から、「1Q84年」の世界、パラレルワードへといつの間にか移行してしまいます。そこは、夜空に浮かぶ二つの月が象徴するように、彼女にとって馴染みのない謎とルールが支配する世界。

 彼女は(『ディパーテッド』の主人公たちがそうしたように)元の世界へ戻ろうと必死に試行錯誤を重ねますが、小説の最後では、彼女は元いた世界への帰還を果たすことはできなかったかもしれない…という可能性が示唆されます。

 

 私たちは1984年に戻ってきたのだ。青豆は自分にそう言い聞かせる。ここはもうあの1Q84年ではない。もとあった1984年の世界なのだ。

 でも本当にそうだろうか。それほど簡単に世界は元に復するものだろうか?旧来の世界に戻る通路はもうどこにもない。リーダーは死ぬ前にそう断言したではないか。

 ひょっとしてここはもうひとつの違う場所なのではあるまいか。私たちはひとつの異なった世界からもうひとつ更に異なった、第三の世界に移行しただけではないのか。(...)そしてそこでは新しい謎とルールが、私たちを待ちうけているのではないか?

村上春樹『1Q84』 新潮社公式サイト

 
 9.11のような事態が起きてしまう世界のあり方がどれほど間違っていると感じられたとしても、それが起きる前の「まとも」な世界に戻る手立てはない。

 別な言い方をすると、自分が含まれていた「本来的」で「まとも」な世界のあり方、「ソリッドな地面」などそもそも幻想だったのだ…という事実が完全に露呈してしまったのが現代だ、みたいな認識でしょうか。それは人間にとって必要な幻想だったんだけど、それが幻想として機能しなくなってしまった時代。

 それでも青豆は、新しい謎とルール(ビジョン)に満ちた世界で生きていく決意を固めますが、『ディパーテッド』の主人公たちは、それぞれにとって馴染みのない世界のなかで命を落とすはめになります*3

 

 


◯『沈黙 -サイレンス-』(2016)

 『ディパーテッド』のあとに撮られた3作品については、前編ですでに触れました。

 「自分にとってのリアリティが周囲にまったく通用しない」というビジョンの伝達不全を描いた『シャッターアイランド』(2009)は、『ディパーテッド』で描かれた「自分は間違った世界に含まれている」という感覚をさらに押し進めたものです。『ディパーテッド』の主人公たちの成れの果てが『シャッターアイランド』の主人公である…という見方もできるかもしれない。

 続く『ヒューゴの不思議な発明』(2011)と『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(2013)は、ビジョンの拡大という原型的な物語を、ポジティヴな側面とネガティヴな側面それぞれから描いていました(両作のラストがコインの裏表のような関係にあることについても、前編で触れました)。

 

                    ◯

 

 その『ウルフ・オブ・ウォールストリート』よりも前に製作される予定だった…という噂もある『沈黙 -サイレンス-』は、1966年に出版された遠藤周作の同名小説の映画化です。

 


Silence Official Trailer (2016) - Paramount Pictures

 

 舞台はキリスト教が弾圧されていた17世紀の日本。主人公の司祭・ロドリゴは、友人の司祭とともに、はるばるローマから日本にやってきます。目的は、かつて日本に布教に向かったものの音信の途絶えた自分の師をさがすため、また、日本のキリスト教信仰の灯を絶やさぬため。

 …と書けばピンとくると思いますが、この映画の主人公は、キリスト教という特定のビジョンを拡大するために、あるビジョンの支配的な世界(ヨーロッパ)から、まったく別のビジョンが支配的な世界(日本)へと「潜入」してくるのですね。つまり『沈黙』は、聖職者版『ディパーテッド』です。

 主人公は懸命に日本での布教(=ビジョンの拡大)につとめますが、やがて捕らえられ、奉行所でかつての師・フェレイラと再会します。

 拷問に屈しすでに棄教していたフェレイラが、主人公にも棄教をすすめるシーンで口にするセリフには、原作執筆当時の日本論みたいなものが反映されていて面白いですね(このあたりのセリフは、映画版でも原作をほぼ忠実に踏襲しています)。

 

この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと怖ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった。

遠藤周作 『沈黙』 | 新潮社 

 

 フェレイラは、日本人がキリスト教の「デウス(神)」と、それ以前から馴染みのあった「大日」とを混同し、西洋から持ち込まれたキリスト教をまったく別のものに作り替えた、と指摘します。

 

デウスと大日と混同した日本人はその時から我々の神を彼等流に屈折させ変化させ、そして別のものを作りあげはじめたのだ。言葉の混乱がなくなったあとも、この屈折と変化とはひそかに続けられ、お前がさっき口にした布教がもっとも華やかな時でさえも日本人たちは基督教の神ではなく、彼等が屈折させたものを信じていたのだ。

遠藤周作『沈黙』)

 

 日本の民主主義...という話はおいといて、物語の終盤では、拷問にかけられる信者たちを庇うためにロドリゴも棄教し、日本名や日本人の妻子を与えられ、キリスト教を取り締まる側の仕事に従事します。

 しかし「沼地」に完全に呑まれたかに見えた主人公は、じつは心のうちで信仰を保っている。

 

聖職者たちはこの冒瀆の行為を烈しく責めるだろうが、自分は彼等を裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。

遠藤周作『沈黙』)

 
 映画は、日本人として死に、大きな身体を縮こめるように棺に納められたロドリゴの遺体を映しだして終幕となります。その手には、妻が密かに握らせた木彫りの十字架が握られている*4

 『沈黙 -サイレンス-』は、あるビジョンを拡大するために、別なビジョンが支配的な世界へ潜入した主人公が、やがてその世界に呑まれていく姿を描きます。この意味では、さきほども触れたとおり『ディパーテッド』とほぼ同型の物語です。

 しかし心のなかでは彼は当初のビジョンを捨てておらず、それは異なるビジョンとの衝突によって、よりしなやかに鍛え直されている。

 そして同時に、彼はもはやそのビジョンの「拡大」を目指してはいません。むしろラストの映像からは、ビジョンは彼の内側にむけてぎゅっと「収縮」しつつ、その密度を高めているような感じをうけます。

 

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 「ロドリゴは司祭として信仰を守った」と好意的にとることもできますが、内側への収縮という意味では『シャッターアイランド』のバリエーションのようにもみえるラストです。人間がそれぞれの殻のなかにぎゅっと縮こまった「人は島嶼である」とでもいうような、どちらかというと暗いイメージ。

 でも、エンドクレジットで流れる蝉時雨の音からは「マクロな視点でみれば、そのような個々の異なる声が合流して、ひとつの大きな流れを作りだしていることであるよ」…みたいなニュアンスも感じとれる。もちろんここには、私の勝手な思い込みも多分に入っていますが。

 いずれにせよ、解釈の自由度が原作よりもあがっているという点で、優れた映像化だったとおもいます。

 

 

 

◯あとがき

 じつはこの記事、もともとは『ディパーテッド』の感想文のつもりで書きはじめた文章が長尺化したものです。

 書いているうちに話の流れで過去のスコセッシ作品に触れる必要が出てきて、じゃああの映画のことを書こう、だったらあの映画についても…という具合に前後が肥大化していき、途中で「えーい!」と開き直った結果こんな感じになりました。

 おもいきり「バカは話が長い」を地でいってしまったわけなんですが、でも書く過程でスコセッシの魅力を再発見したり再検証したりする場面が色々とあって面白かったです。

 どうせこういう記事を書くことにしたのなら、ということで、今回スコセッシの長編映画を全部観返してみたのですが、学生時代はヒリついた空気感にしびれまくった『ミーン・ストリート』や『タクシードライバー』にそこまでときめけなかったり、逆に初見時は「なんてダラダラ長い映画なんだ」とイラついたはずの『カジノ』にすっかり惚れこんでしまったり(加齢による変質)。

 あらためて、スコセッシの映画って長ければ長いだけの良質な質量がしっかりと感じられるし、たとえ失敗作でも迫力のある失敗の仕方をしていて(『救命士』なんて煮詰まり方が凄まじくて引きずりこまれそうだった)見応えがあるなあ、とおもいました。

 気のせいかもしれないけど、日本の映画ファンのあいだでは「同世代の監督ならスコセッシよりもスピルバーグデ・パルマ」みたいな評価がある感じがして、というか私自身そう考えていたフシがあるんですが、いや凄いよスコセッシ!と(いまさら)。でもマジな話、こんなにスケール感のある映画をこんなにコンスタントに撮り続けている監督っていないのでは。

 今年の秋に公開/配信予定の新作『The Irishman』も楽しみにしてます。

 

  

*1:新装増補版『スコセッシ・オン・スコセッシ』P165

*2:オリジナルの『インファナル・アフェア』にも、このような葛藤…中国本土と返還直後の香港のあいだに存在したであろう緊張関係は反映されているとおもいます。

*3:ディパーテッド』が、ジャック・ニコルソン演じるギャングのボスの「俺は環境の産物じゃない。環境がこの俺の産物なのだ」というモノローグで幕をあけるのも印象的です。彼は「自分のビジョンで環境=周囲の世界を支配している」と自信満々なのですが、結局は、主人公たちの世界交換をめぐるドラマのなかで命を落とします。ちなみにこの映画のニコルソンの役どころは、テロの首謀者(オサマ・ビンラディン)と重ねられているんじゃないかなと思うのですが、記事の本筋から外れる話題なのでスルーします。

*4:ラストの棺の中のシーンは映画オリジナルですが、ここでロドリゴの遺体が握っている十字架は、日本人の信者・モキチが殉教する前に彼に預けたものです。「日本人にとっての基督教は本来的なそれとは別物だった」という見解が披露される物語ではあるけれど、それでも彼らの信仰心が偽物だったとは言えない…みたいな含みもあり?